第二話
カゲナシはいとも簡単に人の営みを破壊する。
高木くんの友人たちのように、子供がカゲナシに襲われて入れ替わることもあれば、その逆のこともまま起こりうる。
浩一さんのご両親は、カゲナシによりその命を奪われ、その社会的な身分と地位を奪われた。そして、幼い浩一さんを、窮した時の食糧、あるいは、撒き餌として、何食わぬ顔をして養育されていたのだという。
その時のことを、
ただ、先々代『大太郎亭天目』に引き連れられて、天崎家の本家にはじめてやって来た彼を、私は、当時怖いと感じたのを覚えている。
その怖さは、私や姉さんたちと暮らしているうちに徐々に薄らいでいき、今やもうすっかりと、その愛嬌の中に消えてしまったけれど。
とにかく、何が言いたいかと言えば。
そんな彼が今、人生の岐路――その一生を底辺で終えるか、それとも、人並みくらいにはまっとうに生きられるか――という、危うい立場に立たされている。
気が気でないというのは、真実掛け値のない言葉であった。
なのに……。
「
「また門限破りっすかね。これで四日連続っすよ。浦戸さん、本当に再テストをパスする気あるんすかね?」
「けど再テストも駄目だったら、最悪留年よくて浪人にリーチしちゃうんでしょ? 流石に
「いや、アイツは正真正銘の馬鹿だぞ」
「……すまない。俺が一緒に居ながら、つい、目を離した隙に逃げられた」
寮のエントランスに集まって、
六月一日。
本州が梅雨入りして、じめじめとした空気が少し鬱陶しい頃。
再テスト――六月八日を目前に控えながら、どうして、
思わず、瀬奈姉ではないけれど、眉間に筋が入りそうな気分になる。
実際に表情に現れていたのだろうか、文学部の面々が、少し、私のその表情に驚いたような感じでざわついた。
いけない。
怒ったところで何も始まらない。
それは間違いないことなのだ。
けれども、せっかく皆が、自分のために色々と世話を焼いてくれているというのに、当の本人が逃げ回るなんていうのはどうなのだろう。
「
思わず、スカートの中をまさぐって、スマートフォンを取り出す。すぐに、
しかし――返って来るのは、電波が届かない旨のアナウンスのみ。
畿内モードにして電波を受け取れなくしているのか。
それとも、電池を切っているのかは知らない。
けれども彼が、確信犯的にそれをやっているということは、ここ数日、同じことを繰り返されている身としては、よく分かった。
ふつふつと、湧き上がってくる怒り。
本当にもう、どうして
周りにかける迷惑というのを考えて欲しい。
せっかく、『天眼の衛士』としては類まれなる才能を持っているというのに。これでは、由緒正しき、『
「……あの、お姉さま?」
「なんですか、香奈ちゃん」
「もう、
「そうっすよ。せっかくこっちが、面倒見ようって頑張ってるのに、逃げ回るとか。正直、人としてどうかと思います。放っておきましょうよ」
「同感だ」
後輩たちが全員、
普通、こんなことをされて、頭に来ない人間などいないだろう。
実際、私だって相当に頭に来ているのだ。
なんなのだ、まったく。そんなに再テストが嫌なのだろうか。
ほとんどの教科で赤点を取って、丸一日休日がつぶれると嘆いていたが、それは勉強しなった自業自得ではないのか。
後輩メンバーの怒りも、私自身の怒りも、決しておかしなことではないように思えた。
だが――。
「……いや、浩一も、アイツなりに危機感は覚えているんだ。授業も、以前に比べれば真面目に受けるようになった」
ただ一人、
唯一無二の親友であり、カゲナシとの戦闘の際には、肩を並べて前線を担うことの多い、背中を預けることのできる戦友でもある馬崎さん。
フォローに多分の私情が混ざっているのは間違いなさそうだ。
更に、馬崎さんは続ける。
「……休み時間も勉強はしている。ただ、放課後の数時間だけ、何故か、行方をくらますんだ。すまない、一緒に居る俺が、もっとしっかり見ていればよかった」
「いや、馬崎先輩のせいじゃないっすよ」
「そうそう、英二ちゃん先輩ってば、責任感強すぎ。これ、どう考えても、
すまない、と、
この寮に越してきてから、毎晩、彼の手料理に舌鼓を打っていることもあってか、二人は馬崎さんに対して、すこぶる好意的だ。
もちろん、私も馬崎さんが謝ることではないと思った。
ただ、休み時間も勉強している、ということについては、確かに私の知らない話だった。
そういえば、と、まるでその話に触発されたかのように、氷室くんが口を開く。
「自室でも、一時間くらいは勉強しているな。それ以上は持たなくて、机の上で寝こけてはいるけれど」
「そうなの? 氷室くん?」
「同室だからな、嫌でも目に付く。申し訳程度の行動だと思っていたんだが……」
何か、放課後、外に出なくてはいけない事情を抱えているのだろうか。
カゲナシ絡みとか。
いや、それならばまず真っ先に、私たちに相談してくるはずだろう。
私たちは、協力してカゲナシを退治する、若き『天眼の衛士』の一団なのだから。
その情報を共有しないという発想は出てこない。
となると、極めてプライベートな事情だろうか。
なんだろう、と、つい、頭を傾げてしまう。
プライベートも何も、
友人関係も――あの性格だから、充実しているとは決していい難い。
私たち、一緒に生活していた天崎の家の人間はさておき、友人と言っていいほどの関わりがある相手は、馬崎さんくらいだろう。
その時だ。
はっ、と、何かに気が付いたような顔を、香奈ちゃんがした。
口元を開いた掌で隠した彼女は、ぐるり、と、周囲を見渡して、ちょいなちょいなと自分の方に集まるようなそぶりを見せた。
それにつられて、私たちが顔を寄せ合う。
「私、分かっちゃったかもです」
「なんなの香奈ちゃん」
「……ずばり、彼女ができた、ってことはないですかね!!」
彼女。
あの埒外アウトロー、外見の時点で女子が泣いて裸足で逃げ出すあり得ないっぷりの
なるほど、もし本当にそんな事態になっているのなら、帰寮時刻をぶっちして、彼女といちゃついているという、面白い仮説が成り立つことになる。
けれど……。
「ないな」
「ないない」
「……それはないだろう」
「あり得ないよ、香奈ちゃん」
「デスヨネー!!」
すかさず、その可能性を、私たち他の寮生は全力で否定したのだった。
あの
そんな物好きが居たら、地球がひっくり返って、南半球と北半球が入れ替わってる。
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