ユートム
出発が早朝だったので、ヤスミンは列車に乗ると早々に眠ってしまった。寝ている間もしっかり抱えているバスケットには、クアスで買い込んだお気に入りの菓子が詰まっている。彼女は、このバスケットをいつも好きな物でいっぱいにしておくと決めたようだ。
僕も少し眠ろうかとも思ったが、二人そろって寝てしまっては用心が悪い。ヤスミンのバスケットの底には、お菓子に紛れて幾つかの貴金属が入っているのを知ってるし、デスギナフで買った僕のキャリーケースの中には金もある。
僕は眠気を誤魔化すため、車内の様子に目をやった。窓の外の景色は、どうにも眠りを誘うからだ。
早い時間だというのに、列車はそこそこ混んでいた。僕らはボックス席で向かい合わせに座っているのだが、ヤスミンの横には品の良いお婆さんがいて、この人は、僕らと一緒にクアスから乗り込んで来た。友達と湯治に来ていたが、自分だけ急用が出来て家に帰らなければならない、と残念そうに言っていた。
その老婦人も眠っている。ちんまりと席に収まっている様子は、まるで小猿のようで、なんだか微笑ましい。彼女もやっぱり、ヤスミンに菓子を献上していた。土産物袋の中からだったから、足りなくなるんじゃないかなどと余計な心配をしてしまう。この婆さんも荷物が多かったので、ついでにそれも見張ってあげることにした。僕はあまり親切な方じゃないんだが、ヤスミンと旅をしていると、何かと老人の世話になることが多く、どこかで借りを返さないといけないような気になっている。
隣のボックスは親子連れだ。僕と同年代くらいの若い夫婦と、ヤスミンより小さい女の子が大人しく座っている。夫婦は時々、お互いにしか聞こえないトーンの小声で話をしては微笑み合っていて、女の子も、モコモコしたぬいぐるみ相手にこしょこしょと何かを言っては頷いていた。親の真似をしてるんだろう。僕みたいな者にとっては眩しいような光景だ。
他にも、大きな荷物を携えた行商でもしているような小母さんやら、クラバースさんのような厳めしい格好をした紳士やら、派手な化粧の姐さんやら、本から目を上げない学生ぽい青年やら、雑多な人間たちが同じ箱に詰め込まれている。
天気は良く、車内は暖かで、のどかなムードが漂っていた。みんな朝が早かったんだろう、所々で欠伸が聞こえる。透明な朝の日差しに照らされる人々は、普段よりちょっとだけ善良に見えているに違いない。きっと、僕とヤスミンも。
僕らの目的地は、ユートムという街だ。聞いたことの無い所だが、それなりに大きな街らしい。ヤスミンは、かつて行ったことがあるそうだ。
また知り合いに出くわすんじゃないかと言ったんだけど、ヤスミンは、それに関しては大して気にしていないようだった。普通はよく似た別人と思うものだ、というのが、その理由だ。同じ人間が戻って来たなどと口に出したら、頭がおかしい人間だと思われる。実際、マスターだって言葉にはしなかったじゃないか、と。
ヤスミンが危機感を持っていないなら大丈夫なんだろうが、彼女だって全てを見通せるわけじゃない。僕もボンヤリしていてはいけないんだろうな、と思う。
昔のユートムは駅前に役場があり、周辺に食品や雑貨を扱っている商店、あとは農園と牧場があったそうだ。近隣の街が、ミルクやチーズ、農作物を買いに来ていた、とヤスミンは懐かしそうだった。それが数十年経つ内に、オフィス街に変貌したらしい。それが見たい、と彼女は言うのだった。この子は、そんな風に次に訪ねる街を決めている。いつだって用事らしい用事は無いんだ。お菓子は何処にだってあるし。
オフィス街に向かうにしては、停車する度に乗ってくる乗客に、勤め人らしい人はあまり居ない。通勤に使われているのは違う路線の列車なのだろう。少しずつ確実に席は全て埋まり、ちらほらと通路に立ったままの人も増えてきた。
さすがに周囲がザワついてきたので、ヤスミンが目を覚ます。小さい欠伸と伸びをして、僕を見てニコッと笑った。
「まだ着かないのね」
「もう少しだよ」
「少しお腹が空いたみたい」
ヤスミンは、ちらりとバスケットを見た。けど、見ただけで、中のお菓子を出そうとはしなかった。車内で物を食べるには人が多いと思ったんだろう。この子には、こういう大人びた所と見た目通りの子供っぽい所がごく自然に混在している。それが不思議だと思ったこともあったが、今となっては当然だと納得している。
「駅の近くの喫茶店にでも行こうか」
普通の食事よりパンケーキやパイを好むヤスミンのことを考えたチョイスだ。
「兄さんはそれで大丈夫?」
二人きりではないので、彼女は僕をそう呼ぶ。
「うん。昨夜から少しだけ胃が重くてね。軽食がいいんだ」
クアスで世話になっていた温泉旅館は、安宿のくせに食事が豪華…というか量が多くて、美味しかったんだが平らげるのに苦心した。残せばよかったのかもしれないが、頑張れば食べきれるくらいの絶妙な量を供してくるので、非常に残しづらかったのだ。ヤスミンは、フルーツなどをサービスされて、ご機嫌だったが。
なにしろ、滞在中、ヤスミンは常に旅館内のアイドルだった。誰も彼もが彼女を甘やかしたがったが、それが少々面倒だと、二人きりになるとヤスミンは笑った。
僕とヤスミンが、駅に着いたら何を食べるか、何を食べたいかを小声で話していると、隣の老婦人も目を覚まし、会話に加わってくる。老婦人はユートムのひとつ先の街に住んでいて、ユートムにも詳しかった。彼女はヤスミンが菓子好きだと知ると、評判の良いカフェをいくつか教えてくれる。
「お婆ちゃん、ありがとう」
礼はヤスミンの笑顔だけだったが、老婦人は満足そうだった。
列車がユートムに着き、僕らは彼女に別れを告げて、ホームに降り立つ。一緒に降りた客はそれなりにいた。彼らは急ぎ足で改札へ向かう。
向かいのホームは人がいっぱいだ。
人混みに突入する意気は無かったから、キャリーケースを引いてホームの端っこのベンチに移動した。途中、自販機でコーヒーとミルクティーを買う気になったのは、紙コップ式だったからだ。僕は、昔ながらの紙コップの自動販売機が妙に好きなんだ。
「ひとつだけ、お菓子を食べてもいい?」
ベンチに座るなり、ヤスミンが訊いてくる。
「僕にも何か小さいのをくれ」
「胃が悪いんじゃないの?」
「ちょっと甘い物を食べたい気分なんだよ」
駅のホームで紙コップのお茶、それに似合うのはビスケットかクッキーだろうな、と、ふと思ったんだ。
「ふぅん」
ヤスミンは理解不能って顔をして、バスケットの中から小さな焼き菓子をくれた。
「ありがとう」
それは少し硬めのビスケットで、歯を立てるとサックリと割れ、口の中で溶ける。
「これ、旅館のお茶請けに置いてあったやつだね」
「素朴だけど、美味しいわよね」
「そうだね」
「お土産屋さんに売ってた」
ホームにはポカポカと日が当たって、急ぎの用など無い僕らは、のんびりと日向ぼっこをする。とりあえず最初に行く店はもう決まっていて、パンケーキとナポリタンが美味しいらしい。
「そろそろ行こうか」
ヤスミンが食べ終わるのを待って、促した。僕はキャリケースを引き、ヤスミンはバスケットをぶら下げて改札に向かう。
切符を渡した駅員は、ヤスミンに見惚れて、いつまでも僕らの方に視線を向けていた。子供相手だから無遠慮になるんだろう。相手がそれを敏感に感じ取っていることなど、夢にも思わずに。
駅の構内から出た瞬間、ヤスミンは「わあ」と声を上げた。
「ぜんぜん違う街だわ」
その声は、殆ど感激してるように聞こえた。
ユートムの駅前で一番目立っているのは真っ白で大きな五階建ての建物で、後で知ったのだが、それは郵便局だった。他にはホテルやコーヒーショップ、書店や薬局が並んでいる。典型的な地方都市の駅前風景だ。
昨日まで居たクアスに比べて、空気が若干濁っている気がする。それでも結局、こんな所の方が落ち着くのは、僕がそれなりに都会育ちだからなんだろうな。
目的のカフェは駅傍にあり、老婦人の言葉通り、カラフルな看板が良い目印になっていた。完全に若い女性向けの店なのには参ったが。
ヤスミンはミニグラタンとパンケーキ、僕はホットドッグとレモンパイを頼んだ。飲み物は、いつものコーヒーとホットミルク。
オーダーしてウエイトレスが離れた途端、ヤスミンはクスクス笑う。
「なに?」
「またそれ? よっぽど好きなのね」
言われてみれば、クアスで外食をする時は、いつもこの組み合わせだった。田舎町の店には、僕が食べたいものがそれくらいしかなくて。水が良いせいか、コーヒーはとても美味しかったな。
「君こそ、ちゃんと食べるなんて珍しいね」
「ホワイトソースが好きなの。それに、グラタンには海老も入ってるでしょう?」
「ああ、なるほど」
ヤスミンは海老が好きなのだ。上等な物も安価な物も、海老と名がつけば何でも好む。お菓子以外での、数少ない彼女の好物だ。
モーニングサービスも終わっている時間なので、店内に客は数人しか居なかった。勤め人には見えないから、僕らのような暇人なのだろう。コーヒーやパフェをお供に読書をしたり、まったりと過ごしている。
僕らもゆっくりと食事をし、お茶を楽しんだ。ヤスミンは、追加でモンブランを頼む健啖ぶりを発揮している。
「どこか行きたい所はある?」
「そうねぇ…」
ヤスミンは少し考えて、とりあえず駅周辺を一通り見物したいと言う。
「それなら、ちょっと本屋に行きたいんだけど」
そうお願いすると、彼女は目を丸くした。
「読書の趣味があるとは知らなかった」
「そういう訳じゃないけど、列車に乗ってる時に、文庫か雑誌があれば良い暇つぶしになるんじゃないかと思って」
「それはいい考えね」
私も何か買おうかしら、と言ってもらって、ホッとした。なんとなく、この子は本に興味は無いんじゃないかと思っていたから。
腹も膨れたのでカフェを出て、本屋に向かった。
今まで立ち寄った街に比べると殺風景な町並みだけど、ヤスミンは別段つまらなそうな様子も見せず機嫌良く歩く。
カフェの数軒隣に、平屋だが敷地がやけに広い書店を見つけ、そこに入った。店内は明るく、通路もゆったりとってあって、見て回りやすそうだ。
僕らが入って行った時、反射的にこちらを向いた女性店員が、そのままヤスミンに目を奪われている。もう一人いた年配の女性店員は素早く僕らの傍に寄ってきて、ヤスミンに話しかけてくる。
「ご本を買いにきたの?」
「ええ、そうよ」
ハキハキと答えるヤスミンに、彼女は蕩けそうな笑顔を浮かべた。母性本能とやらが強い人なんだろうと思う。僕の方に何か言いたげな視線を送ってくるので、ヤスミンの面倒をみたいんだな、と察することが出来る。
僕では女の子の読みたい本など分からないから是非お願いしたい、というようなことをこちらから頼むと、彼女は胸を叩いて請け負ってくれる。ヤスミンが、僕を見て皮肉っぽく笑ったので、後で何か言われるのは間違いない。不器用な振りをして、けっこう人をおだてるのが上手いのね、とかなんとか。でもこれって、君みたいな子供を連れて歩いてる身にとっては必須の処世術だ。それを教えてくれたのは、他ならぬヤスミンのはずなんだけどな。
ヤスミンを店員に任せ、僕は小説コーナーに足を向けた。旅に持ち歩くのなら、小さくて邪魔にならない文庫本がいいだろう。
ヤスミンの言う通り、僕にはあまり本を読む習慣はない。けど、好きな本はある。それは、いま流行りのものやベストセラーではなく、昔読んでいた子供向けのSF小説だ。大人向けのものと違って科学的根拠などまるで無い荒唐無稽ばかりなのだが、その胡散臭さが好きだった。幼い好奇心を刺激する薄気味悪さも、こたえられないものがある。
今までは、たまに思い出しては頭の中だけで楽しんでいたが、この機会に読み直してみたい。と、思ってSFが並んでいる棚を見たが、いわゆる大人向けのものしか無い。僕でもタイトルを知っている有名作品も揃っていたが、僕が読みたいのはそれじゃないのだ。
がっかりしたが、ふと思い当たった。子供向け、なのだから児童書のコーナーにあるのではないか。自分のボンクラ加減に苦笑しながら、絵本や児童文学が置いてある棚を探して移動した。
散々探し回って、やっとレジの近くに児童書コーナーを発見した。お目当ての本はやはりそこにあって、しかも、思ったよりずっと多くのタイトルがまだ販売されている。僕は嬉しくなり、次々と本を手に取った。普通の文庫本より大きい型だったが、それでもよかった。挿絵も昔のままなのが、僕の購買欲を更に煽ってくる。
『ガキっぽいねぇ』
突然、背後で低い声がした。嘲るような気分の悪い声音だ。振り向くと、金髪で黒いワンピースを着た女性が、出口へ歩いて行く所だった。声は男性のものだったのに、それらしい男の姿はどこにもない。
なんだったのかな。僕の心の中に、子供向けの本を楽しむ自分を自嘲する気持ちがあって、それが聞かせた幻聴とか? よく分からないが、そんなとこだろう。
僕は、キャリーケースの大きさと相談しながら本を三冊選び、レジへ向かった。
「プレゼントですか?」
と尋ねられたので、曖昧に頷き会計を済ますと、ヤスミンが店員に付き添われてやってくる。手には大判の本を持っていた。
「気に入ったの、あったかい?」
ヤスミンが、ニコッと笑って差し出した本の表紙を見て、笑ってしまった。お菓子の本だったからだ。中を見せてもらうと、色々な国の菓子が美しい写真で載っていて、名前の由来や使われている材料などが書かれている。作り方が書いてあるわけではなく、カタログのようなもので、こんな本があるんだなと感心した。全てがカラー写真で、とても綺麗で、美味しそうに見えた。
「重たいけど、大丈夫?」
店員の女性は心配そうに訊いてくるが、ヤスミンは満面の笑みで、満足そうに何度も頷いた。
金を払い(本にこんな金額を出すのは初めてだった)綺麗なカバーをかけてもらったそれを、自分の本と一緒に丁寧にキャリーケースにしまう。
店を出る時に、シールのシートを貰って、ヤスミンは最上級の笑顔をサービスしていた。
「そんな物もらっても困るだろ」
書店からだいぶ離れた所で言うと、ヤスミンは肯定とも否定ともつかない笑みを浮かべ、バスケットにそれをしまいこんだ。
駅前から少し歩くと、こぢんまりしたビルが立ち並んでいて、窓や看板に様々な社名が書かれている。この街は、小さな会社がひしめき合っているようだ。
ヤスミンは、どんどん先を歩いていく。特にプランは無いと言っていたが、本当だろうか。
「私ね」
僕の気持ちを見透かしたように、彼女が口を開く。
「昔、ここにあった牧場で、しばらく暮らしてたことがあるんだ」
「牧場? へえ」
なんだか、君のイメージじゃないね。
「そこの小母さんに気に入られてね、その時一緒だったのは、あなたよりちょっと年上の女の人だったから、あまり警戒もされなかった」
ふぅん、そうなのか。
「楽しかった?」
「そうねぇ…まぁ楽しかったかな。みんな良い人だったし。でも、アレ…犬がいたのは嫌だったわ」
「ああ、牧場だものね」
「その犬、とても利口だったわ。だから、私にはちっとも近づかなかった」
「人間より動物の方が敏感だものな」
「そうなの? ほんと?」
ヤスミンは、心底意外だという顔をする。何でも知っているようで、そうでもないんだな。
そこでも、人を殺したのかい? と尋ねてみたい気もする。ヤスミンはきっと、気を悪くしたりはしないだろう。でも、止めておいた。
小さな交番の前にある街の地図の前でヤスミンは、ずいぶん長いこと立ち止まっていた。隅から隅まで地図を見て、ホゥと溜息をつく。
「本当に無くなっちゃったのね」
残念なのか、安堵なのか、その溜息の意味は、僕には分からない。
「何処かお探しですか?」
人の良さそうな巡査が、話しかけてくる。
「ここは昔、牧場と農園しか無かったらしいですね」
「ほう、よくご存知ですね。ええ、確かにそうです。もう大昔ですがね。農園も牧場も、持ち主が亡くなって後を継ぐ者も居なくてね、親族が土地ごと売ったって話です」
「そうなんですか。残念だなぁ、当時は良い所だったんでしょうね」
「そりゃ、自然がいっぱいで、のどかだったって聞きますね。あなた、どちらかのご親族ですか?」
巡査の目つきが疑わしげなものになりかかったので、慌てて否定した。
「いえ、僕の曽祖父が若い頃、少しお世話になったと聞いたことがあったのを思い出して、懐かしくなりました」
「ああ、そう」
彼は、僕とヤスミンを交互に見て、また表情を和らげる。
「そうだ。牧場のあった辺りには石碑のようなものが残っていますよ。よかったら、場所をお教えしましょう」
「それはすごい。ぜひ!」
巡査は、丁寧にも紙に地図を描いて場所を教えてくれたので、僕らはそこへ向かうことにする。
「私が思ってたことが、よく分かったわね」
ヤスミンが小声で褒めてくれたが、これだけ一緒にいれば、そのくらいはね。
街は碁盤目状にきっちり整備されていて、道筋はとてもシンプルだった。そこへ近づくほど建物は少なくなっていき、目的の石碑の周辺にはビルはひとつも建っていなかった。もっとも、建設予定地の立て看板は、そこかしこに立てられていたが。
石碑はごく小さく簡素なもので、彫られた文字は薄くなり、もはや読めない。ヤスミンは、その表面に小さな手を当てて、切ないような笑みを浮かべる。
「もう、そんなに昔のことなのね」
それは、果てしない時間を生きている彼女ならではの、感慨のこもった声だったと思う。
「気が済んだ?」
「ええ。ありがとう」
彼女はこんな風に、以前に訪れた街を再訪しているんだろうな。とりわけ、ここまで変貌してしまった所には。そういえば、デスギナフも昔はぜんぜん違っていたと言ってたっけ。
普通の人も、若い頃に行った場所を年老いてからもう一度たずねた時、その変わり様を悲しんだり寂しがったりする『楽しみ』を味わうものだ。ヤスミンの場合、それがとんでもないスケールなのだから、一通りの感傷ではないだろう。別格の趣味ではないか。
僕は普通の人間だから、彼女と同じ情緒を分かち合うことは出来ないが、他の人とは少し違う感じ方は出来そうな気がする。
「行きましょうか」
ヤスミンが、石碑から離した手で僕の指を握る。ひんやりと冷たい。
「もういいの?」
「うん。付き合ってくれてありがとう」
僕らは、来た道を戻り始める。
「次に来た時は、あれも無くなってるわね、きっと」
彼女はポツリと呟いたが、返事が欲しいわけではないと分かっていたので、黙っていた。
なんとなく満ち足りた気持ちで歩いていた僕は、僕らの行く手に誰かが立っているのに気付いた。最初は、その人が僕らを待っているなんて、思いもしなかった。この街に知り合いなど当然いなかったし、誰かに因縁をつけられる覚えもない。
近づくと、それが女性だと分かる。もっと近づいて、アレッと思った。もしかしたら、書店で見かけた女性じゃないかな。あの素晴らしい金髪と、変わった形のワンピースは見覚えがある。まぁだからどうということもないが、僕らの他に誰も歩いていない道に、さっき偶然会った女がたまたま居るってのは妙な気分だ。
何となく不吉な感じがするので、女の方を見ずに横を通り過ぎようとした瞬間。
「無視とは冷たいじゃねぇか」
あの声がした。書店でやにわに話しかけてきた、あの声が。思わず立ち止まって、女を見た。小柄な美人だ。が、その唇に、はっきりと分かる嘲笑を浮かべている。
ヤスミンの指に、グッと力が入る。
「ヒューイ…!」
低く唸るようなヤスミンの声。
「ひさしぶりだね、ムーンフラワー」
やはり、丸っきり男の声だった。なんてことだ、こいつは女装してるんだ。
「それは誰かしら」
突き放すようなヤスミンの物言いも、こいつには全く効いていない。ニヤニヤと笑いながら彼女に手を伸ばすので、僕は二人の間に立ち塞がった。
きっと、こいつが、ヤスミンの言っていた始末し損ねた元相棒だ、と直感で理解した。なので、あえて思い切り見下ろす格好になってやった。だって、長身の男が苦手なんだろ?
狙い通り、奴はちょっと怯む。舌打ちして僕らから離れた。
「ンな怖い顔するなよ。俺はさ、別にあんたに危害を加える気は無いんだ」
「信じられないね」
おまえ、人殺しじゃないか、と言おうとしてやめた。それを言ったらヤスミンだって人殺しなのだ。
「だって、あんたを殺っても、この人は俺んとこに戻ってはくれないでしょ? 同じ失敗はしないんだよ俺は」
ヒューイという男の目は、常人のものには見えなかった。真っ青で美しいが、危うさの方が勝っている。美形だが、どこか尋常じゃないこの男を見ていると身内がゾワゾワしてきたので、ヤスミンの手を引いて歩き出した。ヤスミンも同じ気持ちらしく、僕らはだんだん早足になる。
ヒューイは、当然のように後から付いてきた。そして、ずっと一人で喋っている。
「俺、前から君たちを付けてたんだけど、気がついてた?」
「あんた、本当にでっかいよなぁ。背丈どんくらい?」
「やっぱ女のカッコしてっと、さすがのムーンフラワーも、俺だって分かんなかったでしょ。本屋で、すぐ後ろ通ったのにさ」
「腹減ったな。なぁ、どっかで何か食わない? 奢ってやってもいいよ」
等々、彼の舌はべらべらと滑らかだ。ヤスミンは怒っている。
僕は、どうやってヒューイを振り切ろうか考えている。走って逃げることも考えたが、こいつは足が速そうだ。後ろから耳障りな声が絶え間なく聞こえていて、僕の思考力を削いでいく。
そろそろ人通りの多い街路へ出るという所で、ヤスミンが急に立ち止まった。
「消えなさい、ドンキー!」
彼女が鋭く言うのと同時に、ヒューイのお喋りが一瞬止まった。そして、
「その名前は、やめてくれって言ったじゃないか」
さっきまでとは打って変わった気弱な声がして、彼の気配が俄かに消える。
「まったく、鬱陶しい」
ヤスミンはプリプリ怒ったまま、また歩き始めた。僕も慌てて、それに続く。
「なに、どういうこと? ドンキーって?」
「あいつの本当の名前」
「ええ? じゃあヒューイってのは」
「芸名ですって」
「ははあ…」
まぁ、確かにあの顔でドンキーは気の毒だ。思わず吹き出す僕を、ヤスミンは振り返ってキュッと睨んできた。
「笑いごとじゃないの。とりあえずは退かせたけど、堂々と姿を見せてきたからには、これから暫く面倒なことになるわよ」
「そうみたいだね」
つい暢気な返事をしてしまった僕に、彼女は重ねて何か言おうとして、ふっと表情を緩める。
「まぁいいわ。あいつの事については、まだ少ししか話してなかったね。これから、じっくり聞かせてあげる」
「じゃあ、宿をとろうか」
「ここには、もう用は無い。どうせ、あいつに付きまとわれるなら、もっとマシな街に行きたい。もっと賑やかな所」
「なるほど、いいね」
僕らはそのまま真っ直ぐ駅まで行って、すぐに列車に乗り込んだ。次に向かうのはボヒークという街で、今は祭りのシーズンだという。
「みんな仮装をするのよ」
彼女の希望でとったコンパートメントの中で、ヤスミンは楽しげに言う。
「僕もしなけりゃダメかな」
「似合う衣装を選んであげる」
「仮装ねぇ…」
自分がそんなことをする羽目になるなんて、思いもしなかった。
「あの彼は好きそうだよな、そういうの」
「よく分かるわね」
そりゃ、あの女装は堂に入ってたからね。
「ねぇ」
「なーに?」
「ムーンフラワーって、君のこと?」
列車が動き始めるのと同時に、気になっていたことを訊いてみた。ヤスミンの眉間に一瞬で皺が寄り、緑色の目が僕を突き刺すように睨む。
「今度その名前を言ったら、後悔させてあげるわよ」
彼がつけた名前は、相当お気に召さなかったらしい。僕も、あれは頂けないと思うよ、と胸で呟いて、ホームで買った紙コップのコーヒーに口をつけた。
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