第一章 秋分

1 終末病棟

大原おおはら美邦みくには、父が入院する病院へと今日も足を運んでいた。


放課後の住宅街を独りで歩いてゆく。九月も下旬、空気はまだ微かに蒸し暑い。背後からは、部活動に勤しむ生徒たちの掛け声が聞こえていた。


美邦は、岡山市に住む中学二年生である。ほんのひと月前まで、父親であるあきらと二人で暮らしていた。母親はいない。美邦が幼いころに亡くなったのだという。美邦にとって、昭は唯一の家族であり、庇護者であった。


そんな昭が、今、腎臓の病で生命の危険に晒されている。


学校から徒歩で十分と離れていないところにその総合病院はあった。


受付で要件を言い、病室へと向かう。


病棟は巨大な霊廟を連想させる。病む者達、死にゆく者達を閉じ込める石造りの建物――。その不安な想像を助長させるように、病棟の随所には半透明の黒い人影が見える。ある者は廊下の上にぼんやりとたたずみ、ある者は柱の陰にうずくまっていた。


これが自分以外に見えないものであることを、美邦は知っていた。


長い廊下を進んでゆく。


そして昭が入院している個室へと這入はいった。


そこは普通の病室ではなかった。板張りの床とベージュの壁、さらには観葉植物まであるさまは、どこかの家のリビングのようでもある。緩和ケア病棟――治療の見込みがなくなった患者が最期を迎える場所だ。


その中央のベッドの上に昭は横たわっている。


美邦が這入って来たことに気づき、昭は顔を傾けた。


「ああ――美邦か。」


「うん。」


美邦はベッドへそっと近寄る。


昭の顔色は死人のように白かった。白髪しらがが多く、肌もたるんでいる。実際はまだ四十代前半なのだが、六十代ほどの老人のように見える。


「体調は大丈夫? 昨日と何か変わったところはない?」


「何も変わりないさ――何も。」昭は顔を背ける。「いつだって同じだ。どうせ変わることなんかありゃしないんだ。たとえ悪くなることはあっても、決して良くはならないんだから。」


美邦は何も答えられない。治る見込みがないことなど分かっている。


自分の言葉に反省したのか、昭はややあって悲しそうな表情となる。


「すまないな――美邦。」


それは昭の口癖でもあった。


「ううん――気にしないで。」


気まずさから逃れるように、美邦は戸棚の林檎りんごへと目を遣る。


「林檎、まだあるね。く?」


「いや――いいよ。最近は食慾しょくよくが全くないんだ。」


そう――と言い、美邦は肩を落とす。


「お茶を――淹れてくれないかな。喉が少し乾いてるんだ。」


「うん。」


昭から用事を頼まれて、少しだけ元気を取り戻した。


病室には、電気ポットと玉露のティーパックも備え付けてあった。電気ポットのスヰッチを入れ、湯呑みを二つ用意する。沸き上がった湯を湯呑の中に注ぎ、玉露を作った。


まだ熱い湯飲みを昭に差し出す。


ありがとう、と言い、昭はそれを受け取った。


美邦も自分の湯飲みを手に取り、一口すする。


心が落ち着いてきたとき、次のように問うた。


「お父さん――どうして私、親戚の人に会っちゃいけないの?」


昭は露骨に面白くなさそうな顔をする。


それは、親子のあいだでここ何日か問題となっていることであった。


美邦は今まで親戚と顔を合わせたことがない。彼らがどこに住んでいるのかも知らない。つまりは身寄りがないのだ。ゆえに昭が入院してからは、中学生であるにも拘らず一人暮らしを続けている。


「会ってはいけないんじゃない。会う必要がないんだ。」


「どうして?」


「あいつらは、余所者嫌いで弱い者苛めが大好きな連中なのさ。あんな処で美邦が上手くやっていけるとは思えない。今までどおり岡山で暮らしたほうがいい。そのための相談は今まで谷川としてきたはずだ。」


谷川とは、昭が親しくしている同僚の一人だ。美邦も幼いころから顔馴染であり、昭が入院してからは様々な面で世話になっている。


「――そう。」


美邦は三歳の頃まで、岡山とは違う田舎に住んでいた。そこには親戚もいるらしいのだが、ほとんど何も覚えていない。記憶にあるのは、大きな神社のある港町だったことだけである。自分の母親の墓もそこにあるはずなのだが、線香を立てたこともない。


昭の死期が迫っていることは明らかであった。それゆえ美邦は、今後のことについて今まで何度も昭と対話を重ねてきた。美邦を親戚の元に預けてはどうかと谷川が提案したのは、そんなときだ。


しかし、昭は異様な拒絶を起こした。


入院する前にも、美邦は何度か昭に訊ねたことがある。親戚とはなぜ連絡を取らないのか、一体何があったのか――と。しかし真っ当な答えが返ってきたためしはなかった。


「できれば――あともう少しだけ、生きていきたかった。」


どこか遠い目をして、昭は言う。


「死にたいだなんて思うはずがない。けれども俺は健康な身体をしていないし、長い人生ではないことは覚悟していた。せめて美邦が成人するまで生きていたかった。それが――ここまで早まってしまうだなんて。」


窓から射し込む光が強まった。


「美邦――。お前はこれから先、俺がいなくても生きていけるか?」


美邦は何も答えられない。


しばし沈黙が流れたあと、昭は静かにこう言った。


「心配することはない。美邦はお父さんがいなくとも生きていける。お母さんがいなかった分、美邦は今まで、家庭に関わることを自分でやってきたじゃないか。何かがあれば、谷川を頼ればいい。施設だって、最近は酷い処でもないらしい。」


美邦は相槌を打つ。


昭の言いたいことは解っている。


自分がいなくなったあと、これから迎えることとなる人生に美邦が適合してゆけるのか――昭はそれが心配なのだ。けれども美邦は、心配しなくてもいいと言って父を安心させることができない。


沈黙した美邦を前にして、昭は再び悲しそうな顔となる。


「すまないな――美邦。――本当に。」

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