ボヒーク(1)
僕は薄暗い階段を上っている。その階段は石で出来た昔風のもので、螺旋状になっている。周囲を壁に囲まれた狭い空間だ。たぶん僕は、塔を登っているんだろうな。
自分の足音だけが、周囲に響いている。それなのに、何かが僕を追いかけて来ているのが分かった。そういうものだからだ。
つまり、これはいつもの悪夢で、僕はそれを知っているという訳だ。
いつもの悪夢ではあるけれど、こんなに閉塞感があるのは久しぶりだ。色が少ないのも気になる。でもまあ、夢には違いないので、僕はそんなに深く考え込んだりしない。
どこから差し込んでいるのか知らないが、ぼんやりとした光が照らしてくれる足元をじっと見ながら、階段を上り続ける。
この先にいるのはヤスミンだろう。なんとなく、そんな気がする。そこで僕は、怒られるのか褒められるのか、それとも何か用事を言いつけられるのか、それはさっぱり分からないが、とにかく彼女が上で待っているのは間違いないようだ。
追ってくる何かの正体が不明なのも、いつものことだけど、今日のは化け物ではないな、という気がする。少なくとも人型だ。けれど、顔は仮面で隠れている。派手なマントを羽織っているイメージがあるのは、仮装という言葉が頭に残っているからだろう。
僕はどんどん上って行く。自分の足音だけなので耳が退屈だな、と思った途端、音楽が聞こえてきた。次第に大きくなるそれが、どうやらオルゴールだと気がつく。音の質が完全にそうだった。曲名は知らない。初めて聞く曲だ。でも、それがオルゴールの音色だというだけで、どことなく懐かしい気がするのだった。オルゴールに親しんだ覚えもないのに、人間の感覚というものは不思議だ。
何度も繰り返されるメロディーの中、ひたすら上を目指す。いつ果てるとも知れない、長い長い階段を。
さすがに少し飽きてきたなと思ったその時、足元がグラついた。最初は階段が崩れたのかと思ったが、そうではないようだ。石造りだったはずが、グニャグニャと柔らかい物に変化している。
いかにも夢だが、醒めないうちはノンビリ構えてもいられない。怖いものは怖いし、気持ち悪いものは気持ち悪い。夢の中でだって僕は死にたくないから、いつだって必死に逃げるんだ。僕は、闇雲に上に向かって走る。さっきまで階段だった足元は不安定に波打っていて、その上、ぬるぬると濡れてきているようだ。そして、なんだか生臭い。
全速力で走りながら、僕は気付いてしまう。ここが、巨大な生物の食道だって。
本能的な恐怖が僕を襲った。にわかに息苦しくなる。自分の荒い息遣いが、酷くうるさい。僕の動きと反比例するように、オルゴールの音がゆっくりになってくる。だんだん遅くなる旋律が僕を焦らせ、息苦しさが更に加速する。
僕は上に向かっているが、果たしてそれが正解なのかどうか。なにしろ、殆ど何も見えやしないのだ。
息切れするように鳴っていたオルゴールも、ついに止まってしまう。まずい! 何故かそう思った。音楽が止まったからといって何が起こるのか、そんな事は分からない。とにかく、タイムアップだ、とだけ直感した。
そして、その考えは当たっていたようだ。頭の上で、バァン! と音がした。ゴムの厚い水風船が割れる音に似てる。
次の瞬間、両脚が空を泳いだ。体が宙に浮いている。
今まで僕の周りにあった物が、全て消えてしまっていた。反射的に何かを掴もうとしたが、無論それは叶うはずもなく、僕の両手は空しく握り締められるだけだ。
落ちていきながら必死に顔を上に向けると、真っ黒な空間に裂け目があって、そこから大きな瞳が覗いていた。それは緑色だった。
やっぱり、ヤスミンは『上』にいた。
とてつもなく気持ちの悪い浮遊感にまとわりつかれたまま目を覚ますと、そこは当然、眠る前と同じく列車のコンパートメントの中だった。
「起きたの?」
僕が顔を上げたのに気付いたヤスミンが、声をかけてくる。彼女は、備え付けのテーブルの上に広げたお菓子のカタログから目を上げもしない。そんなに気に入ったのか、と苦笑した。
起き抜けの頭は、まだ夢と現実がゴッチャになっていて、見てたなら助けてくれてもいいのになぁ…なんて、言いがかり以外の何物でもない文句をうっかり言いそうになる。
「僕、どれくらい眠っていたかな」
「そんなに長い間じゃないよ。まだ着かないから、ゆっくり寝ててよかったのに」
ここで、ようやくヤスミンは僕を見た。
「ゆっくりって訳にもいかなくてね」
「また悪い夢でもみたの?」
「まぁね」
「寝る前に、あいつの話をしたせいかしら」
「かもね」
そう応えたものの、夢にはヤツは出てこなかった。というか、思い出しもしなかったな。あまりにヤスミンが例の金髪男のことをクドクド言うものだから、却って意識から追い出してしまっていたのかもしれない。
この子が、注意しろというケースは、言う通りにしておいた方が間違いが無くて、それを疎かにしたら悪い事が起こるんだろうな、とは分かっているが、どうも、あの男のプロフィールが僕に危機感を抱かせないのだ。
自己評価が高く、そのくせコンプレックスが強くて、陰湿なのだが、考えが足りない。衝動的だけど、度胸があるかといえばそうでもなく、僕のような長身の男には怖気づく。実際に対峙した時もそうだった。嫌な奴ではあるが。
ただ、ヤスミンにあからさまに嫌われているにもかかわらず、消えない彼女への執着心は確かに問題だ。それに、なにしろ、あの男は人殺しなのだ。
しかし、人殺しという点では、僕がそれを恐れるのは今となっては滑稽だった。なにせ、それの大ベテランと行動を共にする道を選んだ僕なのだから。
あいつは、きっと同じ列車に乗っている、とヤスミンは言い、僕もそうだと思う。僕の前に姿を晒した以上、今までのようにコソコソと後をつける意味はない。
こちらからは話しかけるな、とヤスミンに注意されている。あいつは他人に構われるのが大好きなので、大喜びで寄ってくるから、と。
たぶん、彼の厄介さを、僕はこれから思い知らされるんだろう。
「そういえば、どこかでオルゴールが鳴っていなかった?」
そんな訳ないよなと思いつつ、なんとなく訊いてみると、意外な答えが返ってくる。
「さっき停まった駅のホームで鳴ってた。列車が到着した合図なんだと思う。とても大きな動物園があるってアナウンスしてたわ」
「へえ。今度行ってみようか」
「動物見るの好きなの?」
「うん。猿山の前に一日いたこともある」
「変わってるわね」
ヤスミンはケラケラ笑って、バスケットを開けた。
「ボヒークに着いたら、まずお菓子を買わなくちゃ」
バスケットを覗いてみると、確かに、だいぶ中の物が減っている。
「僕にも何かくれないかな。なるべく腹に溜まりそうなものがいい」
「ジードのために買っておいたミートパイがあるのよ」
冷えてしまった缶のお茶の蓋を開け、僕らは街に着いてからの計画を話し会った。
ボヒークに着いたのは、すっかり暗くなってからだった。まず宿をとって、どこかのレストランで夕飯を食べる…というのが、とりあえずの予定だ。
祭りのせいで混雑を予想していたけれど、当日までまだ日があるらしく、思っていたほどじゃない。
駅構内の案内カウンターで近場の宿の場所を尋ねると、運が良いことに、この駅ビルの最上階がビジネスホテルになっていて、ちょうどツインの部屋のキャンセルが出たところだという。値段も手頃だったので、さっそくチェックインした。
「日頃の行いがいいもんね」
エレベーターで部屋に向かう途中、ヤスミンが言うので笑ってしまった。
部屋は暗くて狭かったが、気にはならない。荷物が置けて、寝られればそれでいいのだ。
僕はキャリケースを部屋の隅に置き、ヤスミンは、バスケットをその横に置いた。貴重品は、いつものように備え付けの金庫の中に入れる。
ヤスミンは、持っている装飾品の中から、小さな、けれどとても綺麗な石のピアスを選んで身につけた。服や靴は、クラバース夫人に買ってもらった上等なもの。
「そのドレス、やっぱりよく似合うね」
「そうでしょ?」
にっこり笑う彼女と、手を繋いで街に出た。デスギナフほどではないが、やはり人通りは多い。目に付く人のほとんどが、身なりからして富裕層だと分かるあたり、ここも観光地なのだなと思わせた。
駅前は石畳が敷き詰められていて、きちんと管理されている木々や、洒落たベンチのある綺麗な広場になっている。十分な数の街灯が、夜にもかかわらず、広場を明るく暖かく照らしていた。
広場には、小さいが趣味の良い屋台がいくつか出ていて、行き交う人々は、思い思いにジュースやクレープを買って楽しんでいる。
同じ観光地ではあるが、デスギナフと違って、ちょっと気取った印象の街だ。そう思えるのは、風景に統一感があるからだ。植えられている樹木や、ベンチや屋台や街灯、どれもみな非常によく考えられた上で其処にある、という感じ。中でも凄いのが石畳だ。その上に立ってみると、よく分かる。全てが半透明のその石は、天然物なのか加工品なのかは僕なんかには判断つかないが、ツヤツヤと輝いていて表面には傷ひとつない。そうとう硬いのだなと思うし、良く手入れもされているようだ。きっと、毎日磨いているのだろう。
清潔感のある上品なデザインの制服を着ている若者が数名、あちこちに立っていて、手には箒と塵取りを持っている。
「ここは、ずっと前からこんな感じよ。徹底的に街の景観を管理しているの」
やや呆れている僕に、ヤスミンがこっそり教えてくれる。だから、ここにはデスギナフのようなスラムは無いのだ、とも。
とても息苦しく思えるが、それはそれで平和な街なんだそうだ。もちろん、彼女が前回来た時と変わっていなければ、の注釈はつくのだが。
駅前の屋台でドーナツを買って、美味しいレストランの情報を仕入れた。ホテルのフロントでも教えてもらったのだが、店名からしてかなり高そうな店を紹介されたので、もっと庶民的な所がないか尋ねてみたのだ。フロントでそう訊き直すのは、ちょっと恥ずかしかったので。
「多分、あのフロントの彼は、君の身なりを見て、それに釣り合った所を紹介してくれたんだろうね」
「私たち、ちっともお金持ちじゃないのにね」
小さなドーナツをあっという間に食べてしまって、ヤスミンはおどけたように言う。
ドーナツ屋のお姉さんに教わった店は、駅から少し歩いた所にあるオムライス専門店だ。彼女も、ヤスミンを見てその店を勧めてくれたのだろう。
駅前から離れると、人通りは殆ど無くなったが、沿道にも当然のように立ち並んでいる街灯のせいで道は明るく、心細さはない。店までの道すがら、ヤスミンはケーキ屋を見つけては喜んでいる。後で寄るつもりに違いない。
それにしても、ここはやたらとケーキ屋が多い街だ。いや、カフェをはじめとする飲食店も。それから、工芸品の店も多い。それぞれの店構えは、やはり趣味良く、無個性ではないけれど、全てが上手く噛み合うように造られている。ひとつとして違和感のある物は無い。
駅前広場から幾らか離れたこの通りにも、箒を持った制服連中が何人かいた。ここで仕事を探すのは楽そうだ。この様子じゃあ、清掃員が何人いても足りないだろう。
彼らは真面目に仕事をこなしていて、それが当然で、苦ではない様子だった。そして、皆一様に親切だ。旅行者である僕らに、何処へ行くのか、店まで案内しようか、などと話しかけてくる。
でもまぁ、これを単純に親切と言っていいものかな。僕には、どうも監視されてるようにしか思えない。ヤスミンも同じことを思ってるんだろうが、彼女は完璧に無邪気な子供を演じている。考えてみれば、ヤスミンはこういう状況のプロなのだから、当たり前だ。
夕飯時からやや遅れたせいか、オムライス屋は割と空いていた。僕らはそれぞれ違うソースのオムライスを頼んで、ヤスミンは抜け目なく、オススメのデザートは何なのか訊くのを忘れない。
レモンパイが無かったので、僕はデザートは注文しなかった。ヤスミンは、食後にと、フルーツパフェをオーダーする。
「お祭りは、いつからです?」
オムライスを運んできたウエイトレスに、尋ねてみた。
「二日後ですよ。これからどんどん人が増えてきます」
セミロングの髪をきちんとセットして、品の良い白と紺色の制服の彼女は、愛想良く教えてくれる。
注文を取りに来た時からそうだったが、彼女がヤスミンを見る目は遠慮がない。ヤスミンの容姿はもちろん、身につけている物の品定めをしているのだな、と僕にでも分かった。自分の事ではないものの、あまり気持ちの良いものではない。当のヤスミンはやっぱり慣れたもので、まるで気がついていない振りを通している。
「お祭りでは、仮装をするんでしょ?」
ぱくぱくとオムライスを食べながら、ウエイトレスに質問したりしている。
仕事中のウエイトレスを、いつまでも僕らのテーブルに引き留めておくのは気が引けたが、今は手が空いているらしく、祭りについて色々教えてくれた。
祭りの期間は、地元の者も観光客も、みんな仮面をつけたり奇抜な衣装を着て通りを歩き回ること。街中に華やかな電飾が飾られ、昼も夜も無くなるぐらい明るくなること。普段は厳しく制限されている屋台が、通りにズラリと並び、飲食店は一日中営業していること。だから彼女のように、その手の店で働いている者は祭りに参加できないのだ、と残念そうに締めくくった。
オムライスは、とても美味かった。マイロンで食べたようなシンプルなものの方が本当は好みなんだけど、本格的なブラウンソースを使ったものが、今の僕の腹具合には良く合っていたらしい。
「どこかで、衣装と仮面を手に入れないとね」
店を出て、ケーキ屋を目指して歩いていると、ヤスミンが言った。
「え、僕らも仮装するのか?」
「そうよ。じゃなきゃ、お祭りの日に街には出られないわよ」
「そうなの?」
「だって考えてもみなさい。自分以外の人たちが、みんな仮面をつけてる所に、素顔で入り込む勇気がある?」
「本当に皆なのか?」
「当たり前じゃない。それがしたくて、お祭りに来る人たちばかりなんだから。街の人たちだって、それで潤っているんだから精いっぱい盛り上げるわけだし」
「…なるほど」
まさか、自分が仮装なんてものをすることになるとは、思ってもみなかったなぁ。なんとなく見物する方だと信じ込んでた。
「君は素敵なのを買うといいよ」
「ジードは?」
「僕は、あまり目立たないやつがいいな」
「そうなの? つまんない」
ヤスミンは唇を尖らせるけど、僕よりも彼女を着飾らせた方がよほど楽しそうだ。
「あ、そうか。だからこの街は、民芸品を売ってる店が多いんだな。仮面をそこで買うんだろ」
僕の言葉に、ヤスミンは笑ってみせる。
「今頃気がついたの? 簡単な衣装なら、そういう店でも手に入るのよ。明日は早速探しに行こうね」
「分かったよ」
ヤスミンの口調から、それをとても楽しみにしているのが察せられて、ちょっと微笑ましくなった。女の子ってのは、買い物の予定があるとすごく嬉しそうになる。これはヤスミンを見ていて学んだことだ。そんな時は、その気分に乗っかった方が楽しいということも。
オムライスの店から一番近いケーキ屋に入った。鈴のついたドアを押し開けて店内に入ると、レジにいた店員の男が『いらっしゃいませ』と言ったきり、ヤスミンを見て口を開けたまま固まった。
大抵の人は、彼女を見てその子供らしからぬ美貌に驚くけれど、時々そこの彼のように、やや過剰に反応する者もいる。そういうのがヤスミンに余計なちょっかいを出さないように睨みを利かせるのが、僕の役割のひとつだと学習してきた。僕は全く強面ではないが、この図体と、決して明るいとはいえない雰囲気が、僕の人生で初めて役に立っている。
僕が、店員とヤスミンの間に立つと、彼はすぐに夢から醒めたような顔をして、わざとらしく咳払いをする。ヤスミンは軽く僕を見上げて口許だけで笑うと、すぐさま品物を物色し始めた。
この店は、売り物がケーキだけではなく、焼き菓子やキャンディ等も充実している。レジ横のショーケースには多種のケーキが並べられていて、華やかだ。パン屋でよく見るようなトレーが用意されており、ケーキ以外の物はそれに乗せてレジに持って行くらしかった。
僕らは、袋詰めになったマドレーヌやビスケットを選びながら、ケーキをいくつ買うか相談した。
「味見したいから、何種類か欲しい」
「でもナマモノだろ。まだ買い物するなら、ちょっと邪魔にならないか」
「今日はここでしか買わないから、だいじょうぶ」
他の店は、明日またゆっくりと見て回るのだと彼女は言った。目についた所ではこの店が一番大きかったから、とりあえず此処に来てみたかったらしい。
「じゃあ、レモンパイも一個試してみるかな」
「それがいいわ」
そう言ってチョコレートクッキーの袋を手に取ったヤスミンは、少しホロ苦いような笑みを浮かべて、こう続けた。
「あいつ、ずっとくっついて来てるわね」
誰が、とは訊かなくても承知してる。僕も、彼が常に近くにいるのに気付いていたからだ。姿こそ見えなかったけど、後ろから始終ハイヒールの音がしていた。僕らが止まれば止まり、歩き出すとまた足音がする、非常に分かりやすい。
「まだ女装してるんだなぁ」
思わず漏らした僕の呟きに、ヤスミンは堪え切れずに吹き出した。
買ってきたケーキは値段の割には平凡な出来だったが、ヤスミンは、当然のように五種類全てを平らげた。
「やっぱり日持ちしないお菓子は美味しいよね。そう思わない?」
甘い物を大量に食べてテンションの上がったヤスミンにそう訊かれるが、僕としては曖昧に頷くしかない。まぁ、彼女も答えて欲しいわけではないのだろうが。
缶のミルクティーを飲んでいるヤスミンの手には、仮装グッズを扱っている店のカタログがある。フロントから渡されたのだ。その店と、このホテルは契約を結んでいるらしく、ここに泊まっているからには、なるべくその店で買い物をしてもらいたいらしい。世知辛いことだ、と思う。
「でも、そんなに悪い趣味じゃないわよ」
ペラペラとカタログをめくりながら、ヤスミンが言う。
「へえ、そうなの?」
こういうのって、ぼったくりの粗悪品が当たり前かと思っていたが。
「さっき少し説明したけど、この街はちょっと変わってるのよ」
「そうみたいだね」
「私が初めて此処に来たのは、もう百年以上前のことだけど…」
と、ヤスミンは話し出した。
その頃は、小さな田舎町だったボヒークだが、デスギナフと違って、当時からこの地を観光地にしようと、街の人たちは考えていたそうだ。
しかし、海からも山からも遠く名産品も無く、余所の土地の人が関心を持つような祭礼も無いので、みんな困っていたらしい。
そこで、当時の村長が思い切った策を打ち出した。無ければ作ればいい、と。
ボヒークがこんな風になったのは、それが理由なのだった。つまり、街全体がひとつの作品なのだ。時代時代で最も人々に求められている雰囲気を、住民一丸となって創り上げているのだ。仮装祭も、その時に発案されたという。ヤスミンが前回来た二十年ほど前には今の街造りが始められていて、当時はまだ、ここまで洗練されてはいなかったそうだ。
そんな経緯で運営されている祭りなので、地元の者が少しでも悪どい事をして評判が落ちるのを、この街は非常に恐れているという。だから、提携しているとはいえ、ホテルが問題のある店を勧めてくるはずは無いらしい。
「お祭りを見たくなると、ここに来るの、私」
「前は、どんな姿になったんだい?」
僕の問いに、ヤスミンはわずかに眉をひそめる。
「この前は、ちょっと寂しい時期だったのね。だから、あまり思い出したくないの」
どうやら、あまり懐具合が良くなく、羽振りのいいパトロンにも、要領のいい相棒にも恵まれなかったようだ。
昨日の事のように悔しがる様子が気の毒で、つい言ってしまった。
「それじゃあ、今回は目いっぱい豪華にしないとね。なんたって、君は綺麗なんだから」
僕には似合わないセリフだったのか、彼女は目を丸くする。
「後悔しても知らないわよ?」
と、笑った。
まず、僕の衣装を決めてしまおう、とヤスミンは言った。
「大体のイメージは出来てるの」
彼女の希望としては、僕は黒いマスクに黒いマントが良いのだという。仮面にもマントにも、白か銀の糸で細かく縫われた刺繍があれば、言うことはないらしい。
「君は?」
「私は白がいい。それに赤い羽根飾りや金の刺繍があれば最高ね」
彼女はそう言うけど、僕には完成形がさっぱり思い浮かばない。
「もっと派手な方がいいんじゃない?」
でも、僕なりに思ったことを正直に言う。
「白って派手なのよ。ああ、でも、私は小さいから、それほどでもないかも」
例え仮装用の衣装であっても、自分の身を飾る物となると、女の子の買い物熱はいっそう高まるようだ。
「まぁ、僕は君の言う通りにするよ。それが間違いなさそうだからね」
「あら、あなただって、好きな小物のひとつくらい持ってもいいのよ」
最初に足を運んだ店はホテルから薦められた所だったが、確かに、品揃えも価格もサービスも、文句のつけようがなかった。が、肝心の子供用の白いマントが無かったため、そこで買い物はしなかった。
店主はヤスミンを見て、この子に店の衣装を着てもらえば大した宣伝になると踏んだのだろう、すぐに採寸して一日でマントを縫い上げると言い出したが、それは僕が断った。ヤスミンが目配せで、そうしろと言ったからだ。僕としても、そんな急ごしらえの物を彼女に着せるつもりはない。
悪評が立つのを恐れる街の住人らしく、店主もそれ以上しつこくはしなかった。もっとも、表情は未練たっぷりだったが。
昨日のウエイトレスが言っていた通り、駅前にも街道にも人が溢れている。手を繋いでは歩き難かったので、僕は、ヤスミンを抱っこすることにした。もちろん、彼女の承諾を得てからだ。
小さい体を右手で抱えて腕に座らせ、彼女は僕の首に腕を回す。いささか目立つが、周囲の視線は温かかった。
「お祭りの時も、こうしててもらおうかな」
ヤスミンもこの体勢が気に入ったらしく、そんなことを言い始める。
「それがいいかもね。すごい人混みなんだろ? 迷子になると厄介だ」
「ジードがね」
機嫌の良いヤスミンは、ポケットから飴を取り出し、僕の口に含ませてくれた。甘い。メロン味だ。
ヤスミンは二種類の飴を持っている。毒の飴と、甘い飴。
いつか僕も、毒の方を貰うのかな、と少し考えてみたけど恐怖は無かった。そもそも実感がない。僕はこんなに能天気な人間だったかなぁ、と思いつつ、次の店のドアを開いた。
ヤスミンを抱えたままだったので、店内の注目が僕に集まる。
「お客様、申し訳ありませんが…」
飛んできた店員が恐縮しながら、ヤスミンを下ろすように促してくる。それはそうだ。靴で商品が汚れたら困るだろうから。
「ごめんなさい。兄さん、私を下ろして」
ヤスミンがすぐさま謝った。僕も続いて詫びを言い、ちょうど良いので、その店員にヤスミンが希望している仮面と衣装の色や形を伝えた。
「ああ、お子様用の衣装はカラフルな物が多くて」
髪をひっつめにした真面目そうな中年女性の店員は、ヤスミンをじっと見て、頷いた。
「確かに、このお嬢様には、いかにも子供っぽい物は似合いませんね」
きっぱりとそう言い切って、ヤスミンの手を引き、たくさんの衣装がぶら下がっている店の奥へと連れて行った。当然、僕もその後をついていく。
店員は、そんな僕を振り向きながら
「お兄様の衣装は、ほぼ御希望通りの物を御用意できると思います」
と、頼もしいことを言ってくれる。店の商品のストックが、全て頭に入っているんだろう。
彼女は、ヤスミンをもう一度、上から下まで見て、大量の白い衣装の中から小さなマントを取り出した。ヤスミンの要望通りに、真っ白で金の刺繍が入っている。子供用とはいっても、布をたっぷり使った厚みと長さのある豪華な造りになっている。
「こんなのは、どうでしょう」
「素晴らしいわ!」
手渡されたマントを、ヤスミンは目をキラキラさせて受け取る。
「もし、よろしければ、似たような品がいくつかございます。ご覧になってはいかがでしょう」
「是非そうするわ」
二人は、まるで旧知の仲のように親密な雰囲気になり、あれこれと衣装を選び始める。こうなると、僕にはすることがない。
たぶん、店員の頭の中には僕に着せる衣装の候補が既に何点かあって、僕は、ヤスミンの言う通りの物を選べばいいだけだ。でも、その方が気楽だな、と安堵した。なにしろ、僕は服や靴を選ぶのが苦手なんだ。着てみたって、似合うか似合わないか、本当のところ判断できない。だから、二人の女性の意見に全面的に従う気でいる。
店員とヤスミンが、僕を意識から外したのが分かったので、僕は彼女らから少し離れて、店内を見回した。
祭りを明日に控えて、さっきの店もそうだったが、たくさんの人が衣装や仮面を選んでいる。家族連れやカップルらしいのが多かったけど、中には、いかにもお調子者っぽい男数人のグループもいる。みんな、とても楽しそうだ。こういう空気にはあまり馴染めない僕だって、幾らかウキウキしている。
だから、その女性は少しばかり目立っていた。そもそも、かなりの長身なのだ。服装と顔立ちのせいで女性とは分かるが、たぶん僕よりほんの少し低いだけの、つまり、大抵の男より背が高い。
そんな女性が、険しい顔で祭りの衣装を選んでいる。しかも、たった一人で。手には、紫色のツヤツヤした布を貼った仮面を持っていて、それに合うマントを探しているようだった。その様子は、ひとかけらも楽しそうに見えない。
僕と同じで、こういった事が苦手な人なんだろうかと思っていたら、目が合った。まずいな、と目を逸らそうとしたが間に合わず、彼女は何か決心したような表情で、黒と紫のマントを手に、僕に近寄って来た。
「あの…これ、どちらが良いと思いますか?」
思い詰めた表情で訊いてくる。
近くで見る彼女の髪は緑がかった黒髪で、瞳もそれと同じ色をしていた。僕とあまり年齢は変わらないようだ。唇が薄めなので、どこかしら冷たそうなのが、彼女を理知的に見せている。態度は控えめだが、その目つきから本来、かなり勝気な人に思えた。
「ええ…っと」
目の前で意見を求められて、僕はパニックになった。なんで、よりによって僕なんだ。女性が着るものを評価するなんて、百年も二百年も早い。だけど、彼女は僕の意見を訊きたがっている。どうしたらいい。
どっちが良いかなんて、僕には難し過ぎる質問だ。でも、強いていうなら…
「お姉さんには、赤が似合うと思う」
いつの間にか僕の横にいたヤスミンが、自信たっぷりの声で言った。
「え?」
長身の女は、ヤスミンを見て一瞬息を飲み、それから、ゆっくりと頬を染める。見知らぬ男に不躾なことをしたのに、今更ながら気付いたのかもしれない。
ヤスミンは、そんな彼女に全く頓着せず、言葉を続けた。
「だって、お姉さんとても美人だもん。背が高くてスタイルも良くて、すごく格好いい。だから、もっと綺麗に見えるものを着るべきだわ。暗い色は似合わない」
言われた彼女は、ハッとして自分の服装を見た。彼女が着ているのは、飾り気の無いグレーのスーツだった。
「本当に…そう思う?」
女は頬を染めたまま、ヤスミンに訊いた。
「もちろんよ。ねぇ、一緒に衣装を選びましょう。せっかくのお祭りだもの」
ヤスミンが微笑んだ。この笑顔に逆らえる人間を、僕は知らない。
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