マイロン(1)
「どういうことだね」
呆然としている僕を押しのけるように、クラバース氏が駅員の前に立つ。
「ん、あなたは?」
「私も彼と同じ宿に泊まっていたんだ。何かあったようだね。誰かが亡くなったのかね。私は医者だが、お役に立てるかもしれない」
「お医者さんかね」
駅員は少し考えて、それからクラバース氏を僕らから引き離し、何やら話をしていた。
「申し訳ないが、奥さん、旦那さんをちょっとお借りします。駅前に喫茶店がありますから、皆さん、そこで待っていてください」
クラバース夫人は青い顔で頷いたが、僕は迷った。ザックはいけ好かない奴だったが、このまま知らん顔をしていいものか。ついさっき言葉を交わしたばかりだ。それに、女将さんのことも気にかかる。でも…
迷っている僕の手を、ヤスミンが握った。僕を見つめる目が『行くな』と言っている。この子でも、怖いと思う事があるんだろうか…と思ってしまうほど頼りない表情だった。
看板の字が薄れて読めない古ぼけた喫茶店の窓際の席に、僕ら三人は落ち着いた。僕としては、もっと目立たない席が良かったんだが、女性陣がさっさと場所を決めてしまったのだ。
オーダーを取りに来たウエイトレスが、ヤスミンを見て、一瞬たじろいだ。気持ちは分かる。この子の美貌は非日常的だから。
僕はコーヒー。夫人はミルクティー。ヤスミンはホットミルクとパンケーキを頼んだ。
「さっき食べたばかりじゃないか」
「寒いと甘いものが食べたくなるの」
「私も若い頃はそうだったわ」
ねぇ、と二人が顔を見合わせるので、僕はなんだか居心地が悪い。
「ジードさんも何かおあがりなさいな。あの朝食は、あっさりし過ぎてましたから」
「いやあの、僕はもともと朝飯は食べないタチでして…」
だから腹いっぱいなのだ、と続けようとするのを遮って、クラバース夫人は三食きちんと食べることの大切さを滔々と語り始める。よくある話で特に目新しいものは無い上に同じ事の繰り返しで、しかも終わりそうにない。
ヤスミンは黙ったまま、時々ウンウンと頷いている。助け舟を出してくれる気は、まるで無いようだ。
「はぁ、おっしゃるとおりです」
と、小さくなっていると、注文の品がきた。
「わあ、すごい!」
置かれたパンケーキを見て、ヤスミンが歓声をあげた。手を叩いて喜ぶ彼女に、ウエイトレスが満足気に微笑む。
「ウチのパンケーキは美味しいわよ」
「ほんと、美味しそう! いただきます」
こちらも満面の笑みを浮かべたヤスミンが、さっそくケーキにとりかかった。
ウエイトレスが自慢するだけあって、パンケーキには見事な焼きめがついている。小さめだが、生クリームやフルーツやチョコシロップで綺麗に飾りつけられていた。僕が子供の頃、おやつに作ってもらったものとは随分違う。
「見た目も味のうちといいますからね」
クラバース夫人の言葉に、なるほどなぁと思う。
ヤスミンは無邪気そうに、それでいて相変わらず上手にパンケーキを食べている。胸焼けしそうな量の生クリームも、彼女の様子を見ていると、とても美味そうに思えるから不思議だ。
女二人が他愛のない話をしている横で、僕は妙な疎外感を覚えつつ、道行く人々を観察する。それしかする事が無いから、しょうがない。
それにしても…と、考える。一体、あのザックに何が起こったんだろう。僕たちが最後に会った時には、特に変わった風ではなかった。事故でもあったのだろうか。どんな死に方をしたんだろう。他人には分からないけど、持病でもあったのかもしれないな。
クラバース夫人もヤスミンも、その件に関して何も言わない。意識的に避けているのかな。確かに、こんな場所でできる話じゃないけど。
窓の外を通る殆どの人は、ヤスミンが視界に入ると目を見開く。もしくは、表情を揺らす。クラバース夫人もそれに気付いていて、彼女の保護者でもないのに何故か誇らしげな顔をする。僕はといえば、ヤスミンと一緒にいると、いつでもこんな風に注目を集めてしまうんだと改めて思い知って、少し恐れを抱いた。たとえそれが、ほんの僅かな期間だとしても、周囲に過剰な関心を持たれるのが身震いするほどイヤなのだった。
「遅いわねぇ…」
二杯目のミルクティーを飲み終えて、クラバース夫人が溜め息をついた。
「そうですねぇ」
気の入らない相槌をうちながら外に目を凝らすと、クラバース氏が足早にこっちへ来るのが見えた。歩き方だけ見ると、青年のような人だ。
「お戻りですよ」
僕が言い終わるのと同時くらいに、彼が店に入ってきた。奥さんと軽く目を合わせ、そのままサッとレジで会計を済ませてしまう。僕は今度も支払いをし損ねた。我ながら要領の悪さに嫌気がさす。後できちんと自分たちの分は払うと言わなければ。
「さ、行きましょう」
夫人に促され、僕らも席を立った。
「ごちそうさまでした! 美味しかった」
ヤスミンは、ウエイトレスに微笑んで礼を言うのを忘れなかった。
駅で切符を買い(ここでも彼らは僕に財布を開かせなかったが、後でまとめて払おうと腹を決めたので、礼だけ言って、いちいち気にするのはやめた)ちょうどやって来た列車に四人で乗り込んだ。
あの駅員はまだ戻ってきていないらしく、会うことはできなかった。
「階段から落ちたんだ」
列車が動きだすと、クラバース氏はそう言って、痛ましげな顔をした。
「女将さんは大丈夫ですか? 息子さんも」
ザックの事もだが、僕としてはそっちも気になる。
「うん、気丈な人だね。あの母親がいれば、息子さんは大丈夫だろう」
クラバース氏は感心したような顔つきだが、僕はミゲルが少し気の毒だった。彼は、これからますます母親にスポイルされていくのではないか。
「その話は、家に帰ってからゆっくり聞きたいわ」
クラバース夫人はピシャリと話を打ち切って、ヤスミンの世話を焼き始めた。と、いっても大してする事など無いけれど。
彼女はヤスミンのスカートの皺を直したり、靴を脱いで楽にしろと言ったり、忙しい。実際に見たことはないが、孫に対する祖母というのはこんな具合なんだろうな、と、ちょっと和んだ。
クラバース氏は疲れたのか、座席に深く腰掛けて目を閉じている。そんな夫の膝に、夫人はそっと自分のショールをかけた。
「年寄り扱いするな」
目をつぶったまま文句を言うクラバース氏の口許が綻んでいる。
「あら、すみません」
そう応じる夫人も微笑んでいて、僕とヤスミンは顔を見合わせて小さく笑った。老人の眠りを妨げないよう、それ以降、僕らは静かに目的地へと運ばれていった。
彼らの住む街までは一時間足らずで着いた。マイロンというこの街の名を、僕は聞いたことがあった。
「確か、皮工芸が有名ですよね。あと、それは立派な美術館があるとか」
僕が、彼らの街についての乏しい知識を披露すると、クラバース夫人は破顔した。
「まぁ、よくご存知ね。小さい街ですのに」
「テレビで見たことがあります。一度来てみたいと思っていました」
最後に心にもないお世辞を付け加えて、夫人を更に喜ばせることに成功した僕を、ヤスミンが面白そうに見つめている。
「迎えの車が来ているはずだ。急ごう」
クラバース氏は、せっかちに列車を降りた。次に夫人とヤスミン、僕は荷物を持ってモタモタついて行く。
改札を抜けると、少し離れた車止めに黒い車が停められているのが見えた。クラバース氏が近づくと、中から瘦せた赤毛の青年が出てくる。
「お帰りなさい! 旅行はどうでしたか?」
愛想の良い笑顔で、クラバース氏に声をかける。
「うん。まぁいつも通りだ」
「あ、お客様ですね」
氏の後ろからついてくる僕らが目に入ったのか、青年はこっちに走り寄ってきた。気が利く奴だ。
「あら、エル。いつもご苦労様ね。荷物を頼みますよ」
「はい、奥様」
エルと呼ばれた青年は、人の良い笑顔を僕にも向けてくる。
「いらっしゃいませ。お荷物を預かります」
「あ…どうも」
お抱え運転手なんて見たこともなかった僕はアタフタしてしまうが、ヤスミンは全く動じず、彼にニッコリと笑ってみせる。
「ありがとう、お兄ちゃん」
「いい子だね。どういたしまして」
明るく返す彼に、僕は少し驚いた。大抵の人は、間近でヤスミンを見ると何らかの反応をするのに、それが一切なかったから。まぁ、でも、そんな人間もいるんだろう…と深く考えずに、僕らは車に乗り込んだ。
荷物を後部トランクに入れ、運転席に座ったエルが、後ろを向いてクラバース氏に訊く。
「すぐ、お屋敷に戻りますか?」
「アレたちはどうしてる」
「私が屋敷を出る時は、まだお帰りじゃありませんでした。メイサさんは階段の掃除をしてたかな」
丁寧に喋ろうとはしているが、エルの口調はちょいちょい砕けたものになる。夫妻はもう慣れているのか、気を悪くする風でもない。
「そうか…では昼食は外でとることにしよう」
「わっかりましたぁ!」
元気よく返事して、お調子者の運転手は車をスタートさせた。
外観からは想像つかないほど車内は広く、いわゆる高級車というやつなんだろう、図体のデカい僕が乗っても狭っ苦しくならないので感心した。僕は車に興味がないので、何という車名なのかはさっぱり分からないんだけど、こんなに乗り心地の良い車に乗ったのは初めてだった。ここは『すごい車ですねぇ』と言っておくのがいいんだろうが、下手に褒めて薀蓄を聞かされるのも嫌なので黙っていることにする。
夫人とヤスミンは、小声で何か話し合っている。時々、僕の方を見てイタズラっぽい表情をする。あんなに年齢が違うのに、そんなことはまるで気にしていないようだった。女ってのは本当に分からない。
ボケッとしたまま車に揺られ、着いた先は巨大な建物の地下駐車場だった。百貨店というやつだろう。子供の頃、一度、連れられて行ったことがあるかもしれない。
エルとは駐車場でいったん別れた。
「あなたも、これで何かお食べなさい」
夫人が幾ばくかの金を握らせたらしく、彼はピョコンと頭を下げ、機嫌よく我々を見送った。
「私は先に店に行っているから、君たちは買い物でもしてから来なさい」
百貨店の一階フロアに僕らを置き去りにして、クラバース氏はエレベーターに乗って行ってしまった。
「あの人、お酒が飲みたいのよ。旅行中は思うように飲めなかったものだから」
ごめんなさいね、と夫人が苦笑する。彼は酒好きなのだが、旅行中は控えることを奥さんに約束しているのだそうだ。
「タチの悪いお酒じゃないのよ。でも、飲み始めるとムッツリ黙り込んでしまうから…せっかくの旅行中にそれじゃあ、私がつまらないからって無理を言ったの」
「それで言う通りにしてくれるなんて、優しい旦那さんじゃないですか」
「ええ、ええ。あの人は、患者さんには怖いって言われてましたけど、私には甘いんですよ」
思わぬノロケ話に、こっちが照れくさくなった。
「お婆ちゃん、私、靴が見たい。ここは革製品で有名なんでしょ? だったら素敵な靴があるんじゃない?」
ヤスミンのワガママそうな物言いにヒヤリとしたが、老婦人は一向に気にならないらしい。
「もちろんよ。実はね、私もヤスミンちゃんの靴を見ようと思っていたのよ。気が合うわねぇ」
「わあ、嬉しい」
微笑ましい会話、だが、なんとなく空々しく感じてしまうのは、僕が疲れているせいかもしれない。ヤスミンに出会ってからというもの、どうも現実感のない生活をしているような気がする。ふわふわと、何もかもが頼りない感じ。まぁ、もっとも僕は元々そんな感じなのかもな。
「さ、ジードさん行きましょう」
促されて、僕は二人の後に従った。
大きなエスカレーターに乗り、三階まで昇る。さすがに夫妻が行きつけらしい百貨店だけあって、僕の記憶にうっすら残るそれより、ずいぶん高級な品物を扱っている店ばかりのようだった。
行き交う客の服装も金のかかった上品なもので、僕は自分の格好が少し恥ずかしくなる。周りの人たちが自分を嘲っている被害妄想にとりつかれそうになるが、もちろんそんな素振りをみせる人は誰もいない。というか、誰も僕なんか気にしていない。そりゃそうか、みんなここに目的を持って来ているんだもんな。
ヤスミンは相変わらず注目されてはいるが、ごく控えめなものでしかない。だが、クラバース夫人は敏感に察して得意げな様子だし、ヤスミンはそれを百も承知で知らないふりをしているのだろう。
磨き上げられたフロアに足を取られないように歩いているのは僕だけで、夫人もヤスミンも他の人たちも、スイスイと足を進めている。
僕みたいな者でも聞いたことがあるブランドの店をいくつも通り過ぎ、クラバース夫人は、僕には読めない名を掲げている店に入った。ワイン色でふかふかの絨毯が敷かれたそこは、靴屋だった。
夫人の顔を見た店員が、急いで近づいてくる。
「これは奥様。本日はどのような物を?」
「こんにちは。今日はね、私じゃなくて、この子の靴を見せてもらいに来たのよ」
「おや。お孫様ですか?」
そう応じてヤスミンを見た店員が、息を呑んだのが分かった。口の形が『ほう』と動くのを、僕は見逃さなかった。
「違うわ。お客様なの。可愛い子でしょう? この子に似合う靴があるかしら」
「お任せください」
うやうやしく頭を下げ、店員は、夫人とヤスミンを子供の靴のある棚まで連れていく。僕も、間抜け面のロバのように付いていった。
「なんて素敵なお店なの」
品良く並べられた商品を見てヤスミンが溜息混じりに呟くのを、店員は頷きながら聞いている。
「お気に召した物はございますか?」
さすが高級店の店員だけあって、彼はヤスミンを大人のように扱う。そして、彼女の方もその状況に慣れているようだった。
「そうねぇ…」
ヤスミンは子供靴の棚を眺め、難しい顔をして考え込んだ。
「私、これがいい」
暫くしてヤスミンが指差した靴は、彼女が欲しがっていた革製のものだった。古めかしい模様が施してあり、飾りの金具がついている。僕は、それによく似た靴を、母の昔の写真で見たことがあった。
「ね、可愛いでしょ?」
ヤスミンが、その靴を手に取って僕に見せてきた。
「僕には、よく分からないよ」
「大変良いご趣味です。履き心地も最高だと思います」
店員はそう言って、置いてあった小さな椅子にヤスミンを座らせた。エナメルの靴を脱がせ、選んだ物を丁寧に履かせる。
「まぁ、ピッタリね」
クラバース夫人が感嘆の声を上げた。
「少し歩いてみてもいい?」
「もちろんですよ」
笑顔を絶やさない店員の目の前を、ヤスミンは何度か往復した。
「うん、どこも痛くならない。まるで私のために作ったみたい」
「気に入った?」
「すごく」
「それじゃあ、これを買うことにしよう」
夫妻ほどじゃないけど、僕だってそこそこ金は持っている。
「あら、それは私にプレゼントさせてくださいな」
クラバース夫人がゆったりとした動作で、財布を出そうとした僕の手を押さえる。
「そういう訳にはいきませんよ。お会いしてから、ご馳走になりっぱなしなんですから」
慌てて固辞する僕を無視して、夫人は店員に目配せする。それを受けて店員は軽く頷き、ヤスミンがここまで履いてきた靴をさっと手に取った。
「こちらはお包みしておきますね」
そう言ってカウンターの方へ行ってしまう。夫婦そろって、なんて強引なんだ。
「お婆ちゃん、ありがとう! すっごく嬉しい」
もう一度断りの言葉を口にする前に、ヤスミンが礼を言ってしまった。僕が渋い顔をしたのに気付いたんだろう、クラバース夫人は頭を下げてきた。
「ごめんなさいね。でも、ここは私のワガママをきいてくださらないかしら」
「しかし…」
「ええ、ええ。自分でも押し付けがましいのは分かっていますよ。でもね、年を取ると、誰かに何かをしてあげるのが楽しくてたまらないの。特に、あなた方のような若い人たちにね。可哀そうな年寄りの道楽だと思って付き合ってやってちょうだい」
哀しげな顔で主張されると、そういうものなのかと思ってしまう。図々しいには変わりないが、僕からも夫人に礼を言った。言いながら、この老夫婦とは長いこと一緒に居ない方がいい、と思った。
「さあ、次はお洋服ね」
クラバース夫人が張り切り、僕はげんなりした。
「ほう、いいね。やはり君は趣味がいいな」
百貨店最上階のレストランの個室で、クラバース氏は酒を呑み、ご機嫌だった。部屋に入ってきたヤスミンを見て驚き、妻に感嘆の目を向ける。
買ってもらったばかりのワンピースに身を包んでいるヤスミンは、確かに一段と綺麗に見える。古い服や靴を持つのは僕の役目だ。
「お食事があるので急いで選んだんですよ。ヤスミンちゃん、明日はゆっくりお買い物しましょうね」
夫人はどんどん勝手に予定を決めてしまう。旦那の方にこの散財を止めて欲しいのだが、クラバース氏はニコニコ笑って頷いている。
もうオーダーは済ませていたらしく、僕らを待っていたかのように、次々と料理が運ばれてきた。
「さ、かけたまえ。少々量が多いかもしれないが、ジード君は若いから大丈夫だろう?」
「はあ…いただきます。すみません」
僕はもう完全に抵抗する気が失せていて、勧められるままに席に着き、食事を始めた。
「良かったら、コレも付き合ってくれないかね」
「ええ、僕でよければ」
差し出されたグラスを受け取り、クラバース氏と軽く乾杯してから琥珀色の液体を喉に流し込む。
「わりとイケるだろう」
「これは美味い酒ですね」
そう答えたものの、実を言えば僕は酒の味が分からない。というか、何を呑んでも不味いとしか思えない。その上、いくら呑んでもまるで酔わないものだから、ちっとも楽しくないんだ。だから自分から呑むことは無いんだが…
「分かるかね。嬉しいな。息子たちは、こっちの方はさっぱりでね。さ、どんどんいこう」
クラバース氏が酒や料理を勧め続けるので、僕は休む間もなく口を動かさなくてはならない。けっこうな苦行だが、お喋りするよりは楽だ。
ヤスミンと夫人は相変らず女同士、楽しげにしている。何が面白いのか、二人とも僕を見ながらクスクス笑っている。
「あなた、ジードさんを少し休ませてあげなさいな」
「なぁに、私の若い頃はこんなものじゃなかったよ」
グラタンを食べ終わったヤスミンが、クラバース夫人に耳打ちする。夫人は微笑んで、ウエイターを呼び、フルーツとパフェを注文した。
この子はいつも甘い物を食べてるなぁ。本当は普通の食事なんか摂りたくないんじゃないだろうか。
「こんな美味しいグラタン食べたの、わたし初めて。パフェはどんなかしら」
「私は頂いたことないけど、このお店なら何を食べても間違いないですよ。ねぇ、あなた」
「うん、そうだな。なにしろ…」
酔って気が大きくなったクラバース氏は気持ち良さげに、お気に入りの店自慢を始める。僕は適当に相槌をうちつつ、目の前のご馳走を必死に片付け続けた。
足元の危ないクラバース氏を支えて、地下駐車場に戻った僕らを素早くみつけたエルが、駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか? 呼んでくれればよかったのに」
言いながら、僕から老人を引き取って要領よく車に乗せた。その様子から、彼がこんな状況に慣れていることが分かる。
「いや、このくらいは役に立たせてください」
「お客さんにこんな事をさせたって知られたら、後で怒られちゃいますよ」
快活に笑い、彼は僕の持っていた荷物を受け取り、トランクに入れる。そして、ヤスミンを見て短く口笛を吹いた。
「似合ってるね。そっちの方がずっといい」
「当然ですよ。私の見立てなんですからね」
「奥さん、趣味が良いからなぁ。僕も気に入ってますよ、これ」
エルが、手袋をした両手を目の前にかざしてみせると、夫人は得意げに鼻をうごめかす。
「さ、家に帰りましょう。泊まっていってくださるわね」
「お婆ちゃんの家、天蓋付きのベッドがあるんでしょう?」
「そうですよ。ヤスミンちゃんには特別に使わせてあげますよ」
はしゃぐ二人を眺めながら僕は、天蓋って何だろうな、とボンヤリ思っていた。
大きな屋敷だが、かなり古い。それがクラバース夫妻の家だった。
「すごいですねぇ」
車を降りて屋敷を見上げた時、ごく自然にそんな言葉が出た。
「なに、親父から受け継いだだけのものだよ」
車中で眠って少し回復したらしいクラバース氏は、少しはにかみながら言う。
「それを維持しているんでしょう? やっぱり凄いですよ」
「…そうかね」
ここで老人は、僕が初めて見る気弱な笑顔を浮かべ、エルに肩を貸されて家の中に入って行った。僕らも荷物を持って後に続く。
広い玄関ホールで、クラバース夫人は大声を上げた。
「メイサ! いま戻りましたよ!」
瘦せた体に似合わない、それは凛とした声だった。いかにも『奥様』という風情の。
「はーい」
元気の良い返事とともに、簡素なメイド服の若い女性が奥から走ってくる。
「お帰りなさいませ、奥様!」
二十才くらいだろうか、平凡な顔立ちで、鼻にかかった声。化粧が変な気がするが、どこがどう変なのかは僕には分からない。
「屋敷の中を走るんじゃありませんよ、ファニー。お行儀の悪い」
「はぁい。すみません」
「しょうがない人ね。主人がいる時は気をつけるのよ」
ファニーという娘は、この家のメイドなのだろう。つまり、夫妻は彼女の主人なわけだが、エルと同様、どうにも口のきき方がなっていない…と僕から見ても思う。けれど、夫人はそれを咎めるどころか甘やかすような態度で接している。僕が口を出す筋合いじゃないが、どうも心配になる。
「それで、メイサはどうしたの? お買い物かしら」
「ええ、そうです。私が行くと言ったんですけど、私じゃ頼りないからって。それで、私にベッドメイクを任せてお花とお菓子を買いに行きました」
喋り方から推測するに、ファニーはそんなに要領は良くないらしい。
「あら、あなたのベッドメイクで大丈夫かしらね」
クラバース夫人の一言に、ファニーはちょっと頬を膨らませ、それからようやく僕に視線を向けた。
「あ、お客様」
「今ごろ気がついたの?」
「だって、この方すごく背が高くて、却って目に…」
言いかけて、ファニーは自分の手で口を塞いだ。
「失礼ですよ、ファニー」
さすがにクラバース夫人が咎める。
「いや、いいんです。図体のわりに目立たないんですよ、僕は」
「まぁ、ジードさんも冗談を言うのね」
夫人はコロコロ笑って、僕とヤスミンをファニーに紹介した。
「わあ、あなた可愛いわねぇ!」
彼女は目を丸くして、ヤスミンと同じ目線にしゃがみこんだ。その表情も声音も、なんだかわざとらしいな、と僕には思えた。
「お二人をお部屋にご案内してね」
「はーい」
間の抜けた返事をして、ファニーは僕の手から荷物を受け取った。
「いらっしゃいませ、お客様。それでは、お部屋へご案内しますね」
愛嬌たっぷりの笑顔で、彼女はようやくまともな挨拶をした。
二階の一番奥に、僕らがあてがわれた部屋はあった。
「お客様は、いつもこの部屋なんだよね」
夫人の目が無くなると、ファニーは更に馴れ馴れしくなった。完全に舐められてるなぁと思うが、それに関しては大して腹は立たない。
「お姉ちゃんは、ここでお仕事しているの?」
ヤスミンも、彼女に合わせて砕けた口調になる。
「ええ、そう。もう二年になるかな。給料いいし働きやすいよ。旦那さんも奥さんも、いい人だしさ。上の息子がちょっとイヤミったらしいけど」
訊かれてもいないことまでベラベラと喋りつつも、彼女の手は意外にもテキパキ動く。元気で明るい雰囲気のせいか、メイドとしては失格な言動もそれほど不快にはならなかった。老夫人はこういう所が気に入っているんだろうな、と何となく思う。
「ねぇ、その服、素敵ね」
自分のスカートの裾をちょいと持ち上げながら、ファニーが言った。もちろん、ヤスミンに。
「お婆ちゃんに買ってもらったの」
ヤスミンはモデルのように、その場でクルリと回ってみせる。たっぷりの布を使った新しいワンピースが、ふわりとゆれた。滑らかな光沢のある沈んだ赤色は少し大人っぽかったが、ヤスミンにはよく似合っていた。
「へえ~、相変わらず気前がいいのねぇ。ね、あなたたち、別にご夫妻の知り合いじゃないんでしょ? 旅先で偶然、知り合っただけよね?」
「はぁ…まぁ、そうです」
言い当てられて、少し驚く。ファニーは、僕の表情を見てケラケラ笑った。
「あら、ごめんなさい。でも、いつもの事なの。あの人たち、旅行から帰ってくると、いつもお客を連れてくるのよ。あなたたちみたいな、ね」
「へえ…」
「それで、色々買ってあげて、ご馳走もしてあげるのよ。変わってるわよね、お金持ちって」
「ふーん」
確かに変な人たちだ。なんの為にそんな事をするんだろう。興味を持った僕は、この何でも喋るメイドに訊いてみたかったが、彼女は勝手に話を打ち切ってしまった。
「それじゃあ、お夕食までゆっくりしててね。用がある時は、このブザーを押して」
ドアの横に取り付けられたボタンを指差して、ファニーは慌しく部屋を出て行った。
「…なんだか、すごいな」
思わず呟くと、ヤスミンは吹き出した。
「いいじゃない。あの人、あなたのこと気に入ったのよ」
「はぁ?」
「…ていうのは冗談だけど」
「分かってるよ、そんなのは」
自慢じゃないが、年下の女性に好かれたことなどない。
「それより…ねぇ、あの宿のおじさん、本当に事故で死んだのかな」
ドキリとした。僕も、それを疑問に思っていたから。
「クラバース氏が、そう言っていたじゃないか」
「でも、あなたはそう思ってないんじゃない?」
ヤスミンは、謎めいた笑みを浮かべる。窓際に置かれたソファに優雅に腰をかけ、僕をじっと見つめる。瞳の色が濃くなったような気がして、ゾクッとした。
「僕は、そんなこと…」
「誰かに殺されたんじゃないかしら」
赤い唇が、詠うように言葉を吐く。
「誰かって…誰に?」
それに誘導されるように質問した。そんなバカな、とは言えなかった。実のところ、僕もそう思っていたからだ。
「ジードの意見を聞きたいわ」
「分からない」
「別に、正解を答えてとは言ってない」
優しく微笑みながら、ヤスミンは僕を追い詰める。ただ、僕には本当に心当たりは無かった。ああいう人間はロクな死に方をしないだろう、と思っていただけだ。
「本当に分からないんだ」
「私、だとは思わない?」
「え?」
「忘れたの? 私、殺人鬼なのよ」
「え、あ…」
そういえば、そんな事を言っていたような気がする。
「忘れてたの? 酷いわ」
「だって、あんなの冗談だろ?」
「人が死んで、近くに殺人鬼がいたら、誰が殺したかなんて考えなくても分かるじゃない」
バカじゃないの、とヤスミンの目が嘲っている。僕は言葉を失った。もちろん、彼女の言葉を信じたわけではないが、なぜか笑い飛ばすことが出来なかった。
目の前の年端もいかない少女に、僕は完全に呑まれていた。体こそ震えていなかったが、ヤスミンの視線から顔を逸らしてしまう。次に何を言ったらいいのか、まるで見当がつかない。
困り果てていると、ヤスミンが大きなため息をついた。
「でも、残念なことに、あの人が死んだ時、私はもう宿にはいなかったの」
「あ?」
「よく思い出して。あの人の死の報せを聞いたのはどこ?」
そうだ。あれは駅前の路上だった。階段から落ちたのが原因だというザックの死に、この子が関われるわけがない。それに気付いた途端、力が抜けた。
「そうだ…そうだよ。君には無理だ」
「じゃあ、おばさんかもしれないわね」
「女将さんが? 自分の夫を? なんで? 理由がないじゃないか」
ヤスミンがとんでもない事を言い出したんで、驚いて声が大きくなった。この子、頭がどうかしてしまったんじゃないか。
「理由はあるわよ」
「そんなもの無い」
「あの宿に必要ない人だったじゃないの、彼女の旦那さんは」
ヤスミンは諭すように言った。
「おばさんが、どんなにあの宿を大事にしているか知ってるでしょう? あんな犯罪者紛いの爆弾、いつまでも抱えていたくないわよ」
「でも、人を殺す方が危険だ。君だって言ってたじゃないか。女将さんは、ザックを監視しているんだって。それを選んだんだろ?」
「誰にも知られずに殺すチャンスがあったら?」
「えっ?」
「私ね、おばさんのこと割と好きだったわ。だから、死神が力を貸してくれたのかもね」
「…もうやめろよ。悪い冗談だ」
僕が睨むと、ヤスミンはイタズラをみつかった時のようにペロリと舌を出した。そしてソファから立ち上がり、頭を軽く下げる。もしかして謝ってくれたのか? いや、まさかな。
顔を上げたヤスミンは、さっきの事など無かったように、無邪気に言った。
「夕食の前に、お茶をもらわない?」
「…うん」
どうも僕は、この子には怒りきれないらしい。
ファニーが持ってきてくれたコーヒーは完全にカフェオレで、しかも滅多やたらと甘かった。飲めなくはなかったが、これは、ブラックでと言わなかった僕が悪いんだろうか。
「ミルクとお砂糖を別添えするのが面倒だったんじゃないかしら」
そういえば、コーヒーカップに皿もついていなかった。まぁ、そんな事はどうでもいいんだが。
問題は、甘いモノを摂ったせいで、あまり腹が減ってないことだ。考えてみれば、昼飯も大量に食っている。
目の前に並べられた夕食の、あまりのボリュームに僕は途方に暮れるしかない。映画でしか見たことない長いテーブルには、ローストビーフ、魚のパイ包み焼き、ローストチキン、炙った鴨肉、たっぷりのサラダ、小振りのホールケーキが何種類も。そして果物。ファニーにスープをついでもらい、妙にかしこまってしまう。
老夫婦の食事の世話は中年のメイドがやっていて、彼女の名はメイサだと、さっき紹介された。若い頃は美人だっただろうなと思わせる顔立ちで、キビキビした動作は見ていて気持ちが良い。僕らに対する態度も丁寧で、特にヤスミンには好感を持ったようだった。給仕をしながら、ヤスミンをチラチラと見ている。幼い子がちゃんと食事が出来るか心配なんだろうが、彼女は僕なんかより、よほど作法を心得ている。
ヤスミンはローストビーフとサラダが気に入ったらしく、ファニーに頼んでそればかりを皿に取り分けてもらっている。僕は鴨肉が口に合った。食べた事が無いわけじゃないが、こんなに美味いのは初めてだ。チキンはクラバース氏、魚のパイは夫人のお好みらしい。なんて贅沢な食卓だろう。
「息子たちを紹介したかったのに、まだ帰らないのよ。ごめんなさいね」
と、クラバース夫人は済まなそうな顔だ。
「まったく、何をやってるんだアイツらは」
文句を言いつつ、旦那の方は健啖家ぶりを発揮している。
なんと応じていいのか分からず曖昧な笑顔を浮かべるしかない僕を尻目に、ヤスミンはケーキの方に取り掛かり始めている。イチゴのケーキの上に更にイチゴを乗せてもらって、実に嬉しそうに、そしてエレガントに食事をしていた。のびのびと屈託無く振る舞う彼女が少し恨めしかったが、僕は大人なので仕方ない。
「息子さんたちは、どんな方たちなんですか?」
僕が訊くと、夫妻は待ってましたと言わんばかりに息子たちの自慢や、彼らへの愚痴を垂れ流し始めた。上の息子は実業家、下の息子は歯科医だという。どちらも親の望む職に就かなかったのが、二人の不満らしい。身内の愚痴を僕に言われても困るわけだが、こういうのは適当に相槌を打ちつつ聞き流せばいいって事は分かっている。
ふんふんと頷きながら鴨を味わう僕の皿の隅っこに、ヤスミンがイチゴをひとつ乗っけてくれた。
長い夕食が終わり部屋に戻って、僕は体を投げ出すようにソファに腰掛けた。スチームヒーターが効いていて、室内はよく暖まっている。
食べ過ぎて腹が苦しい。ヤスミンが欠伸をしてくれなかったら、あの二人の口はまだ閉じなかっただろうな。
「助かったよ。ありがとう」
「あら、気がついてたの」
ヤスミンは、わざとらしく驚いてみせる。
「そりゃね。だって君、ちっとも眠そうじゃないじゃないか」
「お風呂に入りたかったのよ、私」
「なんだ、そうか」
「ジードも汗を流した方がいいわよ。今日はずいぶん歩き回ったんだから」
言いながら、ヤスミンは僕の鞄を開けた。小さな手を中に突っ込んで、着替えを引っ張り出している。
「それじゃ、あのメイドを呼んで…」
「呼ばなくていいわ。このお部屋、ちゃんとした客室よ。ホテル並のね。お風呂も付いてるし、ベッドルームもあるのよ」
言われてハッとした。確かに今いる部屋には、ソファと低いテーブル、小さなチェスト、それに小型のサイドボードしかない。そこで漸く僕は、風呂場や寝室へ通じてるであろう扉があることに気付いた。よく見ればプレートもついている。
「ああ…」
思わず声を漏らした僕に、ヤスミンは笑った。
「ジードは暢気ねぇ」
「うっかりしてただけだ。暢気とは関係ないだろ」
「いいこと教えてあげる。今度からね、宿でも誰かの家でも、部屋の中に入ったら、周りをよぉく観察するといいわ。広さや窓の大きさや、扉の数なんかをね」
何故? と訊きたかったが、答えてくれないのが何となく分かったので黙っていた。
「さ、お風呂にお湯を溜めなくちゃ。ジード、先に入っていいよ。私は時間が掛かるから」
僕が入浴してる間に、寝室の探索でもする気じゃないのかな、と思ったが、やっぱり僕は黙っていた。
順番に風呂を済ませて、一緒に寝室に入った。
「わあー!」
部屋のど真ん中に据えられている大きなベッドには屋根みたいなものがついていて、豪華なカーテンに包まれていた。
「あ、これを天蓋付きっていうのか」
こういうベッドを、僕は雑誌か何かで見たことがあった。
「そうよ、素敵でしょ?」
ヤスミンは嬉しそうにベッドに飛び乗った。
「こんな所で寝るのは初めてだ」
「私は何度かある」
「へえー」
僕も、彼女の隣に腰掛けた。
ここでも二人一緒に寝ることになるわけだが、ローズガーデンのベッドとは正反対だ。なにしろ僕が三人くらい寝られそうなデカさなんだ、この家のベッドは。布団も上等のフカフカで、なんだか良い匂いがする。
「ね、お婆ちゃんたち、いつもお客さんを連れてくるって話よね」
「うん」
「その人たち用の部屋なんだわ、ここは。だから何もかもが立派なのね」
「もてなすのが好きなんだな」
僕の言葉に、ヤスミンは少し考えて
「違うわ。当て付けよ」と、言った。
「当て付け? 誰に」
「息子二人に」
「ああ…」
よくある話だ。親子の仲が上手くいっていないと、お互いにそういう事をする。
「赤の他人に散財するのを息子たちに見せつけて、悔しがらせて溜飲を下げてるの」
「君は難しい言葉を知ってるんだな」
「普通よ。これくらい」
「そうか。僕が君ぐらいの年の頃は知らなかったんじゃないかなぁ、そんな言葉」
「あなたが、私ぐらいの年の時ねぇ…」
ヤスミンが妙な顔で意味有りげに言うので、ちょっと引っかかった。
「なに?」
「ううん。ね。ジードはどんな子供だったの? 今みたいに無口で気難しかった?」
「おいおい、僕だって小さい頃は…」
言おうとして、言葉が続かなかった。僕はどんな子供だったっけ?
ヤスミンと同じくらい年の頃…まだ学校にも通ってなかった頃…今まで覚えているとばかり思い込んでいたけど…
不安になった僕の心を見透かしたように、ヤスミンが手を握ってくれる。
「ゆっくり思い出せばいいわ。あなたが思い出せるまで、私、ずっと待ってる」
「…ずっと?」
そんな約束はしていない…と思いながら、僕はその手を振り払えなかった。
翌日の朝食の席でも、この家の息子たちには会えなかった。結局、帰らなかったのだと、お喋りなファニーがこっそり教えてくれた。そのせいで、クラバース氏は機嫌が悪く、夫人はションボリして元気が無い。そんな二人と摂る朝食は気が滅入る事この上ないが、ヤスミンは全く気にしない。申し訳程度にパンを食べ、あとは菓子ばかりを食べている。
「メイサさんのお菓子、すごく美味しい」
食べながらも、ベテランメイドを喜ばせることも忘れない。
「ほらほら、玉子とベーコンもお食べなさい」
小言を言いつつ、メイサは嬉しそうだ。
「だってお菓子の方が美味しいんだもの」
ケロッと言ったヤスミンは、今度は夫人に声をかけた。
「ねぇ、お婆ちゃん。私、今日はこのお家の近くを散歩したい」
「あらまぁ、この寒いのに体に毒ですよ」
夫人は、急に生き返ったように大きな声を上げた。
「平気よ。今日は良いお天気だもの。私、お散歩が好きなの。楽しいんだもん」
「それじゃあ、私も一緒に」
「お婆ちゃんは疲れているでしょ? だいじょうぶ、お兄さんと一緒だから」
「でも…」
クラバース夫人は、不安げな顔をした。ああ、この人は…
「だからね、今夜はとてもお腹が空いてると思うの。美味しい海老が食べたいな」
「まあ…」
夫人の顔に安堵が広がった。ヤスミンにも分かっていたんだ。夫人は僕らを、いや、ヤスミンをまだ手放したくないって。まぁ、僕にも察することが出来たんだから当然か。
「楽しみね、兄さん」
「うん、そうだね」
ヤスミンの計画に、僕はしっかり乗らせてもらった。
ヤスミンの言う通り、外は晴天で暖かく、急に春が来たようだった。
いい陽気だからか、門扉の傍でエルが洗車をしていて、僕らを見るとお辞儀をした。
「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか?」
「おはようございます。おかげさまで」
「いやあ、俺は何もしてないけどね」
砕けた口調で人懐こく笑う。
それに釣られるように、ヤスミンも微笑んだ。
「私たち、お散歩に行くの」
「そりゃいいね。でも、その恰好はまだ少し早いと思うよ」
「そうかしら?」
ヤスミンは自分の姿を見直した。昨日買ってもらったドレスではなく、僕と出会った時に着ていた古めかしい型のワンピース。それに合わせたのか、靴も宿で貰ったエナメルだ。
「確かに今は暖かいけど、風が吹いたらまだ冷えるよ。今日は午後から日が翳るらしいし」
「そうなの? じゃあ私、コートを着てくる。兄さん、ちょっと待ってて」
言うなり、彼女は屋敷に向かって走って行く。綺麗な髪が陽の光を受けてキラキラと輝いていた。
「子供は元気だなぁ」
エルはそれを見送りながら、また僕に笑顔を向ける。
「元気すぎて少し困りますけどね」
「えーっと、ジードさん、でしたっけ」
「あ、はい」
「俺に敬語なんか使わないでよ。年もそんなに変わらないでしょ? こんな仕事してるけど、堅苦しいの苦手なんだよね」
「あ、すみません」
反射的に謝った僕に、エルは苦笑する。
「あなた、いい人だね」
「え?」
「でも、間抜けだ」
「よく言われる」
僕らは顔を見合わせて笑った。不思議と腹は立たなかった。こういう奴は憎めない。
「散歩するなら、近くにあるアーケードがいいよ。そこを抜けると公園もあるし、通りにはコーヒーが美味い喫茶店もある」
「アーケードか。僕はそういうとこが好きなんだ」
「へえ、なんで?」
「時々、昔ながらの雑貨屋が残ってるだろ」
「雑貨屋か。それじゃ…」
実は世話焼きなタイプなのか、エルは店の場所を教えてくれた。
「親切よね。あの人」
ヤスミンは、僕の前をスキップでもしているような弾む足取りで歩く。
「あの屋敷の人は、みんなそうだね」
「今のところはね」
「そうか。まだ息子に会ってない」
「私たち、すごく邪険にされるわよ。楽しみねぇ」
「僕はゾッとするね」
屋敷の前の通りを右手に十分ほど歩いて行くと、大きなアーケード街があり、なかなか賑わっている。
人混みの中を手も繋がずに、こんな小さい子と歩いていると、はぐれてしまいそうだが、ヤスミンが目立つ為、そんな心配はいらなかった。この子は常に他人の注目を集める。つまり、そうそう人の中に紛れてしまうことが無いのだ。
ヤスミンに言わせると、僕の方も無駄に背丈があるおかげで、見失うことは無いらしい。
このアーケードは大きくて、たくさんの店が並んでいる。名産の革細工の店はもちろん、食堂や喫茶店、洋服屋、日用品店、書店や美容院。この商店街だけで大抵の事がまかなえそうだ。昨日行った百貨店よりも、こっちの方が僕には合っている。
「ねぇ、彼から教えてもらった店はどこにあるの?」
ヤスミンが、くるりと振り向いた。
「君が行きたい所が先でいいよ」
「そんなこと言ってたら、今日中には行けないわよ。私、あなたの好きな店に興味があるの」
「君のお好みの物は無いと思うけどなぁ」
目的の店は、アーケードの外れにあった。
「わあ、古いわねぇ」
ヤスミンが、呆れるより感嘆の声を上げた。
雑貨屋と駄菓子屋が混ざったようなその店は、まったくイイ感じに腐っていた。汚れたシェード、昔に流行ったロゴの店名、テープで継ぎの当たっているガラス戸。おまけに店番は婆さんとくれば、僕の期待は高まった。こういう所には必ず『アレ』がある事を、経験で知っているからだ。
ワクワクしつつ覗いてみると、懐かしい菓子類が並んでいた。毒々しい色をした飴や、ゼリービーンズや、アルファベットの形をしたビスケット。小さい時は、毎日のように食べていた…気がする。
僕は、店の奥にちょこんと座っている老婆に声をかけた。
「すみません」
婆さんは僕の声に反応して、ゆっくり顔を上げる。皺だらけの顔の中に小さい目鼻がついていた。病気でもしたのか、右眼が潰れている。
「はい、いらっしゃい」
口の中でモグモグと言いながら、立ち上がろうとする。僕は慌ててそれを止めた。その場で転んでしまいそうだったからだ。
「あのう、ちょっとお訊きしたいんですが」
「なんだ、客じゃないのかね。道だったら、そこに交番が…」
「いや、そうじゃなくて、この店には『GSO』は置いてありますか?」
「何だい、そりゃ」
「オレンジジュースですよ、瓶入りの」
「ジュースなら、そこにあるよ」
お婆さんが指差す場所には、ケースに入ったジュース類が積まれていた。
「見せてもらってもいいですか」
「かまわないよ。ついでに整理もしてくれると助かるね。なにせ、何年もそのままなんだ。アタシ一人じゃ、どうにもならなくてね」
言葉の途中で、僕はケースの所に飛んで行った。ヤスミンも面白そうに付いて来る。
埃まみれのケースの中を、ひとつひとつ確かめていく。婆さんの言葉通り、昔懐かしいジュースばかりが発見された。しかも、全て瓶入りの。僕は、思わぬところで宝の山を見つけた嬉しさに、その場で踊り出したいぐらいだった。
丁寧にチェックしていくと、お目当ての物は一番下のケースにあった。見慣れたその瓶を目にした瞬間、思わず声が出そうになった。やはり、探せばまだあるものだ。大きいスーパーでは、もう何年も見かけていないのに。
目当てのジュースは全部で十二本あった。僕は迷わず全て購入し、残りのジュースの整理をし、他にも同じオレンジジュースがあったら全部買うので取っておいてくれと言った。僕の言葉の勢いに、お婆さんは嬉しがっていいのか怪しんでいいのか複雑な顔をしていた。けど、無事約束を取り付けられて、ホッとする。
また明日来ると告げて、僕は店を後にした。ヤスミンは店内では一言も喋らなかったが、あきれ返っているのだけは、じゅうぶん分かった。
「それは何なの?」
とりあえず近くの喫茶店に入ると、席につくなり、ヤスミンに訊かれた。
「ジュースだよ。オレンジジュース」
僕が床に置いた『GSO』の瓶が入った袋を、彼女は一瞥して溜息をついた。
「誰がそんなに飲むっていうの」
まるで母親みたいに言う。
「飲まないよ。子供の頃から飲んだ事ないんだ」
「一度も?」
「一度飲んで懲りた」
「そんなに不味いの?」
「不味いっていうか…甘いんだよ、凄く。歯が溶けそうなぐらい」
「何でそんなもの買うのよ」
眉を寄せて、ヤスミンは僕を咎める。
「いいんだ。目的は他にある」
「どういうこと?」
「集めてる物があるんだ」
キックノック社製の『ゴージャス・スイート・オレンジ』つまりGSOの瓶には、金色の文字が印刷されている。ゴージャスの印って事なんだろうけど、僕が買ってきた瓶は、殆どそれが剥がれ落ちていた。それも昔から変わっていない。この金色は剥がれやすいんだ。剥がれ落ちたのが指や服にくっついて、たまったもんじゃない。
「さっき見たけど、ジュースの色が濁ってたわ。すごく古いんじゃないの?」
ヤスミンはそう言って、顔を顰めた。
「だろうね。だからどっちにしろ、もう飲めない」
ヤスミンは、お手あげ、という風に肩をすくめる。
「お屋敷に帰りましょう。詳しく聞かせてちょうだい」
僕は、栓抜きで一本の瓶を開けた。慎重に、ゆっくりと。腕は鈍っていないようだ。王冠を傷つけずに取り外すと、思わず溜息が出る。
「一体なんなの? 何かの儀式?」
ヤスミンが更に呆れる。明らかに、僕がしている行為をバカにしている。確かに自分でも子供じみてると思う。いい大人がする事じゃない。だけど、これは僕のたった一つの趣味なんだ。
「待って」
栓抜きに付属しているワインオープナーを引き出すと、僕は王冠の裏蓋を剥がした。
「見てごらん」
その王冠を、ヤスミンに差し出す。
「裏っかわに絵が印刷してあるだろ?」
彼女は、受け取った王冠を目を細めて見た。
「そうみたい。小さすぎて良く分からないけど」
「これを使えばいい」
鞄から取り出したルーペを渡す。ヤスミンは薄気味悪そうな顔をしながら、それを使った。
「あ、あ。本当だ。凄く小さいけど、ちゃんと絵だわ。これは車ね。ずいぶん昔の型だけど…」
「ん、ちょっと貸して」
僕は、彼女から王冠とルーペを受け取り、じっくりと絵を見た。
ダメだ、これはもう持ってる。
「ハズレだ」
「え、なに? アタリだと、どうなるの? もう一本もらえるとか?」
「そうじゃないよ。クジじゃないんだ。この裏蓋の絵は何百種類もあってね。僕は、それを全種類集めたいんだよ」
言ってて少し恥ずかしかった。本当、ぜんぜん自慢できる趣味じゃない。
「男の人って…」
ヤスミンは、開いた口が塞がらないという顔をした。
「どうして、こんな役にも立たない物を集めるのかしら。私の知ってる人も、煙草の空き箱をコレクションしてた。綺麗にファイルしてね。でもコレは、それよりもっと子供っぽいわ」
「でも、ずっと集めてるんだよ」
僕の声は、我ながら情けなかった。そんな僕を見て、彼女は少し可哀想に思ってくれたのか、表情を和らげる。
「どれくらい集まってるの?」
「え?」
「ジードのコレクション。もう随分集まってるんでしょうね」
「うん…まぁね」
「見せてくれる? 良かったら」
一瞬だけ迷った。見せるほどの物じゃないし、彼女だって本気で言ってるわけじゃないのは分かってたから。けど、意地になって断るほどの事でもない。
僕は、鞄の中から王冠の入った布袋を取り出した。そして、中身をベッドの上にザラザラと広げる。僕にとっては大切な物だった。住んでた街を出る時も、一番最初に鞄に入れたのはコレだ。
「うわあ、これジードがやったの? 凝ってるね」
ヤスミンが大きな声を上げた。感心と呆れが入り混じっている。その理由は多分、王冠がひとつひとつパッケージされているからだろう。チャックのついた小さなビニール袋に入れて、その袋には絵柄の説明を書いたシールが貼ってある。こうしておかないと、全部がメチャクチャになってしまうからだ。
「いかにもコレクションて感じ。ねぇ、これ開けていいの?」
「いいけど、ちゃんと元に戻しておいてくれよ」
「分かってる。一度に開けなきゃ大丈夫よ」
ヤスミンは、こういう物の鑑賞法を心得ているようだった。
「これって、車とか戦車とかの絵だけなの?」
「そうだよ、男の子向けに発売されたんだから。他に戦闘機とか戦艦もあるよ」
「女の子向けのは?」
「あった。キャンディのオマケでね」
「それはどういう物?」
「シールさ。流行ってる漫画のキャラクターの。それから、アクセサリーのシリーズもあった気がする」
「ふうん」
彼女は小さく頷きながら、僕のコレクションに次々と目を通していった。
「目が疲れちゃうわね」
「そうなんだ。でも、僕はもう全部覚えてるからね。いちいち見て確認したりしないよ」
「全部? これを?」
「だから、さっきだって分かっただろ?」
「そうか。そうね。それで、持ってないのは、あといくつ?」
「さあね」
「さあねって、どういうこと?」
「どんどん追加されてるから、絵柄が。最近は知らないけど、五年前まではそうだったんだよ。毎年、絵柄のカタログも出てたし。ただ、僕はそれを持ってないんだ」
「買えばいいじゃない」
「ところが売り物じゃないんだ。このジュースの瓶にシールがついててね、それを十枚集めて製造元に送ると抽選で当たる。で、僕は何百枚も送ったけど、一冊も手に入らなかった。とっくに諦めたよ」
「…それって酷くない?」
「商売ってそういうものなんだって、大人になって分かったけどね。友達にも集めてる奴がいたけど、そいつもカタログは持ってなかったなぁ。だから、今ではそんな物は無かったんじゃないかとも思ってる」
「そうなんでしょうね。でもそれじゃあ、キリが無いって事じゃない。本当はジードが持ってるこれだけで、全部集まってるのかもしれないわよ」
「かもね。でも、そうじゃないかもしれない」
「それはそうだけど…」
「僕は急いでるわけじゃないからね。見せびらかしたい同志が居るわけでもない。ただ、集める気がある内は集めたいんだ。それに終わりが無い方がいい。終わっちゃったら、つまらないだろ」
「そうかしら」
「違うかな」
「そう…そうね。きっと、そうなのね。けっこう良いこと言うのね、ジードって」
「からかうなよ」
「あら、本気で褒めてあげたのに。まあいいけど。あなた、褒められるのに慣れてなさそうだもんね。それより他の王冠も見てみない? 新しいのがあるかもよ?」
「うん、そのつもりだ」
それから僕たちは、瓶の蓋を開けまくった。ヤスミンは器用で、僕より余程上手く裏蓋を剥がしてくれた。中身は全部風呂で流す。酷い臭いだった。クラバースさんに知られたら、怒られるかもしれない。
結果、僕が持っていないのが二つばかりあった。大収穫だ。
ヤスミンは僕より興奮していた。ラベル書きと袋詰めを、是非やらせて欲しいとまで言った。僕は、喜んでそれをお願いする。
「思ってたより楽しいのね。まるで宝探しみたい」
「そこがいいんだ」
彼女に対して、僕は親しみを持った。今まで接した誰より、自然な調子で話をすることが出来た。
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