セントブリーデン(1)

 瞬く間に、ボヒークを去る日が来た。

 あれだけ騒いで購入したマントと仮面は、フルフラン家の別荘に置いていく事になった。

「荷物は、なるべく少ない方がいいのよ」

 ヤスミンもゲイラもフィオナも、女性陣は口を揃えて同じセリフを言う。

 あんなに仮装したがっていたヤスミンなのに、一度で気が済んだんだろうか。でもそれなら、以前に来た時も経験しているはずなのだが。

「新しいのを選んでいる時が楽しいの。それから、新しい服を初めて着る時もね」

 僕がコッソリその疑問を口にしてみると、ヤスミンはあっさり答える。もう何度も思ったことだけど…女性というものは、僕には全く理解できない。

 街を発つ日になっても、ギヨームは別荘に戻って来なかった。

「もう、あいつは放っておけ」

 身支度を整えたヴィクトールが不機嫌な顔で言い、ゲイラもそれに賛同した。フィオナだけは、息子を待つと主張する。母親ってのは、やはり息子に甘いようだ。

「お母さん、兄さんは子供じゃないのよ」

「だって、置いていくなんて可哀想じゃないの」

「どうせ、どこかでいかがわしい遊びでもしてるんだ。飽きたら勝手に帰ってくる」

 僕らが居るのも気にせずに、彼らは言い争いを続け、結局は父と娘の言い分が通ったらしい。

 母親が一人で残るというなら、そうすればいいと、僕なんかは思うんだが、ヴィクトールは妻の居ない帰りの道中が、どうしても許せないようだ。それはつまり、愛妻と離れるのが寂しいというのではなく、自分の世話を焼く者が居なくなるのが嫌だという気持ちなんだろう。娘では、彼の思うように動いてくれないのかもしれない。

 この別荘にいた僅かの間で、僕はかなり正確にフルフラン夫妻の人となりを把握出来たと思う。

 彼らは、ちょっと驚くぐらい、家族間の摩擦を僕らの前で取り繕おうとしなかった。自分というものを遠慮なく見せてもくれた。そういう点で、彼らは変な大人だと思う。が、もしかしたら、僕なんぞ同じ人間だと思っていないのかもしれない。だから、どんな姿を見せたって構わないのだ、と。

 ヴィクトールのようなタイプの男は何人も見てきたが、威張ってみているものの、その実かなり小心者なのだ。ある年齢より上の男は、大抵そうだ。僕の親父にも、そういう所があった覚えがある。

 だから、僕らとゲイラがそれなりに仲良くしているので、自分が疎外感を味わうのを避けたいのだろうな、ということも容易に想像できた。妻であるフィオナが、何だかんだ言っていても、夫には逆らえないだろうということも。ついでに、ゲイラはそんな両親にいつも苛ついている。

 ヤスミンは、フルフラン家のいざこざなんか、どうでも良いという顔をしていて、もちろん僕も口など出さずに、話がつくまで大人しく待っていた。

「じゃあ、行きましょうか」

 母親を説得し終えたゲイラは、僕たちに向かって、にこやかに笑いかける。そして、ごく自然にヤスミンと手を繋いだ。

 ヴィクトールは何か言いたげな顔をしたが、むっつりと黙って荷物を手にする。荷物といっても大した量ではない。夫妻は小振りのキャリーケース一個。ゲイラにいたってはトートバッグしか持っていなかった。当然だが、僕らの方が荷物が多い。

 別荘を出て、僕はさりげなく周囲を見回した。ヒューイの姿は見えない。見えないが、きっと近くにいるんだろうな。女装はしているんだろうか。

 ヴィクトールが、もったいぶった手つきで扉に鍵をかけ、僕らは駅の方角に歩き出した。

 祭りは、昨日の夜でもう終わっている。最終日の夜中には、派手な花火を打ち上げていて、とてもうるさかった。僕たちは、別荘の客室の窓から花火を見ていた。まぁまぁ綺麗だったが、それ以上のものではなかった。

「これは失敗だと思う」

 というヤスミンの感想に、僕も同意したものだ。

 祭りの後には、独特の寂しさがある。誰もが感じる面白くもない心象を、露店や出店が姿を消した通りを歩きながら抱いた。

 僕らが次に行くのは、セントブリーデンという街だ。聞いた事は無いけど、そこそこ大きな街らしい。多分、フルフラン家に世話になるんだろうが、僕としては、あまり長く滞在したくはない。

 その僕の意向は、ヤスミンには伝えてある。彼女の意思には逆らわないが、これから長い間一緒に行くのだ。自分の考えを言うくらいはしてもいいはずだ、と判断してのことだった。

 ヤスミンは暫し考えて、短期間でいいから仕事をしてみたらどうかと言った。大きな街のようだから、少し時間をかけて見て回りたいらしい。

 彼女も、この一家と長々と付き合う気は無いらしかった。

「思ったより面白い人たちじゃないわ」

 それが理由だ。ヤスミンも、眼鏡違いをすることがある。

 確かに、住処を得て久々に働くのも悪くない。そう決めると、セントブリーデンに行くのが楽しみになってきた。

 駅前広場の屋台で僕は、生クリームとフルーツがたっぷりのクレープを、ヤスミンに買った。彼女が、この街の菓子の味を気に入っているのを知っているからだ。駅ビルのレストランにも寄りたいが、それはまた今度にする…と昨夜ヤスミンは言っていたが、とても残念そうだったから、せめてもの慰めだ。

 ヤスミンは喜んでクレープを受け取り、ゲイラはそんな彼女を見て、目を細めている。夫妻はあまり良い顔はしなかったが、それも当然だ。良識のある大人は、子供に好き放題に菓子を与えるのを良く思うはずがない。でもまぁ、ヤスミンはこう見えてこの中の誰よりも年上なんだから、心配には及ばない。

 列車に乗り込むと、夫妻は眠ってしまい、ゲイラと僕たちは少し離れた所に席を移動した。車内は恐ろしく空いている。

「すぐに着くわよ」

 ゲイラは、楽しそうな笑顔を見せる。

「すぐって、どれくらい?」

 ヤスミンも、クレープを食べてご機嫌だ。

「二時間くらいかな。お喋りしてれば、あっという間よ。車内販売の花のお茶も美味しいのよ」

「お菓子は売りに来ないの?」

 二人は、とりとめのない、だけど華やかなお喋りを始める。僕が会話に参加しなくても、二人は気にしない。むしろ、僕が混ざったら邪魔に思うだろう。

 分かってる。僕が気を配らなきゃいけないのは、その花のお茶の車内販売が、いつ来るのかということだ。それを彼女たちに教えてやるのが、僕の役目なんだろうから、たぶん。



 セントブリーデンは、様々な路線が乗り入れている大きな駅だった。構内を歩いていても、ぼんやりしていると迷子になりそうだった。

 人はそれほど多くないのが幸いだ。すれ違うのは、妙に疲れた面持ちの若者が多かったが、ヤスミンを見ると一様に目が覚めたような顔をする。中には、少し怯えた表情を浮かべる人もいて、その気持ちは理解できなくもない。あまりにも美しいものに対して、人は畏怖の念を抱くものだ。

「ちょっと待ってて」

 駅舎を出た所で、ゲイラはヤスミンの手を離し、先を歩いていた両親に駆け寄る。

「近くに、パスタが美味しい店があるんだって」

 僕の傍に来たヤスミンが、小声で教えてくれる。どうやら、僕ら三人だけでその店に行く気らしい。いつの間に、そんな話になってたんだ。

 なんだか少し揉めているらしい親子に目をやる。ゲイラは父親より背が高いので、夫妻を上から威圧しているようにも見えた。娘に見下ろされているヴィクトールは、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。この親子は、僕が思っているより、ずっと仲が悪いのかもしれないな。

「私たちは一緒に食べたっていいのにね」

 のんびりとヤスミンが言い、話を終えたゲイラがこちらにやってくる。やけに嬉しそうだ。ヤスミンは手を振って迎える。僕も、それに倣った。

「さあ、行きましょうか」

 ヤスミンに手を差し出したゲイラは眩しいような笑顔で、僕はなんだか酷い茶番に付き合ってるような気がしてきた。



「そりゃあ、もちろんデザートが美味しい店でもあるのよ。ヤスミンちゃんと来るんですもの」

 小洒落たレストランで、メニューを片手にゲイラは力説する。

「でも、ケーキはあんまり無いのね」

「ここの自慢はカルボナーラとパフェなの。あと、チーズは種類が揃ってるわ」

「じゃあチーズケーキは期待できる?」

「それなら僕は、山羊のチーズを貰おうかな」

「あなたたち、まずパスタを頼みなさい」

 好き勝手なことを言う僕らに、ゲイラは苦笑した。が、やはり嬉しそうだ。

 最近自覚したんだが、僕は、どうやら世話好きな女性が苦手らしい。嫌いというのではない。なぜか萎縮してしまうんだ。相手が婆さんならまだしも、若い女性だと、ただもう戸惑うばかりだ。だって、こんな風にしていると、僕らはまるで家族みたいに見えやしないか? そういうのが、僕にはとても気持ち悪く思える。

 もちろん、顔や態度に出したりはしない。自分の重大な欠点だと知っているから。こればっかりは、なるべくならヤスミンにも知られたくはない。まぁ、彼女にとってはどうでもいいことかもしれないが。

 料理をオーダーし、少し早めの昼食が始まる頃には、僕はだいぶ疲弊していて、黙ったまま、ひたすらパスタやチーズを口に押し込む。

 ヤスミンたちは、食べながらもひっきりなしに喋っている。よく喉につかえないものだと感心してしまうが、女性というのは、そんな風に出来ているのかな。

 僕もヤスミンも、ゲイラが薦めるもの以外のメニューを頼んだが、彼女は機嫌を損ねなかったし、魚介のパスタも美味い。おかげで、少しだけ気分が良くなる。

「本当に、色んなパフェがあるのね」

 エビグラタンを食べながら、ヤスミンはまだメニューを見ている。行儀が悪いが、ゲイラはそれを咎めたりしない。それどころか、その様子をほのぼのと眺めている。

「ハーフサイズがあるのもいいでしょ?」

「そうね。気が利いてる」

 ああ、だから二つも頼んだのか。もっとも、普通のサイズでも、この子ならペロリと食べてしまうんだけど。

「それはそうと…」

 ゲイラは、いきなり僕の方を向く。

「この街で仕事を探したいと、本当に思ってる?」

 真顔で問われた。別荘でもそんな話が出ていたし、ヤスミンからも何か訊いているのかもしれない。

「そうなんだ。そろそろホテル暮らしも辛くなってきたしね。この街は大きいから、僕が働く所ぐらいはありそうだ」

 予め用意していた答えを言う。すると、ゲイラはひとつ頷いて笑った。

「そうね。ヤスミンちゃんの為にも、落ち着いた方がいいよね。何か条件はある?」

 まるで、彼女が仕事を斡旋してくれるような口ぶりだった。

「条件というか…妹と一緒に入れる寮か何かが、あればいいと思っているよ」

 住居選びや契約はけっこう面倒だし、僕らは何年も居られないから。仮の住処と、とりあえずの仕事があればいいだけだ。

「ああ、そうね。それがいいわ」

 ゲイラは一人で納得して、またヤスミンに目を移す。

「お兄さんがお仕事している間、ちゃんとお留守番できる?」

「もちろんよ」

「偉いわ。しっかりしてるのね」

 褒められて、ヤスミンはあどけなく微笑むが、その表情が苦笑混じりに見えるのは、僕だからなんだろうな。

「私としては、うちに下宿でもして欲しいところなんだけど」

 冗談めかしてゲイラは言うが、家庭内の緩衝材として利用されるのは、あまり嬉しくない。クラバース家でも多少はそんな存在だったんだろうが、完全に家族だけの中に長居するのは、限界がある気がする。

「そこまで手厚くされる理由がないし、正直、それは気詰まりだ」

 はっきり言ってやったら、ゲイラはすぐに自分の意見を引っ込めた。彼女だって本心では、よく知らない他人と同居などしたくないに決まっているのだ。ゲイラが本当に望んでいるのは家を出て独りで暮らすことだと思うが、何故それをしないのかは彼女の事情なので知ったことではない。

「でも、住む所が決まるまでは家に居てくれるでしょう?」

「それも申し訳ないよ。どこか安い宿を紹介してもらえると有難いな」

「じゃあ、せめて今夜は泊まってちょうだい。私、ヤスミンちゃんとゆっくり話がしたいのよ」

 これ以上? と思うが、口には出さない。ヤスミンを見ると、ゲイラの言うことに同調するように頷いている。

「お姉さんが子供の頃の写真や、お洋服を見せてもらうの」

「そうか。それじゃあ、今日はお世話になろうか」

「ああ、よかったわ」

 僕が折れてみせると、ゲイラは少し大袈裟に喜んでみせる。その不自然な感じが、また嫌だった。



 フルフラン家は、街のド真ん中の高級住宅街にある、三階建ての豪邸だ。建てて、まだ十年も経っていないんだろう、手入れも怠り無いらしく、外壁もピカピカしている。有名な建築家の設計だとゲイラが教えてくれたが、僕の常識からは随分とかけ離れた造りの家だった。

「デザイン建築だって。使い難くて堪らないって、母はボヤいているわ」

 それでも、デザイン建築とやらの中では奇抜さは控えめな方なのだと、彼女は言う。僕にはよく分からないが、ヤスミンが物珍しげに周りを見回しているのが楽しそうなので、良しとする。

 玄関が、天井をぶち抜いた吹き抜けなのは開放的で気に入った。けど、通された応接間は、ソファとテーブル以外の物が何も無いので落ち着かなかった。

「せめて花でも飾ればいいのに」

 お茶を待つ間、二人きりになった時に思わず呟くと、ヤスミンは小さく笑う。

「ジードにそう思われるんだから、相当ね」

「これじゃあ歓迎されてないとしか思えないだろ。僕らはともかく、普通の客なら気を悪くするんじゃないかな」

 おまけに、黒を基調とした部屋と家具なので、まるで牢獄みたいだし。

「あら、そんな所に入ったことあるの?」

「まさか」

「私はある。こんな良い所じゃなかったわ」

「え、本当に?」

 その話をもっと詳しく聞きたかったのだが、ちょうどそこに、ゲイラが母親と入って来た。

 二人は、銀のワゴンに紅茶のセットや菓子を乗せてきて、母親の方は挨拶もそこそこに、手馴れた様子で紅茶を淹れ始めた。その手際も見事だが、なにしろ紅茶の香りが良い。門外漢の僕にも、かなり高価な茶葉を使っているのが想像できる。

「私は、紅茶が趣味なんですよ」

 フィオナが、誇らしげに僕らの目の前にカップを置く。美しくて細密な、でも昔風の模様が入った紅茶カップが、この部屋では浮いている。

「わあ、これとても良い物なんでしょ? すぐ分かったわ。すごく素敵なんだもの」

 ヤスミンが感嘆の声を上げる。その目つきが真剣だったので、おべっかではなく本心から出た言葉だろう。

 フィオナはちょっと驚いた顔をしたが、それはすぐに笑顔に変わった。

「あら。ヤスミンちゃんは目が高いのねぇ。ええ、そうですよ。これはね、私がお嫁入りの時に持たされた物なの。先祖伝来でね、お金で買える物じゃないのよ。こんなに小さいのに、物の価値が分かるのね、偉いわ。さぞかし立派な親御さんだったんでしょうね」

 自慢のカップを褒められて、よほど嬉しかったのか、フィオナは急に饒舌になる。

 そんな母親を、やれやれという顔で見ながら、ゲイラが口を挟んだ。

「子供の目は純粋だから、逆にそういうのが分かるのかしら。もっとも、私は子供の頃からよく分からないのよね、このカップの価値」

「あなたはガサツなんですよ。私とは趣味が合わないし。昔から、私が選んだお洋服を着てくれたことが無いじゃない」

「だって、私には似合わないんだもの」

「そんなことないですよ」

 口喧嘩をしつつフィオナは、生クリームを添えたマドレーヌを僕らに供する。

「手作りね。嬉しい」

 ヤスミンが、いちいち的を得た反応をするのでフィオナはもう大喜びで、カップの由来やマドレーヌの作り方を、ヤスミン相手に講釈し始めた。

 僕とゲイラは取り残された形になり、自然と二人で話すことになる。

「ジードさんは、コーヒーの方が良かったんじゃない? ごめんなさいね」

「いや、紅茶が嫌いってわけじゃないから」

「それに、ヤスミンちゃんにはミルクティーじゃないとダメだって言ったのに、美味しい紅茶はストレートに限るってきかないのよ。そういう問題じゃないって言ってるのに」

 溜息をついて、ゲイラはすぐ横にいる母親を腐す。お互いに相手の悪口が耳に入っても、こたえないようだ。何でも言い合える、と言えば聞こえがいいが、この家族については、そんな良い話ではなさそうだ。

 他の人間なら非常に居心地が悪い空間なんだろうが、僕は平気だ。

 ヤスミンは、この奥さんをどう扱うのかと思って見ていると、彼女はカップに口をつけ、ほんの少し紅茶を飲み、フィオナの話が落ち着くのを待ってから、無邪気に笑って言った。

「美味しいわ。おば様は、ミルクティーを淹れるのも上手なんでしょうね。ミルクティーって、とても難しいんでしょ?」

 その言葉でフィオナは張り切って立ち上がり、勇んで部屋を出て行った。

「もう、その辺のお店のミルクティーなんて飲めなくなるわよ」

 という一言を残して。

「あなた、すごいわね」

 半分呆れた顔で感心ながらゲイラは、母親を手伝いに後を追う。落ち着かない母娘だ。

「君は、ああいうの実に上手だな」

「普通よ。それに、可哀想だわ、あの人。みんな、もっと話を聴いてあげたらいいのに。ちょっと慎みには欠けるけど、あのおば様の教養は本物。本当に良いお家の出なのね」

「そうなのか。僕には、ただの自慢好きにしか思えないけど」

「それだけのものを持ってるんだもの。大いに自慢すればいいのよ。頭だって悪くないと思うわ。少なくとも、自分の夫や娘よりは」

「そうかなぁ」

「とても良い趣味よ。だから不満でしょうね、こんなヘンテコな家に住むのは」

「僕だって嫌だな、ここに住むのは。家って感じが、まるでしなくて」

 僕が言うと、ヤスミンはケラケラ笑ってマドレーヌをひとくち齧った。そして、うっとりと微笑む。

「美味しい…まだ、ほんのり温かいし。ねぇジード、あなた、自分の母親くらいの人と同じ感覚というのは、まずいと思うわよ。年寄り臭い」

「でも、君だってそう思ってるんだろ?」

 ムッとして言い返す。すると、ヤスミンは目を丸くして呆れた声を出した。

「あなた、私をいくつだと思ってるの」



 昼食を食べながら話をしたように、僕らは、その晩だけフルフラン家に泊まることになった。

 僕が気を回すには及ばず、明日からの宿の手配も既にされていた。僕の仕事の口もだ。それは全てヴィクトールの手はずだという。

  仕事というのは、工場の従業員寮の管理人らしい。あまりに馴染みのない職業だったので『はあ』としか返せなかった。ゲイラはそんな僕を見て、苦笑した。このヒト、大丈夫かしらという顔だ。

「父は、何か誤解してるみたい」

 お茶の後、ゲイラの部屋に行った。ヤスミンと一緒とはいえ、女性の部屋にお邪魔するのはどうかと思ったが、他にすることも無いので、夕食の時間までを潰させてもらう。

「誤解?」

「私が、ジードさんと結婚したがってると思ってるのよ、父は」

「は?」

 ゲイラがあっけらかんと言うので、僕もつい、素の反応をしてしまった。

「私が友達を連れてくるのなんて珍しいから、てっきり、そうだと思ってるらしいって、母が」

「てっきりって…」

 有り得ないだろう。会ったばかりだっていうのに。

 小さなチェストに座ってアルバムを開いていたヤスミンが、僕らを見て何とも言えない妙な顔をしている。笑いを堪えているんだろう。僕には分かるぞ。

「両親は、とにかく私に早く結婚して欲しいのよ。お母さんが十代でお嫁に来たからって、なんで私にまでそれを求めるのか、さっぱり。だいたい私、もうすぐ三十だし、いまさら焦っても仕方がないというか、焦ってるのは両親なんだけど、この際、誰でもいいっていうのが腹が立つのよ」

 と、ここまで一気に喋ってから、僕に失礼なことを言っているのに漸く気付いたらしい。

「あっ! ごめんなさい、そういう意味じゃ…」

「いや、その通りだよ。君が怒るのも無理はないね」

 僕はもう、耐え切れずに笑い出してしまった。

 この種の誤解をされたのは初めてだ。奇特な人も居るもんだなぁ。今なお笑わずに我慢しているヤスミンを尊敬した。

 道理でね。娘婿として見ているから、何かと世話を焼きたいわけだ。生きていると、何が起こるか分からない。

「そもそも、私より兄さんを何とかした方がいいと思うのに。あんなのでも一応、父の後を継ぐみたいなんだから」

「へぇ、そうなの」

「ええ。ただ男だからってだけの理由でね。私の方が、ずっとマシだと思うのに」

 そう言い切ったゲイラの目が、鋭く光った。

 ああ、なるほど。そんな未来を思い描いているのなら、結婚なんかで家を追い出されるなんて、堪ったもんじゃないだろうな。

「君は、けっこう野心家なんだな」

「そりゃ、こんな家に生まれればね。それに、母を見ていると思うの。女は家庭に収まってはダメだわ。自由が無くなってしまうもの」

「そういうものかな」

「そうよ。いつだって、一番大切な意見は通らなくなってしまう」

 憎憎しげなその表情から、母親のフィオナがかなり抑圧された生活を送っていることが察せられる。だが、自由になりたければ家を出て行けばいいだけなのに、それをしないのは、居るだけの旨みがあるからなんだろうし、そう不満ばかり言うのもな、と思う。

「ねえ、お姉さん」

 退屈だったのか、ヤスミンが声をかけてきた。

「なぁに?」

「このお洋服、素敵ね。おば様が選んだの?」

 アルバムの中で、子供時代のゲイラが笑っている。他の家族も一緒に写っていて、いかにも定番の家族写真といった体だ。この頃は、まだ色々と歪んではいなかったんだろうな。あの兄貴も、子供らしい笑顔で楽しそうだ。

「そうねぇ、このドレスは、母が選んだ物の中では好きだったわ」

「とても綺麗な色ね。似合ってる」

「こればっかり着ていたから、すぐにダメになっちゃったのよね」

「私も、そういうお洋服があったわ」

「あなたは何を着ても似合うじゃないの」

 そのまま、女二人の会話はファッションに流れていく。そうなると、僕に言えることは何も無くなってしまう。まぁ、それも気楽でいいが。

 ゲイラの部屋は、あの応接間ほどではないものの、女性の部屋にしてはやはり殺風景だった。僕だって、それほど女性の部屋を知っているわけではないが、どちらかと言うと男性的な部屋だといってもいいと思う。なにしろ装飾品が何も無い。そして、色の数が少なかった。家の大きさからすると驚くほど狭い。天井だけは高いので、酷く空虚な感じがする。隅の方に、一人で寝るには広いベッドがあって、窓辺にある机はしっかりした造りの、しかし飾り気がない物だ。

 大きなクローゼットから、ゲイラはアルバムやアクセサリーを出してきては、ヤスミンに見せている。

 アクセサリーは、どれも小粒でシンプルな物だったから、ヤスミンの好みではなさそうだ…などと思いながら、開いたままの部屋の扉に目をやると、そこにギヨームが居た。

 いつの間に帰ってきたんだろう。僕の事を、恐ろしい眼差しで睨みつけている。

 ああ、こいつも『誤解』とやらをしているんだな。そして、もっと始末が悪いことに、クラバース家の息子たちのように、僕がこの家の財産を狙っていると思い込んでいる。そんな訳ないだろう馬鹿馬鹿しい、と思うのは、こっちの理屈だ。

 厄介なことになると承知の上で、僕は、ギヨームに向かって笑ってみせた。それも、彼の邪推を肯定するような笑い方で。

 何故そんな事をしてしまったのか、自分でも説明できない。ただ単純に僕は、このギヨームという男が嫌いで、殆ど因縁のような思い込みで睨みつけられたのが、驚くほど不愉快だったのは確かだ。どうも最近、僕は怒りっぽくなっているような気がする。

 ギヨームは、僕の『反撃』が意外だったのか、顔を真っ赤にして立ち去ってしまった。夕食の時にまた顔を合わせるのかと思うと少し面倒だったが、ギヨームがどうこうよりも、ヤスミンに怒られるんじゃないかという方が気になる。

「そうだ。二人とも、好き嫌いは無いのよね」

 思いついたように、ゲイラが言った。兄には全く気付いていないようだ。

「僕は何でも食べるよ」

「私も、嫌いなものは無いわ」

 僕らの答えに、ゲイラは満足げに頷く。

「よかったわ。きちんと躾けられたのね」

 いや、それほどでも。まだ食べたことが無い物を、これから嫌いになるかもしれないしね。

「でも私、ご飯よりお菓子の方が好きなの。兄さんには、いつもそれで怒られる」

「そうよ、食事はちゃんとしないとね。じゃないと、大きくなれないよ。私みたいに背が高くなれないわよ」

 ヤスミンが口を尖らせる。

「そうかなぁ。兄さんぐらい大きくなれると思うんだけど」

 それはデカくなり過ぎだと思ったが、僕とそんなに背丈の変わらないゲイラの前では言えない。

 でも、そうだな。ヤスミンのように永遠に生きていかなくてはならないんだったら、大人の姿の方が何かと好都合だろうな。そして、出来れば男だったら良かったんじゃないだろうか。ヤスミンにそれを言ったら、今の姿が一番と返されそうだけど。

「それとね…」

 申し訳無さそうに、ゲイラが付け足した。

「多分、すごくたくさん料理が出てくると思うの。お客さんがいると、母が意気込んじゃうのよ。私が一緒に作れば調節できるんだけど、今日はキッチンから締め出されちゃったから。食べ切れなかったら、無理しないで残してね」

 ははぁ。でもそれは、いたずらにフィオナを喜ばせたヤスミンにも責任があるからな。

「頑張るもん、私」

 その自覚があるのか、ヤスミンは笑って小さな腹を叩いてみせた。

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