第一話

 不安だ。

 憂鬱だった。

 私にできるのだろうか、と、ため息ばかりが口を吐いた。


 京都御陵坂学園はその構内の北の果て。

 最も高い場所に建てられたその建物は、ヨーロッパからそのまま移築したという、ちょっと歴史的な価値の高いものだ。


 それを前にして、私はまた、今日何度目かの溜息を吐き出した。


 こんな建物を、どうして長い間、放置していたのか。

 なんの理由も聞かされることなく呼び出された理事長室。そこで、白い髪の女理事長――私の叔母に当たる人物で引退した『天眼の衛士』――にそれを聞くと、彼女に代わって、何故か私の実枚である瀬奈姉がそれに答えた。


「三十年前。御陵坂学園が発足した頃のモノです。当時は、今のように全寮制ではなく、『天眼の衛士』の素養のある者だけが、そこに寄宿し活動をしていました」


「……そうなのですか」


「勉強が足りませんよ、美紀。自分が通う学校の歴史くらい、正しく把握しなさい」


 それより、何故、瀬奈姉さまが、理事長室に居るのか。

 そのことの方が気になって仕方なかった。


 大学の授業の方はいいのだろうか。

 京都守護役兼『大太郎亭天目』としてのお勤めはいいのだろうか。


 ただ、姉が出てきたことで、今回の呼び出しが、若き『天眼の衛士』としての活動――文学部の活動に関係あることということは察しがついた。


「男女共同で生活できるよう、各種設備も整えてあります」


「今一つ、話が飲み込めません。つまり、どうしろというのですが、瀬奈姉さま?」


「頭の回転の悪い娘ですね。まったく、ここまで言って理解できないなんて」


 たまには自分で考えてはどうなのかしら、と、呆れの混じった声色で、瀬奈姉が、私の方を見てきた。


 そんな目を向けられても困ってしまう。

 考えても考えても、分からないのだ。

 むしろ、なんでも人に考えさせないで欲しい。

 いうべきことはしっかりはっきりと、私たち京都の『天眼の衛士』の頭目として、しっかりと命令してくれないと困る。


 なんていうと、優秀だが繊細な所のある瀬奈姉は、あとで拗ねてしまうかもしれない。

 ぐっと、そこは堪えた。


「頭領、はっきりとしたご指示をお願いします」


「……つまり、文学部の者たち全員で、その寮に移れと、私は言っているのです」


「……正気ですか?」


 酔狂でそのようなことを言うと思いますか。

 そう言った、瀬奈姉の目は、確かに本気のものだった。


 そして今、私はこうして、急遽引っ越すことになった、寮の前へと立っていたのだった。


 はぁ、と、溜息を漏らした私の背中で、やんややんやと騒がしい声がする。


「おっ、見えた見えた。あれかぁ、いやぁ、あるのは知っていたけれどよぉ、中に入るのは初めてだな」


「18世紀に建てられたオーストリアの豪商の館ということらしい。多くの使用人を住まわせていたため、寮として利用するのには適していたのだそうな」


「……キッチン周りの設備が心配だな」


「英二ちゃん先輩ってばそこ心配するところですかぁ?」


「せんぱーい!! どうですかぁ、屋敷、使えそうですかぁ!!」


 ぞろぞろと、集まってくるのは文学部の皆だ、振り返って、彼らの長として――若き『天眼の衛士』のリーダーとして、引き締まった顔を造ると、私はこくりと首を縦に振った。


 しかし。

 やはり心配である。


「……私に務まるだろうか。リーダーだけじゃなくて、寮長だなんて」


 それは突然に降って湧いた話であった。


 時は五月一日。

 例の、土偶のカゲナシとの交戦から、かれこれ十日が経過していた。


 ◇ ◇ ◇ ◇


 土偶のカゲナシは私たちが討伐したことにより消失してしまった。

 だが、その存在自体は、随分以前から――具体的には今年の春先頃から――府警内の『天眼の衛士』たちの間で話題になっていた。


 強力な力を持った、土属性のカゲナシが京都の夜に現れたと。

 それを討伐するために、わざわざ、関東は神奈川県警所属の風系の影縛術を使う『天眼の衛士』を、助っ人に手配していたくらいであった。


 それだけに、土偶のカゲナシを倒した私たちは、京都界隈の『天眼の衛士』たちの間で話題になった。もはや、ひよっこの見習い『天眼の衛士』ということはできないだろう、そう、進言したのは外ならない瀬奈姉だったという。


 京都もまた、関東――主に東京――と同じで、カゲナシに対して天眼の衛士が不足している地である。

 使えるものであれば、たとえ、学生であっても使いたい。

 それは常日頃から、京都守護役である瀬奈姉がこぼしていることだった。


 そのため、私たちの活動はよりアクティブなものに――『天眼の衛士』としての修練から、実戦部隊としてに切り替えられた。

 そして、実戦部隊として、より、作戦に投入しやすいように、こうして一箇所にまとめようという話が持ち上がったのだという。


 はなはだ迷惑な話である。


 もっとも。


「なんすかそれ、面白そうっすね!!」


「お姉さまとまた一つ屋根の下で暮らせるんですね!!」


「お嬢と一つ屋根の下だって!! なにか、よからぬ間違いが起きたりしたら大変だ――これまで以上に、俺がお嬢を守らなくては!!」


「確かに実戦部隊として動くのには効率のいい話だ」


「……ふむ。命令なら従おう」


 文学部の部員――若き『天眼の衛士』たちは概ね、この申し出に対して好意的だった。

 誰か一人でもしぶってくれれば、それを取り上げる形で、瀬奈姉に抗議しようと思っていたのに、見事にその目論見は外れてしまった。


 もちろん、私は大反対であったが、言い出しっぺの実の妹が、姉の言葉に逆らうことなどできるはずもない。


 そもそも瀬奈姉からして、逆らえる相手ではない。

 同じ血を引いているはずなのに、瀬奈姉はすこぶる頭が良いのだ。


 なにせ、現役で京都の大学の法学部に合格するくらいである。

 それで京都守護役と、『大太郎亭』一門の棟梁たる『大太郎亭天目』のお役目も果たしているのだから、バケモノとしか言いようがない。


 分かっていただけただろうか。

 つまり、姉妹喧嘩してみたところで、言いくるめられるのが目に見えていた。


 暗澹とした気持ちで寮の前に立った私は、理事長から渡された寮の鍵を手にする。

 重厚な造りのその木でできた両開きの扉。

 取っ手にかけられている鎖と南京錠。


 その南京錠に手にした鍵を差し込むと、くるりと私は右に回した。

 長い年月を使われずに放置されてきたにしては、手入れは定期的にされているのだろう。すんなりと錠はを外れて、寮の扉は解放される。


 手前に向かって寮の扉を引いてみれば――そこには大理石の敷き詰められたエントランスが広がっていた。

 やはり、ちゃんと手入れがされている。


「おぉ!! 広れぇー!!」


「ちょっと連太郎!! はしゃぎすぎじゃない!?」


「思った以上に綺麗だな。男子寮よりいくらかマシだぞ、これ」


「ふん。珍しく意見が合ったな」


「……キッチン、食堂はどこに?」


 ぞろりぞろりと、まったく遠慮もなく新し寮の中に足を踏み入れる部員たち。

 すぐに彼らは、思い思いに寮内を探索し始めた。


 やれやれ、と、なんだか一気に肩から荷が下りたような気分になった私は、エントランス入ってすぐにある、テーブルとソファーに目を向けた。

 ちょっと休憩しよう。

 この命令を受けてから今日に至るまで、あれやこれやと気が気でなくて、ろくに眠れていないのだ。


 ソファーもまた、暫く使われていないとは思えないほどにしっかりと手入れされていて、私が腰を掛けても埃の一つも舞い上がらなかった。

 そう真新しいものでもない。

 アンティークな風合いのするものだというのにだ。

 やはり、しっかりとした手入れがされているという、証拠だろう。


 と、そんな私の前の椅子に、すっと座り込む影があった。

 誰だろうか、と、顔を上げると――そこに座っていたのは、ちょっと意外な人物だった。


「……なんだ? 僕がここに居るのが意外か?」


「氷室くん」


 いつもそれは持ち歩いているのだろうか。

 文庫本を手に、向かいのソファーに腰かけていたのは、気比学園より助っ人として御陵坂学園にやってくれた氷室くんだった。


 今日もまた涼し気な水色の髪。縁なしプラスチックフレームの眼鏡を、太陽の光に輝かせて、彼はすぐに視線を文庫本に移した。


 ……えっと。

 これは、いったい、どういうシチュエーションなんだろう。


 あまりこう、二人っきりになったことのない相手、かつ、心の底がよく見えない相手だけに、どうしていいかちょっと戸惑った。

 そんな私の心的葛藤など、まったく意に介していないという感じに、氷室くんはぺらりぺらりと文庫本をめくっていく。どうやら、読書に夢中なのは間違いなさそうだ。


 しかし――。


 これ、やっぱり文学部の部長として、この寮の寮長として、少しくらいは話をした方がいいのかな。そんな思いが頭を過った。


 うぅん。

 今一つ、氷室くんって、何を考えているのか分からないのよね。

 浩一こうさんのことを、本能的に嫌っている。

 そして、超が付くほどの皮肉屋っていうのは、よく分かるのだけれど。


 『天眼の衛士』としての働きぶりについては、有能としかいう他ない。

 流石は名跡『水月亭氷柱すいげつていつらら』を拝命しているだけはある。

 その影縛術は、相性有利を覆すほどの力量こそないけれど、この文学部――若い『天眼の衛士』たちの中でも、トップツーの実力者であることは間違いなかった。


 同じ年齢なのに、私とは随分な違いである。

 それを考えるとまたどうして、少し、じくじくとした思いが、体の中に沸き起こって来た。


 いけない。いけない。

 そんなことで落ち込んでいる場合ではないじゃないか。

 今日は、この新しい寮への引っ越し作業を、早急に済ませなくてはいけないのだ――。


 気合を入れねば。

 そう思った時だ。


「……大変そうだな」


「へ?」


「影縛術の名家の三女っていうのは、もっと気楽なものかと思っていた。この一年間、お前のことをそれとなく見てきたが、ここまで責任感のある奴だとは思ってなかった」


 いきなり、何を言っているんだろう、氷室くんは。


 もしかして、そういう台詞が彼が読んでいる本の中にでも書かれているのだろうか。

 そんなことを疑うくらい、私にとって、その彼が発した言葉は意外なものであった。


 もっとも氷室くんは、文庫本に視線を投げかけたまま、顔色一つ変えなかったが。


 なんだ――意外と良い人なのかも。

 そんなことを思って、ちょと、気持ちがほっこりとした時だ。


「大変です!! お姉さま!!」


 突然、私たちのくつろいでいるエントランスに、香奈ちゃんが駆けこんできた。


 いったい、どうしたのだろうか、と、彼女の方に顔を向ける。

 出てきたのはちょうど、寮の個室がある廊下だった。


 その入り口に立って香奈ちゃんは続けてこう叫んだ。


「部屋が――五つしかありません!!」

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