ボヒーク(2)

 その女はゲイラと言う名で、この街には家族と来たそうだ。

「母がどうしても、お祭りを見たいと言うんです」

 ゲイラは、困ったものだといった顔で、ティーカップに口をつける。

「お姉さんは、そうじゃないの?」

 プリンアラモードの生クリームに慎重にスプーンを刺し込みながら、ヤスミンが問うた。

「見るだけだったらいいんだけど…」

 テーブルに視線を落として、ゲイラは言葉を濁す。

 あの店で各々買い物を済ませた後、この長身の女性は、僕らをお茶に誘ったのだった。僕は迷ったのだが、ヤスミンは喜んで誘いを受けた。

 ヤスミンは新しい知り合いを作るのが好きなのだ。彼女と共に行動するからには、僕も見習った方が良いのかもしれないが、僕のようなモッサリした男に親しげにされるというのは、初対面の相手からすると、どうなんだ。それを思うと、もうひとつ積極的にはなれない。

 大体、僕が誰かから声をかけられるなんて珍しいことなんだ。もっとも、ヤスミンと一緒にいるようになってからは、そうでもなくなってきているが。

「私は仮装するの楽しみだわ」

 ヤスミンが無邪気に言うと、ゲイラは微笑んだ。

「そりゃ、あなたは可愛いもの」

「お姉さんだって美人だわ。ね、兄さん」

 ヤスミンがいきなり話を振ってきたので、僕は慌てて頷く。

 実際、彼女は整った顔をしていると思う。知的な感じが少し冷たい印象を与えるが、笑顔になると柔らかい雰囲気になって、悪くない。

「だって、ほら…私は背が高過ぎるでしょ?」

 ゲイラは恥ずかしそうに言って、チラリと僕を見た。確かに女性にしてはかなりの長身だけど、僕はそういう女性に対して思うところは全く無かったので、却って反応に困る。そんなことないですよ、なんてお愛想は、どうにもこそばゆくて言えないし。

「だからクールなのになぁ」

 いつの間にか、ヤスミンはプリンアラモードを食べ終えている。

「背が高くてスタイルも良くて…もっと踵の高い靴を履くと、尚いいわ」

「でも…」

「足元まである長いマントが似合うでしょうね…いいなぁ、私も本当は、ああいうのが着たいんだ」

 ヤスミンは、ゲイラがさっき買ったマントのことを羨み、溜息をつく。それを聞いたゲイラは、ちょっと笑った。

「あなただって、大人になれば着られるわよ。今だってこんなに綺麗なんだもの。年頃になったら、そりゃあゴージャスな女の子になるわね」

「そうかなぁ…」

 そんな日は永遠に来ないのを知っているのに、ヤスミンは普通にそう応えていて、僕の方がヒヤリとしてしまう。

「間違いない。お兄さん、今から心配なんじゃない?」

 ゲイラが、また僕を見る。

 この店に来るまでに、お互いの名前や家族構成のことは何となく紹介し合っている。僕はそんな気は無かったんだけど、ヤスミンが素晴らしく饒舌だったのだ。僕が思うに、このゲイラという女も本来は口が重い方なんじゃないだろうか。それが、ヤスミンにかかるとすっかりお喋りになってしまうんだから、全く大したものだ。

「僕はどうも、そういうのに疎くて」

 さりげなく答えたつもりだが、僕の声は不自然じゃなかっただろうか。

「呑気なんですねぇ」

 ゲイラは少し呆れた口調でそう言い、またカップを口に運んだ。

「ね、ケーキも頼んでいい?」

 隣に座っているヤスミンが、僕の脚をそっと叩いてねだってきた。

「うん」

 ここのプリンアラモードは上品で小さかったから、足りないだろうなとは思っていた。多分、どれだけ食べても足りるなんてことは無いんだろうけど。

「私も食べようかな」

 ゲイラが身を乗り出すと、ヤスミンは嬉しそうに笑った。

「お姉さんは何が好き?」

「モンブランが好き。チーズケーキも」

「私は何でも好きなの。だから、いつも迷っちゃう」

「楽しいわよね、そういうの」

 ヤスミンと一緒にいると、つくづく思うんだが、女同士ってのは、年齢関係なくすぐに共通の話題で親しくなれるものらしい。美味しい食事や甘いお菓子、綺麗な服や可愛いアクセサリー。そういったものが、彼女たちの距離を一気に縮めるのだ。

 はしゃいで追加オーダーをするヤスミンたちに便乗して、僕も二杯目のコーヒーを頼んだ。

「お祭りは、明日からよね」

 待ちきれないといった様子のヤスミンだ。

「三日間続くらしいですね」

 僕は、オムライス屋のウエイトレスから得た知識を披露する。

「私の家族は、三日間とも違う仮装をするって張り切ってるの。嫌だわ」

 うんざりした顔で、ゲイラは嘆いてみせた。こういった派手派手しい行事が好きではないのは、さっきの店で聞いていた。

「そういえば、どうして家族と一緒じゃないの?」

「だって、あの人たちが気に入ったお店には、私が着たいような物が全然無いんだもの。と、いうか、私は別に仮装なんかしたくないのよ。でも、付き合わないと母がうるさくて…なんとかお願いして、その店で買うのだけは勘弁してもらったってわけ」

 彼女は急に多弁になる。祭りに参加するのがよほど苦痛なのだろう。目の前に、それを楽しみにしている子供が居る事に斟酌出来ないほどに。当たり前の子供なら気を悪くするのだろうが、ヤスミンは興味深そうに、そんな彼女を見ている。

「お姉さんには、さっき買ったみたいなシックで品のある物が似合うと思う。今回だけじゃなくて、普段着る洋服でも、靴でも」

 年端もいかない子供のこんなアドバイスは、普通なら誰も本気にしないだろうが、ヤスミンの美貌が言葉に絶大な説得力を与えている。現にゲイラも口許を綻ばせ、満更でもなさそうにしている。

「そんな風に言ってもらうと、私も少し楽しみになってきたみたい」

「わあ良かった! ね、明日は一緒に街を歩きましょ。どこかで待ち合わせして」

「いいわね!」

 二人は、もう完全に友達になったようだ。なんだか僕だけ置いていかれたようで、心の中で苦笑した。曲がりなりにも僕は、ヤスミンの保護者のはずなんだけどな。

 でも、こんな風に扱われるのは別に不愉快じゃない。むしろ気楽で良いと思うくらいだ。それが僕の駄目な所だという自覚はある。

「何処に泊まってらっしゃるんですか?」

「駅ビルの上のビジネスホテルです」

「私は、父がここの別荘を持っているので、そこに滞在してるんです」

 こっちからは訊いていないのに、ゲイラは自分の宿泊先を口にする。こういうのは苦手だ。なんとなく押し付けがましいと思ってしまう。ただの話の流れで、そこまで気にすることじゃないのかもしれないが。

「別荘なんて素敵ね」

「小さいのよ。それに、買ったばかりで中は何もないの」

「ふぅん、そうなの」

 ゲイラの意味のない謙遜のようなものを、ヤスミンは軽く流した。その視線は、ケーキを運んでくるウエイトレスに向いている。彼女にとって重要なのは、そっちの方なのだ。

 そんなヤスミンを見ていると、これから先、どこへ行っても僕らは大丈夫なんじゃないかって気がするんだ。



「別荘地なんて、いつ出来たのかしら」

 ホテルの部屋に戻り、フロントで貰った街の案内図を眺めながら、ヤスミンが言った。

「前に来た時は無かったんだね」

「そんな話すら聞かなかった」

 僕も案内図を覗き込んでみる。見る限り、街の中心部からそれほど離れていない一区画に、いくつかの別荘がまとめて建てられているようだ。

「別荘ってのは、もっと風光明媚な所に持つもんだと思ってたな」

 この街は綺麗に整えられているけど、僕のイメージしている別荘地とは、ちょっと違う。

「きっと、これから造るんだと思うわ。いかにも、それらしい自然な景色をね」

「それって、なんか変じゃない?」

「この街は昔から、一生懸命、真面目に、変なことをしているのよ」

「なるほどなぁ」

 僕が感心してみせると、ヤスミンは笑って案内図を閉じた。

「明日から楽しみね」

「僕は少し気が重いよ」

 結局、本当にゲイラと待ち合わせの約束をしてしまったし、あのヒューイという男も、近くを彷徨ついてるはずだ。

「あの仮面とマント、気に入らなかった?」

「そうじゃないよ」

 なんて言ったらいいのか困っていると、ヤスミンはやれやれといった感じで肩を竦める。

「本当に引っ込み思案なのね」

「これでも、いくぶんマシになったんだ」

 以前の僕なら、この子がどう説得したって仮装なんかしなかったに違いない。

「それは分かってるわ」

「まぁ、逃げたりはしなから安心してくれ」

 一応、腹は決まっている。

「そんな子供じみたことされたら、笑っちゃう」

 言いながらヤスミンは、案内図を丁寧に折り畳む。

「晩飯はどうしようか。また街に出るかい? 人が凄そうだけど」

「このビルの中に、レストラン街があったよ」

「そうするか」

「名物料理でもあればいいのに。何故か昔から、それは創ろうとしないのよね」

 本当におかしな街だわ、と、ヤスミンは少し呆れたように付け加えた。



 レストラン街はホテルフロアの二つ下にあって、喫茶店は混んでいたが、夕食には早い時刻だったせいかレストランは割と空いている。

 ここでも店に入るなり、ヤスミンは従業員の注目を集めた。席に案内してくれたウエイターも、オーダーを取りに来たウエイトレスもやたらと嬉しそうで、高揚しているのが分かった。

 子供用のメニューを渡されて、ヤスミンがヘソを曲げるかと思ったが、逆だった。普通の食事にはあまり関心がなく、面倒臭そうに適当な物を頼むのが常な彼女が、目をキラキラさせて迷いに迷い、やっと選んだメニューが、よりによって『お子様ランチ』だったのには驚いた。けど、実際それが出て来た時、僕は「なるほど」と唸るしかなかった。

 そのお子様ランチは、粋で凝った盛り付けがされていて、まるでコース料理の一品のように気取った一皿になっている。これはヤスミンが喜ぶはずだ。

「次は、フライドチキンのセットを頼もう」

 まだ食べている途中なのに、ヤスミンは楽しげにそんなことを言う。

 僕は、自分が頼んだポークピカタにナイフを入れつつ苦笑した。この街のやり方を奇妙だとか滑稽だとか言っている割に、彼女は此処を堪能しているようだった。

 いつものことだが、ヤスミンさえ機嫌良くしていれば、僕は何も言うことは無いのだ。

「デザートも頼むんだろ?」

「あたりまえ」

 ヤスミンは、テーブルに立てられているピンク色のカードのようなものを、指でちょんとつつく。それがデザートのメニューなんだろう。この子は本当に抜け目ない。いつも身の回りに気を配っていて、あらゆるものに神経を行き届かせている。

 けど、僕だって、最近はそれほどポンコツじゃない。

 その証拠に、店の入口近くの席にあの男が居るのに、とっくに気付いている。ヤツは、僕らがオーダーを済ませた辺りに、妙なニヤニヤ笑いを浮かべながら店に入ってきた。もう女装はしておらず、地味でくたびれた服装をしている。端正な顔とブロンドがそれにそぐわなくて、異質な雰囲気を醸し出していた。あの顔ならウエイトレスが色めき立ってもおかしくないはずなのに、彼女たちはそっと眉を顰めただけだった。接客する態度も硬いのが、僕らの席からでも一目瞭然だ。

 僕は、何度か彼のことを話題に出そうとしたけど、その度にヤスミンに怖い顔をされている。もちろん、彼女もヒューイがそこに居るのを知っている。おそらく、僕が気付くずっと前から。

 ヤスミンは、この店が料理も美味しく気に入ったので、憂鬱な話はしたくないらしい。確かに、それが賢明だな。

 ゆっくりと食事を終え、ヤスミンはデザートを選び始める。

「レモンパイがあったら一緒に頼んでくれ。あとコーヒーと」

「あら、いいの?」

「え、なんで?」

「ううん…承知しました」

 笑いを堪えるヤスミンが不思議だったが、現物を目にして納得した。なんというか…デコレーションが非常に女性的なのだ。ポークピカタはごく普通の物だったので油断していた。

 本来なら素っ気ないほどシンプルなのがレモンパイのはずなのに…いや、パイそのものは別に特別なものではない。ただ、その周りに生クリームやらフルーツやらが添えられている。クリームは豪勢な搾り出し方だし、フルーツは凝った切り方をされていて、おまけにそれを食べる為のフォークまで華奢な造りで、金色の表面に繊細な模様が描かれているというシロモノだ。

 こんな物を目の前に置かれると、無粋を自認する僕みたいな男は固まってしまう。それでも必死に平静を装って食べようとしたが、フォークを持つ手がちょっと震える上に、無意識に小指を立ててしまって、赤面した。

 僕を気の毒そうに見ただけで、ヤスミンは何も言わないでいてくれる。彼女はけっこう思いやりがあって優しいのだ。

 ヤスミンは、生の果物と真っ白なクリームで美しく飾られた小さなホールケーキを注文した。二人前くらいだろうか、食べるのが勿体ないほど精緻な細工が施されている。女の子が甘い物に対して抱いている夢のようなものを形にしたら、こうなるのかもしれないな、と思った。

「いい店だね、ここは」

「本当にね」

 微笑み合ってデザートを味わっていると、あいつのことは自然に頭から消えていった。



 ゲイラとの約束は、朝の十時だった。少し早いような気もしたが、初日の人出は昼頃から増えるらしいので、その前が良いという事になったのだ。この分だと、昼飯も一緒に食べる流れになりそうだ。

 さほど親しくない人と食事をするのが、そんなに好きではない。デスギナフで初対面の観光客とテーブルを囲んだことがあったが、後で酷く気疲れしているのに気付いて驚いたっけ。そんな僕からすると、あまり歓迎したくない状況だが、すっぽかすわけにもいかない。

 身支度を整えて、約束の時間の二十分前に、僕らは部屋を出た。

 僕は全身黒ずくめ。仮面もマントも、中に着ているスーツも靴も黒一色だ。よく見ると全てが緑がかっているのだけど、不思議なことに、だからこそ一層全てがより黒く見える。

 対して、ヤスミンは真っ白だ。仮面やマントはフワフワとしたフェイクファーで覆われていて、それらを身に着けた彼女は仔猫のように見える。マントの下の簡易なドレスは象牙色で、上品だ。白い靴も履いているのだが、普通に歩かせていると、どうにも白が汚れてしまう気がして、最初から僕が抱きかかえることにした。

「大丈夫?」

 悪戯っぽく訊いてくるヤスミンに、ウインクしてみせた。見た目より、彼女はずっと軽いんだ。やはり人間ではないのだろうか。

 ホテルの廊下でもエレベーターでも駅前でも、僕らはひときわ目立った。他の人たちも殆ど仮装をしているのに、彼らはこっちを見てヒソヒソと何か囁き合っている。いたたまれない気分になったが、部屋を出る時にヤスミンに厳しく言いつけられたように、顔を真っ直ぐ上げてゆったりと歩いた。

 自信さえ持てば、僕の見てくれは自分で思っているより酷くはないそうだ。

 駅前広場の黄色いベンチが待ち合わせ場所だ。周りは祭りの参加者だらけで、子供も結構いる。

 子供たちは(特に少年は)僕に抱えられたヤスミンを、口を開けて見ていた。自分も同じようにしてもらおうと、親の所に走って行く子もいる。ヤスミンは、そんなのまるで気にしていない。というか、子供なんぞに全く関心が無いようだった。

「あのお店、モーニングも美味しかったね」

 すっかりお気に入りになった昨日の店で、早朝に食べたオムレツのセットを思い出したのか、ヤスミンはうっとりした口調で言う。

「君が普通のご飯をそんなに気に入るなんて、珍しいね」

「もうこの街では、あのお店以外では食べない。決めたの」

「お菓子は他の店のも食べてみたら?」

「そうねぇ…」

 ヤスミンが、悩ましげに小さな唇を尖らせる。まずは、あのピンクのメニューのデザートを制覇してからなんだろう。こうやって何かに夢中になってる様は、普通の子供と変わらないんだけどな。

「あ、来たんじゃない?」

 小さな手をすいと前に伸ばして、彼女が言った。

 指差す方に目を向けると、真っ赤な女がこちらへ歩いてくる。仮面もマントも、着ているスーツもツヤツヤと真紅に光っていて、随分と目立つ。しかも、かなりの長身。間違いなくゲイラだ。

 ゲイラは、ヤスミンが見立てた衣装に身を包み、決まり悪そうに猫背気味にセカセカ歩いている。僕がやめるように言われた歩き方だ。とてもヤスミンの美意識に適うものじゃない。案の定、僕の耳元で溜息が聞こえる。

 スーツのスカートの裾を気にしながらゲイラは、僕らの姿を見ると小走りに近づいてきた。あんなハイヒールでよく走れるもんだ。

「おはよう。私、変じゃない?」

 開口一番、不安そうな声を出す彼女に、ちょっと同情した。

「おはよう。とても似合ってる。なのに、なぜ猫背で歩くの?」

 昨日、打ち解けた時のままの距離感で、ヤスミンとゲイラの会話は進んでいく。

「癖なのよ。子供の頃から、この背丈をからかわれてきたからね。でも、あなたがそう言うなら、もうやめるわ」

「おはようございます。僕も、それがいいと思いますよ」

 余計なことを言ったかなと一瞬思ったが、ゲイラは大して気にしていないらしく頷いて、僕にも朝の挨拶をした。そして、僕らと自分の格好を見て、愉快そうに笑う。

「ね、私たち、すっごく派手じゃない?」

 同感だ。なにしろ赤と黒と白なのだ。しかも赤と黒は人並み外れて大きく、白は小さいながらもゴージャスだ。

 僕とゲイラだけなら、ただの笑える案山子にしか見えないのかもしれないけれど、ヤスミンの存在が僕らに何らかの役目を与えてくれるので、そう不自然ではないだろう。どんな役目かというと、それは護衛とか家来とか、そんなものなのだが。

 こんなの僕の性には合わないはずなんだが、相手がヤスミンだと嫌な気はしない。この子には女王然とした所があって、傍にいる者を気持ち良く酔わせてくれる。ひねくれ者の僕でさえ、こんな感じになってしまうのだから、ゲイラのような普通の女性が抗えるわけがない。今までヤスミンと関わった女たちと同じように。

「あなたったら、仔犬みたいね。今日はすっと、そのままでいるつもり?」

 ゲイラは柔らかく微笑んで、ヤスミンの頬を指先でつつく。

 仮面で顔を隠しているからだろうか、彼女の声音は昨日よりずっと砕けたものになっている。それが、僕にはちょっと重荷だ。

「私は歩いてもいいのよ。でも兄さんが、汚れるからダメだって言うの」 

「過保護ねぇ。でも、こんな綺麗な妹がいたら、私だってそうなるわ。もっと過保護になるかもね」

 きゃっきゃと笑う彼女らは本当に楽しそうだ。これは今日一日、三人で行動することになりそうだなと思った瞬間、ゲイラの体がガクンと揺らいだ。

「痛ッ!」

「おまえ、こんな所で何やってんだよ」

 ゲイラが小さい悲鳴を上げるのと、耳障りなザラついた声がしたのは同時だった。ハッとして、彼女を支えようと空いた方の手を伸ばすと、ゲイラの横に立っている、道化の衣装を着た男と目が合った。

 小太りなその男は、僕より少し年上に見える。彼は仮面を着けておらず、右手に持っていた。土気色の顔で、身長は僕やゲイラより低い。陰湿な目と薄い唇が、人を小馬鹿にするように笑っている。見るからに、お近づきにはなりたくない人物だ。

「兄さん、やめてよ! 痛いじゃない!」

 ゲイラが鋭い声を出したが、兄と呼ばれたその男はニヤニヤしているだけだ。そして、もう一度妹の脚を蹴り、また口を開く。

「昨日一人で出歩いてたと思ったら、もう男を見つけたのか。おまえも、もうすぐ三十だし、焦ってんのか? でも、いくらなんでも子持ちは無いんじゃねぇの?」

 口の悪い奴だ。おまけに品性も下劣ときている。凛として知的な美を持っているゲイラと血の繋がりがあるとは、とても思えない。

「私、子供じゃないわ。妹よ」

 禍禍しい空気を全く気にせずヤスミンは、ゲイラの兄の間違いを冷静に訂正する。

「あぁ?」

 威嚇の表情でヤスミンに目を向けた男は、固まった。半開きの口をそのままに、数歩後ずさる。

 理由は明白。ヤスミンが仮面を取って、ヤツを正面から見据えたからだ。こういう卑屈な人間は、この子の綺麗な緑色の瞳で見つめられるのは耐えられないだろう。自分の矮小さを思い知らされるから。

「兄が失礼なことを言って、ごめんなさい」

 男が怯んだ隙に、ゲイラは早口で僕らに詫びた。

「ゲイラさんと、ぜんぜん似てないのね」

 小さくなって恐縮している彼女が気の毒だったので、僕としては珍しく、男をどやしつけようとしたのだが、ヤスミンに先を越された。

 その一言で、男はハッキリと傷付いた顔をする。そして、ぶつくさ口の中で何かを呟きながら、フラフラと人混みの中に消えていった。

 あいつ、自分の容姿に少なからずコンプレックスを持ってるんだな。

「私、悪いこと言ったかな」

 白々しいヤスミンの追い討ちに、僕とゲイラは顔を見合わせて吹き出した。

「意外と繊細なんだな」

「そうね。私も知らなかった」

 また明るい表情に戻ったゲイラは、兄の名前はギヨームということ、兄妹仲は子供の頃から最悪なのだということを、愚痴まじりに教えてくれる。

「でも、父や母の前では、あんな口きかないの。ずるいのよ、兄は」

 世間ではいくらでも転がっている話だ。だからといって、当事者の苦痛が軽減されるわけではない。

「家を出てしまえば? あなたは立派な大人だ」

「ええ、もちろん考えてる。ただ、母が体の弱い人だから心配なの」

 ゲイラは、仕方ないというように溜息をついた。

 こんな祭りに来る元気があるのに? とは言わないでおいた。誰にでも、定番の言い訳というものは必要なのだ。それを奪い取って粉々にするなんて、そんな乱暴なことはしちゃいけない。

「ねぇ、いつまでこうしてるの?」

 ヤスミンが、退屈だと言わんばかりに足をバタつかせる。

「そうね、まず、どの出店を見物しようかしら」

「私、綺麗な物を売ってる所がいい」

「僕は何か珍しい物が見たいよ」

 てんでに好きな事を言いながら、歩き始めた。

 街一番の大通りはもう人でいっぱいで、それぞれが様々な仮装をしているから、賑やかなこと、この上ない。

 僕らは手軽な仮面とマントだけど、大抵の人はかなり凝った服装をしていた。ギヨームと同じ道化は、相当な数いる。王様や騎士、魔女やお姫様、動物に化けている者も沢山いる。

 頭に立派なトサカをつけて、全身羽毛で覆われた雄鶏は、なかなか面白かった。十七、八才くらいの少女の仮装だと思うのだが、歩き方や首の動きを上手にやっていて、ヤスミンは声を上げて笑っていた。

 街灯に取り付けられたスピーカーから、気分をときめかせるような、それでいて、うるさ過ぎない音楽が流れている。僕は、その曲は初めて聞いたのだが、ヤスミンは知っているらしく、子供らしい清らかな声で歌い始める。

 ヤスミンの歌は上手だった。僕は音楽のことなんてよく分からないし、流行りの曲を聴くことも無いのだが、耳に心地良い。僕らが使っているのとは違う言葉で歌っているのだが、その響きがまた素晴らしく美しかった。

「上手ねぇ」

 ゲイラは、うっとりとヤスミンの歌声に聞き惚れている。

 周囲の人たちも、何となく僕らに寄り添うようにして彼女の声に耳を傾けている。その中に、ヒューイもいた。キツネの仮装をしている。大きな耳が生き物のようにピョコピョコ動いているのは、どういう仕組みなんだろう。

 一通り歌い終わったヤスミンに、何人もの人が花やキャンディをくれた。

「ありがとう」

 彼女はにっこり笑って、それを受け取る。

 それからまた、通りに並んだ出店を冷やかして歩いた。女性たちが好きそうなアクセサリーの店はもちろん、何に使うのか見当もつかない鉱物を扱っている店もあって、わくわくする。

 小さな鉢植えをたくさん並べた花屋、毛皮を使った鞄屋、ランプ屋。駄菓子屋では袋いっぱいの菓子を買った。舌に色がつきそうな毒々しい色の飴玉が、ヤスミンの気を惹いたのだ。

「ガラス瓶に入れて飾っておきたい」

 と言って、陽気に笑う。

「私も子供の頃、やったことがあるわ。お日様が当たる所に置いておくとキラキラ光るのよね」

 ゲイラは懐かしそうに、同意する。そんなことをしたら溶けてしまうんじゃないかな、という野暮な僕の意見は、言わなくて正解だったようだ。

 密かにGSOも探してみたのだが、当たり前に、そんな物をわざわざ売っている出店は無かった。僕はその事に満足する。だって、あれはこんな華やかな場所で売られるべき物じゃないからな。時代に取り残されたような店の片隅で、埃にまみれている物であるべきだ。…なんてことを口に出したら、ヤスミンに呆れられる自信がある。

 様々な出店を覗いて、感嘆の声を上げたり何を買うか迷ったりしながら、その合間に、ヤスミンとゲイラは昼食をどうするかも話し合っていた。よくそんなに忙しく頭も口も回るものだと、感心することしきりだ。

 ゲイラはパスタとワインの店に行きたがっていたけど、ヤスミンはそれを強引に説き伏せて、例の駅ビルのレストランでのランチを了解させてしまった。本当にあの店が気に入っているんだなと、可笑しくなる。

「駅ビルのレストラン街なんて、ガイドブックでそんなに大きく扱われてなかったよ?」

「だから空いてて良いの。ちゃんと美味しいから大丈夫よ。それに、とっても綺麗なんだから」

 どっちが大人なのやら。

 その頃には、人の波は相当に膨れ上がっていて、駅まで戻るのには少々苦労したけど、気の荒いのに絡まれたりはしなかったのでホッとした。途中までヒューイの気配を感じていたが、チビのあいつは易々と雑踏に飲まれてしまったので、どうなったか分からない。

「そういえば…」

 駅が見えてきた辺りで、ゲイラが僕に話しかけてきた。

「ジードさんたち、いつまでこの街にいる予定なの? お祭りが終わったら、すぐに引き上げてしまうのかしら」

「いや、特に決めてはいないけど…」

 僕は答えて、ヤスミンを見る。君は、どうしたい?

「お部屋には、お祭りが終わる日までしか居られないのよ。ね、兄さん」

 ヤスミンは、ゆっくりと、そして名残り惜しそうにそう言った。

 確かに、ホテルの部屋はその日までしか取っていない。最初は数日だけの予定で、気が向けば宿泊を延長するのが、僕らのいつものやり方だ。

 ヤスミンの言葉を聞いたゲイラは、暫し考えてから、思い切ったように口を開く。

「あの、ね…もしよかったらなんだけど…二人ともウチの別荘に来ない? しばらく泊まっていくのはどうかしら。私、もっとヤスミンちゃんとお話がしたいの。さっき思いついたんだけど、あげたい物もあるし。そんなに高価なものじゃないから遠慮はいらない。私より、あなたの方が似合うと思うの。でも、あの…兄と顔を合わせたくないでしょうから無理にとは言わないけど…」

 一気にそこまで言って仮面を取り、僕とヤスミンの顔を縋るように見つめてくる。

 こんな展開になるんじゃないかとは思っていたから、驚かない。むしろ、ヤスミンの方から、ゲイラがそんな気になるように誘導があったんだと思う。だって、彼女はゲイラにとても興味を持っているからね、最初に会った時から。もしかしたら、兄貴の方にも。

「急な話だね。まぁ、とにかくゆっくり飯を食おうよ。でも、ちょっとお邪魔するくらいは、いいんじゃないかと思うな」

 我ながら百点満点の答えだったと思う。ヤスミンが微かに笑ったのが分かる。何故か自然と、僕の口許にも笑みが浮かんだ。

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