デスギナフ(4)

 ホテルの部屋では、ヤスミンは少年たちと顔を寄せ合い、何やら話し込んでいた。僕が部屋に入ると、全員が顔を上げ、空腹を訴えてくる。

 ここで一緒に食べると思っていたネッキスたちは、自分たちの夕食を僕から受け取ると、帰ると言う。

「ちょっとマスターに用事を頼まれてるから」

 ネッキスはそう言って、さっさと部屋を出て行ってしまった。

「さ、私たちもゴハンにしましょう」

 二人きりになるとヤスミンは、子供っぽい表情を消した。

「なにを話していたの?」

 訊くと、彼女は口の端だけで笑う。

「色々。でも要するに、管理人のお爺さんには近づくなって」

「…なるほど」

 三人は、管理人の危険性をヤスミンにどう説明したんだろう。彼らにとって、ヤスミンは何も知らない無垢な幼児なのだ。決定的な言葉を使わずに注意を促すのは、さぞ大変だったに違いない。

「ハッキリ言えなくて焦れったそうにしてた。気にしなくていいのに。私は慣れてるんだから」

 そうだな。この子は知ってる。

「でも、そういう訳にはいかないよ。それに、誰だって出来れば口にしたくはないだろ。その…あんな趣味のことなんて」

「そうね」

 僕まで口ごもるのがおかしいのか、ヤスミンはケラケラと笑って食事を続ける。公園で会った二人の事もあり、その日の晩飯はあまり美味いと感じられなかった。



 翌朝の朝食も、屋台村に行った。ホテルやレストランや、カフェより気楽なので僕としては大歓迎だが、ヤスミンも気に入っている風なのが意外だった。

 汁ソバとソフトクリームの屋台の兄ちゃんは、ヤスミンのことを覚えていて気前良くオマケしてくれる。

 隣のテーブルに座った老夫婦からは、ドーナツを半ダース貰った。ドーナツ屋のクジ引きで当てたが、年寄りには量が多く、困っていたらしい。

「それじゃあ、一緒に食べましょうよ」

 ヤスミンの無邪気な誘いに彼らは喜んで、小一時間、僕らはドーナツとお茶を楽しんだ。

 老夫婦が、列車の時間だと席を立った後も、僕とヤスミンは、ただそこにボーッと座っていた。どこへ行こうか何をしようか、という気にはなれなかった。

「そろそろ別の所へ行きましょうか」

 ヤスミンが、ポソリと呟く。それが、この街から出ようという意味だと、僕はすぐに理解した。

「もう見たい物は無いの?」

「また来ればいいのよ」

 その言い方で、彼女も、この街に湿った鬱陶しさを感じているのがよく分かった。

「それじゃあ、明日にでも出よう」

「そうね」

「今度こそ、叔父さんの所に行くんだよね」

「ええ、クアスに行くわ」

 彼女はキッパリとそう言った。けど、僕の顔を全然見ないので、不安になる。

「温泉の街なんだよね?」

「そう。静かな所よ」

 君はそこへ、いつ行ったんだい? という簡単な質問が何故か出来ずに、僕は黙ってヤスミンの横顔を見つめていた。



 街を去ると決めたヤスミンが最後にやりたいと言ったのは、やっぱり、お菓子の食べ歩きで、目についたものを手当たり次第に買っては、歩きながら食べている。行儀は悪いが、彼女のしたいようにさせておくのが良いのだと僕はもう学習していたし、周囲には同じようにしている観光客も割と居た。

 昼食も、ヤスミンは果物とクリームたっぷりのクレープで済ませ、僕は焼いたソーセージを巻いたそれを食べた。初めてだが、なかなか美味くて驚いた。そもそも、甘くないクレープがあるなんて事も知らなかった。

「これ、自分で作れそうだな」

「そう? けっこう難しいのよ」

 ヤスミンは愉快そうに笑う。

「そうかなぁ」

 こんなの、すぐに出来そうだけど。

 紙コップの自販機の横で、二人並んでお茶を飲みつつ行き交う人々を眺めている時間が、酷く贅沢なもののように思える。昨日から抱えていた重たい気分が徐々に晴れてくるのは、明日にはここを出て行くと決めたからだろう。我ながら単純だ。

「ねえ」

 ヤスミンが、ふいに声をかけてきた。

「ん?」

「あの子たちに、お別れを言うの?」

「そうするつもりだよ。世話になったし」

「そう…それがいいかもね」

 ヤスミンは結局、ネッキスたちとは打ち解けなかったようだ。でも、それも意外ではなく、この子からすると当然なのかもしれない。ヤスミンは、子供扱いされるのがあまり好きではないらしいので。

「今夜中に顔を見せておいた方がいいかな」

 なにしろ彼らは忙しいから。

「明日でいいわよ。お家に居なかったら、手紙を置いておけばいいわ」

「それでいいのかなぁ…」

 それじゃあ、あっさりし過ぎている気もするが、考えてみれば僕と彼らは友達ではないのだ。ヤスミンの言う通り、そのくらいが丁度良いのかもしれない。でも…

「あ、居た」

 考え込んでいる僕のシャツの裾を、ヤスミンが引っ張る。

「え。なにが?」

「あそこ」

 彼女が指を差す先に、ネッキスがいた。ニヤッと笑って、こちらへ近づいてくる。

「よう」

 手には、例の茶色の袋と大きなビニール袋を持っていた。ビニール袋は何重にもなっていて、重たそうだ。

「なんだい、それ」

「肉だよ。これからマスターの店に行くんだけど、一緒にどう?」

「またプリンを出してくれるかしら」

 僕が答える前にヤスミンが言い、ネッキスは、当然だと言わんばかりに頷いた。



 店に入ると、僕らを見たマスターは分かりやすく動揺した。昨日はそっちから話しかけてきたくせに、妙な人だ。

 ネッキスは老人に肉を渡し、例の奥の席へと僕たちを手招きする。カウンターの前を通る時に軽く会釈すると、マスターは硬い笑みを浮かべた。

「こんにちは。お爺ちゃん」

 ヤスミンは、ちょっと元気過ぎるくらいの声で挨拶する。しかし、笑顔はない。大抵の老人には愛想の良いヤスミンだが、マスターに対してはそうでもないのに今更ながら気がついた。何故だろうと少しだけ思ったが、ヤスミンのする事はいつだって何かしらの理由があるので、今回もそうなんだろう。それに僕だって、昨日からこの老人には何となく不信感を持っている。それをネッキスに悟られないように、昨日はどうも、などとお愛想を言いながら、僕らは席に着いた。

「私たち、明日、ここを出るの」

 オーダーをする前に、ヤスミンは言った。

「あ、そう」

 ネッキスは、少し面食らった顔でそう返した。

「世話になったね」

 僕の言葉に、ちょっと笑って見せる。

「いや、そんなことねぇよ」

 彼は余計なことは何も言わない。引き止める素振りもなく、突然の別れに慣れているのだな、と思わせた。わざわざこうやって挨拶をされるのも、滅多に無いのかもしれない。

 クージョに会った事を言おうと思ったが、少し考えてやめた。こいつだって、そんな話をされても困るだろうし。特に何をして貰いたいわけでもない。

「こないだと同じ物でいいだろ?」

 ネッキスは言い、僕らが返事をする前に、大声でオーダーを通した。

「プリンを忘れないで」

「マスターは心得てるよ。あんたら兄妹を気に入ってるみたいだし」

 ネッキスは言うが、気に入っているのはヤスミンだけなんじゃないかな。

「昨日、プリンよりケーキの方が好きだって言ってなかった?」

「うん。でも、ケーキは他に美味しい店があるもの。この後、またあそこに行きましょ」

「ケーキバイキングの店かい?」

「そうよ。あそこは素晴らしいわ。この街で一番素敵な場所かも」

 うっとりとヤスミンが言うのを、ネッキスは苦笑しながら見ている。

「他にも良い所はあるんだけどなぁ」

「私は、綺麗な物とお菓子が好きなの」

 ちょっと気取った調子のヤスミンの言い方は、彼女にとても似合っていて可愛らしい。

「俺がオススメのパイがあって…」

 彼女ほどではないが、ネッキスも甘い物が好きらしく、二人はしばらく菓子談義をしていた。

 そこへ、マスターが料理を持ってきてテーブルに並べ始めると、ヤスミンは口をつぐんだ。ハンバーガーの他に、彼女の前にはフルーツがたっぷりのプリンアラモードと小さなケーキが置かれたが、大した興味も示さない。マスターは明らかにヤスミンの反応を気にしていたけど、見向きもしない。

 そんなヤスミンの様子がネッキスは少し気になったようだが、なにしろ彼女が少々扱い難い子だと知っているので、僕に向かってやれやれと肩を竦めてみせただけだった。

 ネッキスが、僕らが明日、街を出て行くことをマスターに言うかと思っていたのだが、彼がそれを口にすることは無かった。

 食事が終わり会計をした後、マスターが、ヤスミンに小さな紙袋を渡してきた。女の子が好きそうなラッピングがされている。

「君に似合いそうなペンダントを見つけたものだから。よかったら貰ってくれないかい?」

 なるべくさり気ない風を装ってはいたが、表情には緊張の色があった。ヤスミンは彼の顔をチラリと見て、小さな手で袋を受け取る。

「ありがとう」

 真顔で礼を言い、深々と頭を下げた。老人の顔に、安堵と失望の表情が交互に浮かんで消えた。

 店を出た時、ネッキスが

「列車に乗る前に、時間あったら俺らの住処に顔出してくれない? あの二人にもお別れしてくれよ」

 と頼んできたので、必ず行くと約束をして別れた。

「開けてみないの?」

 ヤスミンが袋を無造作にポケットにしまうのを見て、声をかけた。ヤスミンは、スタスタと先を歩きながら、振り向きもしないで応えた。

「あとでね」



 ケーキバイキングの店では、スパでヤスミンの面倒をみてくれた女性三人組と再会してしまった。ヤスミンたちは喜んではしゃいでいたけど、僕は居心地が悪くて堪らなかった。それでも付き合わない訳にはいかず、コーヒー一杯とレモンパイ一個で、三時間ほど彼女らの食べ放題に相伴する羽目になった。

 僕みたいなのが居ると気になるんじゃないかと思ったが、そんな心配は全く無用のようだった。彼女らはヤスミンと楽しげにケーキを食べ、食べたものの批評をし、ときどき僕に話しかけ、そしてまた喋ったり食べたりした。とても楽しそうだ。

 僕も、だんだん彼女たちの会話を聞くのが楽しくなっていた。屈託のない話し声が、まるで音楽みたいに思えてきた頃、話が妙な方向に向いた。

「そういえば、昨日見た子は何だったのかなぁ」

 三人組の一人、眼鏡をかけた女の子が、ふと思い出したように言った。

「その話は、やめようよ」

 他の二人は、その話題が好ましくないのか顔を少し歪めて、眼鏡の子をたしなめる。

「そうだよ。私、早く忘れたいんだから」

「ごめん、そうだよね」

 彼女たちの表情が酷く暗くなったのが気に掛かり、尋ねてみる。

「何かあったんですか?」

「あ、ごめんなさい。なんでもないんです」

「でも、気になりますよ」

 食い下がってみると、実は彼女らも吐き出したかったのか、小声で教えてくれた。

 三人はコテージに泊まっているのだが、昨日の真夜中、庭先に白っぽい服を着た人影を見たという。薄暗い街灯の下、どうやら少女らしいその人物は、荒れ果てた長い髪とボロボロのワンピースで、何をするでもなく一時間ほど突っ立っていたそうだ。

「もう気持ち悪くて…朝、管理人さんに言っても、なんだか要領を得ないし…」

 彼女たちは、それを幽霊か何かだと思ったのだろうが、僕はすぐにクージョだと判った。

「それ、きっと浮浪児ですよ。この街にはそういう子供が多いんです。リゾート地にそんなのが居るってお客さんに知られたくないから、とぼけてるんでしょう」

 僕の言葉に、彼女たちはホッとした顔をした。やはり、この世のものではないと思っていたらしい。

「そうかぁ…だったら食べ物でもあげたら良かったかなぁ」

 一人の子がそう言ったけど、クージョを間近で見ずに済んで幸いしたね、としか思えなかった。

 少しの間、僕らのテーブルに沈黙が訪れた。気が重くなる上、簡単にどうこう口を出せない類の事柄だから、それも仕方ない。

 沈黙を破ったのは、ヤスミンが皿にフォークを置く音だった。

「ミルクティーが飲みたい」

 ちょっと大袈裟なくらい子供っぽい声で言う。三人の女性達は、その声に救われたような顔をして、ヤスミンの言葉に同調した。

「あたしはレモンティー」

「久々にクリームソーダ飲みたいなぁ」

「お兄さんはコーヒーよね。持ってきてあげる」

 元気よく立ち上がり、彼女らは飲み物を取りに行ってくれた。

「…けっこう広いのね、活動範囲」

 ヤスミンが、小声で呟く。

「え?」

「クージョって子よ。観光客の前にも出てくるんだ」

「え?」

「もっと引っ込み思案なのかと思ってた」

「…君は、あの子に興味があるの?」

 意外だった。だって、君、今まで全くそんな素振り見せなかったじゃないか。

「気になってはいたわ」

「なんで?」

「あなたも気にしてるじゃない。私が気にしちゃいけない訳でもある?」

 こうやって僕をからかう時のヤスミンは、大人みたいな表情と口ぶりだ。

「いや、無いよ」

「まぁいいわ。この話は後でね」

 女性たちが戻って来たので、ヤスミンはその話を強制的に切り上げる。そして、澄ました顔でまた子供の表情に戻った。



 店を出て三人組と別れた僕らは、特に目的もなくモールをぶらついた。好きなだけケーキを食べたせいか、ヤスミンは機嫌が良かった。

 僕と手を繋いでニコニコと歩いている彼女に、何人もの人が微笑みかけてくる。中には、ヤスミンの写真を撮りたいと言ってくる人もいた。中年の上品そうな夫婦で、奥さんの方はもう手にカメラを持っていて、ヤスミンのことを、こんな綺麗な子は初めて見た等、口を極めて褒めた。少女モデルでもしているのか、とも。そういえば、あの三人組もそんな事を言っていたような気がする。

 彼らの熱心さとは裏腹に、ヤスミンは僕の後ろに隠れてしまい、夫妻とは目も合わさなかった。こんな風にはにかむなんて彼女らしくないと思ったが、写真が嫌いなのかもしれない、と僕から丁寧に断りを入れる。夫妻は酷く残念がって、何度も僕らを振り向きながら去って行った。

 僕はちょっと悪いことをしたような気になったが、ヤスミンは、彼らの姿が見えなくなると、また陽気に歩き始めた。

「写真は嫌い?」

「撮られるのはね」

「ふーん」

 僕と同じだな。でも、君はそんなに綺麗なのに。などと考えながら、彼女の後を付いて行く。

 洋服屋やアクセサリーショップや靴屋や、色々な店を覗いたけれど、僕らは何も買わなかった。最後に、屋台村で料理をテイクアウトした以外は。

 その屋台村で、あの子に会った。クージョだ。さっき話を聞いたばかりで、なんて偶然だ。とっさに表情が強張りそうになり、慌てて顔を背けた。

「来るわよ」

 ヤスミンが僕の手を引いて、小声で言った。

「え?」

 前を見た。クージョが、僕に向かって真っ直ぐ歩いて来る。風が吹いて、いつも前髪で隠れていた顔がハッキリと晒された。明るい陽の光の下で、充血した目が僕を睨んでいる。

 彼女の動きは恐ろしく速く、あっという間に僕に体をひっつけてきた。

「こんな所にいたのか」

 クージョの声はしゃがれていて、とても女の子のものとは思えない。

「なんだ、私たちを探してたの」

 ヤスミンの声音は、あからさまに挑発的だ。クージョは、ハッとヤスミンの方に目をやった。考えられないことだが、この子は明らかに、今の今までヤスミンに気付いていなかったのだ。

「なに、おまえ」

「あなたこそ、私の兄さんに何か御用なの?」

 クージョは、しばらく僕とヤスミンの顔を交互に眺めた後、唇を歪めて笑った。思わず目を背けたくなるほど醜い顔だった。

「嘘。おまえらが兄妹のわけない。あたしはね、そういうの判るんだ」

「それはすごいわね」

「おまえは、もっと金持ちの爺にでも食いつけばいいのに。バカなんだな」

 少女たち二人の会話の声は、低くて小さい。そのせいで、余計に薄ら寒くなる雰囲気があった。

「あなただって、綺麗な服を着れば、そうなれるんじゃない?」

 無邪気を装ったヤスミンの一言に、クージョは目を剥いた。顔に血が昇って赤くなり、コメカミや額に血管が浮いてくる。

「…殺してやる」

 歯軋りをするように、クージョが呪詛の言葉を吐く。

「ナイフで? それとも銃? そんな勇気あるかしら」

「おい…」

 さすがにヤスミンを窘めた。僕の態度に、クージョは何故か酷く傷ついた表情をして、屋台村の外に駆け去った。

「弱いのね」

 ヤスミンは呟いて、僕に夕食を買うように促し、二人の少女の毒に当たった僕は、それに大人しく従った。

 ホテルへ戻る道すがら、何度かクージョの話をしようとしたが、ことごとくヤスミンに拒否された。

「私たちには関係ないの。忘れちゃいなさい。彼女をどうにかしてあげるつもりは無いんでしょう?」

 そう言われてしまうと、黙るしかない。確かに、クージョのことをどうこうする気はなく、ただ、ああいう子を見て見ぬ振りをする罪悪感があるだけなのだ。僕は彼女に全く好感を持っていないのに、不思議なことだ。

 僕は、自分には似合わない正義感じみたものを恥じて、クージョのことを頭の中から追い出した。



 ホテルの部屋で、持ち帰った夕食を食べたヤスミンが軽く欠伸をした。

「疲れた? 早く寝た方がいいかもね」

「その前に、お風呂に入る」

 そう言って風呂場に向かう途中、ふと、こちらへ向き直る。

「そうそう。忘れてたわ、これ」

 ポケットに手を入れ、小さな紙袋を取り出す。そういえば、マスターにそんな物を貰っていたな。

 ヤスミンは、僕をチラリと見ると雑な手つきで袋を開け、テーブルの上にペンダントを落とす。細い金鎖のついたロケットで、母親がそういうのを持っていたような気がする。

「ずいぶん昔の物ね」

 ヤスミンはつまらなそうに言い、ロケットを手に取ることもなく、風呂場に消えて行った。

 僕は何となく気になって、ロケットを掌に乗せた。確かに、かなり古い物のようだ。その証拠に表面のレリーフや鎖がけっこう汚れている。マスターは、これを骨董屋で手に入れたんだろうか。もしくは、前から自分で持っていた物なのか。

 ロケットを開けたのに、大した理由はない。蓋があるから開けた。ただ、それだけだ。何かが入っているなんて、全く考えていなかった。

 けど、そこには写真があった。セピア色の、非常に古いものだ。その写真はややピンボケだったし、あまりに古くて傷んでいた。だが、そこに写っているのが、とても綺麗な少女だというのは分かった。そして、僕はその顔を知っていた。ヤスミンだった。



 そんなはずは無いんだ。ヤスミンは子供だし、写真の少女も子供だ。見る限り、年齢は同じくらい。

 写真は古い。とても古い。絶対に、最近撮ったものじゃない。別人だ、と思うのが合理的な考え方だ。けど、こんなに綺麗な人間がもう一人? たとえ、それが過去の人でも。

 不思議と、ヤスミンの母親ではないか、とは思わなかった。一番最初にそれを思いつきそうだったのに。同じ形をした別のもの、ではなく、全く同じものにしか、僕には見えなかった。

 写真を見てしまったことを、僕はヤスミンに言えなかった。多分、彼女はこの写真を見て欲しかったんだと思う。それはなんとなく分かった。

 何故これをマスターが持っていたのか、大事にしていたのであろうロケットを、どうしてヤスミンに渡してきたのか。ヤスミンは、これをどうしたいのか。考えようとしても、頭が働かない。僕は混乱していた。

 一晩経っても、相変わらずだった。眠れないまま朝になり、ホテルをチェックアウトし、もう馴染みになった屋台村で味のしない朝飯を食べ、ネッキスとの約束を守って、彼らの住処に向かった。

 僕の様子は明らかに変だったと思うが、ヤスミンはそれには全く触れず、いつものように話しかけてきた。僕はちゃんと受け答え出来ていただろうか。

 ヤスミンは機嫌が良かった。昨日もそうだったが、今日は起き抜けから笑顔を絶やさない。ふんわりと優しげな笑みを浮かべるヤスミンは、いつにも増して可愛らしく、柔らかい雰囲気をまとっていたが、僕はなんだか恐ろしかった。彼女が出した『宿題』の答えが、僕にはさっぱり分からなかったからだ。

 バーガーショップのマスターとヤスミンは、何らかの関係がある…のだろうか。でも、あったからといって、それがどうだというのだろう。ヤスミンがあの老人に何か用事があるのなら、とっくに行動を起こしているはずだ。いや、そんな事はどうでもいい。

 ヤスミンがこんな謎かけをしてきた理由は、彼女の事情がどうこうではなく、僕が彼女に対してどう行動するか知りたいからに違いない。長いこと考えて、ようやくそれを理解した。けれど、材料が少な過ぎる。僕が見落としているだけなのか?

 スラムに行くために公園を歩いていると、噴水の所に管理人がいた。相変わらず嫌な目つきで僕らを見ている。寝不足で、別の事に気を取られていた僕は、モロに不快な表情をしてしまったんだろう。奴は、凄い形相でこちらに近づいて来た。額に血管を浮かべ、僕を怒鳴りつけてくる。

「なんだそのツラは。あんた、俺があの子の客なのに何か文句でもあるのか」

 最低なセリフだ。しかし、こうやって噛み付いてくるところをみると、この男も多少の罪悪感はあるらしい。

「別に…どうでもいいですよ」

 こんな奴を真面目に相手にしたくなかったが、僕の態度はますます老人を激昂させた。

「上品ぶってんじゃねぇよ。テメェだって、イイ思いしてんだろうが。こんな綺麗な子と一緒にいて、妙な気を起こさないわけねぇだろ! まともな男なら…」

 管理人の言葉の途中で、ヤスミンが声を上げて笑った。妙に冷たい声だった。彼女は真正面から老人を見つめ、波打つ髪をクルクルと指先に巻きながら

「ちっとも変わらないのね。あなたも、お兄さんも」

 と、言った。管理人の顔が、一瞬で真っ青になる。全身が震え始め、薄い唇がパクパクと動いた。

「おまえ…やっぱり…」

「まさか、二人とも生きてるなんてね」

 言い捨てて、ヤスミンはスラムに向かって歩き出した。僕も後に続く。管理人のことなど、もうどうでもよかった。

「なぁ、どういうことだ?」

 ヤスミンは、恐ろしく早足だ。僕の息が切れてしまう。

「説明がいるの? 考えなさい」

 その声は楽しげだ。顔は見えないが、きっと笑っている。

 僕が、いま持っている情報を総合すると、たった一つの答えが導き出される。あのロケットの写真は、やはりヤスミンで、マスターと管理人の兄弟に、彼女は会ったことがあるのだ。しかも、彼ら兄弟がずっと若い時に。つまり、彼女は、子供の姿のまま、年を取らない、人間なのだ。いや、人間なのか?

「…君は…なんなんだ?」

 混乱しきった頭、かすれた声で、やっと訊いた。

 ヤスミンが振り返って僕を見る。その目が大きく見開かれると同時に、僕は強い力で突き飛ばされた。不意を突かれて地面に転がる僕の横を管理人が、老人とは思えない素早さで走り抜ける。

「このバケモノ! おまえのせいで兄貴は…!」

 叫んで、ヤスミンに掴みかかろうとする。右手に棒切れを握っていた。殴り殺す気だ、と僕は思った。

「バケモノ? 失礼ね」

 落ち着き払ったヤスミンの声が聞こえる。僕は腕を伸ばして、管理人の左足を掴む。老人はガクリと膝をついた。

 ヤスミンの動きは速かった。ポケットに入れた右手を引き抜き、老人の喉に向かって振り抜く。綺麗な弧を描いたその手には、光るナイフが握られていた。

 パッと血が飛び散り、管理人はドッと地面に崩れた。一言も、声は出さなかった。

 ヤスミンは、さっきの僕の質問に答えた。

「殺人鬼よ」

 彼女は、スラムに向かって走り出した。赤く濡れたナイフを手に持ったまま。僕の手は、管理人のズボンを握り締めたままだった。地べたに膝をついた、そのままの姿勢で、バカみたいに彼女の後ろ姿を見送ってしまった。

 ヤスミンが見えなくなって、ようやく体が動くようになる。頭はまだ回らない。足に力が入らず、立ち上がるのにヨロめく。管理人に声をかける気は無かった。もう生きてはいないと一目で分かる。

 早くヤスミンの後を追わなくてはならない。突き飛ばされた時に投げ出された荷物を手に取り、僕もスラムに向かった。最初はゆっくりとしか動かなかった両脚が、徐々に早足になり、最後には駆け出した。

 走りながら、僕の脳ミソはやっと働き出した。ヤスミンの機嫌が昨日から良かったことと、彼女のポケットから出てきたナイフと、あの鮮やかな手際から、出てくる答えは、たったひとつだ。

 あの子は、ネッキスたちを殺そうとしている。理由は分からないが、少なくとも昨日から、この街を出ると決めた時から、そのつもりだったんだ。そして、彼女はそれを楽しみにしている。

 僕は、ヤスミンがずっと本当のことを言っていたと、認めなくてはならなかった。それくらい彼女は手馴れていた。顔色ひとつ変えなかった。

 早く、ヤスミンの所へ行かなくては。どうするかは、ヤスミンの顔を見てから決めればいい。

 僕は走った。何故か、ヤスミンには追いつけなかった。焦った僕は、ネッキスたちの住処に駆け込んだ。荷物を置き去りにして、コンクリートの階段を駆け昇る。

「ネッキス!」

 呼ぶ声に、呻き声が応えた。

 三階の彼らの住処に踏み入れると、そこは酷い有り様だった。ネッキスも、チェットもボーボーも、血を吐いて床に転がっている。入口の一番近くに倒れているチェットは目を見開いていて、もう息が無いのが分かった。

 ボーボーは僕の顔が分かったのか、何かを言おうと口を開きかけ、そのまま床に突っ伏した。

 床を掻きむしるように苦しんでいるネッキスを抱き起こすと、彼はうっすらと目を開けて僕を見た。

「…クージョに、やられた」

 彼の声は、細くて濁っていた。今にも止まりそうな息の下でネッキスが言うには、彼らの蓄えていた金を狙って、クージョが飲み水に毒を仕込んだらしい。

「注意はしてたんだ…油断した」

 あいつ、毒なんて何処で手に入れたんだ…と呟くネッキスの目の焦点が、次第に合わなくなってくる。

「しっかりしろ」

 声をかけたが、医者を呼んでも無駄だろうと思われた。

「あの子は、そばにいる?」

「いや、僕だけだ」

 そう答えると、ネッキスは、ポケットからキャンディーの包み紙を取り出し、震える手で僕に見せた。

「これ、ローズガーデンのオヤジが握ってたんだ…落ちた時に口から飛び出した飴は、俺が拾って捨てたよ」

「………」

「あんた、気をつけなよ」

 最後に言って、ネッキスは目を閉じた。包み紙を握った手が、力なく床に落ちる。その包み紙は、僕が見慣れたものだった。ヤスミンがいつもポケットに入れている、ネッキスにもあげた事のあるキヤンディーの。それじゃあ、こいつは、あの時から。

「なんで黙ってたんだ…」

 思わず呟いた時、外で物凄い悲鳴が聞こえた。弾かれたように顔を上げ、窓に駆け寄り、身を乗り出して下を見る。ヤスミンと目が合った。彼女は血まみれで、その足元にはクージョが倒れていた。

 ヤスミンが笑みを浮かべたのと同時に、僕は階段を駆け下り、外へ飛び出す。

 ヤスミンは、逃げずにそこにいた。そして、言った。

「このままじゃ駅に行けない。着替えを出して」

 血だらけの服を僕に見せつけるように、その場でクルリと回る。

「君が、やったのか」

 クージョを指差して訊く。

「そうよ。私の獲物を横取りするんだもの。しかも、三人も」

「宿屋の亭主も、君が?」

「そうよ。私、言ったじゃないの」

「なぜ?」

 ヤスミンが溜め息をつく。今朝まで機嫌の良かった顔が、失望したように曇った。

「下らない質問しないで。それより早く着替えをちょうだい」

 その声が、地の底から響くように聞こえる。全身の力が急速に抜けていく。立っていることが出来ずに膝をついた僕は、朝、食べたものを全部路上にぶちまけた。

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