ボヒーク(3)

 ヤスミンの関心は、祭りから完全にゲイラの家族に移ったようだ。

 駅ビルのレストランは混んでいて、たまたま空いていた四人がけのテーブルに着くことが出来たのは良いのだが、ヤスミンは、食事よりゲイラへの興味を剥き出しにしている。

 見ず知らずの僕に声を掛けてきたくらいだから引っ込み思案なわけはないが、ゲイラはヤスミンに負けず劣らず、かしましい。最初の内は気を使って、時折僕にも話しかけていたが、今はそれも無くなっている。

 まあ、僕としては、二人で楽しくやってくれていた方が有り難い。

 彼女たちの話はどんどん盛り上がって、今日にでもゲイラの別荘に向かうような勢いだ。少し急過ぎやしないかとも思うが、考えてみれば、クラバース家に世話になった時も似たようなものだったな。

 ヤスミンと一緒にいると、こういう事が普通になっていくんだろうから、僕も慣れなきゃいけない。けど、彼女と違って僕は見た目が大人だから、遠慮の仕方が難しい。なにしろ、遠慮はしつつ、ヤスミンの願望は叶えなきゃならないんだから。

 さりげなく店内を見回したが、あの男の姿は無い。が、近くにはいるんだろうな。僕らがゲイラの所に行ったら、やはり、くっついてくるんだろうか。クラバース家にいた時は、奴はどうしてたんだろうか。きっと、すぐ傍に居たんだろうけど。

 クラバース家といえば、運転手のエルは元気にやってるだろうか。あの家には、なんとなく不健全な雰囲気があって、彼はその原因をよく知っていたような気がする。メイドのファニーだって、あんな呑気な顔をしていたけど、何も知らないわけじゃないだろ。あの時と違って今の僕なら、もっと違う目であの家の人たちを観察できる気がするな。

 GSOを見つけた雑貨屋もあるし、いつかまた、あの街には行ってみたい。デスギナフは、当分行きたくはないが。

 ネッキスたちの遺体はどうなったのかな。場所が場所だし、ずっとあのままかもな。ああ、マスターが何とかしたかもしれない。あそこには彼の弟もいるし。

 ネッキスたちは面白い奴らだった。そういえば、ネッキスはローズガーデンで何をしてたんだろ。あの働き者が、のんびり旅行してたとも思えないから、金儲けの種でもあったんだろうな。祭りが終わったら、また、あの宿にも行ってみようか。

 ヤスミンの子供らしく澄んだ声と、ゲイラの少し掠れたようなハスキーボイスが混ざり合って、内容を理解しようと思わなければ良いBGMだ。それを聞きながら、取り留めの無いことを考えていると、テーブルの上に置いてあった手を不意に触られた。

 完全にインナーワールドに没入していたから、驚いて椅子から飛び上がった。声が出なかったのが幸いだ。

「やだ。どうしたの兄さん」

 ヤスミンも、わざとらしく目を丸くしてみせる。今にも笑い出しそうな顔をして。

「あ、いや…ちょっとビックリして」

 周囲の視線を感じて、自然と顔が赤くなる。

「なにを考えてたの?」

 無邪気を装っての質問を、笑って誤魔化した。だって、そんなの答えられない。

「ジードさんは、お酒が強いんですって?」

 ゲイラは、僕たちの様子を楽しそうに見ながら訊いてきた。親しみを込めた眼差しが少し重たい。

「ええ、まぁ」

「じゃあ、少し呑みませんか? 私も好きなんです、特にワインが」

 嬉し気にそう来られると、別に好きなわけじゃない、とは言えなくなる。大体、強いと好きは違うし…。

「いやでも、昼間から…」

「いいじゃない。お祭りだもの」

「そうよ。楽しみましょ、兄さん」

 ヤスミンも、にっこり笑う。そして、こう付け加えた。

「私は一番大きいケーキを頼むわ。いいでしょう?」



 僕とゲイラは、二人で赤ワインを二本空けた。意外だったのだが、僕はもちろん、彼女も殆ど酔わなかったのだ。ゲイラもかなり強いらしいが、僕と違うのは、酒を美味いと思っていることだ。

「気が進まないなら、断ってもいいのよ」

 ホテルの部屋で、ミネラルウォーターを僕に差し出しながら、ヤスミンが言う。

 結局、僕らは夕方まであのレストランにいて、軽い夕飯を食べて解散した。今日はもう、街には出なかった。

「いや、そんなことはないよ」

「そう? 明日、あの人が迎えに来たら、もう逃げられない。大丈夫?」

 別荘行きを決めた本人のくせに、ヤスミンは今になって僕の意向を訊いてくる。

「まぁ、あの兄貴は食えないヤツだけど、彼女は良い人だからね」

「ご両親は退屈そうな人たちみたいよ」

 巧みな話術でゲイラの家族の人柄を聞き出したらしいヤスミンは、口許に笑みを浮かべている。

「面白い年寄りなんて、そうそう居ないだろ」

「彼女の親なら、老人てほどじゃないでしょ」

「ま、僕もヒトのこと言えないけどね」

「あら、そんなに自分を卑下しないでよ」

「事実だ」

 僕には自虐趣味は無い。

 少しの沈黙の後、ヤスミンは、僕の手にそっと触れた。

「じゃあ、いいのね。行くわよ」

「ああ」

 知ってるよ。僕らの行き先は君が決めるんだ。僕に不満なんてあるわけない。

「それにしても、あなたって本当にお酒に酔わないのね。ちょっと凄いと思う」

「褒めてるのか? それ」

 僕の質問に、ヤスミンは困った顔をして答えなかった。呆れてると言わないだけ、この子は僕に気を遣ってくれてるんだろうと思う。

 ヤスミンは、僕にはけっこう優しいのだ。



 翌日の朝、僕とヤスミンがフロントに行くと、既にゲイラが迎えに来ていた。僕らもそうだが、彼女も、もう仮装はしていない。

 僕たちの衣装は、衣装屋の紙袋に詰め込んでキャリーケースに括り付けてある。次第に衣類が増えてきているので、いったん整理しなければならないだろう。ヤスミンはともかく、僕はそんなに服は持っていたくないんだ。持っていれば、着なきゃならないから面倒だと思ってしまう。

 女性は綺麗な格好をしていた方がいいけど、僕みたいな男は、不審者に見えない程度の姿をしていれば事足りる。

「素敵なドレスねぇ」

 ゲイラは、ヤスミンを見て感嘆の声を上げる。

 今日のヤスミンは、クラバース夫人にプレゼントされた服や靴を身に着け、髪も可愛らしく結っていたので、まるでどこかの令嬢のように見えた。

 ゲイラは、地味だが質の高そうなグレーのスーツを着ている。いつも着ているものなんだろう、しっくりと良く似合っている。

「しかし、本当にいいのかな。僕らみたいな馬の骨を…」

 僕は再度、遠慮してみせる。この遣り取り、実は昨日もしているのだ。大人同士は、こういう駆け引きを省略するわけにはいかない。面倒だが、仕方ないのだった。

 ゲイラは、にっこり笑って頷いた。

「両親は、お客様が好きなんです。しかも、私の友達なんて珍しいから、もうすっかり舞い上がってしまって。兄はまぁ…あんなのですけど、気にしないで下さい。父の前では何も出来ないんだから」

 兄のことを話す時、彼女の顔は苦々しげに歪む。これは相当嫌っているな。まぁ無理もないか。親の居ない所ではいつもああなんじゃ、付き合いたい人間は誰も居ないだろう。

「とにかく行きましょう。今の時間は、まだそんなに人が出てないわ」

 兄に対する嫌悪を剥き出しにしたのが恥ずかしかったのか、ゲイラは取ってつけたような笑みを浮かべて、僕らを促した。

 駅ビルを出ると、確かにゲイラの言う通り、今日はまだ人の波は出来ていない。

 彼女は先を急ぎたがったが、僕らは手土産を買って行くことにしていたので、ケーキ屋に寄らせてもらう。何処で買うかは、もう決めていた。この街で最初に入った、あの店だ。

「このお店、なかなか美味しいのよ」

 ヤスミンが大人ぶって言うのを、ゲイラは素直に聞いて感心している。

「母は甘いものが大好きなの」

 様々なケーキが並んだショーケースを覗いてゲイラは言うが、その表情を見ると、本人も嫌いではないようだ。それでいて酒も嗜むのだから、偉いもんだ。

 女性陣は、楽しみつつ手土産のケーキを選び、オマケだと言ってクッキーの詰め合わせまで買った。その代金は、何故かゲイラが払った。それは駄目だと何度も言ったんだが、ゲイラは頑として、僕から金を受け取ってくれない。

 困っている僕を尻目に、ゲイラとヤスミンは仲良く店を出て行く。キャリーケースを引いて二人の後に続いた。僕は、いつもこうして誰かの後ろ姿ばかり見てるような気がする。

「やっぱり車で来ればよかったわ」

 ヤスミンと手を繋いで歩くゲイラが、言った。別荘まではそれなりに歩くので、子供の足では辛いのではないかと心配しているのだ。

「平気よ。一日中歩き続けたことだってあるもん、私」

「まぁ、凄いわねぇ」

 自慢気なヤスミンに感嘆してみせながら、ゲイラは僕を咎めるような目で見た。

 おそらく、ヤスミンの言った事は本当なんだろう。長い放浪生活の中で、そういった局面があったとしても不思議じゃない。けれど、ヤスミンの正体を知らない人からすると、僕がやらせたように思われるじゃないか。困る。まぁ、ゲイラの面持ちからすると、彼女は本気にしていないようで安心したが。

 朝の十時前と時間が早いので、通りを歩いている人も、まだ少ない。

「朝食は、ちゃんと食べたの?」

「ハムエッグとトースト。あのレストランは何でも美味しいの」

「母と私が作る料理も、そう悪くないのよ」

 少し残念そうに言うヤスミンの気持ちを引き立てるように、ゲイラは軽快に応じている。

 ふぅん、メイドなんかは居ないんだな、と、無意識にクラバース家と比べてしまう。直後、自分の下世話さに驚いた。

 僕はあまり他人を気にしない方で、それはどちらかというと欠点になっていた。ヤスミンと共に行動するようになって僕は、社会というものと積極的に関わろうと思い始めているのかもしれない。

 朝の陽射しを浴びている屋台や露店は、昨日より随分と色褪せて見える。店の売り子たちも同様だ。ピエロの素顔を見てしまったような気分になるけど、僕はその感覚が割と好きだ。何故なのかは、上手く説明出来ないけれど。

 大通りをゆっくりと抜けて、別荘地へと繋がっている道に入る。道の両脇には長い花壇が設えられていて、色とりどりの花々が咲き乱れている。この街らしく、手入れも行き届いてるんだろう。祭りに浮かれた大勢の観光客が入り込んでいるにも拘わらず、踏みつけられたり毟られたりしている様子は一切ない。

 この道も石畳なのだが、駅前広場とはまた違った色合いで加工された石が、美しく敷き詰められている。

 今日も良い天気だな。

 緩やかなカーブを繰り返す道の先に、落ち着いた色合いで統一された別荘群が見える。視界に入る青空の割合が見事だ。多分、建物の高さや幅も計算されているんだろうな。

 とても綺麗な風景だ。絵葉書にでもしたいくらいだが、同時に息苦しさも感じる。人間が暮らす所には、ある程度のいい加減さが必要じゃないかと思うね。

 前を歩いているヤスミンとゲイラが、小さな声で歌い始めた。昨日とは違う歌で、今日のは僕も知っている。子供の頃、誰もが一度は歌ったことのある歌だ。だから、彼女らの歌を聞いていると、僕も口ずさみそうになって、どうもいけない。孔雀とアヒルが一緒に買い物に行くという歌詞なので、僕のようないい年の男が歌うには可愛らしすぎる。

 二人に気付かれないように咳払いして、やや距離を取りつつ、後ろをゆるゆると付いていった。

 整い過ぎた景観を気にしなければ、ゆったりした気分で歩くことが出来た。キャリーケースを引く音も、この舞台にとても合っているように思える。古い映画のワンシーンのようで、その中に自分が居るのが、ちょっと気恥ずかしい。

 目的地に着くまでに、同じく別荘客であろう数人とすれ違い、ゲイラはにこやかに挨拶している。僕らもそれに倣ったが、相手の不審げな視線に辟易した。ヤスミンは、もちろん涼しい顔をしている。

 ここで、ようやく僕は、ある事に気付いた。もしかしたら、僕たち三人は親子に見えているのではないか。途端に酷く居心地が悪くなる。

 ヤスミンはまた違う歌を歌い始め、ゲイラもそれに声を合わせた。許されることじゃないが、走って逃げたい。



 大したものじゃないんです、というゲイラの言葉通り、別荘は小ぢんまりしていた。

 建物同士の間隔はそれなりに空いているものの、まるで建売住宅のような、よく似た別荘群の中の一つが、フルフラン(ゲイラの姓)家の物だった。

 出迎えてくれた彼女の両親は、ヤスミンを見て目を細め、僕を見て眉を顰める。予想通りの反応だ。

 ぎこちない空気の中、自己紹介し合った。あの兄貴の姿は無い。

 応接間に通され、世間話をしつつお茶を飲む。手土産のケーキを供される。型通りの流れだが、未だに慣れない。

 僕とヤスミンは、両親を事故で亡くし、親戚を頼りに移動している最中だ、ということになっている。良い仕事があれば、そこに腰を落ち着けてもいいと考えていることも、付け加えることにした。

 実際、流れ歩いてばかりでは大変なので、一箇所に何年か定住することもあるんだと、ヤスミンは言っていた。それが牧場での生活だったんだろう。

「まあ…お気の毒ねぇ」

 ゲイラの母親、フィオナは、ヤスミンを同情の目で見る。父親のヴィクトールは難しい顔をして、何かを考えていた。ちょっと用心されたかな。

 フルフラン夫妻は、どうという事もない、ごく普通の中年夫婦にしか見えない。父親は、工場や商社をいくつか持つ事業家のようだが、そういう人物らしい精力的な雰囲気は感じない。面白いのは、兄妹がどちらにも全く似ていないことだ。

 ま、安心してください。あなたたちに過分に世話になる気はないんです。ただ、ヤスミンの気の済むように関わらせてください。悪いことが起きるかもしれないけど、それはヤスミンの気分次第だから、僕にはどうにも出来ないし。

「ゲイラが、どうしてもお招きしたいと言うだけあって、とても可愛らしいお嬢さんだわ」

 フィオナが満面の笑みで僕に言うのを、ヤスミンはケーキを食べながら、人懐こい笑顔で聞いている。

「可愛いだけじゃないの。洋服のセンスもいいし、歌も上手いのよ」

「そうそう、ゲイラの仮装を見繕ってくれたんですってね。本人に任せておくと、野暮ったいものばかり選んでくるから…」

「お姉さんは、明るい色が似合うと思ったの」

 その話題から、女性三人は賑やかに洋服談義を始めた。どうやらフィオナは着道楽で、ゲイラも、母親と趣味は合わないものの、服選びは嫌いではないらしい。

 こうなってしまうと、男連中は邪魔者扱いになってしまう。

「きみ、イケるクチなんだろ? 一杯どうだい?」

 ヴィクトールは苦笑いしながら、部屋の隅に設えてあるバーカウンターへ、僕を促した。

 カウンターの中へ入ると彼は、何が好きか、と僕に訊いてきた。好きな酒など無い僕は一瞬困ったが、すぐに「お薦めのものはありますか?」と返すことが出来た。僕の対人スキルは、少しずつ向上しているようだ。

 僕の返事に、ヴィクトールは嬉しそうな顔をした。自慢したい酒があるんだろうなと思った。

 予想は当たり、ヴィクトールは、琥珀色の液体が入ったボトルを何本も並べ、薀蓄をたれ、それを僕にストレートで呑ませる。香りはいい。彼が言うように、かなり良い酒だと思う。が、やはり僕には美味しく感じない。勿論、そんなことはオクビにも出さず、彼の言葉に頷き、こんな酒は飲んだことが無いと大袈裟に感激してみせたりした。

 僕はいくら呑んでも酔わないが、相手は段々と顔を赤くしてくる。五十は過ぎているだろう男が、赤い顔をテラテラさせて酒臭い息を吐いているのを見るのは、あまり気持ちの良いものではない。

「君、本当に強いね」

 娘のゲイラから聞いていたんだろうが、そう言うヴィクトールは、何故かちょっと楽しそうだった。

「僕は顔に出ないだけです。けっこう酔ってますよ」

「そうかね?」

「ええ。昼の酒は効きますね」

「だが、美味さも増すだろう?」

 ヴィクトールは、機嫌良くグラスを空けていく。

 酔いが回るにつれ、彼の口は軽くなっていった。会った時の紳士然とした顔が嘘のように、家族や仕事への不満をぶちまけ始める。

  曰く、妻のわがままと浪費が過ぎる。娘がいう事をきかない。息子が無能すぎて情けない。真偽のほどは分からないが、まぁ、よく聞くたぐいの家族への不満だ。

 特に息子への愚痴が多く、口汚くはなかったが、こんなはずではなかった、というセリフを何度も吐いていた。グラスを持つ手がブルブル震えているところを見ると、この男はアルコール依存症になりかかっているのかもしれない。

 聞こえているはずの妻と娘が顔色も変えずにいるので、これは日常的なことだと分かる。

「お父さん、そんなに呑んだら、街に出られなくなるわよ」

「いいんだ。今日は行かない。一日付き合えば十分だろう。なぁ、ジードくん」

 急に話を振られて、曖昧に頷いた。もう、あの人混みの中を歩きたくないのは本当だ。

「私も、今日はやめておこうかしら」

 母親の言葉に、ゲイラは安堵したような顔をした。そうだ、そもそも彼女は、積極的に祭りに参加したいわけではない。

「家に帰る日に、軽く露店を覗けばいいだろう」

 夫の提案に、妻と娘は賛同する。やはり僕と同様、あの人の波に参ってしまったとみえる。

 しかし、この奥さんは、自分で祭りに参加したがっていたはずなのに、勝手なものだ。ワガママな妻だと、夫が零すのも無理ないかもしれない。

「だったら私、やりたいことがあるの」

 ゲイラが声を弾ませる。

「お菓子作りがしたい。昔、母さんとよくやったでしょ? 覚えてる?」

「ええ、もちろん。あなたが、どうしてもシュークリームを作るんだって言ってね」

 フィオナは、懐かしげに目を細める。

「お家でシュークリームが作れるの?」

 ヤスミンは立ち上がって、大きな声を出した。母子は微笑んで頷く。

「お店のしか食べたことないのね?」

「うん」

「それじゃあ作りましょうか。他のお菓子も」

「わあ! すごい!」

 この展開、前にもあったな。

 女性というのは、みんなお菓子作りが好きなんだろうか。いや、そうではないだろう。ヤスミンが、そういう相手を引き寄せているみたいだ。

「僕も手伝いましょうか」

 ヴィクトールは、そろそろ酔いつぶれてしまいそうだし。

 すると、フィオナはニコリと笑う。

「お願いしますわ。でも、その前に、主人をこちらのソファに連れて来ていただけないかしら。私たちでは重くて動かせませんので」

 言われて彼を見ると、今にも瞼が閉じそうになっていた。



「ギヨームは、ゆうべ帰って来なかったのよ」

 小麦粉をふるいにかけながら、フィオナが溜息をつく。

「兄さんのことなんて、放っておけばいいのよ。子供じゃないんだから」

 次々と卵を割り、黄身と白身を分けつつ、ゲイラは応じる。

「とは言ってもねぇ…ご飯なんか、どうしてるのかしら」

「お祭り中は、レストランだって何だって一日中開いてるんだから、困りゃしないわよ」

「まぁねぇ…」

 口篭るものの、娘の冷たい態度にフィオナは不満そうだ。しかしながら、兄の話を続けないのは、それをやると娘の機嫌が悪くなると知っているからだな。

 どうも中途半端な人だな、と思う。仲の悪い兄妹の両方に好かれようなんて、無理に決まってるじゃないか。それでも、どちらを取るかと言えば、娘との関係を良好にしておいた方が良いとは思ってるんだろうな。

 どっちにしろ、娘は母親のことを、それほど好きではないようだけど。

 ヤスミンは、大人用のエプロンを短く端折ってもらって身につけている。そんな間に合わせの格好すら様になってしまうんだから、さすがとしか言いようがない。

 星型のクッキーの型を持ち、自分がこれをやるんだと張り切って、母子の微笑を誘っている。確か、クラバースさんの所でも同じことをやってたな、と、僕は必死で笑いを堪える。

 大人に受ける子供を演じるのは得意だけど、子供を相手にするのは難しいと、ヤスミンが言っていたのを思い出した。それはそうかもしれない。なにしろ、見た目と違って中身は大人同士なんだから、理想の子供像は一致するだろう。

 なんてことを考えつつ僕は、ひたすら卵白を泡立ててメレンゲを作らされていた。いくらでも使い道はあるらしい。

 サンドウィッチの昼食をはさんで、別荘から一歩も出ずに菓子を作り続け、三時のお茶の時間になる頃、僕はもう、甘い匂いは嗅ぐのも嫌になっていた。が、食べたくないなどと言える雰囲気では、当然ない。

 淹れてもらったコーヒーは上等で、文句は無いけど、ホイップクリームとカスタードクリームでズッシリ重たいシュークリームは、片付けるのに苦労した。

 女性たちは、その他にもマドレーヌやフルーツもパクついている。

 特に、ヤスミンの食欲はすごかった。やはり彼女は、出来立ての菓子が一番好きなのかもしれない。その内、どこか一箇所で暮らすことになったら、簡単な菓子でも作ってあげた方がいいのかな。

「ねえ、ジードさん。あなた、お料理はなさるの?」

 僕の頭の中を見透かすように、フィオナが訊いてくる。

「え…いや、僕は料理なんて…」

「全くなさらないことは無いでしょう? 妹さんと二人で生活していく気が、おありなんですもの」

「まぁ、その、簡単なものなら」

「あら、それじゃ駄目よ。ねぇ、母さん、二人でジードさんにお料理を教えてあげない? いつまでも簡単なものじゃ、ヤスミンちゃんが可哀想。この子、美味しいものが大好きなのに」

「そうねぇ、いいかもしれないわね」

 母子だけで、妙な話がまとまりつつある。

 ヤスミンは、澄ました顔でマドレーヌにホイップクリームを乗せて齧っているが、内心、笑っているに違いないと確信していた。



「あの場では我慢したの。偉かったと思わない?」

 案内された客室で二人きりになり、さんざん笑い転げた後、ヤスミンは言う。

「まあね」

「というか、お料理出来たのね、意外だわ」

「そりゃあ…一人暮らしが長かったからね。いつも外食ってわけにもいかないし」

「実際、どんなものを作っていたの?」

「そうだな…ソーセージを茹でたり、肉に塩を振って焼いたり、野菜を切ってサラダにしたり。一番作ったのは、ジャガイモの蒸し焼きかな。薄く切って重ね焼きして、溶き卵で固めるんだ。塩コショウしてケチャップをかけて食べると美味い」

「へえー。じゃあそれ、今夜作ってよ」

「えっ」

「だって、きっと何か作らされるわよ。どの程度できるのかって、知りたがってるもの、あの二人」

「やっぱり、本気なのか、あれ」

 困ったなぁ。

「決まってるでしょ。あなたも私も、この家には必要なんだから、長く滞在させる為には何でもするわよ」

「え?」

 この子はまた、変なことを言い出したな。

「分からないかな。お姉さんの家族はね、他人が一緒に居ないと会話も出来ないんだと思うわ」

「どういうこと?」

 訊くと、ヤスミンは少し考える素振りをみせる。

「たとえ喧嘩をしていても、他人の前では家族としての体裁を大事にするものじゃないの、人というものは」

「………」

「お姉さんの家族が上手くいってないのは、なんとなく分かるよね。でも、全員がバラバラになる勇気は無いんだわ。だから、いつだってお客に来て貰いたがってるのね、お姉さんは」

「…どうも僕にはピンとこないな。仲が悪いなら、それなりにしていればいいじゃないか。そんなに無理して家族ごっこをしなくてもさ」

「そうね、私もそう思う」

 ヤスミンはそう応えて、ニッと笑った、

「でも、それが人間らしいってことだと思わない?」

 それは、ゾッとするような微笑だった。

「まるで、僕が人間らしくないみたいだな」

「拗ねないでよ。そうは言ってない」

「別に気を悪くしたわけじゃないよ。ただ…」

 次の言葉は出なかった。自分でも、何が言いたいのか分からなかった。

 ヤスミンは、僕の目をじっと見つめたまま、何も言わなかった。



 ヤスミンの言った通り、夕食の支度を一緒にするという名目で、僕は『簡単なもの』を作らされた。作らされた、なんて言い方は、お世話になる立場で良くないのは百も承知だが、作業している横に試験官がいるやり難さから、そうも言いたくなる気持ちも察してもらいたい。

 しかも彼女らは、ジャガイモを剥く僕の手つきが手馴れていたのが意外だったらしく、大袈裟に褒めるのでゲンナリしてしまった。だが、面白くなく思っても顔には出すなと、ヤスミンに釘を刺されている。

 夕食は和やかだった。

 フィオナとゲイラが作った煮込み料理と、僕のジャガイモ料理と、ワインと数種類のチーズ、果物が食卓に並び、僕らは当たり障りのない会話を楽しんでいる振りをする。クラバース家での食事と違い、何故か気疲れはしなかった。空虚なことには変わりないのだが。

 明日には、もう祭りは終わる。

「ね、ジードさん。よろしかったら、私たちの街に来ませんか? 最近、大きな店が次々と出来ているから、働き口は沢山あると思うのよ」

 ゲイラがおずおずと切り出すと、夫妻も、それがいい、そうしなさいと相槌を打つ。

「そうですね。それもいいかもしれませんね」

「私も、知り合いに仕事の口を当たってみよう」

 ヴィクトールが、酔っ払い特有の口約束をし始める。まぁ、どうしても仕事が欲しいわけじゃないんだけどね。

「わあっ! それじゃ、まだお姉さんと一緒にいられるのね!」

 ヤスミンが、これ以上ない特上の笑顔で愛嬌を振りまく。これでもう、この家族は完全に彼女の手中に収まってしまった。

「明日の朝食も一緒に作りましょうよ。私、とても楽しかったのよ」

 フィオナが言い、僕も精一杯の笑顔で頷いた。

 ギヨームは、この日も帰って来なかった。

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