デスギナフ(1)
デスギナフ行きの列車にはコンパートメントがあって、ヤスミンは、そこに席を取りたいと強行に主張した。
「ここからじゃ、結構かかるのよ」
だから、窮屈な普通席では嫌なのだと。
「まぁ、いいけどさ」
運賃はそれほど高くなかったし、僕も、列車の個室がどんなものなのか興味があった。あっさり了承すると彼女は意外そうな顔をしたが、すぐに笑顔になった。
相変わらず頑固にバスケットを抱えて、真っ赤な流線型の車体に金色のラインが入った派手な列車に、意気揚々と乗り込む。見せかけではなく本当に無邪気に喜んでいるらしいその姿を見ていると、この子は旅が好きなんだなぁと思った。
僕はといえば、ヤスミンと出会うまでは隣町に行くのも億劫がる人間だった。それに、特定の他人と親しくするのだって苦手だったはずなんだけどな。
「デスギナフに寄ったら、次は叔父さんの所に行くんだね?」
「ええ」
通路を歩きながら聞くと、ヤスミンは振り向きもせずに答える。嘘だろう? って一言を、僕は言えなかった。なぜ言えなかったのか、自分でも分からない。
二人用の個室は、思っていたより広かった。座席は適度な柔らかさがあって長時間の旅に向いているし、窓には分厚いカーテンがかかっている。
「本当に部屋みたいなんだね」
「でしょう? ゆっくりくつろげるわよ」
ヤスミンは、ここが自分の部屋かのように威張って、小さなテーブルにバスケットを置き、コートを脱いで座席に腰掛けた。
「お茶にするかい?」
「それは動き出してからにしない?」
「ああ、確かにその方が良さそうだね」
僕も上着を脱ぎ、席に座る。
「ジードはコンパートメントに乗ったことないの?」
「うん、初めてだ」
「初めての事って、ワクワクしない?」
「そう、かもしれない」
僕の返事に、ヤスミンは声を上げて笑った。
「なんで自信なさげなの」
「いや、そういうの、よく分からなくて」
しなくていい弁解をしていると、車内アナウンスが流れ発車のベルが鳴り、列車がガクンと動き出した。ここしばらく慌しかったのがやっと静かになって、思わず溜め息が出た。
「疲れたの?」
ヤスミンの声が、こころなしか優しく聞こえる。
「まぁね。もう何年も、新しい人と知り合うことなんてなかったから」
「そうなの?」
「そうだよ」
好ましくない話題になりそうだったので、バスケットを開けた。途端に甘い香りが溢れ出てくる。
「わぁいい匂い!」
僕の思惑通りに、ヤスミンはバスケットの中身に興味を向けた。やや大きめのバスケットには、菓子やサンドウィッチが沢山詰まっている。隅の方には水筒も入っていた。小さなプラスチック容器はフルーツらしい。
「素敵…」
ヤスミンは陶然としながら、マドレーヌを手に取った。
「お茶も淹れよう」
添えられていた紙コップに、水筒から温かい茶をそそぐ。これも良い香りだ。が…
「やっぱり紅茶か」
思わず僕が言うと、ヤスミンは肩をすくめる。
「私に合わせたのね。車内販売でコーヒーを買ってきたらいいわ」
「そうだなぁ」
返事しつつ僕は、紙コップに口をつけた。甘くない。牛乳はたっぷり入っていたけど、砂糖は全く使われていない。
「あ、これでいいよ。美味い」
「そう?」
「でも、君は物足りないんじゃないかな」
「大丈夫。これ、とても良いお茶ね」
ヤスミンはマドレーヌと紅茶をゆっくりと味わっている。僕は、チーズとハムをはさんだサンドウィッチに手を伸ばした。これも上等な材料を使っているらしく、その辺で食べるものとは一味違う。
「美味いなぁ」
「パンも手作りしてるって、お婆ちゃんが言ってた」
「へえ、すごいな」
「お菓子は食べないの?」
「僕はいいよ。君、全部食べな」
「それなら、サンドウィッチはジードにあげる」
「なんか悪いなぁ」
「こちらこそ」
笑い合って、列車の揺れを楽しみながら、クラバース夫人の心づくしを堪能した。
「いい人たちだったわ」
三個目のクッキーを齧って、ヤスミンが言った。
「あの家の子になりたかったかい?」
「まさか」
「じゃあ、また行くって約束は?」
その質問に、彼女は薄い微笑みを浮かべただけだった。
デスギナフは、大きなリゾート都市だ。街全体がドームに覆われていて、一年中、温暖な気候が保たれている。出来た当初は金持ち専用の避暑地だったが、近年では小金を持った庶民も長期休暇を楽しみにくる場所になっているようだ。と、テレビでいっていたのを聞いた覚えがある。
「人が多いんでしょうね」
「そうだね。今は特に多いんじゃないかな。誰だって、冬は暖かい所に行きたいと思うからね」
「私、賑やかなの好きよ」
「泊まる所があるかなぁ」
「なんとかなるわよ。野宿も面白そうじゃない?」
「そりゃ僕は、それでも構わないけど」
君には似合わないんじゃないかな。クラバース邸の天蓋付きベッドみたいな豪華な寝床が、この子には似つかわしい。
「私も全然かまわない」
「君がそんな事してたら、目立ってしょうがない」
苦笑する僕に全く頓着せず
「楽しみね」
ヤスミンはうっとりと呟いた。
「まず、キャリーケースを買わないと」
列車から降りたヤスミンの第一声はそれだった。僕らは、ローズガーデンで買った夏服に着替えていて、僕の両手は鞄に入りきらなかった冬服で塞がっていた。彼女は空になったバスケットを持っている。
「近くに鞄屋があればいいんだけど」
「ねえ、少しコレに入れようか?」
ヤスミンが、バスケットを小さく振る。
「いや、大丈夫だ」
「とてもそうは見えないけど」
そんな会話をしつつ、駅の構内を歩く。さすがに各地から列車が集まる場所だけあって駅はかなり大きく、彷徨っているうちに僕らは、いつの間にか色々な店が並んでいる駅ビル内へと迷い込んでいた。
「お店を探してるんだから、これでいいのよ」
大荷物を抱えている僕を先導して、ヤスミンは辺りを見回しながら歩く。へたばってきて、とりあえず何処かで休もうと言おうとした時、やっと鞄屋がみつかった。
店内には、僕らと同じく荷物を抱えた家族が何組もいて、なんだかホッとした。車輪付きの小ぶりな黒いキャリーケースを購入すると、店の隅を借り、手に持っていた服を中に詰め込み、僕の鞄をくくりつけた。
「助かった」
思わず呟くと、その言い方が可笑しいとヤスミンは笑った。
「どこかで少し休まない?」
「お茶は飲みたくないな」
「おなかは、いっぱいだものね」
駅から出る順路を鞄屋の店員に訊いて、僕らはやっと外へ出られた。
明るい日財し、少し汗ばむくらいの温暖な気温、吹き抜ける爽やかな風。今までいた街は冬だったのに、ここは初夏の気候なのだ。話に聞いていた通りだが、実際経験してみると不思議な気がする。
駅前は大きなロータリーになっていて、大型の観光バスやタクシーがひっきりなしに走行している。横断歩道を渡ってロータリーを出ると、大きな公園の入口があった。そこに街全体の案内板があり、見ると、この公園を真っ直ぐ通り抜けた先に、ホテルなどの宿泊施設が密集するエリアがあるようだった。そのすぐ横はアミューズメントパークだ。
「右の方に行くと、ショッピングモールなのね」
ヤスミンが目を輝かせる。
「買い物は、宿に荷物を置いてからにしないか」
「もちろん。ゆっくり見て回りたいもの」
「なにか欲しい物があるの?」
「それを探しに行くのよ」
僕らは公園の中を歩いた。手入れの行き届いた草木や色とりどりのタイルが敷き詰められた遊歩道はとても綺麗で、風は変わらず気持ち良い。
いい天気だなぁと言おうとして、管理されているのだから当たり前だと気付いた。誰がこの街を作ったのかは知らないけど、大したもんだ。もっとも、僕は寒いのも割と好きだったりするし、真夏の暑さを全然体験できないのも物足りなく思うので、住みたくはないけど。
「立派な公園ね」
「さすがリゾート地だね、ゴミひとつ落ちてない。こんなの初めて見たよ。朝早くに散歩したら、いい気分だろうな」
「するの?」
ヤスミンが立ち止まって、僕を見た。
「そうだなぁ…君もどう?」
「私はイヤ」
誘ってみると、彼女はブルッと身震いした。
「いつも早起きしてるじゃないか」
「だって、朝の散歩はアレに遭うじゃない」
「アレ?」
ピンと来ない僕に苛ついたように、ヤスミンはひとつ足を踏み鳴らした。
「尻尾があって煩く吠えるアレ!」
あ、犬か。
「犬、嫌いなんだ」
「違うわ、苦手なの」
悔しそうにしているのが、何だかこの子らしい。
「動物、ダメなんだね」
「アレだけよ。猫やオウムは好きだわ」
「分かった。覚えておくよ」
そう答えて、僕はヤスミンに手を差し出した。
「出くわすかもしれないから、手を繋いでいこう」
「別に怖いわけじゃないのよ」
言いながら、ヤスミンは僕の指を握った。
「分かってるよ。僕も、蛇は怖くはないけど苦手だからね」
しっかり手指を絡ませ合って、僕たちは小さく笑った。
ホテル地区の入口には旅行案内所のような建物があって、そこで人数や予算を相談すると、希望に合った宿を紹介してもらえる…と、案内所の前に立っていた男が説明してくれた。目が合った途端こちらに近づいてきたところをみると、僕はよほど不安そうな顔をしていたらしい。
そこでも、ヤスミンは周囲の人の注目を集めた。彼らの視線は概ね好意的なものなのだろうが、ザックのような危険な興味を持つ者もいないとは言い切れない。
僕が窓口で職員と話をしている間、ヤスミンはもちろん僕の傍にひっついていたが、彼女に惹かれたらしい男の子が、ちょっかいをかけてくる。ヤスミンは当然のようにそれを無視し、男の子は傷ついたような顔をして親の所へ戻っていく。それが何回か繰り返された。ぴったりくっついた彼女の体から苛立ちが伝わってきて、ようやく宿が決まった時には僕は、逃げるように彼女の手を引いて案内所を飛び出していた。
「君は目立ち過ぎるよ」
「しょうがないでしょ」
僕がボヤくと、ヤスミンは満更でもないような顔をする。女性というものは、こんな小さい頃から理解し難いのだな、という認識を新たにした。
貰った案内図は非常に分かりやすく、職員の説明も丁寧で、宿への道は迷いようもない。案内所からは距離があるようだから、少し歩かなければならないが。
キャリーケースを引く音がちょっと耳障りでヤスミンが気を悪くするかと思ったが、彼女はそんな事はまるで気にならないようで、着ているワンピースと一緒に買ったサンダルの履き心地を試すように楽しげに歩いている。
薄い紫色のワンピースは歩くたびに裾がサラサラと音を立て、華奢な造りの子供用サンダルは、とてもヤスミンに似合っている。髪には、クラバース夫人に買ってもらったリボンが品良く結ばれている。
「帽子も買えば良かったかしら」
「そうだね」
帽子を被ってバスケットを持ったヤスミンの姿は、絵本に出てくる少女のように可愛らしいだろう。でも、陽の光を浴びてキラキラしているその髪が隠れてしまうのは勿体ないな、と僕は思っていた。
殺風景な部屋だが、予算を考えると、これでも上出来なのかも。
「良かったね、部屋がとれて」
ヤスミンは気にもしていないようで、ナイトテーブルの横にある小さなスツールに座った。
「もっと広い所にすれば良かったかな」
「ここには何日泊まるの?」
「とりあえず二泊。朝食は一階のレストラン」
「いいんじゃない? 街を散策しながら、良さそうなホテルを探しましょう」
「君は旅慣れてるね」
「普通よ」
そう言って、ヤスミンはキャリーケースと鞄を開き始める。
「中をちゃんと整理しないとダメ。さっきお店でグチャグチャに入れたでしょ。あ、ほら、ダメよこれじゃあ」
大人みたいな口ぶりで、彼女はポンポンと鞄の中身をベッドの上に放り出していく。全部出してしまうと、今度は自分の物と僕の物をキッチリ分けた。そして、自分の服を丁寧に畳む。僕もそれに倣った。
「けっこう上手ね」
「そりゃ一人暮らししてたからね。自分でやらなきゃ、どうにもならない」
「それでも、やらない人っているのよ」
どうでもいい話をしつつ、僕らはキャリーケースに荷物を詰め直した。僕の鞄が随分くたびれていたので、ヤスミンは新しいのを買った方がいいと言った。
「でも、使いやすいんだよ」
「そうなの?」
僕が抵抗すると不服そうに口を尖らせたが、鞄をキャリーケースの中に入れるなら、と妥協してくれた。
「でも、穴が空いたら捨ててよね」
「そこまで頑固じゃないよ」
「そうかしら」
からかうように笑って、ヤスミンは例のイヤリングを耳につけた。赤い石は彼女の長い髪にすぐに隠れてしまう。それはヤスミンにとても似合っていたので、目立たないのは惜しいような気がしたが
「ときどき見える方が素敵なのよ」
本人がそう言うので、そんなものかと納得した。
部屋に居たのはほんの一時間くらいで、ヤスミンは、早くショッピングモールに行こうと僕を急かした。
「どんなお店があるのかしら。ワクワクする」
「あまり荷物を増やさないでくれよ」
「あら、自分の物くらい自分で持つし。それに私、けっこうお金持ちなのよ」
「その件なんだけど」
僕は、ずっと言おうと思っていた事を思い切って口に出すことにした。
「なぁに?」
「君みたいな子供が自分でお金を払うと、周りの大人の中にはおかしいと思う奴がいるかもしれない。だから、とりあえず僕が払って、後で叔父さんに清算してもらうのはどうだろう」
僕の言葉に、ヤスミンは少し考える。
「そういえば、お茶代とか切符代、ジードに払ってもらってたわね。ごめんなさい」
「いや、それはいいんだ。僕はちっとも構わない。けど、無用心だから、その方がいいかと僕は思って…」
この子にしおらしくされると、なんだか焦ってしまう。
「そうね。確かに、言う通りだわ」
すぐに笑ってくれた彼女にホッとして、僕らは部屋を出た。
ホテル地区のあちこちにあるらしい、モール行きのバス乗り場のベンチに座って、ヤスミンは頬を紅潮させる。
「フロントの人が、アミューズメントパークもあるって…」
「私が子供だから、教えてくれたのよね」
僕が言い終わる前に、彼女は不満げに言い、たちまち不機嫌になった。子供扱いされたのが気に入らないようだ。気持ちは分からないでもないが、じっさい子供なんだから仕方ない。しかし、気位の高いこの子としては面白くないんだろうな。
「まぁ、気が向いたら行ってみてもいいだろ」
僕の提案に、ヤスミンは溜息をつく。
ショッピングモールに着くまでの間、バスの中で彼女は黙り込んでいた。僕は、いつも何かと話しかけてくるヤスミンに慣れていたから、ちょっと居心地悪かった。どうやって機嫌をとろうか、と思い悩んでいたんだけど、ヤスミンはモールを見たとたん笑顔になった。
「素晴らしいわ」
殆ど感動したような口調で、ヤスミンは呟いた。
「すごいな…」
僕の口からも、思わずそんな言葉が出る。だって本当に凄いんだ。マイロンで行った百貨店より大きなデパートが林立していて、レストランやカフェもある。
「どこに行こうかな。迷うわね」
ヤスミンが楽しそうに言った。
「全部見るのに、何日くらいかかるんだろうな」
「そんなことしてたらジード、お爺さんになっちゃうよ」
ケラケラ笑って、彼女は手を繋いできた。
「私が欲しい物なら、物の方で教えてくれるわ。いつもそうだもん」
「へえ…」
言っている事がよく分からなかったので、僕は曖昧に返事する。とにかく、ヤスミンの機嫌が直ったのは有り難い。
二人でモールをのんびりと歩いた。あんなに来たがっていたのだから欲しい物があるんだろうと思っていたが、ヤスミンは此処にいるだけで満足を感じているらしい。
「ちょっとお茶しましょう」
洒落たカフェの前で、ヤスミンが言った。その店にはオープンテラスがあって、それが気に入ったようだ。客層は若い女性ばかりで気後れしたが、ヤスミンがどんどん店内に入っていくので、仕方なく後に続いた。
店内で僕は、ヤスミンより目立つらしく、女性たちの視線が痛かった。でも彼女らは、傍らにいるヤスミンの存在を認めると納得するようで、口許に笑みが浮かぶ。中にはヤスミンに話しかけてくる人もいた。可愛い妹さんですね、と言われて、僕は慣れない愛想笑いを返す。オーダーを終え品物を受け取り、テラスの席に落ち着く頃には、僕はすっかり疲れてしまっていた。
ヤスミンは、数種類のパイを目の前に、どれから食べようか迷っている。こういう時の彼女はとても楽しそうで、見ている方も、つい微笑んでしまう。
「甘いものだけでよかったの?」
僕は、ホットドッグとレモンパイを自分の手元に引き取って、コーヒーに口をつける。
「私、できればお菓子だけ食べていたいの」
チェリーパイに手を伸ばしながら、ヤスミンは悩ましそうな顔をする。
「そういう訳にはいかないだろ」
「みんなそう言うのよ。今までの人、みんな」
パイを齧った小さな唇で、彼女は溜息をつく。
「今までの人?」
「体に良くない。大きくなれない。行儀が悪い。もう聞き飽きてる」
「みんなって、クラバースさんたちとか?」
「あなたは、そういう、つまらない事は言わないと思ってたんだけど」
僕の質問など聞こえないという風にヤスミンが言うので、それ以上は追求できなかった。この子には有無を言わせない力がある。それに考えてみれば、他人の体を気遣うなんて、確かに僕には似合わない行動かもしれない。
「私は、あなたが甘い物を頼んだ方が驚いた」
「レモンパイは好きなんだ」
「ふぅん。何か良い思い出でもあるの?」
「いや、特に。そんなもの無くても好きな物は好きだ、単純にね」
「そう。なんだか羨ましい」
「どうして?」
「私、甘いものが好きよ。でもね、これが特別好きってものは無いの。甘ければ甘いほど美味しいとは思うけど」
「それは子供だからじゃないか? 大人になったら、みつかるよ」
「そう思う?」
「うん。僕にだってあるんだから、君の方が、そういう物を沢山みつけられそうだ。食べ物だけじゃなくってね」
僕は、彼女を励ましたつもりだった。彼女の言っていること自体は、いまひとつ良く分からなかったが、何故かヤスミンが悲しんでいるような気がしたんだ。ヤスミンは、ちょっと面食らったような顔をして、それから気が抜けたような笑顔を浮かべ、言った。
「ジードがそう言うなら、期待しておくわ」
その後、ヤスミンが髪留めが欲しいと言うので、近くにあったアクセサリーショップに入った。当然ながらここも女性客が多かったが、カップルもいたのでそれほど居心地は悪くない。客層から判断するに、高級品を取り扱っている店ではないようだ。
ヤスミンが目当ての物を物色し始めると、すぐに女性店員がやって来た。
「こんにちは。髪留めを探しているの?」
「うん」
優しげに話しかけてくる店員に、ヤスミンは無邪気に応える。自分好みの色や形を淀みなく伝える様は、大人の買い物と寸分変わらない。店員の方も頷きながらそれを聞き、その上で、色々な髪留めを勧めていた。
「あなたは少し大人っぽい雰囲気があるから、もっと落ち着いた色でも似合うと思うわよ」
さすがに客商売だけあって、ヤスミンを気持ち良くさせる術を心得ているようだ。たった一つの品物を買うのに結構な時間がかかったが、二人の遣り取りを見ていると退屈はしなかった。
「これ、いいかしら」
ヤスミンが手にとって見せてきた蝶の形をした髪留めは、薄い紫に黒い縁取りの上品な物だ。ちらりと確認した値段もそれほど高くはなく、対応してくれた店員が良心的で感心した。
「似合いそうだね」
僕がそう言うと、ヤスミンは嬉しそうに笑い、代金を払っている間に早速その蝶で器用に髪をまとめている。
「あら、上手ねぇ」
店員に褒められて、ヤスミンは得意気な顔をした。髪留めは思った以上にヤスミンに似合っていて、僕らは気分良く店を出た。身の丈に合った買い物は、ストレスも無い。
「次はどこへ行こうか」
夕食の時間にはまだ間があるので、訊いた。けど、ヤスミンは応えず、行き交う人混みを見ている。
「どうしたの?」
「あの子がいたわ」
囁くように、ヤスミンが応える。
「あの子?」
「ローズガーデンで会った男の子」
「ミゲルがこんな所に? まさか」
「違うわ。ローズガーデンの前で会ったじゃない。あの時はロリポップを咥えてた。今はドーナツを歩き食いしてたけど」
「…そんな子、いたっけ」
ちょっと考えてみたが、記憶にない。
「いたのよ」
ヤスミンは、僕の顔を見上げて厳しい顔をした。
「一度見た顔は、覚えておいた方がいいわ」
「どうして?」
「面倒を避けられるからよ」
ふぅん、そういうものか。僕は返事をしなかったが、ヤスミンはそれ以上言わなかった。
「帽子、買おうか」
「いらない。それより、夜のご飯を何処で食べるか決めましょう」
「もう?」
「これだけお店があるんだもの。選ぶのに、どれだけ時間がかかるか分からない」
「僕は何でもいいけどね」
「一番決められないパターンじゃない、それ」
ヤスミンは呆れたけど、かといって自分も特に食べたいものはないらしく(もちろんお菓子は除いて)通りを歩きながら、二人で頭を悩ませた。
「食品サンプルが綺麗な所にしない?」
面倒になったらしいヤスミンが突拍子もない事を言い出したが、僕はすぐにそれに賛成した。そういうのも面白いと思ったからだ。
「君は、妙なことを考え付くね」
「それは褒めてるのかしら」
「そうだよ」
「ならいいけど」
ヤスミンと僕は、顔を見合わせて笑った。
たぶん食べ物屋だけが入ってる所があるはずだと、それらしい建物を探す。二人でキョロキョロと周りを見回しながら歩く姿は、どう見ても田舎者という風情だろうが、こういった街では珍しくもないだろう。
立ち並ぶ店の派手な装飾や着飾った観光客を見ていると、祭にでも来ている気分になる。賑やかな場所は苦手だったけど、これだけ人がいると、まるで自分が砂浜の一粒の砂にでもなったようで、悪くない。
人が増えてきて少し歩き難くなった頃、周囲の人が、前方斜め右を指差して笑い始めた。なんだと思ってそちらを見た僕も、笑った。何故って、そのビルがすごく変だったから。
背の高い円柱型の建物なんだが、その外壁をぐるりと螺旋状に、巨大な食品サンプル群がオブジェのようにめぐらされている。文字が読めない人でも何のビルなのか一目で分かる、上手いやり方だと思った。ユーモアもあるし、客寄せにも持ってこいだろう。
実際、何人もの人が『あそこで食べよう』などと言っているのが耳に入ってきた。ヤスミンも、僕の手をぐいぐい引いてビルに入って行く。彼女も気に入ったんだな、と嬉しかった。
エレベーター脇にある案内板の情報は膨大だった。どうやら、上の階へ行くほど高級店のあるフロアらしいことだけは分かった。最上階に入っている店が、僕でも知っているくらい高くて有名な料理店だったから。
「でも、こういうビルに入ってるってことは、値段が高いだけで一流ではないのね」
シニカルな事を言うヤスミンは、二階あたりの店が良さそうだわ、と付け加えた。僕に異論があるわけはなく、エスカレーターで二階へと向かう。
親に連れられた子供たちがキャアキャア騒いでいるので、ヤスミンは苦い顔をしていたが、当の彼女も子供なのが、なんだか可笑しかった。
現実離れしたチーズの伸びっぷりと、ショートケーキの苺が恐ろしいほどツヤツヤしてるサンプルが気に入って、僕らはハンバーグ専門店に入った。店内に立ち込める油っぽい空気が、ベッタリと体にまとわりつく。
ヤスミンは、まずジュースを頼んだ。僕はコーヒーを。
しばらくは、お互い無言で分厚いメニューを眺めた。注文が決まったら、テーブルにある呼び鈴を押してスタッフを呼ぶシステムだが、どうも目移りして、なかなか決められそうにない。
ヤスミンはテーブルの上にメニューを置き、後の方に載っているデザートのページを食い入るように見ていた。少しは、まともな物を食べた方がいいんじゃ…と思ったが、また怒られそうなので黙っておく。宿やクラバース家では普通の食事も摂っていたのに、あれはネコを被っていたんだな、と妙に納得した。
でもまぁ…この子は確かにお菓子を食べている姿が似合っている。
僕の視線に気付いたヤスミンは、チラッとこっちを見て、またすぐメニューに目を落としながら言った。
「パフェの種類がすごいわ。ジードもひとつ付き合わない?」
「プリンなら、割と好きだけど…」
「冗談よ」
「なんだ」
「お酒を呑んだら?」
「好きじゃないんだよ」
僕の答えに、ヤスミンは目を丸くする。
「あんなに呑んでたのに?」
「クラバースさんに付き合っただけだよ。僕は酒の味が好きじゃないし、呑んでも酔わないから楽しくもないんだ」
「ジード、顔色も変わらないもんね」
「なんだ、気付いてたんじゃないか」
「味は好きだと思ってた」
「なんだか、すごく損をしてる気分だよ」
「確かに、そうね」
僕のボヤきを、ヤスミンはあっさりと流す。こういう時の彼女は、僕よりずっと年上みたいな表情をする。
「なに食べるか決まった?」
「もう少し待って」
「ごゆっくり」
メニューを閉じて、店内を見回す。まだ夕飯時には少し早いので、それほど混みあってはいない。ひとつテーブルを挟んだ席に座っているカップルがこちらを見ていて、慌てて視線を逸らす。彼らはきっと、ヤスミンを見ていたんだろう。
「ねえ、ジード」
「決まった?」
「先にパフェを頼んでもいいかしら」
上目遣いで言うヤスミンに、僕は苦笑した。
チョコレートパフェ、チーズケーキ、ハンバーガーとフライドポテト、ラズベリーのタルト、フルーツサンデー。ヤスミンは、ゆっくり時間をかけて、それらを平らげた。僕はチーズハンバーグのセットを食べた後、ビールとツマミを頼んで時間を調整しなければならなかった。
食事を始めた時刻が早めだったので、レジで支払いをする時に時計を確認すると、まだ二十時前だった。僕が公園を通って帰ろうと提案すると、ヤスミンは少し困った顔をする。
「犬がいたら追い払ってやるよ」
「ほんとね?」
ヤスミンは何度も確認して、ようやく頷く。
「あ、でも、買い物はもういいの?」
店は、まだ開いてるし。
「今日はもういい」
「そっか」
ヤスミンが差し出してきた手を繋いで、僕らは公園へと続く道に向かう。
「ジードは欲しい物ないの?」
「僕は、別に無いなぁ」
「あのオレンジジュース、売ってるお店あるかもしれないわよ?」
「そうかな。だったらいいんだけど」
「探してみましょ」
それが自分の楽しみでもあるかのように弾んだ声を上げるヤスミンと、僕のコレクションについて話しながら歩いた。
綺麗な物にしか興味が無さそうなのに、何故かこの子は、僕の王冠にとても興味を持ってくれている。照れくさいような嬉しいような変な気分だ。自分の事に関心を持たれるなんて好きじゃなかったはずなのだが、我ながら不思議だ。
夜の公園といっても、この街では外灯がふんだんに設置されていて、昼間のように、とはいかないけれど、けっこう明るい。遊歩道には相変らず紙屑ひとつ落ちていなくて、管理が行き届いていることを伺わせる。
「そういえば、大きな噴水があるらしいよ」
ホテルのフロントの女性が言っていたのを思い出した。この公園の真ん中に、観光名所として作られた大噴水があって、夜はライトアップされているらしい。
ヤスミンが興味を示したので、僕らはそこを目指した。所々に道順が表示されていたので、迷う気遣いはない。
こんな明るい所でライトアップなんかして意味があるのかなと思ってたんだけど、実物を見て唖然とした。
確かに大きな噴水だった。一周百メートル以上は確実にありそうなそれは、作風が違う前衛芸術家同士が酔っ払って意気投合したノリで作ったコラボ作品のような胸焼けする装飾が施されていて、その陰影が色とりどりのライトに薄気味悪く照らされている。それだけでもガッカリなのに、あろうことか、その「噴水」は水を噴射していなかった。人工の池に貯まっている水は濁ってはいないし臭いも無かったけど、これじゃあ、あんまりである。
僕らは暫くそれを眺めていたが、ヤスミンがポツリと呟いた。
「…すっごいわね」
それから、二人でひとしきり笑った。笑い終わって、傍にあったベンチに並んで座った。
「人気の無い観光スポットなのね」
「だからって、これは酷いよなぁ」
「ただ綺麗なのよりは印象に残るわ。だって絶対忘れないでしょ」
「まぁ、そうかもしれないけど、観光地としては間違ってるよ」
ヤスミンが、もっとよく見たいと言うので、僕らは噴水の周りを一周することにした。
「ここまで趣味が悪い物って、そうそう見られるものじゃないわ」
という言葉通り彼女は、噴水のデザインや取り付けられている飾りを丁寧に扱き下ろしていく。でも、そのやり方にはユーモアがあって、僕はちっとも不快な気持ちにはならなかった。むしろ、ヤスミンの語彙の豊かさに驚いたくらいだ。
ベンチの反対側あたりに自販機があったので、お茶を買うことにした。ヤスミンはアイスミルクティーで、僕はレモンスカッシュ。
「レモン味のものが好きなのね」
ヤスミンが、変なところに感心する。
「ハンバーグが油っぽかったからさ」
「パフェは美味しかったのにね」
そこからは、ハンバーグ屋の批評会になる。不味くはない店だったが、僕とヤスミンには味が濃過ぎた。パフェは惜しいが、もう一度行きたい店ではないと結論が出たところで、さっき座っていたベンチが見えてくる。
「あ、あの子」
ヤスミンの声が尖った。
ベンチに、少年が座っていた。金髪の巻き毛で、妙にダブついた服を着た彼は、こちらをジッと見ていた。僕らが近づくと、わざとらしく唇を歪めてニッと笑う。
「また会ったね、お二人さん」
馴れ馴れしい口をききながら、僕とヤスミンを順繰りに見た。
僕はこんな子は知らなかったが、油断ならない相手だというのだけは分かる。ハッキリ言ってしまえば、この少年は僕の懐を狙っている。何故か僕は、昔からそういう
黙って通り過ぎようとすると、少年は少し慌てた様子で、僕らの前に立ち塞がった。
「ちょっと待ってよ。まいったなァ、覚えてないの? 俺のこと」
オーバーアクションで呆れ顔をする彼をよく見ると、驚くほど瘦せている。左手に茶色い紙袋を持っていた。
「思い出してくれよ。ほら、あそこで会ったじゃねぇか。えーっと、なんてったっけ…死人が出た、あの宿屋でさ」
喋るとプンと煙草の匂いがする。いや、そんなことより。
「死人が出た宿屋って…ローズガーデンか」
「お、そうそう。そこそこ」
「おまえの顔なんて、見たことないぞ」
僕が反応したので安堵したのか、またニヤニヤ笑いを浮かべる。
「会ったじゃん。俺、覚えてるぜ。あんたたち、買い物かなんかして戻って来た時だよ。綺麗な女の子とデカい男の組み合わせだろ、こっちは忘れねぇよ」
自信たっぷりに言い切られて、僕は脳ミソをフル回転させた。でも、記憶の中に、こいつの顔は無い。
「あなた、さっき、モールにいたわね」
ヤスミンが刺々しく言った。
「あ、見られてた? 美味いドーナツ屋があってさ、他にも色々あの辺には用事があるから。ってかさ、あんたは俺のこと覚えてるんでしょ? だから、あの人混みの中で俺を見つけられたんだよね」
口も滑らかだが、頭の回転も良さそうな少年は、ポケットから煙草を取り出し、咥えた。
「あのさー、あんたたちが、あの宿を出て行ってから大変だったんだぜ。訊きたくねぇか?」
探るような目で僕を見上げてくる。興味がない事はないが、この少年と関わって良いものかどうか。迷っていると、ヤスミンが僕のズボンを引っ張って、目配せしてきた。彼女は訊きたいらしい。
「分かった。で、いくら欲しいんだ」
少年が、してやったりという顔をする。
「話が早いね。察しがいい奴、俺は好きだよ」
「そうか。じゃあ、せいぜいサービス価格で頼む」
ヤケクソな僕の一言が気に入ったらしく、彼は初めて子供らしい笑顔を見せた。
「心配すんなよ、俺の情報はいつも適正価格だからよ」
ケラケラ笑う少年を一瞥して、ヤスミンはベンチに腰掛け、アイスミルクティーを一口飲んだ。そして
「名前を言いなさい」
と『命令』する。少年は気圧される風でもなく煙草に火をつけ一服し、ゆっくりと紫煙を吐いた。
「ネッキスだよ。自分でつけたんだ」
「そう。いい名前ね」
ヤスミンは、ニコリともしなかった。
報酬は食事一回分だというので、僕らと彼は、昼にあのベンチで待ち合わせをした。からかうつもりで、夕食じゃなくていいのかと尋ねたら、ネッキスは至極マジメな顔で、それには情報量が足りないと言った。
「変わってるわよね」
それがヤスミンの感想だ。ホテルのベッドに腰かけて、足をブラつかせながら肩を竦める。
「そうだね」
「私、馴れ馴れしい子は苦手なのよ」
「それだけ?」
「あと、タバコの匂いも」
ヤスミンは顔を顰め、僕もそれにつられて眉を寄せた。
「僕もアレは好きじゃないな」
あの憂鬱な職場を思い出すから。
「彼、私たちを尾けてたよね」
突然の言葉に、びっくりする。
「えっ、ローズガーデンから?」
「まさか。そこまで暇じゃないでしょ。ホテルの案内所で見かけたんじゃないかしら。もしかしたら、私たちと同じ列車に乗っていたのかもしれない」
言われてみれば確かに、ネッキスはあのベンチで僕らを待ち伏せしていたようだった。
「モールでうっかり姿を見せなきゃ気がつかなかったわ。かなり喰えない奴よ、彼」
「ふぅん、君がそこまで言うなら用心しておいた方がいいね。いや、いっそのこと、約束すっぽかして街を出てしまうとか」
別に弱気になったわけじゃない。少しばかり面倒だなと思っただけだ。でもヤスミンは、僕の気持ちを見透かすように、苦笑した。
「なんで私たちが逃げなきゃならないの。それに、商談は成立しちゃってるんだからね」
「でも…」
「喰えないけど怖い相手じゃないわ。それに、知りたいんじゃないの? どうなったのか」
そりゃそうだけど。
「奴は、どの程度のことを知ってるのかな」
「そうね…きっと自分が見たままの事を教えてくれるわよ。それで十分じゃない?」
「そうかな」
「そうよ。それにね、お爺ちゃんより、ずっと色々な所を見ているわ、ああいう子はね」
そう言うヤスミンの顔を見て、この子はそれほど彼の事を嫌ってないんじゃないかな、と思った。
ホテルの朝食バイキングには甘い物が無かったのでヤスミンはとても不満そうで、僕らは、早い内からまたモールへと繰り出した。
幸いにも、昨日のカフェはもう開いていて、ヤスミンはじっくりと、気が済むまでケーキを堪能する。僕はコーヒーと、やっぱりレモンパイを頼んだ。この店のは僕の好みの味で、実はかなり気に入っていた。
今日は店内で食べていたのだが、オーナーらしい中年の女性がヤスミンに声をかけに来た。可愛いだの髪が綺麗だの、僕の事など眼中にない様子に呆れる。ある種の女性はヤスミンに夢中になってしまうらしい。なんというか、その…お節介が好きなタイプの女性は。
さすがにヤスミンは慣れているのか、全ての褒め言葉をにこやかに受け流している。どっちが大人だか分からないな、全く。
ウンザリしかけていると、ケーキを食べ終わったヤスミンが、テーブルに置いた僕の手を小さく引っ張った。
「兄さん、そろそろ約束の時間じゃない? ここのケーキとても美味しいから、お土産に買って行きましょうよ」
「うん、そうしよう」
彼女が出してくれた助け舟に、僕は一も二も無く乗った。
僕が会計を済ませている間にヤスミンは、名残惜しそうな女主人が手ずからから包んでくれた数種類のケーキの箱を持ち、速やかに店を出て行く。
「また、いらしてね」
熱心に言う婦人に愛想笑いを返して、僕も後に続く。
「あの人、私じゃなくて、これに興味があるのよ」
並んで歩き始めると、ヤスミンが小声で言って、イヤリングを触った。
「え、なんで分かるの」
「彼女が何処を見てたか気がつかなかった? それに、やたらと私の髪を褒めて、結ってあげましょうか、とか言ってたじゃない」
「そうだったっけ」
「まさか盗るつもりは無いでしょうけど、良く見たいとは思ってたんじゃないかな。子供がこんな大きな石をつけてても本物だと思う人なんて滅多に居ないんだけど、気をつけなきゃ」
「…こういうこと、よくあるの?」
質問に、ヤスミンは答えなかった。僕も重ねて訊こうとは思わなかった。
彼女の足が、公園へ向かっているのに気付く。
「まだ約束には早いよ」
「分かってる。あのベンチでケーキの続きを食べたい。お茶も買ってね」
「ああ、なるほど。いいね」
まだ食べるのか! というのは、言わないでおいた。
「なんで、これからメシに行くってのに、そんなモン食ってんだよ」
約束の時刻より少し早くやって来たネッキスは、僕らを見て口を尖らせた。彼の文句も、もっともだ。ヤスミンは最後のケーキを頬張っている最中だったし、僕の手には、屋台の焼き栗の三角の包み紙があったから。ここに来る途中でみつけて、なんとなく買ってしまった物だった。
「食べるか?」
まだたくさん残っている焼き栗を包みごと差し出すと、ネッキスはその中から一掴みだけ持っていき、今日も持っている紙袋の中に入れる。このくたびれた茶色の紙袋は、きっと彼の鞄なのだ。
「そっちがくれるって言ったんだからな。これで昼飯の代わりってのはナシだぜ」
「そんな狡い事はしないよ」
信用ないなと思ったが、それはお互い様なので口には出さない。ネッキスは僕の顔を見据えて、ニヤッと笑う、
「ま、確かにあんた、人が良さそうだもんな」
ヤスミンが、プッと吹き出した。
「あなた、言うわねぇ」
初めてヤスミンに好意的な口調で話しかけられて、ネッキスは少し頬を赤らめる。なんだ、コイツやっぱりヤスミンを意識してたんだな。僕のニヤニヤ笑いに気付いたのか、彼は小さく咳をして、体勢を立て直した。
「あんたら、兄妹なんだって」
「なんで知ってるんだ」
「あの宿の女将が言ってた。なんかすげぇ気にしてたよ。また来てくれないかしらって」
「あなた、あそこに泊まってたのね。その割には食堂で会わなかったじゃない」
ヤスミンに問い詰められ、ネッキスはちょっとバツが悪そうな顔をした。
「そのへんは、まぁ…俺にも事情があるんだよ。俺は、あんたらの事は知ってた。目立つから」
いつの間にか観察されていたかと思うと、どうにも不愉快だ。が、努めて顔に出さないようにした。
「立ち話は落ち着かない。飯にしよう。食べたい物あるのか」
「昼メシ食わせてもらう時は、ハンバーガーって決めてんだ、俺」
またハンバーグか。ヤスミンもそう思ったに違いないが、僕らは異論を唱えなかった。
「ねぇ、あなた、この街に住んでるの?」
ヤスミンの問いに、ネッキスは自慢そうに頷いた。
「そ。いい街だよ。寝る場所にも困らないし、食いっぱぐれも無い」
その言葉で、彼が浮浪児だってことが分かった。その割には小奇麗な格好をしているが。
「じゃあ、美味しいお店を知ってるのね」
「あんたの口に合うかは分かんねぇけど、安いし量もある。なによりイイのはワガママがきくところだな」
ネッキスが、ついてくるように、というジェスチャーをするので、僕たちは後に続いた。
「その店は遠いの?」
「いや、そうでもねぇけど…道が入り組んでんだよ」
観光客は滅多に来ない店なんだ、と彼は言った。
「あと、音楽がうるさいから秘密の話すんのに向いてんだよね」
「そんなに人目を憚る話なのか」
「だって、人が死んでるからさ」
咎めるように言われて、まぁそうか、と納得する。怪しい奴だが、普通の倫理観はあるらしい。
公園の出口付近にあったゴミ箱に、空になったケーキの箱を突っ込み、焼き栗は結局ネッキスに全部やった。
「これは僕の厚意だから。君のメシ代を削るつもりはない」
そう念押ししたのは、お人好しだと言われたのをちょっと根に持ってるからだ。
モール街の、今日も人でいっぱいの通りを裏道に抜け、小さな路地を何度も曲がって、自分ひとりでは元来た道に戻れるのか怪しくなってきた頃、そのハンバーガーショップに辿り着いた。漠然と古びた店構えを想像していたが、とんでもない。表通りに並んでいる店にも引けを取らないほど、洒落た造りの店だった。バーガーショップというよりは、気の利いた洋食屋といった方が、しっくりくるような。
いかにも常連といった気安さで、ネッキスは上品な色合いの木製扉を開き、僕らを店内に招き入れる。確かに彼が言うように、外国の音楽がそこそこ大きな音量で流れていた。けっこう奥行きがあって、ボックス席が十卓ほどと、カウンター席がある。
カウンターの中には長身の(僕より大きい)瘦せた老人がいて、この人がマスターなんだろう。ネッキスを見ると、親しみのこもった笑みを浮かべた。
「お客さんかい」
声が驚くほど若い。
「そ。いつものやつ頼むよ。三人前」
ネッキスは勝手に注文を済ませてしまい、一番奥のボックス席に僕らを座らせる。
「ここが俺の指定席なんだ」
そう言うと、僕とヤスミンに飲み物の好みを訊き、自分の分と併せて大声でオーダーする。そんな時の彼の声は、素晴らしく通りが良かった。
「嫌いな物、無いよな」
ネッキスが訊くのに、ヤスミンは呆れた顔をする。
「もう頼んじゃってるじゃない」
「そうだけどさ。いちおう、ね」
「そんな気遣いなら、しない方がマシだな」
「厳しいなぁ」
言葉とは裏腹に大して堪えていない様子で、彼は煙草を取り出した。
「それ、我慢してくれない?」
ヤスミンが素早く文句をつける。
「あ、ダメなのか。いいよいいよ。俺もね、止めなきゃなぁとは思ってんの。体に悪いし」
意外にも素直に、彼は煙草を『鞄』に仕舞い込んだ。
「その中、他には何が入ってるんだ?」
軽い好奇心で訊いてみる。
「何って…ちょっと口に入れる物だよ。さっき貰った栗みたいなさ。棒付き飴が多いかな」
「あなた、甘い物が好きなの?」
ヤスミンが少しだけ身を乗り出す。
「あんたには負けるけどね。俺、あんな一気にケーキは食えないや。安い砂糖の味が好きなんだよね」
「じゃあ、これはどう?」
ヤスミンは、テーブルの上に飴玉の包みをバラリと出した。この子は、いつもどこかにお菓子を隠し持っている。ネッキスはそれを一つ摘まんで、ポイと口に放り込んだ。しばらく口中で転がして、何度か頷く。
「いいな。ちょうどいい感じだ」
「それなら持っていって」
「あんたら、そう気前がいいと悪い奴に目ぇつけられるぜ」
呆れつつ、ネッキスは飴玉を大事そうに袋に入れる。
「紙袋じゃ、不便だろう」
「飴の時はね。でも、替えはそこら中にあるし」
「本当は皮袋がいいんだ。大きいやつなら他の使い方も…」
あれ、僕はそんな袋を持っていたっけ? 覚えがないのに、どうしてこんなセリフがスラスラと出てくるんだ。
「そりゃ分かってるけどさ、高ぇんだよ。俺みたいなモンには手に入らねぇ」
僕の混乱に気付かずに、ネッキスはボヤく。
「…そうだな…子供には難しいな」
動揺を抑えて返事をしたものの、ヤスミンが僕をじっと見ているので冷や汗が出てくる。
少し気まずい雰囲気になった所に、マスターが注文の品を持ってきた。老人はヤスミンを見て、わずかに目を見開いた。ハンバーガーの皿を置く手が震えていた気もする。
「ごゆっくり」
そう言ってカウンターの中に戻って行ったのだが、顔色も良くなかった。
「あんたみたいな綺麗な人、見た事ないからビックリしてんだぜ、あの爺さん」
ヤスミンはそれに応えず、マスターの方を見ながら悪戯っぽく笑った。
「さて、じゃあ始めっか」
ネッキスが急に真面目くさった顔になり、最初の言葉を探すように視線を泳がせた。
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