百合園の闇

第零話

 夜。

 丑三刻。

 草木は眠り、窓から差し込む光もおぼろげな、静寂が支配する時間。


 そんな時刻に、裏さびれた教会の中、儀典でもないというのに黒衣に身を包んだその神父は、聖遺物の収められた祭壇を背にして立ち、静かに本を読んでいた。


 背表紙には金箔の箔押しで文字が描かれている。

 だが、それはこの世界に存在するどんな文字のものでもなかった。


 何が書かれているのか、そして、どのような知識がその書物の中に書かれているのか、我ら人類には判別がつかない。


 しかし、神父は、それを読んで、ふむ、と、しばし何かを考えるように瞳を閉じた。


「……幽界との重なる刻に至って、無識ゼロシキの者が二人、ついにこの地京都で出会ったか。思えば五百と十余年、大火の際にもあっためぐり合わせである」


 人外の書物を読みふける神父は、しかし、人の言葉を発し、人の暦を解していた。

 窓から差し込む微かな光に映し出される――その姿。


 しかし、その窓が床へと落とす光の中に、その神父の影は映らない。


「御陵坂学園。人類も小癪なことを考えるものだ。八瀬童子、陰陽寮に始まり、今は『天眼の衛士』か、思い出すだけでも忌々しい限りだ」


 だがしかし、と、呟いて、神父は本を閉じる。


 その時、人の背の三倍はあるだろうか、重厚な教会の扉が不意に開かれた。


 純白のブレザーに、濃紺色のプリッツスカートを履いた女生徒。品を感じさせる、亜麻色をした長い髪を揺らしながら、彼女は神父の方へと歩いてくる。

 差し込む光は彼女の影を教会の中へと落としていた。


 ふらりふらりと、おぼろげなその足取り。

 ようやく神父が立つ教壇の前へとたどり着いた彼女は、うっとりとした笑顔を壇上の神父に向けると、その胸にぴとりと体を預けた。


 その少女の笑顔に応えるように、神父もまた冷ややかではあるが笑顔を返す。

 年齢にして四十を過ぎたくらいであろうか。目の下に微かに皺の見られる神父は、表情筋が死んだような、少し不気味な笑顔を浮かべると、少女の亜麻色をした髪の毛をゆっくりと優しく撫でつけた。


 その髪を撫でる手が、徐々に徐々に、大きくなっていく。

 まるで蟹の腕のよう。茜染めの鎧のようになった指先が、ゆっくりと少女の背中に、紅い筋を立てていく。

 それに気がついていないのか、それとも、そうされることを喜んでいるのか。

 恍惚の表情を見せて、うっとりと、神父の顔を覗き込む少女。


 いつしか、神父の顔は――黒い黒い、虚を奥に秘めた、武者の仮面に変わっていた。


「京都十二影もまたこの機を逃さぬ。今こそ、忌々しい盤極封ばんきょくふうを解き、煉獄の災禍をこの地に再び還さん」


 ずぶり、ずぶり、と、少女の柔肌を裂いて、五つの硬い爪先が、その肉を引き裂いていく。あぁ、と、切なげな声をあげた少女の背中から――どう抜いたか――心臓を取り出すと、異形の鎧武者は、それをすっと仮面の虚の中へと吸い込んだ。

 絶命して、その場に倒れる少女。


 再び、神父の姿に戻ったそれは、また、張り付いたような笑顔を浮かべていた。


「まずは小手調べだ、無識ぜろしきの『天眼の衛士』よ」

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