デスギナフ(3)

 訳が分からないままネッキスの後姿を見送って、もう一度窓の外に目をやろうとした僕に、ヤスミンが言った。

「見たら失礼よ」

 窘められて、慌てて窓から離れる。

 すぐに、外でネッキスが喚く声がした。何を言っているのかは聞き取れない。相手の声は全くしなかった。ヤスミンは、両手で耳を塞いでいる。僕もそれに倣った。きっと彼は、僕らに聞かれたくないはずだ。

 戻って来たネッキスは、浮かない顔をして元気をなくしていた。あの少女、かなり厄介な相手らしい。

「なぁ、喫っていい?」

「ダメ」

 お願いをヤスミンに一蹴され、彼はますますショボくれてしまった。

「窓の傍なら、いいんじゃないか?」

 少し気の毒になって、そう言った。

「いや…やっぱいいや」

 僕の言葉に窓際に立ったものの、結局、彼は煙草を断念したようだ。あの少女の事を説明しようかしまいか迷っているようだった。姿を見かけただけだから、僕としてはどっちでもいい。どうせ僕らは、ずっと此処に居るわけじゃないから。

「あのさ…」

 しばらく黙っていたネッキスが、思い切ったように口を開いた。

「なに?」

「あいつに会っても相手にしちゃダメだぜ。面倒なこと嫌いなんだろ、あんたたち」

「分かったよ」

 そう答えると、ネッキスはホッとした顔をする。およそ物に動じない彼がそうまで警戒するなら、それなりの理由があるんだろう。

「あんたら、いつまでこの街に居るつもりだ?」

 ネッキスが話題を変えた。

「あら、追い出すつもり?」

 ヤスミンの毒舌に、彼は苦笑する。

「そうじゃねぇよ。だって、ここで仕事探すわけじゃねぇんだろ。いつまでも遊んでられないもんな。人間は働かなきゃ」

 ネッキスが、僕を詰るような目で見る。そんなに極楽トンボに見えるかな。

「ついこの前まで真面目に働いてたんだ。少しぐらい羽を伸ばしてもいいだろ。ちょっと用事を済ましたら、また仕事を探すさ」

「私たちの叔父さんが、クアスにいるのよ」

 ヤスミンが、急にそんなことを言った。

「え? クアスって、あの温泉街か?」

「そう。兄さんは私をそこに預けて、どこかに働きに出ようとしてるの」

 彼女の方からこの話題を出すなんて驚きだった。ということは、これは本当なのかもしれない、と思うと気が軽くなった。

「ふぅん…兄妹一緒にいられないのか」

 ネッキスはしんみりと考え込んだ後、ポンと膝を叩いた。

「じゃあよ、俺たちがジードさんの仕事を世話してやるよ。だからまた、ここに戻って来たらいい」

 この街の施設で働く者専用の宿舎が、ホテル街の中にあるという。

「ま、無理にとは言わねぇけど」

「気を使わせてすまないな。余所で上手くいかなかったら、そうさせてもらうよ」

 ありがとう、と言うと、彼は照れくさそうに笑った。



 翌朝、僕らは五人で朝飯を食べて、いったん解散した。彼らは忙しいのだ。二時間後に例のベンチで待ち合わせをして、靴屋に行くことになった。

 僕とヤスミンはもう慣れたもので、ケーキやパイを買ってから公園に向かう。自販機でお茶を買うのも同じだ。

「お店より、ここで食べる方が好きになってきたわ」

 ベンチに腰掛けて、ヤスミンが言う。確かに、この街はいつだって良い気候だし、変な噴水も見慣れてしまえばどうってことない。

 あの公園管理人にまた話しかけられたのには、ちょっと困ったが。

「あんたら、やっぱりあの小僧どもと仲良くしてるんじゃないか」

 ニヤニヤ笑う顔に、ヘドが出そうだ。

「それが、お爺ちゃんに何の関係があるの」

 僕が何かを言う前に、ヤスミンがバッサリと切り捨てる。昨日も思ったけど、彼女は、この老人をはっきり嫌っているようだ。

 相手が子供にもかかわらず、老人は一瞬怯んだ、が、すぐに不敵な笑みを浮かべる。

「俺はただ、あんたらに注意してやってるだけだよ。奴らの所に泊まるなんて、ちぃっと深く関わり過ぎじゃないかね」

 この爺さん、なんで知ってるんだ。

「僕らを監視でもしてたのか」

「いや。クージョに訊いたのさ」

 老人は、昨夜の少女の名を口にした。

「へえ、あなた、あの子と仲良しなの」

 ヤスミンが、老人に向かって言った。その嘲笑うような口調に、老人の顔に血が昇った。すごい形相で彼女を睨みつけると、肩を怒らせて早足で去って行く。その後姿に、ヤスミンは冷笑を送った。

「見事に追い払ったね」

「だって、早く食べたかったんだもの」

 僕の方を向いた彼女は、もう子供らしい表情に戻っている。

「ジードも食べなさい。甘い物は嫌なことを忘れさせてくれるのよ」

 そして、ケーキの箱の中からレモンパイを取り出し、ニッコリ笑って僕に手渡した。



 待ち合わせ場所に現れた三人は既に新しい靴を履いていて、ネッキスは僕にレシートを見せてきた。

「どんな店か見たかったな」

 金を払おうとすると、ネッキスは首を横に振る。

「いらない」

「え、なんでだよ。約束だろ」

「いや、いらない」

「変なヤツだな」

「その代わり、俺の説教をきけ」

 彼のその言葉で、ヤスミンがベンチを立った。ゴミを捨てに行くという体だったが、僕に情けをかけてくれたんだと思う。ボーボーはもちろん、チェットもその後を追った。

「僕が、なんか悪い事したかな」

 なんとなく何を言われるのかは想像できたが、出来る限り下手に出た。

「あのなぁ、何度も言うが、あんたは金に無頓着すぎんだよ。分かるか?」

「うん。そうかもしれないな」

 僕が素直に頷くと、ネッキスは溜息をつく。

「ほんとに分かってんのかよ。あのな、例えば、この靴のことだけどな。あんたは先に俺らに金を渡せば良かったんだよ。俺の言い値じゃなく、あんたが決めた額をな」

「そういうものなのか?」

「そもそもな、仕事を頼むなら、まず最初にギャラを決めろ。言われるままにホイホイ払ってんじゃねぇよ。金がどんだけあっても足りないだろうが」

「でも、いくら僕でも、あまりに吹っ掛けられたら、そのまま払うなんてことは…」

「あのな、あんたは既に俺たちにボラれてんだよ。ジュースの売り場を教えて運んだだけだぜ? 晩飯代でも多いっつの」

「でも泊めてもらったし」

「それで朝飯?」

「そのつもりだった」

 ネッキスは呆れきった顔で、もう一度盛大に溜息を吐いた。

「相手が子供だったから火傷しなかったと思っとけよ。タチ悪い大人だったら殺されて、あの子売り飛ばされてるからな、確実に」

 ああ、なるほど。それは確かにそうだな。

「僕は、あまり荒っぽい人間と付き合ったことが無いんだ」

「だろうな」

「だけど、もう生まれた街を出てるんだもんな。用心することにするよ。心配してくれて、ありがとう」

「まぁ、この忠告は貰い過ぎた駄賃の代わりだからさ。気ぃ悪くすんなよ」

 ネッキスは、僕の顔色を伺うような目つきをした。こんな小言を言っておいて、まだ僕から金を引き出す気があるのが見えて、そのたくましさに感心する。

「いや、おまえみたいな奴の方が付き合いやすいよ。だんだん分かってきた。それに比べて、あの公園管理人の爺さんみたいなのは苦手だよ」

 それを聞いて、彼はギョッとする。

「あのジジイに会ったのかよ」

「ここにいたら話しかけられてね。しかも二日連続で」

「妹さんに目ぇつけやがったな」

 僕の予感は正しかったようだ。

「ローズガーデンの亭主も、同じ趣味だったよ」

「やっぱりな」

「知ってたのか」

「当然だろ。ああいうのは、どこにだって居るんだ。気をつけなきゃな、妹さん」

 鼻息の荒いネッキスに、ふと疑問に思っていた事を訊いてみる。

「なぁ、どうしてヤスミンのこと名前で呼ばないんだ?」

 すると、ネッキスはちょっと言い淀んでから、渋々という風に答えた。

「あんな大人みたいに綺麗な子にチャン付けは変だし、年下にサンもおかしいだろ。かといって、呼び捨てになんかしちゃダメだし」

「なんで?」

「…ぜったい怒られる」

 この短期間でヤスミンの性質を的確に見抜いているのが可笑しくて、僕は声を上げて笑ってしまった。離れた所にいた三人が、驚いてこっちを振り向いても、僕の笑いは止まらなかった。



 管理人のことを知ったボーボーは酷く憤慨したが、当のヤスミンは涼しい顔をしていた。少年たちはそれを、彼女が老人の興味の意味を分かっていないせいだと判断したようだったが。

 そして、僕らの宿の件は、彼らが夜までに何とかすると請け負ってくれた。

「じゃあ、その礼は夕食でいいか? 飯のランクは宿を見て決めよう」

 さっそくネッキスの教えを実践すると、三人は嬉しそうに笑った。夕方に屋台村で待ち合わせだ。公園は、またあの老人に会うのが嫌で敬遠することにした。

 ハンカチに包んだ王冠を、駅のロッカーに預けた荷物に入れて、僕らはモールでのんびりすることにした。

 実は、二人で行く所はもう決めてある。風呂に入りに行くのだ。

 この街には、リゾート地らしくフィットネスクラブというものがあり、同じ建物内にスパというものもあるらしい。僕はよく知らないのだが、ヤスミンの話だと、高級な温泉だと思えばいいらしい。

「ほんとに、どっこも行ったことないのね」

 呆れられたが、知らない人間は結構いると思うんだ。

 スパとやらに行く道すがら彼女は、そこでは何が出来るのか細かく教えてくれた。いわく、色々な種類の風呂を使え、石鹸やタオルや着替えを買うことが出来、簡単な食事をとれるスペースがあり、コイン式の洗濯乾燥機がある。

「テレビだって見られるよ」

 すごいじゃないか。

「よく知ってるな」

「パンフレットに書いてあるってば」

「そうか」

「お風呂は男女別なの。ゆっくりするといいわ。私もそうするから」

「一人で大丈夫かい?」

「私は一人きりにはさせてもらえないもの」

 ああ、そうか。君の周りには、いつも誰かしら世話を焼いてくれる人が現れる。どちらかというと、僕の方が何かやらかすかもしれない。なにせ、そんな所に行くのは初めてなのだ。

「写真を見る限り、とっても豪華。楽しみね」

「豪華な風呂ねぇ…」

 そんな所、落ち着かないんじゃないかな、と不安になった。


 

(僕みたいな者が来る場所じゃないだろ)

 スパに辿り着いてからずっと、何度も思っている。僕が抱いていた温泉のイメージとは全く違う。確かに豪華だ。豪華すぎて、どうしていいか分からない。

 全面ガラス張りの正面入口は、冷たく素っ気ない印象。マジックミラーになっているらしく内部の様子は全く見えない。

 おっかなびっくり自動ドアを通って中に入ると、広いが無機質なフロントに、また気後れした。そこに溜まっている客が全て女性で、もう完全に場違いな状態に怖気づいてしまった。

 しかし、帰るわけにもいかないので、順番を待ってフロントで受付をした。

 番号札を貰って腕につけ、大きな扉をくぐると、たいそうな人混みだ。といっても、ここはまだ売店区画で、僕らは他の客に紛れて、必要な物、タオルや歯ブラシ、湯上りに着るガウン等を忙しく購入した。全て使い捨てを想定してあるせいか値は安かったが、なにしろ種類が多いので、選ぶだけで一苦労だった。

 こんな時に頼りになるのは、やはりヤスミンで、あれやこれやを次々に、フロアに備えられている買い物カゴに放り込んでいく。山盛りになったカゴの中身を会計してもらい、壁に矢印で表示されている順路に従って、ロッカールームに進む。渡された番号札に対応しているロッカーを使うのだが、ここから男女で分かれている。服を脱ぐのだから当然だ。会計の時に、ヤスミンと僕の荷物は分けてもらっていて、彼女とはここでしばらくお別れだ。

「じゃあね」

 あっさり言われて、頷くしかできない。

 僕と離れて数歩歩いた途端、ヤスミンは若い女性のグループに話しかけられて、笑いながら女性のロッカールームに消えて行った。

 女の子たちの華やかな笑い声はますます僕を心細くさせたが、こんな所に突っ立っていても、しょうがない。覚悟を決めて男性用ロッカールームに入る。それなりに混んでる。が、若者は少ない。

 幸い、僕の番号は隅の方だったので、コソコソと服を脱ぎ、荷物をロッカーに押し込んだ。

 壁に貼られたプラスチック板に書かれた説明文に目を通す。どうやら、風呂とサウナがあるようだ。僕はサウナが苦手なので、真っ直ぐ風呂場の方に向かった。アレをやると、僕は体調が悪くなるんだ。体質に合わないんだろう。

 大浴場の広さには、驚くより呆れた。いや、広さというか、風呂の種類の多さに。熱い、ぬるい、電気、泡…など様々な浴槽が用意されていて、客は好みに合うもので楽しめばいいのだ。ただ、僕には入浴を楽しむという感覚があまり無いので困惑してしまう。ついでに言うと、まだ何もしていないのにドッと疲れてしまった。

 ゆっくりしてこいと言われていたにも拘わらず、僕はそそくさと体を洗い、熱い湯にちょっぴり浸かっただけで風呂を上がってしまった。

 ヤスミンが、こういう施設には湯上がりにくつろぐ空間があると言っていた。さっさとそこに行って、彼女を待つことにしよう。

 購入した麻のシャツとズボンを身に着け、ロッカーから荷物を出した。使い終わったタオルや歯ブラシはゴミ箱に投げ入れる。

 ロッカールームを出て、廊下にある案内板を見て喫茶スペースに向かった。ヤスミンとは、そこで待ち合わせをしている。

 外からの光をふんだんに取り入れた明るい喫茶室は、喫茶室とはいっても洗濯機やマッサージチェアも置いてある。マガジンラックに新聞や雑誌も用意されていて、洒落た椅子とテーブルもある。

 まずは洗濯機に着てきた服を入れ、洗剤とコインを入れてスイッチを押す。何か飲みながら洗濯乾燥とヤスミンを待ちたいのだが、カフェは食事をするエリアにあるらしく、ここには自動販売機しかなかった。でも、飲み物の種類は膨大だった。

 もしかしたらGSOが…と思い、販売機をひとつひとつ調べたけど、さすがに無い。そりゃそうか。一人で笑って、レモンスカッシュを選んだ。

 ヤスミンが見つけ易いように中央のテーブルに陣取った時、近くに座っていた老人と目が合った。

「あ」

 バーガーショップのマスターだった。相手も気付いて、微笑みながら会釈してくる。

「お一人ですか?」

 彼は、缶コーヒーを手に立ち上がった。

「妹と一緒ですよ」

 ごく自然に僕のテーブルに着くのを、何となく受け入れてしまう。そんなタイプには見えなかったが、意外に他人との距離が近い人なんだろうか。だったら面倒だな。

「こちらには、いつまで?」

 椅子に深く腰掛け、マスターは訊いてくる。

「妹のやつ、この街のお菓子が気に入ってるみたいなんですよ」

「それは何よりですね」

 答えになっていない僕の返事に気を悪くしたようでもなく、彼は微笑んだ。

「よろしければ、美味しい店を紹介しましょうか」

 その上、こんな事を言い出す。

「妹は聞きたがると思いますよ」

 僕がお愛想を言うと、マスターはニコリとした。

「この街は初めてですか?」

「はい」

「そうですか…」

 彼はそう言って、少し考えたあと、

「ご両親も?」

 と、更に訊いてくる。

「は? いや、そんな話は聞いた事ありませんが」

 マスターは一瞬、妙な顔をした。笑い出す寸前のような。

「そう…」

 でも、彼の口から漏れたのは、気の抜けたような声だった。

 そこから先の会話は、途切れがちだった。非常に居心地が悪いが、かといって席を立つのも子供みたいだ。第一、ヤスミンとは此処で待ち合わせをしているのだ。

 途中、洗濯終了のブザーが鳴り、洗濯物を乾燥機に放り込んだ時だけ席を外したが、後はずっと気の重い時間を過ごした。お互いが飲んでいるものについての味の批評等をして時間を潰し、気まずさが耐え難いものになり始めた頃、ヤスミンがようやく姿を現した。さっき買ったワンピースを着ている。

 彼女は、マスターを見ると少し驚いた顔をしたが、すぐに可愛らしい笑顔を浮かべた。

「こんにちは」

 ピョコンとお辞儀をして、持っている袋を僕に手渡してくる。

「なんだい?」

「着てた服、洗濯したの」

 ああ、そうか。

「僕のは、今、乾燥してる」

「そう」

 ヤスミンは、もう片方の手にアイスミルクの缶を持っていた。女風呂に連れ立って行った女性客の一人に買ってもらったらしい。洗濯も、彼女らがまとめてしてくれたという。

「一緒じゃないのか?」

 世話になったのなら礼をした方がいいかと思い、周囲を見回した。

「お姉さん達は、レストランを予約してるんですって」

「ふぅん」

 まぁ、この子のことだから、礼はしっかりしてるんだろうが。わざわざ探しに行くのもな…

 僕が悩んでいると、マスターは、席に着いたヤスミンの方に体ごと向いた。

「お菓子が好きなんだってね」

「うん」

「何が一番好きかな?」

 マスターの声音が、妙に優しい。

「私、ケーキが好きだわ」

「ケーキ?」

 マスターは、探るような目でヤスミンを見る。

「生クリームとイチゴのがいいな」

「プリンはどう?」

「好きよ。でもケーキの方がいい」

 おもねるような老人の言葉にヤスミンは、いささか冷た過ぎる言い方で応じる。マスターは、少年のように傷ついた顔をした。

 いつものヤスミンなら、このへんで絶妙なフォローをするはずなのだが、今日はその気配もない。僕らのテーブルは、二人きりの時より重たい雰囲気になってしまった。

「…そういえば」

 年の功で気を取り直したらしいマスターは、今度はまた僕に話しかけてくる。

「なんです?」

「君たち、公園の管理人に会ったんだってね」

 唐突に出てきた管理人の名にビックリしている僕に、老人はちょっと笑いながら言った。

「アレはね。僕の弟なんだ」

 その唇は、不機嫌そうに歪んでいた。



「言われてみれば、似てるかもね」

 マスターが立ち去った後、ヤスミンは澄ました顔でそう言った。

「管理人のやつ、マスターに僕らの事を話したりして、何を考えてるんだ」

「さぁねぇ…本人に訊いてみたら?」

「君ね…」

 …いや、それもいいかもしれない。突撃すれば、あいつは驚くだろうが、その顔を見れば少しは溜飲が下がるかもしれないし。でも…

「…その前に、ネッキスたちにあの兄弟のことを訊いてみるのはどうかな」

「いい考えね」

 僕らは頷き合って、洗濯物を回収し、スパを出た。

 ネッキスたちとの待ち合わせまでには、まだたっぷり時間があったから、買い物をするのかと思ったら、ヤスミンはケーキ食べ放題の店に行くという。

「お姉さんたちに教えてもらったの」

 楽しそうな顔を見て、女同士の話はさぞかし盛り上がったんだろうな、と想像する。

「きっと、僕は悪目立ちするよ」

「私が居るんだから大丈夫」

 ヤスミンに断言されると、そうかな、という気がする。

 店は、小奇麗なホテルの最上階にあって、当然女性が多かったが、カップルもそこそこいた。

 広いフロアに眺めの良い大きな窓。調度品など高級感はあったが、料金はそれほど高くはない。そして、ケーキの種類が尋常ではなかった。

 ヤスミンは目を輝かせてケーキを物色し、僕はレモンパイとコーヒーを持って、窓際の席からその様子を眺めた。

 彼女はここでも様々な女性に声をかけられ、親しげに応じ、何人かはテーブルまで連れて来るので、僕は慌ててその相手をしなければならなかった。気疲れしたが、そんなに悪い気分じゃなかった。



 マスターと管理人が兄弟だというのを僕らが知って、ネッキスたちは少しイヤな顔をした。

「管理人のジジイに聞いたのか?」

 憎々しげに言うので、マスターからだと答えると、驚いていた。

「そうなんだ…へえ…ふーん」

 と、何だか納得出来ない様子だ。

「マスターは、管理人の事を隠してるのか?」

「まぁね。理由は…分かるだろ?」

 ネッキスは、上目遣いに僕を見ながら言う。そりゃ分かるけど。

「じゃあ、なんで、僕なんかに教えたんだろうな」

「そりゃ、妹さんが心配だからさ」

 ネッキスはボーボーに目配せした。ボーボーは頷いて、ヤスミンを屋台の方に連れて行く。

「あの子には聞かせたくないから」

「うん」

 そういう話になるのは分かっている。

「管理人が、妹さんを狙ってるのは知ってるな」

「僕なりに警戒してるつもりだけどな」

 僕はよっぽど頼りなく見えるんだろうか。

「マスターは、あのジジイのことを良く知ってるからな」

「おまえも知ってるんだろ」

「そりゃね」

「それは、おまえが自分の目で見た事か?」

 ネッキスは頷き、少しだけ考え、それから口を開いた。

「昨日、俺らのネグラに来た子、居ただろ」

「ああ…あの女の子」

「クージョっていうんだ。歳は俺と同じくらいだと思う。俺らと同じ、親も家も無い奴だ」

「うん」

「俺らみたいな身の上の女の子は結構いるんだ。でも、俺らみたいに街を駆けずり回って働いたりはしてない。もっと良い商売があるからだ。分かるだろ?」

 ネッキスは、昨夜と同じ事を言う。

「どこの街でもある事なんだろうね」

 チェットは神妙な顔で、僕たちの遣り取りを聞いている。

「ここは特別多いと思うね。それなのに、そのテの女の子が目に付かないのは、そういうのを纏めて商売してる奴がいるのさ。自分の所で全部抱えて、金持ちに斡旋してるんだ」

「まさか、管理人が?」

 僕の言葉に、ネッキスは苦笑する。

「そうじゃねぇよ。ジジイにそんな才覚あるもんか。一度、ご主人持ちの子に手ぇ出そうとして半殺しにされたの、見たことあるし」

「へえ…」

 あんな年齢になっても、まだそういう欲はあるものなんだな、僕にはとても考えられない。しかし、そういう前科があるなら、ヤスミンを彼の目に触れさせるのは、かなり危険だ。

「あの爺さん、本当は面食いなんだ。だけどさ、そういう女の子は手に入らない、だから、仕方なくクージョを相手にしてるのさ」

「え、そうなのか。いや、待ってくれ。あのクージョって子は売春組織と関係ないのか? 女の子なんだろ?」

 ネッキスとチェットは顔を見合わせて、肩をすくめる。

「あんた、クージョを見ただろ?」

「見たけど…君らの部屋からチラッと見ただけだ。髪で隠れてて顔は見えなかったし。まぁ、あんまりキレイな格好はしてなかったけど…」

「ああ、ちゃんと見てないんだな」

「どういうこと?」

「あのな、あいつじゃ商売にならないんだよ。俺はあいつが嫌いだけど、女の子を悪く言うのは嫌だ。これで察してくれ」

「うん…分かった」

 たぶん、クージョって子は醜いのだろう。

「とにかくさ、マスターも警告してきたんだ。今まで以上に用心した方がいいぜ」

 ネッキスの真摯な忠告に、僕は素直に頷いておいた。



 彼らが探してきてくれた宿は、最初に泊まった所とそう変わりはなかったが、客を紹介すると、ネッキスたちに幾らかのマージンが渡ると分かったので、とりあえず三日間泊まることにした。

 部屋にヤスミンとネッキスたちを残し、僕は駅に荷物を取りに行きがてら、夕食を買いに出た。ヤスミンから目を離すことに不安は無かった。彼ら三人が、彼女に危害を加える可能性は考えられなかったし、なにより、ヤスミンが少し疲れているように見えたので。

「妹をよろしくな」

 と言った時の、ボーボーの誇らしげな顔が微笑ましかった。

 久々に一人で歩いていると、何となく寂しい。ここのところ、ヤスミンだけじゃなく、ネッキスたちとも一緒のことが多かったからな。

 自然と早足になりながら駅に着き、コインロッカーから荷物を出して、どこの店でテイクアウトしようかと思案しつつ公園を歩いていると、嫌な物が目に入った。

 管理人だ。しかも、彼だけじゃなく、クージョらしい子も一緒だった。

 汚れたワンピースを着た裸足の少女に、老人が折りたたんだ紙幣を渡しているのが見えてしまって、胸糞悪い気分になる。

 無視して通り過ぎようとしたが、管理人に気付かれてしまう。彼は、クージョの手を引っ張って、僕に近寄ってきた。悪意に満ちた薄気味悪い笑顔に、背筋がゾワゾワする。

 二人が傍に来て、僕は初めてクージョの姿をハッキリと見た。

 着ている服はいつ洗濯したのかも分からないほど汚れていて、長い髪も碌に手入れしていないらしくボサボサ、全く艶がない。そもそも、まともに風呂にも入っていないんだろう。

 だが、みすぼらしい格好をした娘が実は美しかったという御伽噺は、クージョには当てはまらない。何故なら、彼女は掛け値なしに醜いのだ。どれほどの好意を持って見れば彼女の良い所がみつかるのか、僕には分からない。

 僕の不躾な視線が不快だったのか、クージョはいきなり唸り声を上げ始めた。そして、老人の手を振りほどくと公園の奥へ走り去って行く。管理人はそれを追うでもなく、僕に苦笑してみせた。

「あんた、嫌われたみたいだな」

 何とも返事のしようがなくて黙っていると彼は、訊かれてもいない事を語り出す。

「あの子については俺にも分からんのだ。確かに、ごく小さい頃から知っている。しかし、あんたが見た通りのクージョしか、俺も知らないんだ」

「そうですか」

 そんな話は聞きたくもなかったが、老人はそう簡単に僕を解放してくれない。

「この街には、ああいう子供が多くてな。遊びに来た金持ち連中が楽しんだ結果だよ」

「僕には関係ない」

 僕の抵抗を無視して、老人は続ける。

「俺はスラムの事なら何でも知ってるが、クージョだけは本当に何も分からん。あの子は、或いはこの街で生まれたんじゃないのかもしれない。あれは俺が初めて見た時から、あんなだったよ。恐ろしく醜くて孤独な生き物だ。何よりの特徴は、それに同情する気になれない所だな。その感じ、分かるかい?」

「酷いな」

 僕はそう答えたが、彼の言っている事は何となく分かる。

「姿が悪いというだけで、人はあれほど醜くならんはずだ。一体、何があの子をああしたのか、実に興味があるね」

 そんな子を金で買っているのはオマエじゃないか、というセリフを飲み込んで、僕は歩き出す。

「そんなにお高くとまるなよ」

 老人の下卑た声を、背中で聞きながら。

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