クアス

 冬なのに穏やかな日差しの、こんな日を小春日和というんだと、昔、誰かが教えてくれた。

 クアスに来てから数日が経つ。温泉地と銘打ってるだけあって、昔ながらの鄙びた風情が漂う街だ。薬効の高い温泉もいくつかあって、病気療養やリハビリの為の病院も建っている。

 ヤスミンが、この街を選んだ理由は分からない。訊いてみたが、ジードが好きそうだと思って、とだけ答えて笑っていた。どうだろう。

 こんな所に来るのは年寄りばかりかと思っていたが、そうでもないらしい。デスギナフに居たような若い女性客をちょいちょい見かける。若者向けの旅雑誌にたまに紹介されるのだと、訊きもしないのに駄菓子屋の主人が教えてくれた。

 この街の売りはレトロ風ということらしく、駅前には、僕が子供の頃によくあったような商店街があるのだが、建物はどれも新しく、いかにも演出という感じで少し興が削がれる。しかし、大半の温泉客は、そんなこと気にしてはいないように見える。

 ヤスミンは、数件の店を訪ね歩いてGSOが扱われていないと僕の代わりに憤慨していた。すっかり腑抜けになっている僕に、気を遣ってくれているのかな、と思う。

 僕らは安い温泉宿に宿泊していて、この運動公園に毎日来ている。

 ここには大きな人工池があって、色々な人たちが、その周りを散策している。ジョギングしている人や、リハビリのためか杖をついて歩いている人も大勢だ。

 その中に混じって、ヤスミンも散歩をしている。彼女の周りには、いつものように誰かがいて、楽しげに話をしている。僕は、池の周囲にいくつか建っている東屋のひとつから、その光景を眺めている。

 ベンチに座っている僕に、ヤスミンは笑いかけてくる。一周する度に、何回も。それに応えて微笑んでみせる僕の顔が、強張っていなければいいんだが。僕が君を怖がっているなんて、思われたくないんだ。

 デスギナフをどうやって出て来たのか、よく覚えていない。多分、ヤスミンが連れて来てくれたんだろう。彼女は、いつだってしっかりしているからな。

 みんな居なくなってしまって、マスターは寂しいだろうな。やっと会えたヤスミンも、また行ってしまって。

 今は、なんとなく分かるんだ。マスターは、ずっとヤスミンに恋してたんだ。

 ヤスミンは、僕がつけた名前だ。彼が初めて会った時、彼女は何と呼ばれていたんだろう。少し興味がある。

 この街に来た最初の日、ヤスミンは教えてくれた。彼女は昔から、こうやって旅を続けている。その横には、いつも誰かが居た。ごくたまに女性もいたが、大抵は僕みたいな若い男だったそうだ。理由は訊かなくても分かる。それが一番『便利』だからだ。

 叔父さんなんて居ない。目的地なんて無い。ヤスミンは、延々と旅を続ける。僕は、それに付き合う…付き添う? 本当かよ、という気がする。

 僕には出来ない、と言ったら、今までと何が変わるの? と返された。僕は答えられなかった。いざ言葉にしようとすると何も出てこない。だから本当は、彼女の言う通りなのかも。

 他の人からすると不思議に思うだろうが、ヤスミンが人殺しだということには、それほど衝撃は無かった。吐いたのは、大量の血を見たせいだ。あの子は最初から、自分は殺人鬼だと言っていた。僕が信じていなかっただけなんだ。

 管理人やクージョについては、可哀想だという気にはならなかった。気の毒なのかもしれないが、あのまま生きていても、それほど幸せな人生ではなかったんじゃないかな。なんて思ってしまうのは、僕があの二人を嫌っていたからだろう。

 でも、ネッキスたちについても特に強い感情は湧かなかった。かなりの親しみを持つようになっていたはずなんだが、もうその気持ちにも自信がない。彼らと交わしたはずの会話も、殆ど頭に残ってはいなかった。

 ネッキスが最後に教えてくれた、ヤスミンが宿屋の亭主の死に関係していたらしい情報は、もちろん覚えている。だが、それも、ヤスミンは最初から言ってた事だ。あれほど否定しておきながら僕は、ネッキスの話を聞いた時に、心の深い所で、それを受け入れ納得していた。

 僕は、ヤスミンが彼らの仇を討ったと思っているんだろうか。だから、彼女の行為に嫌悪感を抱かないんだろうか。その可能性を考えては、何度も打ち消した。ヤスミンは、そんな『意味の無いこと』はしないだろう。例え、彼女がネッキスたちを好きだったとしても。

 一瞬でも、僕がそんな考えを持ったのは、おそらく無意識にヤスミンを擁護しているからだと思う。なぜ人殺しの彼女を庇うのかって? ヤスミンを嫌悪しない自分への言い訳だ。

 目の前で殺す現場を見たはずなのに、現実感がまるで無い。ヤスミンの手際が、あまりに良かったせいかもしれない。ともあれ、大量の血だけは今後もなるべく見たくはないのだが…

 ここまで考えて、ふと気がついた。僕は、これからも彼女と一緒に行くつもりになっているようだ。

 本気か。と自問自答する。でも、一人になった自分がどうしても想像できない。僕は、ヤスミンに魅入られているんだろうか。魅入られる…なんて言葉が出てきたことが可笑しくて、つい口許が弛む。

「なにを笑っているの?」

 ヤスミンが、微笑みながら近づいてきた。さっきまで一緒に歩いていた老夫婦に軽く手を振る彼女は、見覚えの無い袋を持っている。また、お菓子でも貰ったのかな。

 この公園にはいくつも売店があって、この子は常に買い食いしている。甘い物なら、本当にどんなものでもいいみたいだ。

「いや、なんでもないよ」

 答える僕の隣に腰をかけたヤスミンは、袋から取り出した缶コーヒーを渡してきた。

「私の奢りよ」

 ちょっと自慢気な顔は、普通の少女と変わらない。

「訊いてもいい?」

「どうぞ」

 遊歩道に目を向けたまま、ヤスミンはドーナツを齧る。

「君は、どうやってお金を手に入れてるのかな。子供だから、普通に働くのは無理だし」

 かといって、ローズガーデンの亭主や公園管理人が邪推したような商売をしているとは思えない。当然、そんなことは口には出さないが。

「私、お金はあんまり使わないの。いつだって大人が出してくれるんだもの」

「そうか…そうだね確かに」

「でも、蓄えはある。独りになってしまう時だってあるから。私、物を貰うことが多いのよ」

 ヤスミンは言って、イヤリングを見せた。

「ああ、そういうのを売ってるんだね」

 彼女は頷く。

「もちろん、私にそれは出来ないから、一緒にいる大人に売ってもらうの」

「持ち逃げされたりしないかい」

「そんな相手は選ばないもん」

「…君は僕を選んだのかい? 誰でも良かったわけじゃなく?」

「そこまで無用心じゃないわ」

「自信があるんだなぁ」

 皮肉ったつもりは無かったが、睨まれた。そして、決まり悪そうに彼女は言う。

「しくじった事だってあるの。実を言うとね」

「え?」

 驚いた声を出す僕に、ヤスミンは呆れたように笑った。

「失敗しない人なんて、いないでしょ」

「でも、君はヒトじゃないよね」

 年を取らない人間なんて、いるわけない。

「人間じゃなかったら、あなたは何だと思う?」

「さあ…」

 気を悪くするどころか楽しげに訊いてくるヤスミンに、僕はお粗末な返事しか出来なかった。

 外見から言えば天使、行動から判断すれば悪魔、というのが座りの良い回答なのかもしれないが、僕には生憎、そういうものに対する関心や畏怖の念がまるで無く、そんな嘘くさい言葉は言いたくもない。

「ま、私にも分からないんだけどね」

 彼女は、あっけらかんと言う。

「親は、いるの?」

「いない…と思う。気がついたら、この姿で、この世界に居たの」

「独りで?」

「そう」

 仮に、僕がそんな境遇だったら…と思うと、恐怖しかなかった。何も持たず、何も知らない、自分を知っている人も誰も居ない。しかも自分は無力な子供だ。考えただけでゾッとする。

「大変だったね」

「そうでもない。すぐに話しかけてくれた人がいたから。みんな親切だった」

 ヤスミンの表情が幸せそうに緩んだので、興味を持った。

「その時の話を訊かせてもらっていいかい」

 彼女は少し笑った。

「みんな訊きたがるのよね。どうしてかしら」

「誰だって、そんな状況になったこと無いからね。単純に興味がある」

 と言ってから、違うな、と思った。僕もそうだけど、多分、皆それを訊いて安心したかったんじゃないかな。元気に生きている彼女を目の前にして変だけど、正直な気持ちだ。

 ヤスミンは、二つ目のドーナツを齧って温かい缶紅茶を飲みつつ、ポツポツと話してくれた。

 


 一番初めにヤスミンに話しかけてくれたのは、食堂の女将さんだったそうだ。気がつくと、その食堂の前に立っていたらしい。

 当時のヤスミンは、古びているが上品なドレスと靴を身に着けていた。

「とても暖かい日でね。たしか春だったと思うわ。その人は私に名前を訊いて、私が答えられないと、黙ってキッチンへ連れて行ってくれて、食事をさせてくれた」

「美味しかった?」

「あんまり」

 困ったような顔をして答える彼女は、まるで悪びれていない。

「そうか。君は元々お菓子が好きだったんだね」

「そうみたい。それが分かるのは、もう少し後になるけどね」

 一緒に出されたホットミルクは、とても美味しかったそうだ。

「その頃の私は、あまり上手に話が出来なかった。でも、周りで交わされる言葉は解ったの。不思議でしょう」

 それから三日ほど、ヤスミンは女将さんの所に世話になったという。

「最初に声を出すのは、ちょっと怖かったわ。喋れるという自信はあったの。けど、見てくれに釣り合う声じゃなかった時のことを思うと不安だった」

 驚くべきことだが、ヤスミンは、生まれた瞬間から自分の美しさを意識していた。着ていたドレスも靴も、それに見合ったものを誰かが用意してくれたのだと信じていた。

「その誰かって、誰なんだろう」

「知らない。でも、私のことをとても愛してくれていたと思うの」

 でも、それは親なんてものじゃない、とヤスミンは言う。

「綺麗な声も持たせてくれたんだね」

 それに、賢い頭も。

「もう名前も忘れたけど、石畳が素敵な街だったわ」

 ヤスミンは迷子として扱われ、当然ながら身元が分かる物を何も持っていなかったので、孤児院に送られたそうだ。

「あまり愉快な所じゃなかったわ」

 僕に訊かれる前に、ヤスミンが言う。

「そうだろうね」

 いつの時代かは知らないが、今だって碌な噂を聞かない。昔であればあるほど、環境は劣悪だったに違いない。彼女が味わっただろう苦痛を思うと、自然と顔が歪む。

「でも、そこには、ほんのちょっとしか居なかったの。すぐに引き取り手がみつかってね」

「ああ、なるほど」

 確かに、慈善家が育ててみたいと思うような子供だよね、君は。

「お金持ちの夫婦でね、優しい人たちだった」

「良かったじゃないか」

「だけど退屈だった。お菓子は一日一回で、ちゃんとした食事をしなきゃならなかったし」

「そんなお屋敷で出る食事なら、最高だったろ」

「お菓子の方が、もっと美味しかったのよ」

 そこでは腕の良い料理人を抱えていて、見た目も味も素晴らしい食べ物が毎日出て来たそうだ。奥さんは、理想の娘が出来たとばかりにヤスミンを飾り立てた。髪を可愛らしく結い、最新流行の子供用ドレスを着せ、靴も名のある職人に造らせたという。画家を呼んで肖像画まで描かせたというので、まだカメラが無かった時代なのかもしれない。

「それじゃあ、君の絵が今でも残っているかもしれないね」

「見たいの?」

「そこにあればね」

 僕のぞんざいな返事が気に入ったらしく、ヤスミンは、いつか連れて行ってあげると言った。ということは、何処かに飾られているんだろうか。いま場所を訊いても教えてくれないのは分かっているので黙っていた。

 大きな羽音がして、池に水鳥が舞い降りた。何という鳥なのかは知らないが、羽根をつくろう姿が堂々としていて美しい。それをカメラで写している観光客が何人もいる。売店で買ったらしいエサをやる者もいた。

「ねぇ、気付いてた?」

 ヤスミンが、不意に口を開いた。

「なにを?」

「あのクージョって子、ジードのことが好きだったんじゃないかしら」

「え?」

「ネッキスたちの家に居たあなたを見て好きになって、あなたを探すために街を彷徨ってたんじゃないかなぁ」

「やめてくれよ」

 そんなこと、いまさら言われても、どうしようもない。いや、元々どうにかするつもりなんて無いんだが。恋愛感情を向けられるというのは、それが誰であれ、心地悪さしか感じない。

「こういう話、苦手なのね」

「うん」

 素直に認める僕に、ヤスミンは優しい目を向ける。

「あの子、いっぱいお金を持ってたわ。彼らのかしらね」

「だろうな。ネッキスが、そんなこと言ってた」

「コインに付いた血は洗えばいいけど、お札に付いたのは、どうしようもないわね」

 その言葉で、ヤスミンが金を持ってきたのを知ったが、特に非難めいた気持ちにはならない。必要な者に渡っただけだ。

「大事に使うといい」

「そうするわ」

 ヤスミンは厳粛な面持ちで頷き、唇を軽く舐め、再び昔語りを始めた。話は、また屋敷に戻る。

 執事やメイドも、ヤスミンを気に入っていたようだ。今まで、この子と行動を共にしてきた僕には、その様子が手に取るように分かった。

 中でも、特に彼女に優しかったのは庭師の青年だったそうだ。

「あなたより少し年下だったかな。そういえば、ちょっと似てたわね。無口で、背が高くて」

「名前は?」

「忘れちゃった。昔のことだから」

「ふーん」

 ヤスミンは、その屋敷に半年ほどしか居なかったそうだ。

「家出したの。その庭師と」

 彼が、第一号の相棒だったのだ。

「どうして? 居心地は良かったんだろ?」

「だって、私、大きくならないのよ。同じ所にずっとは居られない」

「それも最初から知ってたのか」

「あの街の石畳の上で目を開いた、あの瞬間からね」

 なぜ庭師を選んだのか、なぜ庭師は躊躇なくヤスミンの言うことをきいたのか、それに関しては、彼女は何も言わなかった。僕も、特に知りたいとは思わない。これから先、必要なら改めて教えてくれるだろう。

 庭師との旅は、長く続いたようだ。手持ちの金が少なくなると、彼は仕事をした。

 宿は、ヤスミンの美貌を気に入った誰かの家に泊めてもらえることが多かったそうで、それは今でも変わらない。僕もこの目で見た通り、金持ちの婦人というものは昔から世話好きで、特に小さくて可愛い者には弱いらしい。ヤスミンの容姿に見合った貴金属や宝石を惜しげもなく贈るのも、この手の人たちだったようだ。

「それでも、全然お金が無くなっちゃう時もあった。初めて人を殺したのは、その時ね。相手は、上着の内ポケットに分厚いお財布を持ってたの」

 ヤスミンの声には、何の感情も込められていない。とてもシンプルで説得力のある動機だ。

「一人で?」

「そう。彼はそんなこと出来やしなかった。怖がりでね。私はそれを知ってたから、気付かれないようにしてたんだけど…」

 何度目かの時、遂にその現場を見られてしまった。

「彼は、なんて?」

「どうだったかなぁ…何も言わずに、その街を出た気がするわ」

「君からは離れなかったんだね」

「きっと誤解してたのね。私が身を守るために相手を…」

 そうか、そいつは、そうやって自分を納得させたんだな。つまり、庭師もヤスミンに嫌悪感を抱かなかったのだ。いや、この子の相棒になった連中は、全員そうだったに違いない。世の中に、道徳心の薄い普通の人間がそれなりにいるのを知って、気が楽になる。

「そんな誤解をしたせいか彼は、それまで以上に私を守ろうとした。それで怪我をしたの。もう動けそうになかったから、彼との旅はそこでお終いになった」

「…死んだのか?」

「たぶんね。心臓が止まるまで傍に居てはあげられなかったけど」

 ヤスミンは、ふぅっと溜息をつく。庭師の最期の姿でも思い出していたのかもしれない。

「それから、ずっと誰かと一緒に旅をしているんだね」

「そう。色んな人とね」

「僕は、つまらなくない?」

「面白いよ」

「そうかな」

「私が保証してあげる」

 陽が傾き、冷たい風が吹き始めた。

「そろそろ帰ろうか」

「うん」

 二人して立ち上がる。ヤスミンは、僕の手を軽く握ってくる。

「そうだ。もうひとつ訊いていいかな」

「なに」

「マスターたちと、昔、何かあったの?」

「ああ…そのこと」

 彼女の声が、不機嫌そうになった。

「管理人が言ってたの、どういう意味?」

「よくある話。お兄さんの方が、私のために人を刺したのよ。彼らがもっと若かった頃にね。事件の後、私はすぐに二人の前から姿を消したけど、多分、それで人生が狂ったのね。とても優秀で、将来を期待されていたのに」

「…そういうことか」

 管理人はあんな風だったけど、自慢の兄であるマスターが好きだったんだろう。その兄の未来をメチャクチャにしたヤスミンが許せなかった。兄の方が、いつまでもヤスミンを忘れられずにいるのも歯痒かったんだろう。

 マスターはヤスミンのことを憎むどころか、未だに恋焦がれていて、そのくせ、ようやく再会できたヤスミンに、ほとんど何も言えずにいた。ヤスミンが彼に素っ気なかったのは、今も昔も、彼女はそんなマスターが嫌いだったからなのだ、と思い至った。

「マスターに初めて会った時は、ケーキが一番好きだったんだね」

「そう言ったんでしょうね。覚えてないわ。だって、あの時の兄弟は、まだ二十歳にもなってなかったんですもの」

「そんな事があった街に、なんでまた行く気になった? 確かに君が好きそうな場所ではあるけど」

「昔のデスギナフは、ただの平凡な田舎だったの。もちろんドームなんかにも覆われていなくて。それが、あんな街になったって聞いたら、行ってみたくなるじゃない。それに…」

 ヤスミンは、一瞬言い淀んでから

「まだ生きてるとは思わなかったわ、あの兄弟」

 と、言った。僕はちょっと笑ってしまった。そりゃ彼らは老人だったけど。

「確実に死んでる歳でもなかったろ」

「そうみたい。自分が年を取らないから、そういうのの判断を間違えることがよくあるの、私」

 悔しそうな一言で、また笑いそうになったけど、堪えた。笑ったら、たぶん怒られてた。

 当時の相棒の話も聞きたかったが、あまりいっぺんに聞き過ぎても、僕の頭じゃ整理しきれない。どうせ時間はたっぷりあるんだ。

 僕らは、宿に向かってゆっくり歩いた。夕刻を告げる鐘の音が遠くで聞こえる。温泉街によく似合っている、そのノンビリした音は、聞く度に心を和ませられる。

「そうだ。これは言っておかないと」

 ヤスミンが、急に足を止める。

「なに?」

「ジード、あなた、命を狙われてるの」

「は?」

「あなたの前の前に選んだパートナー、失敗だったの。そういう場合、今まではちゃんと始末をつけてたんだけどね」

 ヤスミンが、とんでもないことをシレッと言っているが、そんな事はどうでもいい。

「僕が? 命を? なんで?」

「あいつが、私の『連れ』に返り咲くため、かしら」

「どういうこと?」

「私が、あいつを始末し損なったのが悪いの。こんなこと初めて。あなたの前の人は、あいつに殺された。ジードの居た、あの街でね」

「ああ、あの連続殺人犯も、君だったんだよね」

 僕は最高のマヌケ野郎だ。殺人鬼から逃れる旅を、当の本人としていたとは。僕があれほど恐れていたのは、そいつが正体不明だったからなんだな。

「それがね、少なくとも、私の他に、もう一人いたの」

 自嘲に耽り始めた僕を、ヤスミンの声が遮る。

「それが誰なのか、私も知らない。殺人鬼が二人もいたら、あんな騒ぎになるのは当然よ」

 急に思いも寄らない事実を打ち明けられ、僕は腰を抜かしそうになった。

「えっ、なに、それ、どうなってるの?」

 ヤスミンは口を尖らせる。

「知るわけないでしょ。私の仲間じゃないし。私だって、身に覚えの無い事件が次々起こってビックリしてたわ」

「そう…そうだったのか…」

 頭の悪い反応しか出来なかった。

「そんなことより、ね、ジードと一緒にいるようになってから、あいつは姿を消してるの。だから、差し当たっては大丈夫」

「でも、いい気分じゃないな」

 驚きはしたが、恐怖は感じなかった。ヤスミンの『大丈夫』という言葉には、それだけの説得力がある。

「あいつはね、背の高い男が苦手なの。自分がチビだから。前の人はそれ程でもなかったせいか、すぐにやられちゃった。悪いことをしたわ」

「油断したね」

「だって、まさか生きてるなんて思わなかったんだもの」

 むくれるヤスミンは、空になった袋を公園のゴミ箱に力いっぱい投げ入れる。

「どんな奴なんだい?」

「割と人目を惹く顔をしてるわ。目が覚めるような金髪でね。頭もいい。けど、最悪なの」

「どういうところが?」

 ちょっと聞く分には、僕よりぜんぜん役に立ちそうじゃないか。チビなんてのは大したデメリットじゃないだろう。

 ヤスミンは、怖気をふるうように顔を歪めた。

「あいつ、私を崇拝してるのよ。気持ち悪い」

「…なるほど」

 それは、かなり嫌だな。嫌な奴だ。

「今までは大丈夫だったけど、そろそろ姿を見せると思う。私も気をつけるし、あいつは、あなたみたいな長身の男性の前だと萎縮するから、逃げるチャンスはある。そのうち私が片をつけるから。悪いわね」

 しょんぼりと謝られて、恐縮してしまう。

「まぁ、とにかく宿に帰って飯を食おう。ここの料理は今の所どれもハズレ無しで、食事が楽しみだ」

 わざとらしいほどに大きな声を出すと、ここ数日間、体の奥に溜まっていたわだかまりが、全て吐き出されたような気がした。

「売店のお菓子も、地味だけど美味しいのよね。ここを出る時に、まとめ買いしていきたい」

 ヤスミンも明るく応じる。食事の前に、気が重い話はやめた方がいい。夕食のおかずの予想をしつつ、にぎやかに宿までの道を歩いた。

 歩きながら、もうひとつ訊きたいことがあったのを思い出す。

「ねぇ」

「なに?」

「君は、不死身なの?」

 僕の声は低くなったが、ヤスミンは明るい表情のまま答えた。

「分からないわ。まだ殺されたことはないもの」

「…本当に?」

 重ねて訊く僕に、ヤスミンは笑ってみせただけだった。

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