ローズガーデン(2)
熱が下がるのは早かったが、僕の体はなかなか本調子に戻らなかった。そのおかげで、僕らはここに三日も留まっている。本当は一日で出て行くはずだったのに。
女主人のローズは、忙しい合間を縫って、こまごまと僕の世話を焼いてくれる。と言うより、僕を相手に世間話をして息抜きしているという感じだ。
その話の中で、僕はこの宿が『ローズガーデン』という名だと知った。女将さんのお父さんが、彼女の名前にかけて付けたのだという。
「それに、街の名前だって、この宿からつけられたんだからね」
この上なく自慢気に、彼女は言う。それはちょっと眉唾だと思うのだが、ローズが機嫌良く話しているのを邪魔するのも無粋なので、ああそうですかと返事をした。
ヤスミンは、毎日宿の中を色々と見て回って、僕に報告をしてくれる。彼女が言うには『ローズガーデン』をローズは本当に大切にしているらしい。古くなった壁や床や家具を、熱心に磨き立てているのだという。
「一日の三分の一は掃除してるわね」
感心したように、ヤスミンは言う。
僕らが来たのは夜中だったので気付かなかったが、ここには手入れの行き届いた庭もあるそうだ。季節の花が様々に植えられていて、それはそれは美しいそうだ。
「僕は花の事は良く分からないな」
「でも、綺麗なものを綺麗だって感じる事は出来るでしょう?」
ヤスミンはポケットから取り出したキャンディを口に放り込む。人工的な甘い匂いが、部屋に漂う。
「イチゴ?」
「そう」
ゆっくりと頬を動かしながら、彼女は答えた。
「他にもあるわよ。チェリーとかオレンジとか。ジードも食べる?」
「いや、いい」
「甘いものは苦手?」
「特にそうじゃないけど…大人が食べるものじゃない」
僕の言葉に、ヤスミンは笑った。
「変な理由」
「そうかな」
「これね、おばさんがくれたのよ。綺麗な紙に包んでね。わりと趣味いいのよ、あの人」
「へえ」
「今夜は私に特別なデザートを作ってくれるんだって」
「そりゃ楽しみだね」
「そうねぇ」
ヤスミンはそこで首を少し傾げると、また新しいキャンディの包み紙を開けた。
「治りかけが肝心なのよ。いい気になって出歩いたりすると、大変な事になる。アタシの亡くなった父親もね…」
ローズはそう言って、僕を部屋から出してくれようとしない。もう熱はないのに、氷嚢を頭に乗せられたりする。
「ぶり返したらいけないからね」
と彼女は言うのだが、僕の体調がまた悪くなったとしたら、間違いなく原因はソレだと思う。
これ以上世話を焼かれないうちに、僕は『社会復帰』することにした。
「あら、やっと起きる気になったの?」
パジャマを脱ぎ、服に着替える僕を見て、ヤスミンがからかうように言った。
「これ以上横になってると、病気になりそうだ」
「本当にそうだったくせに」
「まあね」
「おばさんに面倒みてもらうの、気分良かった?」
「勘弁してくれよ。可愛い女の子ならともかく」
僕はそう言って笑った。あんなに世話になったのに随分酷い言い草だが、照れ臭くて、ついこんな風になってしまう。
「そうかしら。あなたって、その方面には興味無さそうだけど?」
言葉に詰まる。確かに、それは当たっていた。僕は、今まで一度も恋をした経験がない。いいな、と思う事が稀にあっても、それ以上の感情に発展した試しがなかった。そういう相手に巡り合わなかったから…と言えるほど、若くもないわけだし。
自分の情緒面に何か重大な欠陥があるのは、以前から分かっていた。さっきのセリフだって、よくある言い回しを使ってみたに過ぎない。
「そんなことはないよ。僕だって男だからね」
「へーえ」
ヤスミンがクスクス笑う。そんな風に子供に馬鹿にされたら、本当は怒らなければいけないんだろうが。僕はただ顔を赤くして、彼女から視線を逸らしただけだった。
「外に出るの?」
僕がジャケットを着込むのを見て、ヤスミンが少し驚いた声を上げる。
「うん。今日は天気もいいしね」
「まさか散歩しようっての?」
「いいかげん、外の空気が吸いたい」
「おばさんが許してくれるかしら」
ああ、それだよな。
「一緒にどう?」
「だって私、コレだもの」
そう言って見せられた彼女の足には、古ぼけた上靴が履かされている。
「どうしたの、それ」
「おばさんが、子供のだって」
「え、子供がいるの」
驚いた。女将さんとは色々と話をしたが、それは初耳だった。
「男の子が一人」
「君は会った?」
「まぁね」
「どんな子?」
僕の質問に、ヤスミンはイタズラっぽく笑った。
「とてもおとなしいのよ、彼」
その言い方がとても大人びていて、僕はどう反応していいか分からなかった。
「で、その靴だと、どうして外に出られないの?」
だから、話を戻すことにした。
「やだ。分からない?」
ヤスミンは、信じられないという顔をした。
「ぜんぜん。ちゃんとしてるように見えるけど?」
「確かにモノはいいわ。でも、デザインがね」
「そうなんだ」
どっちにしても苦手な話題になるんだな。
「これで外なんか歩いたら、みっともなくてしょうがないわ。だから一人で行ってらっしゃい。寂しいだろうけど」
母親のような調子で言われて、僕はただ苦笑するしかなかった。
食堂を覗くと、ローズは夕食の支度に忙しいらしい。背中を丸めて、一心不乱に芋やタマネギを剥いている。傍らにある籠には、様々な野菜が大量に盛られていた。作業にかなり集中しているのか、幸い僕に気付かないようだった。
ローズの横に痩せた少年が座り、やはり芋をむいていて、あれが息子さんかな、とチラリと思った。
足音を忍ばせて廊下を歩き、ドアを開いて外へ出た。部屋の中から見ていた以上に天気が良くて、冬とは思えないほど暖かい。久々に開放的な気分になって、僕は口笛でも吹きたい気分になった。
ヤスミンが言った通り、良く手入れされた庭を横切って通りへ出る。
列車を降りた時には夜中だったので気付かなかったが、この街は意外と都会らしい。少なくとも、僕が住んでいた所よりは道路も広く人通りも多い。何より活気が違う。特に、宿の近くにあるアーケードは、あの街の何倍も大きかった。当然、店の数も多く、新しいのと古いのが一緒に軒を並べている。ピカピカのスーパーマーケットの横に、何代も続いていそうな布地屋があったりして。
その他にも、雑貨屋や酒屋やレコード店…とにかく様々な店があった。いちいち中にまで入る気は無かったが、ウィンドウをのぞくだけでも結構楽しい。子供の頃、母親の買い物について行った時の事を思い出す。何を買ってもらえるわけでもないのに僕ははしゃいで、楽しくて仕方なかったっけ。
夕食の買い物をした後、オフクロは時々、花屋に寄った。そこでテーブルに飾る花を選んでいる母親を見るのが、幼い僕は好きだった。何故なのか、良く分からないけれど。
そんな事を思い出しながら花屋の前を通りかかると、母が好んで買っていた白い小さな花が目に入った。薄いプラスチック製の鉢に植えられた、釣鐘に似たそれはスノードロップという名で、こういうものに疎い僕でも、何度も聞かされたその名は覚えている。
妙に感傷的な気分になった僕は、スノードロップを一株だけ買った。どうするアテもなかったが、頭の片隅に、花好きらしい女将さんのご機嫌取りにならないかといった考えがあったのかもしれない。
ビニール袋に入れた花を持って、更にブラつく。どこかに備え付けられているらしいスピーカーから、昔流行った曲が聞こえていた。僕が十四、五歳の頃、ヒットしていた曲だ。この歌を唄っていた歌手は、最近麻薬の打ち過ぎで死んでいる。
さっき衝動的な買い物をして勢いづいていた僕は、そのレコードも買ってみようかという気になった。が、旅先でそんな物を手に入れても仕方がないって、すぐ気付く。後ろ髪を引かれるような気持ちでレコード店の前を素通りした。
惣菜の匂いを嗅ぎながら、忙しく行き交う人々の間を縫って歩いていると、菓子の安売り店をみつけた。急にチョコレートが食べたくなって店に入り、安い板チョコと、ヤスミンの土産に甘そうなお菓子を買い込んだ、なんだか、楽しい気分だった。
僕のお土産に、ヤスミンは大いに喜んだ。
「駄菓子ばかりだけど」
あまり素直に喜ばれたので、僕が照れ隠しにそう言うと、ヤスミンはチョコパイをかじってニッコリ微笑む。
「私、お菓子なら何でも好き」
「そうなんだ」
彼女の雰囲気に駄菓子は合わない気がしたが、女の子というのはそういうものなのかもしれない。
「そっちは何?」
大量の菓子が入った袋にガサガサと手を突っ込みながら、ヤスミンが聞いてくる。
「何って、何が?」
「その袋」
「ああ」
言われて、スノードロップの事を思い出す。
「花を買って来たんだ。いる?」
彼女は袋の中を確認して、首を振る。
「いらないわ。花束ならともかくね。旅の途中でこんなもの貰っても困るわ」
「だよね。じゃあ女将さんに。世話になったし」
「でも、何で急に? そういう趣味でもあるの?」
「そうじゃないけど」
僕は自分の顔が赤くなってるのを感じた。感傷的になって買ったなんて、とても言えない。
「別に私は、あなたがこういうタイプでも全然構わないけどね。ところでジード?」
「なに」
「これ、おばさんにあげるって、本気?」
「うん…いや、変な意味じゃないぜ?」
「分かってるわよ、そんなの」
ヤスミンはケラケラ笑う。
「だからお礼だよ。僕も庭を見たけど、君の言う通り花が好きみたいだし。それに女の人って、そうじゃなくても花を貰うと嬉しいらしいじゃないか」
「そうねぇ」
彼女は首を傾げる。
「私は止めておいた方がいいと思うけどなぁ」
そう言って、意味ありげに笑みを浮かべた。
ヤスミンの言葉の意味が分からないまま、僕はスノードロップの入った袋を持ち、階下へ下りた。さっき帰って来た時、急ぎ足で通り過ぎた食堂を覗く。ローズの姿は無かった。どこへ行ったんだろうと思いながら踵を返した途端、心臓が止まりそうになる。そこに、不機嫌そのものって顔をした彼女がいたからだ。
「どこに行ってたの」
雑巾とバケツを持ったローズは、僕を睨み上げている。
「まだ治ってないのに」
棘のある言い方で責められて、ちょっと怯んだ。
「いや、その…散歩を」
「散歩? 散歩ですって?」
ローズの眉が釣り上がる。ああ、マズい。咄嗟に、手にした袋を差し出す。
「あの、これ!」
これからお説教をしようとしていたローズは、出鼻を挫かれた形になる。
「そこの花屋で買ってきました。御礼に、と思って」
「え?」
怒りに満ちた表情が、少しだけ緩んだ。
「えーっと、あの…先ほど庭を見まして…あんまり見事だったんで、花がお好きなのかなぁと」
僕の手から受け取った袋を覗き、ローズは小さく声を上げた。
「スノードロップね」
「はい」
彼女の声が和らいできたのに勇気づけられて、そこからは一気に喋った。
「母が好きだった花なんで、それだけは名前が分かるんです。すみません、本当なら女将さんの好みを聞くのが良かったんでしょうが。懐かしくて思わず買ってしまいました。もし気に入っていただけたら、庭の隅にでも植えていただけたら嬉しいです」
よくもまぁ、こんな思ってもいない事が次々と口から出てくるもんだ、と、自分のいい加減さに感心する。でも効果はてきめんで、話の途中から女将さんの目が潤み始めた。
しまった、やりすぎたか、と思った時にはもう遅かった。彼女は鼻の頭を真っ赤にして、ポロポロ涙を零し始める。
「まぁまぁ、ありがとうございます」
感極まった風に言われ、どうしていいか分からなくなった。ここまでの反応を期待してたわけじゃない上に、僕はこういう場面が苦手だ。
「こんな事していただけて、何て嬉しいんでしょう。私は当たり前をしただけなのに。ええ、そうですとも。ウチに泊まっていられる間は、アタシ、全てのお客様を家族だと思っているんですからね。だから看病なんてちっとも苦じゃないんです」
鼻水をすすりながらも饒舌に語るローズに、僕は、慣れない事はするもんじゃないと思い知らされた。困りきって階段の方に視線を向けるとそこにはヤスミンがいて、僕の窮地を面白そうに眺めている。その表情からは、助けてくれそうな気配は微塵も感じられなかった。
「そういえば、顔色もずいぶん良く見えるわ。お部屋の中だと、そのへんがちょっと分からなかったみたいね。だってアナタ、ずっと怠そうにしてらしたでしょ? だからね、つい」
「いえ、本当にお世話になりました」
やっとそれだけ、口を挟めた。
「でもね、やっぱり無理はダメですよ。何しろ酷い熱だったんですからね。そうね、先ずは栄養のあるものを沢山摂らないと。食事はまだ部屋でね。風邪は治りかけが大切なんだから。それからお散歩するなら、アタシに一言断ってからね」
女将さんの言う事に、いちいち馬鹿みたいに頷きながら、僕は気が遠くなりそうだった。
「だから止めた方がいいって言ったでしょ?」
何とか部屋に戻ると、先に帰ってきていたヤスミンに勝ち誇ったように言われた。
「でも、散歩のお咎めは免れた」
完全にってわけにはいかなかったけど。
「もっと面倒になったとは思わない?」
「それは…」
そうなんだけどね。
「参ったなぁ。何であんな大袈裟な事になるんだ」
僕はちょっと、あの人の機嫌をとろうとしただけなのに。
「相手が悪いわよ」
「どういう意味?」
「だって、おばさんが一番欲しかった物をポンとあげちゃうんだもの」
「欲しい物って、あの花が?」
「それ、本気で言ってるんじゃないわよね」
軽い軽蔑を含んだ視線から、僕は目を逸らした。
「賞賛と感謝と、それからほんの少しの綺麗なエピソード」
唄うように、ヤスミンは言葉を続ける。
「私も人の心の隙間に入り込むのは上手いと思ってたけど、さっきのジードには負けるわ。お見事でした」
おどけて頭を下げる姿にムッとした。
「ぜんぜん嘘じゃないよ。感謝してるのは本当だ」
「でも、お母さんの話は言わなくてもいい事だったんじゃないの?」
「それは…」
「いいこと教えてあげましょうか。嘘をつく時ってね、大袈裟になるの。余計な事まで言って、なるべく本当らしく聞こえるようにするのよ、人間って」
反論なんて出来るはずがない。言われてみれば、何もかもが彼女の言うとおりだった。
「あなた、ここから出て行けなくなるかもよ」
恐ろしい事を、ヤスミンは言い出した。
「何故?」
「だって、おばさんに気に入られちゃったもの。それも凄くね」
「僕はただの客だぜ? チェックアウトすればもう関係ない」
「何て言ったらいいかしら」
ヤスミンは小首を傾げた。
「あなた、理想的なのよ」
「どういうこと?」
「おとなしくて頼りなくて、それでいて見た目はそれほど悪くない。ああいうおばさんが面倒みる甲斐のある青年なのよ」
「…早く引き払った方がいいかな、ここ」
なんとも言えない不快感がこみあげてくるが、口の回らない僕は、そう言うのが精一杯だ。
「今すぐってのはマズいわよ」
「どうして?」
「さっきより酷い事になるに決まってるから」
「ああ…」
つまり、また愁嘆場になるって。
「あの人の関心が、ちょっとでも逸れるのを待たないと」
「いやしかし…君はそんなにノンビリしてていいのか?」
訊くと、ヤスミンは一瞬不思議そうな顔をする。それから柔らかく笑って、僕の手をさすった。
「叔父さんの件なら気にしないでいいわ」
「でも」
「だって、私はもう安全な場所にいるんだし、何日までに行くって言ってるわけじゃないもの」
「それはそうだけど」
「本音を言うと、私も早く出て行きたいんだけどね」
彼女の声音が、僕を慰めるように優しくなる。
「昨日ぐらいから、おじさんの目つきが怖くなってきたし」
そう言われて僕は、自分がザックの事をほとんど忘れていたのに気付いた。
「そうだ! それがあったっけ」
僕が大声を出したので、ヤスミンが驚く。
「忘れてたの?」
その言葉が僕を責めてるみたいに思えて、必死で言い訳した。
「忘れるっていうか…ほら寝込んでたからさ。いや、ちょっとは思ったさ。でもアイツの顔も見なかったし」
「そうね、滅多に人前には顔を出さないもの、あのおじさん」
僕が慌てるのを、ヤスミンは愉快そうに見ている。
「気がつくと、物影から見てるのよね。じっと。腐った魚みたいな目で」
「…大丈夫だったのか?」
そういう風にしか訊けなかった。あいつに何かされなかったか? なんて僕に言えるわけがない。
「なにが?」
「だから、その…」
ヤスミンはにっこり笑って、さすっていた僕の手を自分の両手で包む。
「何もないわよ。だって私、殆どおばさんの側にいたんですもの」
「あ、あ…そうなんだ」
「スカートの裾を握ってね。色々とお手伝いもしたわよ。おばさんは、小さい子には無理だって言って、大した事はさせてくれなかったけど。それに…」
「それに?」
「昼前に起きてくる事なんて、滅多にないのよ、あの男」
苦笑して、ヤスミンは『座りましょう』と言った。二人並んでベッドに腰掛ける。彼女がもたれ掛かってきて、銀の巻き毛が僕の膝にさらさらと零れ落ちた。
「部屋にいる時は鍵をかければいいし。第一、おばさんが目を光らせてるからね」
「え?」
「気がついてるわよ、彼女。自分の夫がどういう人間かね」
「まさか…」
だったら、とっくに離婚するなりしているはずじゃないか。まともな神経を持ってるなら。
「別れたくてたまらないでしょうね」
僕の心を読んで、ヤスミンは言う。
「ここは、おばさんの大切な場所だもの。そこにあんなケダモノがいるのは、さぞ苦痛だと思うわ」
「だったら、何で」
「だって離婚したら、自分の夫がどんな奴か他の人に知れてしまうじゃないの。そんな恥をかくぐらいだったら、このままの方がいいと思ったのよ、おばさんは」
「でも、あいつが事件を起こしたら? この宿で」
「出来るわけないじゃない」
ヤスミンは、僕の意見をせせら笑う。
「凄いんだから、おばさんって。彼女に首根っこを掴まれたら、どんな人だって何も出来やしないわよ。いくら私が欲しくても、指一本触れさせやしないわ」
ヤスミンが時々口にする性的なものを感じさせる言い方が、僕は嫌いだった。彼女もそれを分かっていて、わざと言っているんだろう。
「私ね、あんなに人や物を管理するのに必死な人間て見たことない」
「管理、ね」
「そう。正にそれなのよ」
分かるな。看病されながら感じていた違和感は、それが原因だったに違いない。僕を気遣う言葉が、何となく嘘っぽいような気がしたのも。
「親にそうされるのは多少仕方ない部分もあるけど、他人まで自由にしたがるのは正気だとは思えないわね」
「…君こそ、女将さんが離さないんじゃないか?」
膝に置かれた子供らしいふっくらとした手を見ながら訊く。この手にスカートの裾を握られて、いつでも側にくっついてるほど懐かれたら、彼女はさぞかし嬉しかっただろう。僕の母親の話どころじゃなく、その状況はローズを舞い上がらせたに違いない。
「そうね、私、あなたと違って可愛いから」
「僕は真剣に言ってるんだ」
「あら、ごめんなさい」
ヤスミンが顔を上げて、僕を見た。緑色の瞳は相変わらず綺麗で、人を惹きつける魅力に溢れている。
見とれていると、彼女の唇が薄い笑みを浮かべた。
「別にふざけてるわけじゃないの。ただ、私はこういうのに慣れてるって言いたかっただけ」
「ああ…」
それはそうかもしれない。誰だって、こんな綺麗な子を嫌えるわけがないんだ。しかも、この子は人の心を操る術を心得ている。それを知っている僕だって、分かっていてもどうする事も出来ずに引きずられてるじゃないか。ましてや、ヤスミンをただの無邪気な子供だと思っている連中なら、まんまと掌の上で転がされてしまうに決まってる。
「逃げ出す方法を知ってなきゃ、誰かれ構わず媚なんか売れないよ。怖いんだから、人間て」
ヤスミンは、真面目な声で言う。
「まるで君はヒトじゃないみたいだな」
「そうだったら、どうする?」
「どうもしないし、特に驚きもしないよ」
だって、そうだろう。こんな子供に会ったのは初めてだ。僕の理解を越え過ぎている。いっそのこと、自分とは違う生き物だと言ってくれた方が、却って納得出来るような気がした。
「つまらない答えね」
「僕が面白い奴なわけないだろ」
そのセリフに、ヤスミンは今までで一番大きな声で笑った。可笑しくてたまらない、といった感じで。
「ねぇ、本気でそう思ってるの?」
笑いすぎて出てきた涙を拭いつつ、彼女は聞いてくる。
「うん」
冗談好きだった親父にも、良くそう言われた。
「まぁ、そう思ってる方がいいかもね」
ヤスミンはひとしきり笑って、ベッドを飛び下りた。
「やっぱり私、あなたを選んで良かったと思うわ」
向けられる笑顔に曖昧に応える。彼女の言う事の半分も、僕には分からない。
「そろそろ夕食ね」
ヤスミンがいきなり話題を変えた。
「部屋に持ってきてくれるって言ってたけど…」
「敢えて逆らってみるのも、いいかもよ?」
彼女はそう言って、ダンスをするようにクルリと一回転した。
「あの人のお気に入りから降格したかったらね」
ヤスミンと一緒に食堂に入ると、女将さんが真っ先に僕の姿をみつけて眉を顰めた。何か言いたそうに唇を動かしかけて止め、他の客にスープの皿を配り始める。でもその目は、チラチラと僕らに向けられていた。
ああ、ヤスミンの言った通りだ。あの顔は、僕をなじる気満々て感じだもの。
「気にしなくていいわよ」
ヤスミンに袖を引っ張られて、僕らは食卓についた。
「ねぇ」
「ん?」
「あなたが怒られるの、聞いてていい?」
笑いながら言う彼女に、溜息をつく。
「君は呑気でいいね」
「心配してるのよ。私なりにね」
「ああ、そう」
人に怒られつけてるくせに、僕は、いつまでたっても怒られるのが苦手だ。何か言い返そうとしても、どうしても上手い言葉が出ない。ただ黙って時間が過ぎるのを待つだけだ。最悪の場合、メシを食いながらその状況になるのかと思うと気が重い。
「どうして、いうことがきけないの?」
俯いていると、頭の上から声がした。顔を上げると、難しい顔をしたローズが料理の乗った皿を手にして僕を睨んでいる。
「さっきの話、聞いてなかったのかしら」
嫌味っぽく言って、僕らの前に皿を乱暴に置く。
「いや、あの…ずいぶん調子もいいんで」
「あなた、お医者様じゃないでしょう」
トゲトゲした口調は治まらない。花を渡した時とは別人のような不機嫌さで、ローズは顔を歪めた。
「昼間は勝手に外へ出るし。誰がそんな事していいっていったの?」
ずいぶん顔色も良くなった、と言ったのは、あなたじゃないですか。
「せっかく別メニューを作ってあげたのに。まぁ仕方ないわ。これを食べたらさっさと部屋に戻りなさい」
ローズの剣幕に、周囲の客がこっちに目を向ける。それが彼女と一緒になって僕を責めてるように見えるのは、気のせいだろうか。顔が赤くなるのを感じる。
助けを求めてヤスミンに視線を送るが、自分は関係ないって顔をして黙々とスープを飲んでいた。女ってのは、どうしてこう意地が悪いんだろう。
胸焼けしそうなソースのかかったステーキを一切れ口に入れると、何だか具合が悪くなってきた。でもここで残しでもしたら、またローズに何を言われるか分からない。必死になって皿の上のものを片付ける。
「もっと味わって食べたらいいのに。今日のはまぁまぁ美味しいわよ」
ヤスミンが、僕にしか聞こえない小声で言う。間違い無く、彼女はこの状況を楽しんでいた。
「味わってるさ」
強がりを言って、最後の肉片をムリヤリ口に詰め込んだ。
食事が終わった後も、僕らは食堂で過ごした。本当は、すぐにでも部屋に帰って胃薬でも飲みたかったのだが、ヤスミンがどうしてもそれを許してくれなかったのだ。
ストーブの周囲で雑談をしている他の客たちと離れた位置のテーブルに座り、ヤスミンがポケットから出したビー玉で遊ぶフリをする。
「すごく怒られちゃったわね」
「うん」
深い青色をしたビー玉を手に取って、僕は答える。
「さっきとは別人みたいだった」
「思ってた以上に、ワガママなのね、あの人」
「え?」
ヤスミンを見ると、彼女は呆れたように笑っている。
「ねぇまさか、自分が悪くて怒られたんだとは思ってないわよね?」
「なにが?」
「おばさんよ」
「僕だけが悪いとは、思ってないよ。たとえ僕の体を心配してくれたんだとしても」
「例えば、ね」
ヤスミンの目が、細められた。
「あなたがさっきのお料理を残すか、勧められたものを食べなかったとするでしょ。それでも同じように怒ると思うわ」
「まさか」
「ところがそうじゃないのよ」
「だって…それじゃあ、こんな商売やってられないじゃないか」
「私もそれが不思議なの。でも、おばさんがそういう人間だっていうのは間違いないわ」
「そういうって?」
「何でも自分の思い通りにならないと、気が済まない」
そう言ってヤスミンは、僕を見上げる。
「ね、そう思わない?」
「………」
返事できなかった。僕には、ただの度の過ぎた世話好きにしか思えなかったから。
「もし、あなた」
ふいに声をかけられて、顔を上げた。いつの間に来たのか、目の前に一人の老婆が立っている。ストーブの周りにいた客の一人だと分かるまで、少し時間がかかった。
僕が何も言えずにいると、老婆は向かいの席に座って、灰色の目でこっちを見る。
「お風邪の具合は、どう?」
「え、ああ…おかげさまで」
何でこの人がそれを知ってるのかと思いつつ、当たり障りのない返事をする。すると、お婆さんはにっこり笑って、言った。
「あら、あたくしは何も…それより、ローズさんには本当に頭が下がりますよ」
「ええ」
何だろう。この人は。僕に何が言いたいんだ。
「だってそうでしょう? ただの宿泊客にあんな手厚い看病なんで、あたくしなら、とてもとても」
どう応じていいか分からずヤスミンを見ると、彼女は完璧に小さな子供の表情になって、大人の話には関心がないって顔をしている。
「そりゃ宿屋っていうのは、お客の面倒をある程度みるものではありますけどね。持ち出しで、しかも妹さんの世話も任せっきりでしょう? ちゃんとお礼は言ってますわよね」
なぜ見も知らない人が、そんな事を知っているんだ。というか、そこまで言われる筋合いはない。
「あの、失礼ですが…」
僕が言いかけるのを、老婆は年寄り特有の柔らかい笑みで制した。
「いえ、ねぇ。さっきのローズさんが、ちょっとね。いつもは、あんなに愛想の良い人はいないのに。だから、あなたが何か失礼な事でもしたのかしら、とね。だったら早く謝って、それからちゃんとお礼をね。妹さんの分もね。あなた、いい大人なんですから」
話の途中から、自分の顔が赤くなってきたのが分かった。
どうやら、ストーブの周囲にいた客たちは、僕について色々と話し合っていたらしい。もちろん、さっきの女将さんの剣幕に驚いたからだろう。まぁ、それは仕方ない。その結果、この老婆は僕にお説教をする役に選ばれたに違いない。何でそうなるのか、僕にはさっぱり分からないが。
はっきりしたのは、ローズが客に好かれている事。彼女が言っていたように、家族みたいに親身になってくれる人がいるほどに。それから、ローズが僕を看病してる事を、この人たちに触れ回っていたという事だ。それも、このお婆さんの言い方から察するに、だいぶ大袈裟に、感情たっぷりに。
僕が本気で怒ることは滅多にない。だとしても感情に火が着くのが遅く、怒った時には、もうそれを言える状況ではなくなっていたりする。それが自分でも歯痒かったのだが。
今回は、瞬時に怒りが沸点に達した。テーブルに置いた手がブルブルと震えているのが、自分でも分かる。
「…そうですね。そうします。ご親切にどうも」
それでも怒鳴り散らしたりは出来ずに、お婆さんに向かってそう言った。ただ、不自然にトーンを抑えた声は、かなり不穏だったのではないかと思う。彼女は、眉を顰めて溜息をつくと、そそくさと立ち上がり、またストーブの所へ戻って行った。
「あなた、今、評判最悪になったわよ」
「別に構わない」
本気でそう言うと、ヤスミンが気の毒そうな顔をして、僕の手を撫でてくれた。
「君は、知ってたんだろう」
あれからすぐに部屋に戻ると、僕はヤスミンを問い詰めた。
「何を?」
彼女はまたポケットからキャンディを取り出して、口に入れる。
「女将さんが、僕の事を言いまわってたって」
「楽しそうだったわねぇ」
ヤスミンは唄うように、言う。
「今日は何をどれだけ食べたとか、熱はどれぐらいとか、うなされて可哀想とか」
「…それで?」
「まぁ要するに、あなたは、おばさんに頼りっきりで、大きな子供みたいで、手がかかるって」
「じゃあ放っとけばいいのに」
「私に言ってもしょうがないわ。それに、放っとくわけないじゃないの」
「なぜ?」
「だって、アピールできる絶好の機会だもの。アタシはこんなに優しくて、献身的で、だから看病なんて何の苦でもないの」
ローズの口真似をして、ヤスミンは言う。
「ね、最高に感じイイでしょ」
全くだ。得意そうにそのセリフを口にするあの人の姿まで想像できて、また腹が立ってくる。
「それにしても驚いたわ」
「なにが」
「ジードでも、あんな風に怒るのね」
「ああ、自分でもびっくりしてるよ」
イライラと答えると、ヤスミンは哀しそうな顔をする。
「私にはそんな言い方しないでよ。私は何もしてないでしょ?」
「いいや、したね」
僕は、この少女に、初めて本気で怒りをぶつける。
「だって知ってたのに教えてくれなかったじゃないか。知ってたら、花だって…食堂にだって行きやしなかったのに。第一、起きられるようになった時点でここを出て行ってたんだよ。それなのに…」
僕の抗議に、彼女の表情が変わった。
「だって、見てみたかったのよ」
楽しくてたまらないといった感じで、ヤスミンが笑う。
「あなたが、どう切り抜けるのか」
「何だって?」
さっきの哀しげな顔は、どこへやら。この子のクルクル変わる表情に、唖然とする。
「まさか、このままって事はないでしょう?」
「どういう意味だよ」
「上手く切り抜けてみせてよ」
「切り抜けるも何も…もう出て行く」
「それで終わりなの?」
「そうだよ。それ以外に何があるんだ」
「だったら、がっかりだわ」
ヤスミンは肩を竦めた。
「僕は、君を楽しませる為に生きてるんじゃない」
「私はまだ、ここにいるわよ」
「勝手にしろよ。僕は行く」
「現実的に考えて、できるわけないわ。そんな事したら、駅で足止め食うわよ。妹さんを置き去りにしてますよって」
「妹なんかじゃない。君と僕は無関係だろう」
「でも、皆は信じてる。それにね、無関係だなんて言っていいのかしら。今度は確実に誘拐犯だと思われるだけじゃない?」
理路整然と、ヤスミンは僕を諭すのだった。まるで、こっちが子供みたいだ。
「ちょっと頭に血が昇ったぐらいで、ヤケになっちゃダメ」
ヤスミンは食堂でしたように、僕の手を撫でる。
「私が何とかしてあげる。上手いことあなたの『名誉』を回復してあげるわ」
そう言って、意味ありげに笑った。
僕は誰もいない街を歩いている。そこは、僕が出てきたあの街と違い、きちんと整理されていて清潔で、そして人間が誰もいない。人間どころか、犬や猫の姿さえ見えないんだ。ぴしっと敷き詰められた石畳は、一歩あるく度に冷たい音を立てる。
これは夢だ…と思う。その証拠に、いくら歩いても風景が変わらない。それに空が妙な灰色をしている。こんな色は見たことがない。
そして、一番現実離れしているのは、その灰色の空から花が降っている事だった。様々な大きさ、様々な色の花たち。クルクルと舞いながら、石畳に落ち、そして消える。まるで雪のように。陰気な空の色に、それはとても映えた。
僕は立ち止まって、舞い落ちる花を見ている。いつまでも、いつまでも、飽きる事なく。
「何でそんな事をしているの?」
いつの間にか、僕の傍らにはヤスミンがいる。上目遣いにこっちを見ながら、訊いてくる。
「だって、綺麗じゃないか」
「綺麗? 何が綺麗なの?」
彼女が言った瞬間、視界が真っ赤になった。もう花なんか降ってはいない。降っているのは、赤い雨だった。
プンと鉄の臭いがする。血だ。これは血の雨なんだ。
僕は自分の手を見た。赤く濡れていた。いや、手だけじゃない。顔も、服も、そして恐らくは顔も…何もかも。
ヤスミンに視線を移すと、彼女も真っ赤だった。綺麗な髪や顔が、見るも無残な有様になっている。全身に大怪我をしているように見えて、僕は顔を歪めた。
そんな僕に、彼女はにっこり笑って、こう言った。
「この方が、よっぽど綺麗じゃないの」
そして、僕の手を掴もうとする。彼女の手は皺だらけで、半分崩れかけていて、まるで、ついさっき墓場から抜け出してきたような…
僕はうなされていたらしい。目を開けると、ヤスミンが心配そうな顔をして覗きこんでいた。
「ねぇ、大丈夫?」
「う、うん…」
またやってしまった。一体、僕の悪夢はいつになったら終わってくれるんだろう。昨日、ケンカしたヤスミンに気遣われて、僕は顔から火が出るほど恥ずかしかった。
「なにか怖い夢でもみた?」
「まぁね」
正直に白状したものの、内容までは話すわけにはいかない。絶対にだ。特に、皺だらけの手に関しては。
「僕、どれくらい眠ってた?」
「知りたい?」
「何だよ、それ」
「聞いたら呆れるわよ」
言われて、窓の外を見る。やけに明るい。とっくに昼になっているようだった。
「ああ…確かに」
「あのねぇ」
ヤスミンは、面白くてたまらないって顔をしてベッドの端に上ってくる。
「今朝、おばさんが来たんだけどね」
それを聞いた途端、昨夜の不愉快な気分が蘇る。
「あの人がどうしたって?」
つい、不機嫌な声を出してしまった。
「せめて、女将さんて言いなさいよ。昨日までみたいにね」
からかわれて、また頭に血が昇りそうになった。
「で、何か言われたの」
それを漸く抑えて、聞く。
「あら、まだ寝てるんですか。それじゃあ朝食はいらないわね、だって」
「一昨日までとは、えらい違いだ」
余りの豹変ぶりに、笑いが出てくる。
「自分で可笑しくならないのかしらね」
僕の口が綻ぶのを見て、ヤスミンが言う。
「君に対しても、そんな風?」
「まさか。だって…」
「ああ、君は子供だもんな」
「違うわよ。私はまだ、おばさんに嫌われてないってだけ」
「嫌われて、か」
そういうのには慣れている。好かれる方が珍しいんだ、僕って奴は。
「あ、何かつまらないこと考えてるんでしょ」
「別に」
「気にしないでいいのよ。こういう事にかけては、私すごく上手いんだって言ったでしょ?」
「…そうなんだろうね」
だって君は綺麗だから。それだけで、人に好かれるのに苦労なんかしないだろ。おまけに子供で。
「困ったお兄さんねぇ、ですって」
とうとう吹き出す。つられて、ヤスミンもケラケラと笑った。
「君が唆したのにな」
「だから私も言っといたわ。ええ、本当に勝手な兄さんで困ってますって」
「酷いな」
「だってね、実は私、少し怒ってたのよ」
「誰に? まさか僕にじゃないだろ?」
「その、まさか」
「何故」
「私を置いて、出かけちゃったから」
なじるような口調で言われて、驚いた。
「誘ったじゃないか、ちゃんと。行かないと言ったのは君だ」
「鈍感なのね」
「………」
「私、行きたくても行けないじゃない。靴がないんだもの。だったら、僕も出かけないよって言うのが気が利いてるってもんじゃない?」
そんなこと言われても。
「分かんないよ、そんなの」
「でも、もう怒ってないから心配しないで」
「そう…」
こういう口をきく時は、ヤスミンは僕と同じか、それより年上に見える。
「ところで、お昼ご飯はどうするの?」
「そうだなぁ」
言われて、けっこう腹が減ってるのに気付いた。
「ここって、昼飯は出るんだっけ」
「出ないわよ。普通、宿ってそういうものよ」
「そうなんだ」
「あなたは寝込んでたから、特別待遇だったけどね」
「君は?」
「私は、困ったお兄さんのお相伴させてもらってたわ」
ヤスミンが、うふふと笑う。本当に、この子はたくましい。女ってのは、年齢に関係なく全てこういう生き物なんだろうか。
「と、なると困ったな」
「この近くにパンが美味しいお店があるんだって」
僕の膝に仰向けに頭を乗せて、ヤスミンは目を輝かせる。
「それ、買って来いってこと?」
「私も一緒に行く」
「え、でも」
靴が無いんじゃなかったっけ。
「大丈夫」
ヤスミンは起き上がり、床に下りた。ベッドの下から白い箱を取り出して、僕に渡す。
「なに?」
「だから靴よ。今朝、いただいたの」
箱を開けてみると、確かに中には赤いエナメルの子供靴が入っている。金色のバックルのついた、お出かけ用って感じのものだ。
「サイズ教えてないのにピッタリなのよ。すごいと思わない?」
「これ、女将さんが?」
「違うわよ。あのお婆さん」
「ああ、昨夜の…」
灰色の目と有難くないお説教を思い出し、げんなりする。
「私がずっと上靴なのが可哀想だって言ってね。しかもそれが、おばさんからの借り物だって、ちゃんと知ってたわよ」
本当に、何だって喋るんだな、あの人は。
「だから、ね。一緒に行きましょうよ」
「それじゃ君も、女将さんに嫌われるぜ?」
「それがね、可笑しいのよ」
ヤスミンは僕から箱を取り戻すと、靴を取り出し履きはじめた。
「あの人ね、あなたが気になって仕方ないみたい」
「え?」
「だって、何度も部屋の前に来てるもの」
「分かるのか」
「足音でね。おばさん、ちょっと足を引きずってるからすぐ分かるわよ」
「へえ」
僕は、そんなのちっとも分からない。どうも彼女に比べると、僕はずいぶんボンヤリしているようだ。
「さ、いいわ。行きましょう」
ヤスミンが、靴の踵を床に打ちつけ言った。
「早く着替えて」
ピシリと命令されて、僕はあたふたとベッドを出た。
身支度を整え、部屋を出る。二人揃って階段を下りていると、食堂からローズが顔を出した。僕を見てバツの悪そうな顔をする。危うく視線を逸らしそうになるのをこらえて、出来るかぎりの笑顔を作り会釈した。すると、彼女はホッとしたような表情になる。急ぎ足で僕らに近づき、何かを言おうとした。それを遮って、僕の方から声をかける。
「昨夜はすみませんでした。勝手な事をして」
「いいのよ、そんな」
ローズは慌てて、顔の前で手を振った。
「どうなの、具合は」
「ええ、だいぶいいです。これから昼飯を買いに行くんですが、ついでに何か買ってきましょうか?」
過剰に慇懃な調子で言ったつもりだったが、ローズの安堵の表情は崩れない。
「ええ…でも…悪くないかしら」
遠慮がちに言う。
「構いませんよ。今日は妹も一緒だし、多少遠出しても退屈しないでしょうから」
「でも、悪いわ。お客様に…」
何度かそんなやり取りを繰り返し、結局ローズは塩を1キロ頼んだ。店の場所を教えてもらい、宿を出る。
ヤスミンは、新しい靴で歩き難そうにしている。
「大丈夫?」
「仕方ないわ。何処かでもっといいのを買うから」
今朝プレゼントしてもらった靴も、彼女には単なる間に合わせでしかないらしい。
「君には余り似合わないかもね、子供っぽすぎて」
女将さん相手に心にもない事を言い続けた影響か、そんなセリフが自然に出た。ヤスミンが立ち止まり、びっくりした顔で僕を見上げる。
「馬鹿ね、私、子供よ」
そう言って、クスリと笑う。
「でも、ちょっと嬉しいわ」
アーケードは、意外なほどヤスミンを喜ばせた。例のパン屋も、塩を売ってる店も、この中に入っているらしいので、とりあえず連れて来ただけだったんだが。
「新しい服が欲しい」
上機嫌で、彼女は言った。
「もっと軽くて、綺麗な色の」
「それから靴だろ」
「そう」
「でも、こんな所じゃ君好みの服は売ってないんじゃないかな」
「意外と掘り出し物があるかもしれない」
「僕は、女の子の服の事なんて全然わからないんだ。自分で選べるよね?」
「もちろん。そんなのジードには期待してないわ。でも、感想ぐらいは聞かせて欲しいわね」
「的外れなこと言っても、笑わないって約束してくれるなら」
「いいわ、約束ね。あ、あの店ちょっと良さそうじゃない?」
彼女が僕の手を引いて入って行ったのは、何だか妙な匂いのする店だった。おまけに埃っぽいような気もする。ヤスミンも他の客も気にならないようだったが、僕はこの匂いが苦手だった。勤めていた会計事務所に、香だか何だかに凝ってる奴がいて、一時期同じ匂いが会社中に充満してたっけ。あの時も頭が痛くなったが、この店では更に匂いが濃密だから参った。軽く吐き気までしてくる。
大体、ここは本当に洋服屋なんだろうか。天井からは黒光りした木製の人形がモビールのように吊り下げられているし、売り物であるはずの衣類は乱雑に積み上げられていて、まるで倉庫だ。
服の山の横には、ただの菓子箱にしか見えない入れ物にちまちまと並べられたアクセサリー類がある。粗悪な材料で作られているらしいそれらは、欠けたり歪んだりしていて完全な形の物が一つも無い。
何より理解出来ないのは、楽器らしいものが結構なスペースを取っている事だ。笛や太鼓と洋服にどんな関係があるのか、僕にはまるで分からない。
僕ら以外の客は十代に見える若者たちで、僕のことを胡散臭そうに見ていた。仕方ない。彼らは明らかにこの店で買った服やアクセサリーを身につけていて、僕の恰好は浮いていた。
ヤスミンの古めかしいワンピースは、それが余りに昔の型なので却って関心を持つ女の子もいるようだった。その内の一人に話しかけられ、ヤスミンはすぐにそれに乗った。僕の存在など忘れたような顔をして、楽しげに服や指輪を見て回っている。すごく居心地が悪い。
何度か彼女に視線を送ったものの、あからさまに無視されたので、仕方なく店の外に避難した。僕みたいな図体のデカいのが、こんな所に突っ立てれば目立って恥ずかしいんだけど、あのまま店内にいるよりはマシだ。ヤスミンも、それを咎めたりはしないだろう。
それにしても、こんな雑貨屋に近いような店に子供用の服が置いてあるんだろうか。それだけが心配だ。時々、中を覗いてみるが、物がゴチャゴチャしていて小さい彼女の姿を確認する事は出来ない。
ぼうっとして、どれぐらい待っただろうか。ヤスミンが大きな袋を引きずって、店から出て来る。
「それ、全部買ったの?」
慌てて手を貸しながら、訊く。
「オマケしてもらった物もあるわ」
「金は? けっこうしたんじゃないのか」
思わずそう聞くと、ヤスミンは鼻の頭に皺を寄せて笑った。
「せっかく気分がいいのに、つまらないこと言わないでちょうだい」
「しかし…」
こんな子供が大金を持っているとは、どうしても思えない。
「あなたの分もあるのよ」
「え?」
そんな話は聞いてない。というか、それなら、なぜ僕を呼ばないんだ。
「僕は服なんていらないぜ?」
「これにはワケがあるのよ」
そう言って、ヤスミンは嬉しそうに笑う。
「どこかでお茶でも飲まない? そこで話してあげる」
僕に荷物を全て渡すと、彼女は軽い足取りでカフェを探し始めた。
軽食も食べられるらしいその店は、何故か全体的に小造りで、テーブルも椅子も何もかもが華奢に出来ていた。もちろん大人が使って壊れるという事はなかったが、どうにも気を使ってしまい、落ち着かない。それに、少女趣味な装飾が気恥ずかしかった。
さっきの所より、僕は更に浮いた存在になっている。中途半端な時間のせいか、客が僕らだけなのが幸いだった。
「あのねぇ」
メロンジュースをストローでひとくち吸って、ヤスミンが話を始める。彼女に付き合って頼んだクリームソーダをやたらとかき混ぜながら、僕は耳を傾けた。
「デスギナフって街、知ってる?」
「うん。行った事はないけどね」
「この街から割と近いんですって?」
「さぁ…そうなの?」
「一回乗り換えて…二時間足らずだって言ってたわ」
「誰が」
「名前は知らない。さっきの店で話した女の人」
「ふーん。で、デスギナフがどうしたの」
「そこに寄りたいんだけど…」
ヤスミンは、僕にお伺いを立ててきた。
「何しに?」
この街から出て行くのには賛成だったが、デスギナフに行かなきゃならない理由は一つもない。
「すっごく素敵な所なんですってね」
ヤスミンの目がキラキラと輝きだした。
「まぁね、あそこはリゾート地だから」
「大きいデパートがあるらしいわ。そこで買い物したいの」
「でも、早く叔父さんの所に…」
「だって、こんな恰好で叔父さんに会えない。とにかく凄いお屋敷なんだから。相応しい恰好をして行かないと」
「しかし…」
また、ややこしい事になりそうな気がして、答えを渋った。
「デスギナフって、この季節でも夏服でいいって、本当?」
そう訊かれて、彼女がもうその街へ行くと決めているのが分かる。
「らしいね」
「不思議ね、どうしてかしら。だって、ここからそんなに近いのに」
「大きなドームの中に、街があるらしいよ」
どこかで聞きかじった知識を披露したら、ヤスミンがテーブルの上に体を乗り出してくる。
「温室みたいに?」
「そう、全くそんな感じだっていう話さ。外から見ると、すごく不思議な光景らしいぜ」
「でしょうねぇ」
ヤスミンは感心したように、溜息をついた。
「そんなの普通じゃないもの。見てみたいわ。それだけお金がかかってるんだもの、本当に、想像できないぐらい綺麗な所なんでしょうね。一流のお店ばかりなんでしょ? リゾート地って」
「高級店がズラリっていうね。値段だって相当なもんだろうな」
「私の好みに合った服があるといいな」
僕の牽制を、彼女は聞き流す。
「…そうだね」
渋々同意すると、ヤスミンは僕のクリームソーダに手を伸ばしつつ言った。
「パン屋はやめて、ここで何か食べていかない? こんな荷物を抱えてパン屋に行くのは見苦しいもの」
「君が言うなら、そうなんだろうな」
僕はなんだか抵抗するのが空しくなって、彼女の言葉に従った。
宿に戻ると、門の所に小さい男の子が一人、立っていた。棒つき飴を舐めながら、僕らの方をジッと見ている。それなりの恰好をしている所を見ると、ちゃんとした家の子供なんだろう。この近所に住んでいるのかもしれない。金色の巻き毛と、ソバカスが印象に残った。
その子は明らかにヤスミンばかりを見ていたが、彼女は相手が気の毒になるぐらい、それに気付かないフリをしていた。僕の腕にぶらさがり、必要以上にはしゃいで見せる。
「そんなにくっついたら危ないだろ」
「平気よ」
二人、まるでじゃれ合ってるみたいに宿の中に入った。最後まで僕は、背中に男の子の視線を感じていた。
「お帰りなさい」
ローズが僕らを出迎える。塩を渡して少し言葉を交わし、部屋へ戻った。ローズは僕が素っ気ないのを気にしていたようだったが、また夕食の時にでも愛想良くしておけば問題ないだろう。
それより今は、ヤスミンが買ったという僕の服が気になっていた。彼女が言うには、それはリゾート地で着る為の物らしいし、僕はそういった類の服を着たことがなかったからだ。
「ね、これイイと思わない?」
部屋に入るなりヤスミンは、袋から洋服を一枚取り出す。夏物らしく薄い生地で作られたサマードレスで、黒が混じったような独特の赤色をしていた。仕立ては僕から見ても酷いものだったが、シンプルなデザインのその服は、確かに彼女に似合いそうだった。
「これも買ったの」
そう言って見せられたのは、底が平らなサンダル。ドレスに合いそうな簡素な造りだ。手に取って靴底を見ると、滑り止めもついてない。
「これじゃ、足が疲れるだろう」
「でも可愛い形じゃない?」
「転びそうで危ないよ」
「気に入った靴の為なら、大抵の事は我慢できるのよ、女って」
「ふぅん」
そういえば、学生時代のクラスメイトも同じ事を言っていたような気がする。
「それに転んだって、ちょっと怪我するぐらいでしょ」
その言葉で僕は思い出した。確かに、子供の頃は小さい怪我なんて全然気にならなかったっけ。
「で、これなんだけど」
黙り込んだ僕の前に、ヤスミンがシャツを一枚広げる。青地に銀色のうずまき模様の麻のシャツだった。もちろん半袖の。僕にとっては悪趣味にしか見えないのだが、彼女は、ただ単に僕の趣味じゃないだけだと笑った。
「自分の気に入った服が似合う服だと思うのは間違いよ。特にジードみたいに服装に無頓着な人は、そういう傾向が強いんだって」
「誰が言ったんだ?」
「何かの本に書いてあったの。実際、ジードって陰気な感じの服が好きじゃない」
まぁ、それは否定しない。
「地味な方が落ち着くんだよ」
「私との釣り合いってものがあるのよ」
ピシャリと言われると、ぐうの音も出ない。
「分かったよ」
僕の気持ちが態度に出てたんだろう。ヤスミンは苦笑した。
「拗ねないでよ。無駄な買い物じゃないわ。私ってけっこうお金持ちだし、今日の買い物はそんなに高い物じゃないわ」
「別に拗ねてなんかいないさ」
「そう? ならいいけど」
こんな小さい子相手にヘソを曲げ続けるのも、大人としてはあまりよろしくない。ずっと一緒に行くわけじゃないんだから、どうでもいいじゃないか、と思い直した。とにかく、身の安全に気をつけてやればいいんだ。
ひとしきり買った物をベッドの上に広げて満足そうにしていたヤスミンだが、最終的には
「でも、新しいドレスと靴はこの街では買えそうにないわ」
と、ため息をついた。
「君はいつも、こんなに衣装持ちなのかい?」
「あら、私の分は夏のワンピースが三枚だけよ。ジードの服がかさばるのよ。なにしろ大人の男性用なんですもの」
「うん、まぁそうか」
確かに、どれも夏服なだけあって、小さく畳んでしまえば僕の鞄にちゃんと収まりそうだ。
「ねえ、ジード。約束してほしいんだけど」
「なに」
「私の買い物に口を出さないでね。絶対よ」
睨まれて、僕は軽く頭を下げた。
夕食までにはまだ時間があったが、温かいお茶でも貰おうかという事になり、僕らは階下へ下りた。食堂に入ると、ジャガイモの皮むきを手伝っていた少年が、テーブルを拭いている。
「あの子が、おばさんの子よ」
ヤスミンがすばやく僕に囁いた。やはりそうだったのか。
こうして見ると、女将さんによく似ている。が、彼女と違って大人しそうな印象だった。彼はヤスミンに気付くと、ハッとして顔を伏せる。耳が赤くなっているのが分かって、ちょっと微笑ましくなった。
「こんにちは」
そんな彼の様子に頓着せず、ヤスミンは明るく声をかける。一歩近づくと、慌てたように布巾を握り締めたまま厨房へ逃げ込んでしまった。どうやら、そうとうな引っ込み思案らしい。いや、それだけじゃないかな。彼は、ヤスミンの可愛らしさにドギマギしてしまったのだろう。あの年代の少年には、よくあることだ。
「今日も挨拶してもらえなかったわ。失礼な子だと思わない?」
ヤスミンは肩をすくめる。
「まぁ、そう言うなよ。ああいう年頃なんだ」
「あなたも、ああいう子供だったの?」
「そんなことない」
僕は、もっと暗い子供だった。
「あたしココアが飲みたいわ」
「分かった」
ヤスミンを椅子に座らせて、ローズに飲み物を頼む為に厨房をのぞく。
「すみません」
思ったとおり、彼女はそこにいた。声をかけるとパッとこっちを見た。息子は母親の後ろに隠れるようにしている。
「あら、お茶かしら?」
ローズは、さすがに察しがいい。
「いいですか?」
「もちろんよ。コーヒーとココアで良いかしら」
「すみません。お願いします」
言いながら少年に目を向けると、彼の体が硬直した。それに気付いたローズは苦笑する。
「アタシの息子だよ」
そう紹介する彼女の表情は誇らしげで、息子を溺愛していることをうかがわせる。
「こんにちは」
僕は、精いっぱい愛想良く挨拶したが、彼は気弱に微笑んで口元をモゾモゾと動かしただけだった。清潔に切りそろえられた髪や、年のわりに堅苦しい服装に、彼がどんな育てられ方をしているのか見えるような気がした。
飲み物が乗ったトレイを受け取りお礼を言って、ヤスミンの方に目をやってギョッとした。いつの間にか、彼女の横にザックがいる。身をかがめてヤスミンに話しかけている姿に、ゾワッと寒気がした。冗談じゃないぞ。
大声を出したいのをこらえて、大股で二人に近づいた。
「あ、帰ってきた」
ヤスミンが、子供らしい仕草で僕に手を振る。テーブルの上に置いた方の手に、赤いセロファンに包まれた何かを持っている。
「それ、なんだい?」
「チョコレート。おじさんに頂いたの」
ね、とヤスミンに笑顔を向けられて、ザックは顔を赤くしてシドロモドロになり、慌てて食堂を出て行く。息子と似たような態度だが、こっちは微笑ましいどころか胸糞悪い。
「大丈夫か?」
急いでヤスミンの隣に腰掛け、顔を覗き込む。僕の焦りように、彼女は苦笑した。
「大丈夫よ」
「しかし…」
「こんなところじゃ何も出来ないわよ」
小声で言って、僕の掌にチョコを乗せる。
「なに?」
「あげる」
「…どうも」
そりゃ食べる気はしないよな、と思い、僕はチョコをポケットに突っ込んだ。
そうして、二人で他愛ない話をして、淹れてもらったお茶を飲んだ。女将さん親子も、僕たちに少しの間つきあってくれた。息子の名前はミゲル。促されてヤスミンの向かいに座った彼は、やっぱり一言も口をきかなかった。ローズだけが機嫌良く喋っていた。父の自慢、息子の自慢、宿の自慢。
やれやれと思いつつ、窓の外にチラリと目をやると、ザックがいた。食い入るようにヤスミンを見てる。本当に気持ち悪いオヤジだ。
「今夜は魚料理なのよ。ジードさんは、お魚大丈夫かしら」
「僕は魚料理は好きですよ。母が得意でしたから」
「あらそうなの! じゃあヤスミンちゃんも?」
「私は何でも好き。でもお菓子が一番好きよ。あなたは?」
ヤスミンに話しかけられて、ミゲルはギクッと全身を震わせる。
「この子も、好き嫌いは無いわ」
息子に代わって女将さんが答えると、ヤスミンが小さくクスッと笑った。途端にミゲルはキッと顔を上げる。が、ヤスミンの視線に出会うとまた俯いてしまった。「僕は…」ゴニョゴニョと口の中で言っているが、よく聞こえない。
ヤスミンは、いかにもわざと、という態度でそれを無視する。女ってのは恐ろしいな、と思った。
夕食の最中に、新しい客が来た。
金持ち風の老夫妻で、奥さんの方は顔色が悪く、見るからに具合が悪そうだった。荷物は小さかったが、フラついている妻を抱えている旦那さんも高齢のせいか、つらそうだ。ローズはすぐに手を貸すが、ザックは相変わらずストーブの前から動かない。
気が利かないなと思っていると、ブイヤベースを食べていたヤスミンがいきなり立ち上がった。「来て」と小さく言って、老夫妻とローズの所へ小走りに近づく。どういう意味かはさっぱり分からなかったけど、僕は慌てて後に続いた。
「お婆ちゃん、大丈夫?」
ヤスミンが心配そうな表情で、老婦人の手をとった。そして、ごく自然にそっと指を握る。一瞬、驚いた老婦人だが、ヤスミンの様子を見るとすぐに嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「ええ、大丈夫よ。ちょっと乗り物に酔ってしまったの。お嬢ちゃんは、ここの子供さんかしら?」
「違うわ。お兄さんと泊まっているの、私」
ハキハキと答えつつ、ヤスミンが僕の顔を見る。さすがの僕も、ここでようやく自分が何をするべきなのか理解した。ザックをとやかく言っている場合じゃなかった。
「この子の兄です。さ、どうぞ、つかまってください。手が冷たいな。女将さん、ストーブの前がいいですよね」
自分でもびっくりするほどの手際良さで、僕は老婦人を抱えるようにして食堂に入った。他の客の視線を感じながら、婦人をストーブ傍の椅子に座らせる。ザックは恐れをなしたように離れて行ってしまった。本当に役に立たない奴だ。
「よく温まってくださいね」
「まぁ、どうもありがとう」
ミゲルが持ってきた毛布を肩にかけてあげると、老婦人が感激したような声を出す。旦那の方も近くの椅子に腰掛け、暖を取りはじめた。
ヤスミンとローズは厨房へ引っ込み、すぐに温かい飲み物を持ってくる。
「生姜入り紅茶ですよ。お口に合わないかもしれないけど、とても温まりますから」
さすがにローズはこういうことに慣れていて、老夫婦にお茶を勧めたり、彼らの分の夕食を用意し始めた。
「どうもありがとう。お食事の途中だったのではないですか? 私はもう大丈夫ですから」
老婦人に言われて、僕らは食事に戻った。
なんだか、ひと仕事終えたような気になって、ゆっくりブイヤベースを味わっている僕と対照的に、ヤスミンは急いで(でも綺麗に)皿の上のものをたいらげると、意味ありげな笑みを残して老夫妻のテーブルに近づき、ちゃっかり婦人の隣に座る。
子供らしく無邪気な様子で二人に話しかけている彼女を眺めながら、僕はノロノロと食事を続けた。
「お婆ちゃんたち、旅行から帰る途中なんですって」
部屋に戻ると、ヤスミンはベッドの端に座って楽しそうに喋り始めた。
「具合は良くなったのかい?」
「もう平気じゃないかしら。汽車に酔っちゃったんだって。本当は今日中にお家に着く予定だったって、お爺ちゃんが言ってたわ」
「ふぅん」
「二人とも、明日はジードと話をしたいって」
「僕と? なんで」
「さあ? オトナの話でもあるんじゃないの」
「なんだそりゃ」
「きっと、さっきのお礼がしたいのよ」
「たいした事はしてない」
「そんなことないわ。ジードにしては気が利いてたわよ。今度は自発的に動けたら言うことないわね」
「それは褒めてくれてるんだよね?」
「そうよ」
満足げに頷かれても、苦笑するしかない。
「君はまだ此処にいるつもりかい?」
「ええ、そうね」
「ザックと、どんな話をしたの」
気になってた事を訊いてみる。ヤスミンはちょっと肩をすくめた。
「話ってほどのものじゃないわ。チョコをくれて、年を訊かれて。どんなお菓子が好きかだの…おとなの人がしてくる、いつもの質問よ」
「怖くないの?」
「ああいう人たちの中では怖くない部類ね。とても気持ち悪いけど」
彼女は眉間に皺を寄せるが、どうも深刻さが感じられない。
「君が、なぜ此処にいたいのかは分からないけど、僕はやっぱり早く出て行った方がいいと思うよ」
「心配いらないわ。そんなに長くはいないから」
「そうなのか」
「とにかく、明日はお婆ちゃんたちと話をしてね。何を言われても拗ねちゃだめよ」
「子供扱いするなよ」
抗議の言葉は、ヤスミンには全く相手にされなかった。
朝食をとろうと下りて行った食堂で、僕らはさっそく老婦人につかまった。昨日の様子が嘘のように上気した頬で、自分はジャネット・クラバースだと名乗った。
「あなたたち、ご旅行中? ご両親は一緒じゃあないのかしら」
老婦人は、僕に昨夜の礼をした後、ローズと同じような質問をしてくる。
「いえ、旅行ってわけじゃないんです。僕たち、二年前に一度に両親を亡くしまして…事故だったんですが、突然の事でした」
「あらまぁ…お気の毒にねぇ…」
彼女の目は、みるみる潤んできた。
「ご親戚は? いるんでしょう?」
「ええまぁ…いるにはいるんですが…今まであまり行き来もしていなくて」
「まぁ…」
「それでも、とりあえず叔父を頼ろうかと…そこへ行く途中なんです。僕はともかく、妹を預かってもらえないかと…」
ゆうべ、ヤスミンと打ち合わせた通りの話をすると、クラバース夫人は頷きながらハンカチで鼻をかんだ。
「この間まで僕が働いて何とかやってきたんですけど、仕事をクビになってしまって。だから、いっそのこと違う土地でやり直そうかと」
「そうね、それがいいかもしれないわね」
「僕が不甲斐ないから、妹には苦労させてしまっています」
打ち合わせ済みとはいえ、僕の口は思ってもいないことをベラベラと吐き出し続けた。自分では口下手な方だと思っていたが、意外と詐欺師の才能があるかもしれない。
僕の隣で、ヤスミンは神妙な顔をしていた。そうやっていると、見た目通りの頼りない子供に見えるが、その実、僕がヘマをしないかチェックしているんだと思うと緊張する。
「では、まだ、はっきりとお仕事が決まっているわけではないのね?」
僕が頷くと、クラバース夫人は一瞬なにか言いたげな顔をした。が、すぐに思い直したように、今度はヤスミンに笑顔を向けた。
「昨夜は、よく眠れたの?」
甘ったるい声で、話しかける。
「私はぐっすりよ。お婆ちゃんは大丈夫? ちゃんと眠れた? 苦しくなかった?」
ヤスミンは少し眠そうな顔に、こちらもまたとびきりの笑みを浮かべて応じた。
「ええ、ええ。私は大丈夫ですよ。ヤスミンちゃんが良くしてくれましたからねぇ」
「よかった! でも無理しちゃダメ。温かくしてね」
「そうしますよ。ありがとう」
夫人が、ヤスミンの頭を撫でたり目を潤ませたりしているうちに、クラバース氏もやってきて食卓につく。
「おはようございます」
「おはよう。昨夜は世話をかけたね」
上品な髭をたくわえ質の良さそうなスーツに身を包んだ彼は、いかにも紳士然とした雰囲気で、僕は少し気後れしてしまいそうになる。そうならなかったのは、ヤスミンの目を気にしたからだ。後で何と言われるか分からないから。
「奥さん、お元気になられて良かったですね」
「ありがとう。君にも世話になったね」
「いや、僕は別に何も…」
が、やっぱりなんとなく緊張してしまう。僕はどうも、こういう押し出しの強い人が苦手なんだ。
食堂に他の客たちが集まり、女将さんが朝食を配り、僕は居心地の悪い思いをしながら朝食をとった。食欲はそれほどなかったけど、ほとんど機械的に食べ物を詰め込む。
「やっぱり若い人の食べ方は気持ちいいわねぇ」
そんな僕の心中も知らず、クラバース夫人は何度もそう言って感心してみせる。
ヤスミンは相変わらず行儀は良いが、ことさら子供っぽく食事をしているように見える。そんな彼女を、老夫妻は目を細めて見守っていた。品の良い二人は、そうやっていると、僕よりよほどヤスミンの家族として相応しく思えてくる。
…ひょっとして、ヤスミンは、この老夫婦の世話になりたいと望んでいるんじゃないだろうか。唐突にひょっと浮かんだ考えだが、案外当たっているような気がする。
もしそうなったら、僕はどうしよう。別にどうもしないか。最初の予定通り、一人で別の街へ行き、新しい仕事を探して、以前のようにひっそり生きて…
「兄さん」
不意に声をかけられて、現実に戻った。ヤスミンが面白そうに僕を見ている。
「え、あ、なに?」
「お婆ちゃんがね、今日、一緒に宿を出ませんかって」
「へえ?」
クラバース夫人を見ると、ニコニコしながら頷いている。
「あなたたちを、私たちの屋敷に招待したいんですの」
「えっ」
「とりあえず、私たちの街で仕事を探してみてはどうだろう。それなら私もクチをきいてあげられるし」
クラバース氏の提案に、僕は驚いた。この二人、僕の面倒もみるつもりらしいぞ。
「いやでも、それは…」
「お仕事の件は後で考えるとして、私はヤスミンちゃんに何かしてあげたいの。ねぇ、いいでしょう? ジードさん」
人の良さそうな老人に懇願されて、僕は困ってしまった。ヤスミンに目をやると、彼女は唇に笑みを浮かべてゆっくりと瞬きした。ハイと言いなさい…と促されているのが、何故か一目で分かった。
「…そうですか。それじゃあ、お邪魔させていただきます。申し訳ありません」
「ほんとう!? ああ嬉しいわ! ね、あなた」
妻の言葉に、クラバース氏は穏やかに頷いた。
「では、食事が済んだらすぐに出よう。明るいうちに帰り着きたいからね」
クラバース氏はそう言って、勢い良く立ち上がった。
「君はそれでいいのか?」
「もちろん。お婆ちゃんたち、美味しいお昼をご馳走してくれるって言ってたわ。楽しみね」
部屋に戻って身だしなみを整えているヤスミンは、とても御機嫌だ。
「もう少し、ここにいるんじゃなかったのか?」
「そうねぇ…でも、あの二人の方が面白そうなんですもの」
「面白い…?」
ヤスミンの言っている意味が分からなくて憮然としている僕を、彼女は笑った。
「おばさんとも、もう少し話をしたかったんだけどね。仕方ないわ。お婆ちゃんたち、急いでるみたいだから。さ、ジード、早く支度してね」
「僕の準備はもう出来てるんだ」
ポンポンと鞄を叩くと、ヤスミンはちょっと眉根を寄せる。
「買った物は忘れてないよね」
「大丈夫」
「それじゃ、おばさんに挨拶しに行きましょう」
僕の隣に寄ってきて、手を握ってくる。それをしっかり握り返して、部屋のドアを開けた。鍵も忘れずに持つ。
廊下に出ると、そこにザックがいたので一瞬ギョッとした。いつの間に、こんな所に来たんだ。幽霊か影のような男だ。
「出立かい?」
ねちっこい調子で聞かれる。
「ええ。お世話になりました」
その視線をマトモに跳ね返してやると、彼は慌てたように顔を背けた。
「おじさん、さようなら」
ヤスミンがお別れを言う。ザックの肩がビクリと動き、ゆるゆるとヤスミンの方を向いた。充血した両目が、ねめつくように彼女の体を見る。ほんとうにゾッとした。
軽く会釈して、僕らは食堂に向かった。背中に纏わりつくような視線を感じながら。
「いつまで見てるのかしら」
小さくそう言ったヤスミンの声は、楽しそうだった。
「あらまぁ、もう行ってしまうの? 本当に?」
ローズはとても残念そうに、そして、わざとらしいほどの大きな身振りで僕たちの出発を嘆いてみせた。
大声で息子を呼び、僕らに挨拶をさせる。彼の声は相変わらず聞き取れないほど小さいが、その表情には落胆と安堵が入り混じっていた。
「さよなら。元気でいてね」
ヤスミンに手を握られると真っ赤になり、その手を振りほどいて外に駆け出して行ってしまう。
「まったく、しょうがないねぇ。あんなに気が弱いんじゃ、安心してこの宿を任せられやしない」
ローズは嘆くが、そもそも誰かに任せる気などない事は、僕にも分かった。
「心配ないですよ。女将さんさえいれば、此処は安泰じゃないですか」
「そりゃまぁ、ね」
僕の見え透いたお世辞に、彼女は得意そうに鼻を蠢かせた。
「おばさん、お世話になりました。お料理すごく美味しかった! また今度、来てもいいでしょう?」
「当たり前だよ。歓迎するからね」
「約束よ。次に来る時には、きっと今より素晴らしい場所になってるんでしょうね」
ヤスミンは、真剣にそれを信じてるという顔つきで、ローズをいい気分にさせる。
「まかせておきな」
「お花もいっぱい増やしてね。ほんとうに楽しみ!」
二人がキャッキャと話をしているうちに、クラバース夫妻がやってきた。旅行鞄がとても重そうだ。
「持ちましょう」
「そうかい? 悪いね」
僕の申し出を、クラバース氏はすんなり受け入れた。
「君はそんな格好で寒くないのかね」
「ないことはないですが、大丈夫ですよ」
などと話をして、宿泊費を払おうと女将さんに料金を訊くと、クラバース夫人が会計を済ませていた。いったい、いつの間に? 全然気がつかなかった。
「僕らの分は自分で払いますから」
慌てる僕に、クラバース氏は鷹揚に笑ってみせる。
「いいから、黙っていなさい。こんな所で揉めるのは、あまり品の良いものじゃない」
しかし、と、尚も食い下がる僕を無視して、夫妻はヤスミンの手を引き、先に歩き出した。
宿の外へ出ると、容赦ない冷気が襲い掛かり、僕は全身を激しく震わせた。重たい荷物を持ち直して、三人の後を追う。
僕が大きなクシャミをすると、彼らが振り向いた。ヤスミンが笑っている。傍に寄ってきてハンカチを取り出し、僕を屈ませて、鼻水を拭いてくれた。
「大丈夫?」
「平気だ。ありがとう」
ちょっと他人行儀だったかなと思っていると、クラバース夫人が言った。
「そうしていると親子みたいね」
「そうですか?」
「冗談よ。ジードさんはまだお若いんですもの。ちゃんと兄妹に見えるわ」
「はぁ。それでホッとしました」
クラバース夫人は、僕の言い方が可笑しいとコロコロと笑う。
どこから見ても人畜無害にしか思えない夫人に比べ、クラバース氏に多少なりとも不信感を持ってしまったのは、さっきの強引な会計の仕方のせいだ。普通の感覚を持っていれば、失礼だと感じるはずだ。この老人、一見、人当たりは良さそうだけど、けっこうな暴君なのではないだろうか。
老人のわりに、夫妻の足は速い。ヤスミンは弾むような足取りで、最高に機嫌が良さそうだ。彼らに比べると僕の歩調は重く、これは荷物が重いせいだけではない。これから、どうなるのか。もともと楽観的とはいえない僕だが、この不安は的外れなものじゃないだろう。
寒過ぎるせいか、あたりの風景が灰色に見える。僕らの他にも歩いている人は大勢いて、そろそろ開店準備をしている店もたくさんある。
これから学校に行くんだろう子供たちが、仔山羊の群れのように歩いている。その中に何人も、ヤスミンに気をとられて立ち止まる少年を見た。その顔のどれもが、呆気にとられた、というのがピッタリな表情をしている。きっと、彼らが今まで出会った中で一番綺麗な人間なのだろう。いや、これからだってそうかもしれない。
駅舎が見えてきた。古くて小さくて、でも妙に品のある、こうして見るとなかなか印象の良い駅だ。
僕らが駅に向かっているのとは逆に、誰かが、すごい勢いでこっちに走ってくる。あの親切な駅員だった。彼は、僕らに(おそらく正確にはヤスミンに)気付いて、足を止めた。
「あんたたち、いつチェックアウトしたんだい」
真っ青な顔をして、何故かそんなことを訊いてくる。
「え…ついさっきですけど…どうしたんです?」
「いまさっき、妹から電話がきたんだ。ザックが死んだ。知らないのか」
唾を飛ばしそうな勢いで彼が言い、僕は言葉を失った。
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