マイロン(2)

 夕食の席は、最悪の雰囲気だった。息子たちが帰ってきているからだ。

 クラバース氏は黙り込んで酒ばかり呑んでいるし、夫人は、夫と息子の顔色を伺ってオロオロしている。メイドたちも居心地悪そうだ。

 一応、紹介はされたものの、話が弾むわけもない。

 長男のウォルターは実業家で、三十も半ばくらいだろうか。なかなかの男前だが、目つきが冷たい。プライドが高そうなのは一目で分かった。こいつは、僕のことは一瞥しただけだが、ヤスミンにはさすがにちょっと目を見張った。だからといって甘い顔を見せる事もないのだが。

 次男のピートは歯科医だ。上背はあるが小山のように太っている。鼻や目が肉に埋もれたようになっているので顔立ちの本当のところはよく分からないが、あの夫婦の子供なのだから、そう悪い容貌ではないのだろう。優しげな、といえば聞こえはいいが、気の弱そうな男だった。年は僕より少し上だろうか。彼は、ヤスミンの顔もまともに見られないほど、はにかんでいた。

 どちらも独身だと、夫人が言っていた。

「僕たちは、仕事や付き合いで殆ど家には居られなくてね。そのせいか、親父たちはよくお客様を招くんです。寂しいんでしょうね」

「はあ…」

 お急ぎでないなら、ゆっくりしていってください…などとウォルターは言ったが、本心じゃないのは明白だ。あからさまに不愉快な態度をとると、両親の思う壺なのが分かってるんだろう。

 家族揃った晩餐とはとても思えないが、僕らはどうせ他人だし、何もできない。

「ヤスミンちゃん、今日はお買い物に行けなくて御免なさいね。約束してたのに」

 気詰まりな空気に耐えられなくなったらしいクラバース夫人が、無理に明るい声を出した。

「お婆ちゃん、疲れてるでしょう? 顔色が良くないもの。無理しないでね」

 息子たちがいるからといって、ヤスミンは夫人に対する態度を変えたりはしない。むしろ、昨日までよりずっと親身な言葉を口にする。

「ヤスミンちゃんは優しいのねぇ。大丈夫ですよ、明日こそ出かけましょう。私とヤスミンちゃんと二人きりでね」

「本当? 嬉しいな」

 ヤスミンが上手に甘えるのに、夫人は声を詰まらせ感激しているようだったけど、重たい空気はちっとも変わらなかった。



 翌日、朝食の席には息子たちは居なかった。既に外出してしまったのか、まだ起きていないのか、僕らには分からない。わざわざ訊こうとも思わないが。

 ヤスミンは、本当に夫人と出かけてしまった。お供はメイサで、運転も荷物持ちも彼女で間に合うらしい。

「アタシも行きたかったよぉ」

 置いていかれたファニーがボヤくのを『まぁまぁ』と宥めて、僕はまたアーケードに向かった。目的は、あの雑貨屋だ。

 屋敷を出た時、ふと、このまま消えてしまったらどうなるかな、と思った。そんな度胸は無いけれど。

 昨日の店に顔を出してみると、婆さんはちゃんと僕を覚えていて、ジュースはあれきりしかなかったと申し訳無さそうに言った。少し残念だったが、仕方ない。わざわざ探してくれたお礼代わりに板チョコを三枚ほど買って、雑貨屋を出た。

 このまま屋敷に戻っても、クラバース氏と差し向かいの昼飯じゃ気が重い。その辺で適当に腹をふさいでいくことにした。

 喫茶店に入ってオムライスを注文し、それをパクついてたら、いきなり肩を叩かれる。

「昼飯には早いんじゃない?」

 見上げると、エルが立っていた。

「なんで?」

 僕の間抜けな質問に、彼は例の人懐こい笑顔を向ける。当然という態度で向かいに腰を下ろし、ウエイトレスにコーラフロートを注文した。

「俺だって息抜きしたいからね」

「君はそんなに真面目には見えないけど」

「えー、俺、頑張ってるよぉ」

 いや、あんたとファニーは気楽にやってるようにしか思えないんだけど。

「今日は、君が運転しなくてよかったのか?」

「へいきへいき。メイサさんは俺より上手いからね、運転。俺が来る前は、あの人が運転手もしてたんだもん」

「そうなの?」

「力だって俺よりあるし」

「へえ」

 コーラフロートがきて、エルはそれを一口飲み、唇の端を上げる。

「あんたはハブられたんだ、買い物」

「女同士で気兼ねなく色々見て回りたいんだろ。僕も、その方が有り難い」

「女の買い物は長いからなあ。俺もカンベン」

 それから暫くの間、僕とエルは、女の買い物の理不尽な長さについて、ひとしきり文句を言い合った。

「俺、奥さんを車で八時間待ったことある」

「そりゃ酷いなぁ」

「まぁでも、仕方ないところもあるんだよね、あの人の買い物グセは」

「しょうがないって?」

 そこでエルは少し迷って、それから言い難そうに

「昨夜さ、あの兄弟と晩飯を食っただろ」

「うん」

「どうだった?」

「どうって…」

 居心地悪かった、なんて言ってもいいものか。

「メシが不味かっただろ」

「…まぁね」

「俺が働き始めた頃には、もう最悪に仲が悪かったんだよ、あの親子」

「ふーん」

 そんな話をされても困るな、と流そうとしたのに、エルはグイッと身を乗り出してくる。

「理由、知りたくない?」

「そんなに悪趣味じゃない」

「あれは息子たちが悪いと思うんだよ、俺は。酷いよな、まだ生きてる親の財産を投資に使いたいなんて」

 聞きたくないと言ってるのに、その話をやめる気は無いようだ。

「あんたの前でも、あんな感じなの、彼らは」

「あの二人は俺なんか相手にしてないよ。でも旦那様は、いつだって俺に愚痴ってる。奴らは親不孝者だって」

「へえ」

 あのクラバース氏が、運転手の若造に家族の事を零しているなんて意外だった。そんな人には見えないけどな。

 主人の為に憤慨するエルを適当に宥めて、僕は喫茶店を後にした。



 昼過ぎまで時間を潰して屋敷に戻ると、玄関ホールで長男のウォルターに会った。

「おや、お出かけでしたか」

 言葉は丁寧だが、皮肉だという事ぐらい僕にも分かる。

「妹たちに置いていかれましてね。一人で散歩してましたよ」

「ああ…そういや、母がそんなことを言ってましたね」

「ええ」

「子供というのは無邪気ですねぇ」

 ウォルターは肩をすくめてみせた。図々しい、というのを柔らかく表現したんだろう。確かに僕たちは、老夫妻に世話になり過ぎている。息子としては、さぞかし苛つくだろう。以前の僕だったら、恐縮してすぐに退散してただろうな。でも、ヤスミンと行動するようになってから、僕はずいぶん図太くなっている。こうまで露骨に邪険にされると、開き直りたくなってきた。

「奥さんも、妹といると楽しいみたいですよ」

 僕の反撃に、ウォルターは不快感を剥き出しにする。苦虫を噛み潰したような顔を背け、くるりと背中を向ける。

「母は、女の子を欲しがってましたからね」

 忌々しそうな捨て台詞を残して、屋敷の奥に消えていった。その後姿を見送っていると、すぐ傍で小さい笑い声がした。いつの間にかファニーが立っている。

「やあ」

「あなた、けっこう言うのね」

「普通だよ」

 買ってきた板チョコを彼女に一枚あげてみると、ちょっとだけ喜んでくれた。和む。

「ね、何か飲む?」

 訊かれて、コーヒーと答えると、キッチンに連れて行かれた。

「内緒で一番いい豆使ってあげようか」

「いや、僕は味の違いは分からないから」

「そうなの?」

 ファニーはつまらなそうな顔して、インスタントコーヒーをカップに注いだ。そうそう、僕はその方が飲み慣れてる。

「ヤスミンちゃん、今日は何を買ってもらってるのかしらねぇ」

 チョコレートを食べながら、ファニーは心底うらやましそうだ。

「さぁ」

 ヤスミンはリボンがどうこう言ってたけど、それだけで済むとは思えない。荷物はあまり増やさないで欲しいんだけどなぁ。

「あたしも、あのくらい可愛く生まれたかったな。人生が楽しそう」

「どうして?」

「何でも思い通りになりそうじゃない?」

 能天気なファニーの意見に苦笑した。

「そんなに甘くないんじゃないかな」

「そうかなぁ…少なくとも、フラれることはないでしょ、きっと」

 ファニーは唇を尖らせる。

「君、フラれたんだ」

「なんで分かるの」

 この流れで分からない方が、どうかしてる。

「誰? 僕が知ってる奴かな」

「秘密に決まってるでしょ」

 ってことは、知ってる人間だ。選択肢は少ない。というか、一人しかいない。エルだな。へえ、そうなんだ。特に興味は無いから、これ以上訊かないけどね。

「夕食は何かな」

「今日も海老よ。ヤスミンちゃん、好物なんでしょ? だから奥様が、今夜もそうしろって」

 急に話題を変えても、ファニーは気にしない。

「僕も海老は好きだ」

「そう。良かったじゃない」

 チョコレートのついた唇をペロッと舐めて、彼女は気のない調子で言った。



「そんなこと心配してたの?」

 紙袋から金色のリボンを取り出しながら、ヤスミンは呆れた声を上げた。

「僕の鞄の余裕はそんなに無いからね」

「知ってるわ」

 ヤスミンの小さな手が、クルクルとリボンを玩ぶ。

「今日はこのリボンだけ」

「そりゃ良かった」

「でも、他を断るの大変だったのよ」

「だろうね」

 婆さん、君を気に入ってるから。さすがのこの子も困っただろうな、と思わずニヤついた僕の隣に、ヤスミンは腰掛ける。

「だから、仕方なくコレだけ頂いたの」

 僕の目の前に差し出したハンカチを、ヤスミンはそっと開いてみせた。

「あ…」

 大きな赤い石がふたつ。ルビーだろうか。

「なに、これ」

「綺麗でしょ? お婆ちゃんが若い頃、お気に入りだったイヤリングなんだって」

 ああ、だから二つあるんだ。よく見てみれば、金の金具がついている。確かに綺麗だね。そして君に似合うだろうな。でもさ。

「これ、すごく高いんじゃない?」

「さあ、分からない。訊いてないから」

 ヤスミンは、手の中でイヤリングを転がしている。

「夕食の時にでも、つけたら?」

「ダメよ。家の人には内緒でくれたんだから」

「…どういうこと?」

「息子たちに知られたくないの。嫌われたくないのね」

「ふぅん。じゃあ、僕らに構わなけりゃいいのに」

「そういう訳にはいかないのよ。だって、あの人、私たちにも好かれていたいんだもの、素敵な人だって思われていたいんだもの」

 欲張りなお婆ちゃんね、と言いながらヤスミンは、またイヤリングをハンカチに包み、僕の鞄の底にしまい込んだ。

「引き上げ時ね」

「もう用は無いのか?」

 あの宿では、随分のんびりしてたくせに。

「あなたが居たければ、少し我慢してもいいけど」

「いや、僕は今夜にでも出て行きたいよ」

 僕の返事に、ヤスミンはニッコリ笑った。



 もちろん黙って出て行くわけにはいかない。クラバース氏に挨拶をしに、彼の部屋を訪ねた。

「そうかね」

 老人は悩ましげな顔を僕に向けて、まずそう言った。

「ええ。たいへんお世話になりました。とても感謝しています。それから…」

 僕が財布を出そうとポケットに手を突っ込むと、クラバース氏は片手を上げて、僕の動きを制した。

「そんな気遣いは無用だよ。君は、私に恥をかかせる気かね」

 脅すような強い語調で言われ、面白くない。

「僕にだって自尊心はあります」

 あなたは、貧乏人に施して気分が良いかもしれないけどね。

 僕の顔色を読んだのか、老人は苦笑する。

「いや、そういうつもりはないんだ。私がそれを受け取ってしまうと、家内が悲しむ。気を悪くしたなら謝る。だから、このまま私たちの厚意を受けてほしい」

 そこまで言われては、こっちもこれ以上強い態度には出られない。さすがに年の功というべきか。

「分かりました。ありがとうございます」

「有難いよ」

 僕が頭を下げると、クラバース氏は微笑む。

「僕ら、明日早く失礼するつもりです」

「それだがね、君、妹さんを此処に置いていくつもりはないか?」

 きた、と思った。

「それはダメですよ、クラバースさん。そう何もかも思い通りにはなりません」

 ずっと用意していた答えを言ってやると、彼は『そうだろうな』という風に頷いた。

「君なら、そう言うだろうと思っていた。家内にもそう言ったんだが、どうしても訊いてくれと聞かなくてね」

「妹も、奥さんのことは好きだと言っていました。また遊びに来ますよ」

「ぜひ、そうしてくれ。待っているよ」

 家内の説得は私に任せてくれ、と言って、氏が差し出した手を僕が握ろうとした時、部屋のドアが乱暴に開かれた。

「なんの相談ですか?」

 現れたのはウォルターだった。父親が、僕と何を話しているのか気になったんだろう。

「うるさい。おまえには関係ない」

 さっきまで浮かべていた柔和な笑みを引っ込めて、老人は険しい顔をする。

「関係なくはないですよ。僕はあなたの息子なんですからね。余計な者を家に入れようとするなら、ちゃんと相談してもらわないと」

 僕のことを憎憎しげに睨み、ウォルターは父親の傍に近づく。うんざりした僕が口を開こうとすると、クラバース氏が目配せしてきた。

「私がおまえに許可を取らなければならない事など、何ひとつ無い」

「お父さん!」

「大体おまえは、いつまでこの家に居座るつもりなんだ。まともに帰って来ないなら、さっさと独立すればいいだろう」

「実の息子を追い出すつもりですか!」

 これ以上は、クラバース氏も聞かれたくないだろう。僕はそっと部屋を出た。二人とも、もう僕なんか眼中に無いようだし。

 財産があるのも、わずらわしいものなんだろうな。何も持たない僕が、それを心配するのは滑稽なことなんだろうけど。

 与えられた部屋に戻って、驚いた。ヤスミンと次男のピートがソファに座って話をしていたからだ。といっても、主に話しているのはヤスミンの方みたいだが。

「あ、お帰りなさい」

 僕の顔を見て、ヤスミンは無邪気な笑顔を向けた。それとは対照的に、ピートは目に見えて緊張する。

「こんにちは、ピートさん」

 僕が挨拶すると、彼はゴニョゴニョと何かを呟く、おそらく挨拶を返したんだろう。

「これ、いただいたの」

 さっそく微妙になった空気など気にせず、ヤスミンはビン入りのキャンディを手にとってみせる。

「ああ、ありがとうございます。妹は甘いものが好きなんですよ」

「うん…そうみたいだね」

 ピートはのったりと言って、上目遣いに僕を見た。ああ、こいつも僕に何か言いたいのだ。

 ヤスミンに目を遣ると、彼女は何も気付いていないという顔をして、両足をブラブラさせている。分かったよ、席を外す気は無いんだな。

「で、なにか用でも?」

 どうせ碌な話じゃないんだろうから、さっさとしてくれ、という気持ちで僕から切り出した。

「兄貴に会ったかい?」

 意外にもピートは、ヤスミンを全く気にせず話し始める。

「ええ。クラバースさんの部屋でね」

「何か言われただろう」

 探るような目つきが不愉快だ。

「いや別に、僕には何も」

「ああ、親父に突っかかったのか。相変わらずバカだな兄貴は」

 吐き捨てるように言い軽蔑の笑みを浮かべる。この兄弟は、そんなに仲良くないらしいな。

「加勢に行った方がいいんじゃないか?」

「そうだなぁ…ねぇ、君たち、いつまで此処に居るの」

「僕らは…」

「あたしたち、明日出て行くの。行くところがあるから」

 僕の発言をひきとって、ヤスミンが言った。そう…とピートは、あからさまに安堵する。

「じゃあ、兄貴と一緒に親父を責め立てても損だな。アイツだけ憎まれりゃいいさ」

 見た目と違って、こいつの方が食えない奴らしい。

「もう用事は済んだんですよね」

 僕の言葉にニヤッと笑って、ピートは出て行った。初対面の時とは打って変わったふてぶてしい態度だった。

「なんだありゃ。君、酷いこと言われなかった?」

「別に? ただ、お婆ちゃんに何を買って貰ったか訊き出そうとしただけよ」

「教えたのか」

「服と靴をプレゼントして貰ったって言ったわ。嘘ついても、しょうがないじゃない」

「しかし、最初に会った時は、まともに話も出来なかったのになアイツ」

「あの二人、お婆ちゃんの前ではネコを被っているみたい。まぁ、完璧に良い息子って訳にはいかないみたいだけど」

 ヤスミンは、キャンディの入っている瓶をつまらなそうに僕の方へ押しやる。

「いらないの?」

「これ、のど飴だもん。あの人、ものすごーく性格悪いよ」

 言葉とは裏腹に、ヤスミンは楽しげにクックッと笑う。

「兄貴の方が単純なのかもな。人は見かけによらない」

「そうね」

 ヤスミンはソファからピョンと飛び下りた。

「お婆ちゃんの所に行きたい。サヨナラって言わなきゃね」

「旦那の口から聞いてからの方が良くないかな」

 クラバース氏も、そんなことを言っていたし。

「でも、お爺ちゃんは今それどころじゃないんでしょ?」

「そうだね。夕食までにカタがつくかどうか」

 僕らが明日出て行くと、ひとこと言えば収まる揉め事なのだが、あの老人は、それを素直に教えてやる気は無いみたいだからな。

 ヤスミンに従って老婦人の部屋に行った。予想通り、引き止められたり泣かれたりしたが、こればかりは諦めてもらわなければならない。

「それじゃあせめて、もう何日か滞在してちょうだい」

 悲鳴に似た夫人の哀願を、ヤスミンは控えめに、そして断固として押し戻した。

「また来るわ、お婆ちゃん。私のこと忘れないでね」

 クラバース夫人は助けを求めるように僕を見たが、首を横に振るしかなかった。ヤスミンが出て行くというなら、僕にそれを止める術などないのだ。

「残念だわ…」

 ガックリと椅子に沈み込む夫人の手を、ヤスミンはそっと握った。

「私、お婆ちゃんとお菓子を作りたい」

 これ以上ない殺し文句に、クラバース夫人は涙を流して頷いた。



「あら、もう行っちゃうの。寂しいわね」

 菓子作りを手伝いつつ、ファニーは本当に残念そうに言った。メイサは黙っていたが、その顔には落胆の色が広がっている。

「あんただけでも残ればいいのに。子供がいるとお屋敷が明るくなるからさ」

 遠慮のない若いメイドの言いようを、夫人もメイサも咎めない。それどころか、僕の顔色を伺うような顔つきをする。まいったなぁ、と思いながら、僕はそれに気付かない振りをした。

 列車の中で食べられるようにとクッキーやマドレーヌを作る女性たちを、厨房の隅に置かれている粗末な椅子に座って、眺める。

 初めは鎮痛な面持ちだったクラバース夫人も、ヤスミンに無邪気に話しかけられている内に心の整理がついたのか、次第に朗らかな表情になってきた。

「ヤスミンちゃんみたいな孫が欲しいわ」

 などという言葉が出てくる頃には、彼女はすっかり立ち直っているようだった。哀しみが治まってきたからこそ口に出せるのだというのを、僕は知っている。だから、本当はそんなことを思ってもいないファニーが、ペラペラとあんなセリフを吐けるのだという事も。

「ねぇ、うんと甘くしてね」

 そうねだるヤスミンの声音こそ最高に甘くて、この子は、こんな状況に慣れているんだなと感じた。だって、それを聞いている夫人とメイサが蕩けそうな顔をするからね。さすがにファニーは若いだけあってそんな風にはならなかったが、やたら張り切ってマドレーヌを次々と焼いていた。

 キッチンの空気が恐ろしいほど甘ったるくなってきて少々閉口したけど、その空間に居続けるのは、意外と嫌じゃなかったんだ。



 結局、僕らはそのままキッチンで夕食を食べることになった。

 クラバース氏も二人の息子たちも、食事はいらないと言って各々の部屋に閉じ篭ってしまった。

「でも、本当にご飯を抜くわけじゃないの。お互いに顔を見たくないだけなのよね」

それぞれの部屋へ食事を持っていかなきゃならない、とファニーは愚痴っていたけど、僕が同情すると

「まぁいつもの事よ」

 って笑ってみせた。

「へぇ、そうなんだ」

「そ。でもさ、父親と息子なんて、こんなもんでしょ。ウチの親父と兄さんも、そりゃあ酷い喧嘩をしょっちゅうするんだから。男ってのは、ほんと厄介よね」

「僕は喧嘩は嫌いだけど」

「そう? それはそれで、ちょっと頼りないかも」

 好き勝手なことを言うファニーだが、やっぱり憎めない。僕もこんな風に生まれていたら、だいぶ生き易かっただろうにと、羨ましくなった。

 厨房での夕食には、エルも同席した。彼は、メイドたちと一緒にいつもキッチンで食事を摂るのだそうだ。

「俺たち、住み込みだからね。基本的に三食とも屋敷で食べるんだよ」

「ここの料理は美味しいからなぁ。いい職場だよね」

 僕の言葉に、エルはパンを千切りながら笑って頷く。

「本当にそう思うよ。いつまでもここで働いていたいな、俺は」

「あら、アタシだって」

 エルの意見にすぐさまファニーも同意して、クラバース夫人はとても嬉しそうに微笑む。

「それじゃあ、二人とも一層しっかり働いてもらわないとね」

 メイサが冗談めかして言い、全員が笑った。この家に来て、初めての楽しい食事だった。

 ヤスミンが、さっき作った菓子を少し食べたいとねだり、皆でそれを相伴した。

「このクッキー、私が型抜きしたのよ」

 自慢げに彼女が言うのを感心してみせ、僕以外の人たちは『美味しいね』と言っていたけど、ヤスミンの好みに合わせたクッキーやマドレーヌは、とんでもなく甘かったんじゃないかと思う。少なくとも僕は、一口食べて、びっくりした。作ってる時に大量の砂糖を見て、なんとなく覚悟はしていたのに、だ。

 参ったな、と、皿の隅っこに置いた齧りかけのクッキーを、隣に座っているヤスミンが当たり前のような顔をして平らげる。その様子を見た彼らは、また笑った。

 メイサが、僕に肉を取り分けてくれる。

「ジードさんは、甘いモノが苦手?」

「ええ、まぁ」

「あ、そうそう。ジードさんはお酒がお好きなのよね」

 いや、好きじゃないです、と言おうとするより先に、クラバース夫人が手を打って立ち上がった。

「メイサ、お酒の支度をね。そろそろ旦那様にも持って行って差し上げた方がいいかしら」

 老婦人が張り切っているし、メイサもファニーも、エルさえも腰を上げて酒の準備を始めてしまったので、断れる空気じゃなくなってしまった。

「旦那様には俺が持ってくよ。ついでに、ちょっと呑ませてくれないかな」

 暢気に言いながらエルは、グラスや氷の乗った銀盆を持って、厨房を出て行く。

「私も少し頂こうかしら」

 夫人が言い、女性陣も、メイサお手製のカクテルを呑み始めた。僕は、なんだか高そうなウイスキーをロックで勧められた。

 大人たちの酒宴は二時間ほど続いたが、ヤスミンは退屈した様子も見せず、ずっと果物を食べていた。



 翌日は良い天気で、朝食の席にクラバース氏はいた。息子たちの姿は無かったが、気になっても訊かない方が良いのは分かりきってる。

 簡単な朝飯を食べながら、僕らは改めて別れの挨拶をし、ヤスミンはもう一度、再訪の約束をした。

 いよいよ屋敷を出る時には、ファニーがバスケットを手渡してくれた。

「昨日のお菓子と、お弁当とお茶が入ってるんだ。列車の中で食べてね。サンドウィッチはアタシが作ったから、味の保証はできないけどさ」

「ありがとう。ありがたくいただきます」

 僕が受け取ったバスケットをヤスミンが持ちたがって、それは小さい体には重いだろうと思うのに、せめて車まで持って行くんだと頑張り、また老婦人を涙させる。

「駅まで送って行きたいが、別れが辛くなりそうだからね。私たちは、ここで見送らせてもらうよ」

 クラバース氏は少し疲れた顔をしていたが、それでもゆったり笑って僕の手を握った。

「元気で。是非また顔を見せてくれたまえ」

「はい。本当にお世話になりました。ありがとうございました」

「何か困った事があったら、すぐに知らせてくださいね」

「お心遣いありがとうございます。奥さんもお元気で」

「お婆ちゃんたち、また来るからね。ずっと元気でいてね」

 ヤスミンは順繰りに夫妻に抱きついて、それからピョコンと頭を下げた。彼女は、夫人に買ってもらった服と靴を身に着けていて、その姿は例えようもなく可愛らしい。

 僕もお辞儀をし、二人揃って屋敷を出た。晴れてはいるが、相変わらず風が冷たい。車の傍らではエルが待っていて、僕らの荷物をトランクに入れてくれた。

「駅でいいんでしょ」

「歩いたっていいんだけど」

「旦那様が送れって言ってるんだから、遠慮なんていらないよ。というか、言いつけ通りにしないと俺が怒られちゃうからね」

 急かされるように車に乗って、駅へと向かう。

「君にも世話になったな。ありがとう」

「なんか世話したっけ? まぁでも、俺も礼を言いたいな。楽しかったよ」

 そう言ったエルがとびきりの笑顔を向けるので、僕もつられて笑った。

「ねえ」

 ヤスミンが、運転席の方へヒョイと体を乗り出した。

「私が次に来る時は、また迎えに来てくれる?」

「もちろん。それが俺の仕事だからね」

 それきりエルは、駅に着くまで無言だった。だから僕らも黙っていた。けど、別に気まずいわけでもなく、僕は車外の景色に目をやり、ヤスミンはずっとウトウトしていた。

 駅でエルと別れる時も、お互いに短く『じゃあ』と言葉を交わしただけだったけど、それで十分だという気がしていた。

 バスケットを持ったヤスミンに

「どこへ行くんだい?」

 と訊くと

「デスギナフ」

 と、すぐに返事が返ってきた。

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