第三章 寒露

1 切り取られた郷土誌

日が落ちる前に、冬樹は自宅へと帰ってきた。


冬樹は夕暮れが恐い。


正確に言えば、夜の闇が恐かった。


この町に住む者は、程度の差はあれど誰もが夜闇を恐れている。クラスメイトも家族も、夜闇が迫れば何かしらの不安を覚えると言っていた。


それゆえか、日没前の平坂町は閑散としたものとなる。


そんな中、ちらちらと出歩いている二、三人ほどの人間が恐い。魂のない木偶でくが歩いているのではないかと不気味な想像が働いてしまう。ゆえに、なるべく下校は早めに行うよう心がけている。


ただし、今日は下校する前に図書室から『平坂町郷土誌』を借りてきた。それゆえ、いつもより少し遅い帰宅となってしまった。


玄関へ上がり、ただいまと言う。居間から祖母の良子が顔を出した。


「ああ、冬君、お帰りんさい。――今から晩ご飯作るけん、先に手洗いと、うがいをすませときんさい。」


うんと返事をし、洗面台へと向かった。


今この家で生活をしているのは、冬樹と良子、母親の早苗だけだ。父親はいない。冬樹が幼い頃、自動車事故で亡くなってしまったのだ。早苗は市内で事務員として勤めており、今はまだ帰ってきていない。


手洗いとうがいを済ませ、冬樹は洗面所から出てきた。良子は台所で夕食の準備を始めている。ふと美邦の質問が気にかかり、良子に話しかける。


「あの、一つだけ訊いてもええ?」


「うん、何ぃ?」


「この町に、神社ってなかった? その――荒神さん以外で。小さな祠みたいな感じでなくって、ちゃんとした神社らしいだけど。何でも、山の中に長い石段が続いとって、大きな社殿があるだとか。」


良子の手がぴたりと止まった。


何秒か経ったあと、ぽつりとこう言う。


「いや――少なくとも思い当たらんけどなあ――」


「そっか。」


それは、当然といえば当然の回答だったのかもしれない。しかし、答えるまでの少しの間が気にかかった。


「それで、神社が一体どうしたん?」


「いや――まあ、転校生から訊かれて。」


「へえ、転校生が来たん? こんな田舎にえ?」


「うん、まあな。――詳しい話は、晩御飯のときにでも。」


それだけ言うと、冬樹は台所をあとにした。


二階にある自分の部屋へ戻り、学生服から私服へと着替える。


ふっ――と、当の「転校生」のことが気にかかった。


三つ編みの長いお下げに、焦点の合っていない左眼。もし鉛色の真珠があったなら、あの瞳に似ているに違いない。何でもない日常の光景が、脳裏に焼き付いて離れないということがある。冬樹にとって、あの崩れた目元の下に浮かんだ微笑みがそれであった。


しかし、その思いは須臾すこしの間に留まった。


私服へ着替え終わると、鞄から『平坂町郷土史』を取り出した。目次を開き、町内の寺社が載っているページを探す。歴史、経済、自然と地理――民俗と信仰。その項目に書かれていた単語を目にし、冬樹は固まる。


「平坂神社」


郷土誌は何度か読んできたはずだ。それなのに、このような単語は初めて目にした。民俗学について詳しいという自負がぐらぐらと揺れ始める。


――どうして今まで見落としてきたんだ?


ともかく冬樹は、急いでそのページを開いてみる。


しかしいくら探してみても、目次に記されたページに辿り着けなかった。


やがて、目的のページが欠落していることに気づいた。紙数にして二枚、四ページ分が丸々、根元の部分で切り取られている。切り口は非常に綺麗であり、ぱっと見ただけでは欠損に気づけない。


――どういうことだ?


困惑すると同時に、不気味なものを感じた。まるで調べ物を邪魔されているかのようだ。一体、何の目的で誰がこんなことをしたのか。


とりあえず郷土誌が駄目ならば、今日はどうにもならないだろう。


冬樹は自分の部屋をあとにし、一階へ降りてゆく。美邦によれば、ネットで検索をかけても何も出てこなかったという。それを確かめるためだ。


居間にあるパソコンの電源を入れ、インターネットへと接続した。


「■■市 平坂町 神社」と打ち込み、検索をかける。出てきたサイトは、どれも入江神社か、町外にある神社について記述したものであった。


冬樹は作戦を変え、今度は「■■市 平坂神社」と打ち込んで検索する。


するとどうしたわけか、平坂神社について記述したページが現れた。


――何だ、あるじゃないか。


もしかすると「平坂神社」というキーワードで調べなければ、多大な情報の中に埋もれてしまうのかもしれない。


その最も上にあるサイトをクリックする。随分と古いサイトのようだ。原色に近い緑色を背景として、県内の神社と住所の一覧が記されていた。


「平坂神社 ■■市平坂町大字おおあざ伊吹■■‐■」


それ以上の情報は何も記されていなかった。


他のサイトもクリックしてみたものの、どこも似たようなものであった。辛うじて判ったことといえば、祭神と例大祭の日くらいだ。


それによると、主祭神は三輪大物主命みわのおおものぬしのみことであるという。配神は八重事代主命やえのことしろぬしのみこと少彦名命すくなひこなのみこと武御名方命たけみなかたのみこと天稚彦命あめのわかひこのみこと下照姫命したてるひめのみこと味耜高彦根命あじすきたかひこねのみことである。例大祭は、秋分の日に行われる「神嘗祭かんなめさい」であった。


それ以上のことは、何をどう調べてみても解らなかった。


――どうして、大物主命おおものぬしのみことなんだろう。


ここに名前のならぶ神は、みな大国主命おおくにぬしのみことの神話で活躍する神々だ。この顔ぶれならば、主祭神は大国主命であったほうが自然である。しかし、なぜ肝心の大国主命の姿はなく、大物主命が主祭神なのか。


大物主命は、大国主命の幸魂さきみたま奇魂くしみたまである。


幸魂さきみたま奇魂くしみたまとは、神が持つ不思議なエネルギーのことだ。ゆえに大国主命と大物主命は、同じ神であると同時に違う神であると言うこともできる。たとえるならば、水と氷が同じものであることと似ている。


しかし大国主命と大物主命は、それぞれ違った性格もしている。


大物主命は――祟る神なのだ。


第十代天皇・崇神の治世みよ、疫病が流行して大勢の人民おおみたからが死んだ。天皇は夢で、これが大物主命の祟りであることを知らされる。天皇が祭祀を行ったところ、疫病は治まり、大物主命は皇室の守護神となった。


大物主命を主祭神として祀った総本山は、奈良県の大神おおみわ神社だ。


大神神社の神体は三輪山という三角錐形の山だ。


思えば、その姿はどことなく伊吹山と似ている。


それから二時間ほどネットサーフィンを続けた。しかし平坂神社について記されたサイトはそれ以外になく、成果は特に上がらなかった。


良子が夕食を作り終えるのとほぼ同時に、早苗が帰って来た。冬樹はパソコンの電源を落とし、良子を手伝って夕食の皿を食卓へ竝べる。


夕食の席で、冬樹は今日あったことを掻い摘んで話した。早苗にもまた、神社がなかったかと訊ねてみる。しかし怪訝な顔をされてしまった。


「神社――?」


「そうそう。小さな祠でなくって、大きな鳥居と社殿のある神社なだってさ。山の中に長い参道が続いとるんだとか何だとか。」


「そんなんあったんだ――。少なくとも、心当たりはないけど。」


そうは言ったものの、早苗はどこか難しい顔をしている。それを見て、ひょっとしたら何か気にかかることがあるかもしれないと感じた。


「それでさ――俺、郷土誌を借りてきて調べてみただが。そしたら目次のページに『平坂神社』って項目があっただん。けど、どういうわけか該当のページが切り取られとって――。ネットで調べてみたら、伊吹にそういう名前の神社があったらしいことは解っただけど。」


良子が急に箸を止めたのは、そんなときであった。


しばらく虚空をながめたあと、譫言うわごとのように言う。


「ああ――平坂さんなあ。そういや、そういうんもあったでな。」


「何か、知っとるん?」


「いや――ううん。確か、潰れたでなかったかいなあ――」


思わず自分の耳を疑った。


「潰れた――? 神社って、潰れるもんなん?」


「そりゃ、神社だって潰れるときは潰れるわいな。お賽銭とか祈祷料とかがないと、神主さんだって喰っていけんだけえ。」


俗っぽい話だが、そういうものかと納得した。


早苗は良子に目を遣る。


「本当にそんな神社があったんですか?」


「ううん――。確か、火事になったとかって聞いたけどなあ。宮司さんの家が出火して、それで潰れただかっていうやぁな話があったで。」


「はあ――そうですか。」


歯切れの悪い答えに、もどかしいものを感じる。神社が火事になり、倒産してしまったとして――それは簡単に忘れられてしまうものだろうか。


怪訝に思っていると、まるで水を点すように早苗は問うてきた。


「ところで冬樹――勉強は大丈夫? 中間テスト、近いんでないん?」


冬樹は途端に憂鬱となる。その言葉には、おん、としか答えられない。


「神社に興味持つのはええけど、赤点は取らんでよ? 特に数学と理科が酷いことになっとったが。あんたのことだけん、高校に落ちるなんてことはないとは思うけど。全然希望しとらん学校に行くのもいやだら?」


「おん。――解っとるって。」


あまり気の向かない話題だったので、冬樹は黙ったまま味噌汁をすする。あまり時間は経っていないはずなのに、先ほどよりも冷めて感じられた。

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