ローズガーデン(1)
僕は子供だった。子供の僕は、必死で逃げる。捕まったら殺されてしまうからだ。何故かそれが分かる。
僕は走り続ける。心臓が悲鳴を上げても、止まるわけにはいかない。でも、とうとう捕まってしまう。肩の所を長い爪のついた真っ黒い手がギュッと掴む。僕は叫ぶ。泣く。命乞いをする。奴が許してくれるわけないのに。
鋭い爪が、僕の喉に押し当てられる。それがスイッと横に引かれると、喉がぱくりと割れ、生温かい液体が流れ出す。叫び声を上げようとしても、ヒューヒューという音しか出ない。
そして、僕の意識は真っ暗な穴の中に落ちていくのだ。
次第に心地よくなる暗闇の中に、ぽっかりと銀色の光が見える。僕はそこに向かってどんどん落ちていく。光が少しずつ強くなって、何だか気持ちが安らいでくる。
と、いきなり光の中心に誰かが現れる。あの子だ。そこでは風でも吹いているのか、ゆらゆらと揺れる細い銀髪が美しい。
彼女は小さな手に銀色のナイフを持って微笑んでいた。その切っ先は真っ直ぐ僕に向けられている。
そうか。あのナイフのせいで、あそこは銀に光っているんだな。
僕は正に、それに向かって落下している。何とか体を逸らそうとするが、落ちていく速度が速すぎるのか少女が何か細工をしているのか、思うようにならない。ナイフはどんどん迫ってくる。
あの子が唇を動かす。
『他のモノに殺されるなんて、何てドジなの?』
聞こえるはずのない声が、体全体に鳴り響いた。
ハッと気付くとナイフの切っ先が目の前にあり、一瞬後、視界の混濁と激しい痛みが…
「うわあッ!」
僕は叫んで、両目を押さえる。しかし、予想していたような生温かさも激痛も無かった。
夢、夢。また例の夢をみていたらしい。いや、正確には少し変わっていた。あの少女…ヤスミンの影響が、さっそく現れている。
ああ、そうだ。あの子の事も、夢なのかもしれない。
そんな甘い考えを打ち砕くように、僕の横には彼女のコートが畳んで置いてあった。思わず溜息が出る。
そっと周りを見回した。この列車は今、どのへんを走っているんだろう。あれほどいた乗客が一人もいない。車窓の外は、星さえも見えないほどの真っ暗闇だ。
あの子がいない。僕を諦めて、途中で降りたんだろうか。いや、コートがあるんだから、そんなはずはない。
ぼんやりしていると、ヤスミンが姿を現した。その顔を見て『おや?』と思ったのは、彼女が額にうっすらと汗をかいていたからだ。車内の暖房はそれほど効いてはいないはずなのに。
「起きたのね、良かった」
ヤスミンは僕を見ると嬉しそうに、手に持ったハンカチを顔の前で握って微笑んだ。それは本当に可愛らしい、子供らしいもので。
「何してたんだ?」
「あら、酷いわね」
ちょっと拗ねたような表情をしながら、僕の隣にドスンと腰掛けた。
「あなた、凄くうなされてたのよ。自分で気付かなかった?」
「あ、あぁ…それは…」
「すごい汗かいてさ。おでこを触ったら少し熱があるような気がしたし。だから」
僕は彼女が持っているハンカチを見た。それが濡れているところを見ると、それで僕の汗を拭いていてくれたらしい。多分、何度も洗面所とここを往復し、ハンカチを濡らしてきたんだろう。この子の汗は、そのせいなのだ。
「夢をみてたの?」
ヤスミンはそのハンカチで、今度は自分の額をぬぐった。
「うん、凄く怖いのをね」
「そう」
興味なさげに言って、ヤスミンは肘掛にハンカチをかけた。
「大人になってから…いや、両親を亡くしてから良く…毎晩のようにみる夢で…夢の中で僕は子供で…君ぐらいの…それで…」
「それで? バケモノに殺されそうにでもなるのかしら?」
彼女は床を見つめ、両脚をブラブラさせながら言った。ギクリとする。どうしてこの子には、何でも分かってしまうんだろう。
「うん、そう。いや、殺されるんだけどね」
「どうやって?」
「喉を切られて」
「随分たくさん血が出るの?」
まるで、天気の様子でも聞くような気軽さで言う。
「そうだね。多分、そうなんだろうな。僕にはそれは見えないけど」
「そう」
つまらなそうな顔をして、ヤスミンはそれきり黙った。介抱してくれた事に礼を言った方がいいだろうか。いや、もうその機は逸してる。
「君も出てきたよ、夢に」
沈黙が怖くて、僕は言った。
「私?」
緑色の目が、僕を見る。表情には好奇心の色が浮かんでいた。それを見て、僕は何故か安堵する。
「綺麗な光の中にいたよ。僕はそこに向かって落ちていくんだ」
「何だかロマンチックね」
「でも君はナイフを持っていて、僕を殺そうとするんだよ」
「私、そんな事しないわ」
ヤスミンは目を見開いて抗議する。
「ただの夢だよ」
僕はどうしたら良いか分からず、困ったまま黙っていると、彼女が口を開いた。
「ああ、やっぱりこの靴はダメ」
僕の思考を、少女の声が遮る。
「え?」
「ほら、ここの所。靴ズレができちゃった」
彼女はいつの間にか靴を脱いでいた。小さな足を包んでいる白のソックスの踵部分に、僅かだが血が滲んでいる。
「本当だ」
「朝からずっと痛かったの」
「早く言えばいいのに…」
僕は思いがけず自分の口から出たセリフに驚いた。今までこんな優しげな言葉を他人にかけた事はない。
「エナメルはダメね。やっぱり革じゃなきゃ」
そう言いながら、彼女はクルクルとソックスを脱ぐ。
「でもエナメルの方が可愛いデザインが多いの。これはそれほどでもないけど」
ソックスを脱ぐ途中、生地に傷口が張り付いていたらしく、ヤスミンは少し呻いた。僕も釣られて顔を顰める。素足になった彼女は、ソックスを器用に丸めて床に置いた靴に押し込んだ。
「どんな靴を履いても平気な人が羨ましい。足の皮が薄いのかな私」
「僕も良くできるよ、靴ズレ」
「そうなの?」
「うん。子供の頃はオフクロが苦労してた」
「そうなんだ。ね、ちょっと見てくれない?」
ヤスミンはそう言うと、座席の上に立った。そしてクルリと背を向けると、僕に向かって踵を見せる。
その小さな足を、僕は両手で持った。足の指が丸い。まるで人形みたいだ。踵や足の裏が、大人と違ってツルツルしてる。皺なんか殆どなくて、張りがあって、健康そうだ。そっと触ると、みずみずしい弾力がある。
彼女がくすぐったがってバランスを崩し、慌てて背もたれに掴まる。
「余計な事はしなくていいの」
「ごめん」
ピンク色の踵には、確かに痛々しい傷がある。
「酷いことになってるよ」
「やっぱり」
ヤスミンは小さく溜息をついた。
「絆創膏でもあればいいんだけど」
「私、あれは嫌い」
「どうして?」
「だって、ふやけちゃうんだもの。このままでいい」
「でも、裸足じゃ寒いだろ」
「そうでもないわ」
ヤスミンはまた腰を下ろした。座席の上に足を引き上げ、膝を抱える。そうすると、足先までがワンピースの裾にすっぽりと包まれた。
「ね、いい考えでしょ」
膝の上に頬を乗せ、僕を見ながら彼女は言った。そのぐらいで、この寒さが凌げるわけもないのに。さっきから僕の足元は冷え冷えとしているのだから。
案の定、しばらくすると彼女の唇が色を失ってきた。やっぱり寒いのだ。
車内アナウンスが入る。どうやら、もうすぐどこかの駅に到着するらしい。いったん列車を降りて宿でも取らないと、この子は風邪をひくかもしれない。
「次で降りよう」
「そうしてくれる?」
僕の言葉に、ヤスミンはほっとしたように言った。
「それじゃあ早くコートを着よう」
「この靴はもうイヤ」
「でもそれじゃ…」
「ソックスもイヤ。血がついてるんだもの」
「困ったな。それじゃ歩けない」
「それじゃあ、こうする」
ヤスミンは、コートのポケットからハンカチを二枚取り出した。一体、この子はハンカチを何枚持っているんだろう。
それで両足を器用に包む。
「これでちょっとぐらいなら歩けるわよ」
「それはちょっと乱暴だろう」
言い合っている内に、列車は駅についてしまった。停車時間は余り無いらしい。僕は少し考えた後、コートを着終えた彼女を抱き上げた。
「これで行こう」
「待って。だったらおぶさるわ」
「うん」
僕もその方が都合が良かった。うずくまった僕の背中に抱きついた少女は、殆ど体重を感じないほど軽い。右手で彼女を支え、左手に鞄を持って、急いで列車を飛び下りる。
外は、空気が皮膚に突き刺さるみたいに寒かった。背中でヤスミンがクシャミをする。
改札で清算する時、近くに宿がないか駅員に聞いた。彼はヤスミンが病人だと思ったらしく、宿に電話をして迎えを寄越そうと言ってくれた。
「俺の妹夫婦がやってる所なんだ」
そう言いながら、駅員は事務所の中に急いで走って行く。本当に、大人は皆、彼女の味方だった。
「五分で来るそうだよ。中で熱いものでも飲まないかね」
彼はすぐに戻ってくると、更に親切な言葉をかけてくる。が、僕たちは丁重にそれを断った。色々と詮索されるのが嫌だったからだ。
僕は駅員に礼を言って、ゆっくりと駅を出る。闇に包まれた町は静かで、もうすっかり眠りについていた。ここで待っていれば、宿の人が車で迎えに来てくれる手筈になっている。
「ラッキーだったわね」
「うん」
「私のおかげよ」
「…うん」
ときどき顔に冷たいものが当たると思ったら、チラチラと雪が降り出していた。
「雪だわ」
「うん、雪だ」
「また寒くなるわね」
「うん」
そうは言ったものの、実のところ僕は全然寒くなんかなかった。背中にいるヤスミンの体温が、さっきから僕を温めてくれている。子供特有のミルク臭い匂いには少し閉口したが。それでも彼女の存在に安らぎ、うっかりするとこのまま眠ってしまいそうになる。
「寝ちゃダメよ」
ヤスミンは僕に注意した。
「私のこと落とさないでね」
「大丈夫だよ」
そう言った直後、僕は大きな欠伸をしてしまう。彼女は背中でプッと吹き出した。
「嘘つきね」
ヤスミンが喋る度に、甘い息が僕の鼻を掠めていく。
「ねえ」
「なに」
「私はあなたの妹、ってことにしておいて」
「え?」
「娘の方がいい?」
耳元でクスクスと笑う。
「ぜんぜん似てないけど」
「そうじゃないと怪しまれるわ」
じゅうぶん怪しいんだから、仕方がない。
「本当の事を話したんじゃ駄目なのかい?」
「それを言ったら、警察を呼ばれて私はあの家に連れ戻されちゃう。ねえお願い」
まぁ…そうかな。
「いいよ。でも僕は芝居が下手なんだ。バレたら勘弁してくれよ」
その時、車のエンジン音が聞こえた。ライトが光っているのが見える。
「もう来たのか。まだ五分たってないぞ」
「雪が降り出したから急いで来てくれたのよ、きっと」
車は僕たちの目の前で止まった。中から降りて来た初老の男が、僕から彼女を受け取り先に車内へ運ぶ。僕も急いでそれに続いた。
車の中は暖房が効いていて暖かく、柔らかいシートが心地よい。
「すぐに食事できるようにしてあるよ」
動き出した車の中で男がそう言うと、ヤスミンはパッと顔を輝かせた。
「本当? 私、お腹ペコペコなの」
宿に到着する頃には、ヤスミンの顔色はかなり良くなっていた。体が温まったせいか、頬がうっすらとピンク色になっている。
車を降りる時、自分で歩くという彼女を、僕は強引に抱きかかえた。鞄は迎えの男が持ってくれる。
宿の中に入ると、中年の女が奥から姿を現した。僕らを見て『まぁまぁ』と言いながら、出迎える。
「部屋はどうなってる」
「ちゃんと用意してありますよ」
鞄を持った男の問いに、女は胸を張って答えた。この二人が宿屋の経営者なんだろう。
「寒かったでしょう? あったかい食事があるからね。あらまぁ、この子は靴を履いていないじゃないの。一体、どうしたの?」
女将さんは一人でベラベラと喋りつつ、僕たちを食堂に案内した。そこはストーブがガンガンに焚かれていて、その上で鍋が音を立てて煮えている。熱いぐらいに暖かい。食堂いっぱいに、美味しそうな匂いが充満している。
「さぁさぁ早く座って。すぐによそってあげるからね」
言葉通り、女将さんはすぐさま鍋の蓋を取り、皿にシチューを注いだ。匂いが更に強くなり、僕の腹がぐぅと鳴る。それを聞いて女将さんは嬉しそうに笑う。
「よっぽど、お腹が空いてたんだね」
テーブルにシチューがたっぷり入った皿が置かれた。大きな肉やジャガイモがごろごろ入っていて、見るからに食欲を刺激する。
「さあ、どうぞ」
「わあ、おいしそう!」
ヤスミンは、子供らしくはしゃぎながらスプーンを手にとる。
「いただきます」
行儀良く言って、食事にとりかかった。僕もそれに続く。自分で思っていた以上に空腹だったらしく、僕がみっともないくらいのスピードでシチューをたいらげると、女将さんは何も言わずに二杯目をつけてくれる。
味わいながら、僕はヤスミンの様子を横目で見た。彼女は膝にハンカチをしき、優雅にスプーンを使っている。口の周りも汚さず、食べ零しもしない。子供には似合わない、ものすごく上品な食事の風景だった。
「偉いわねぇ。こんなに綺麗に食べる子供って初めてみたよ」
女将さんは、そんなヤスミンの姿を目を細めて見ていた。
「ところで」
視線を僕に移して、女将さんは言った。
「あなた達は兄弟? 親子?」
そう聞く彼女の目は、あからさまな好奇心に輝いている。世話好きな人というのは、たいてい詮索も好きなものだ。
「…兄弟です」
「あらそう。随分と年が離れているのね」
女将さんはそう言って、僕ら二人を無遠慮にジロジロ見比べた。顔だってちっとも似てないし…と付け加えたそうな表情で。その通りだと自分でも思うが、余計なお世話だ。
「お兄さん、お名前は?」
「ジードといいます」
「妹さんは?」
女将さんは、どんどん僕らのことに踏み込んでくる。打ち合わせしておいて良かった、と、僕はヤスミンの気の回りように舌を巻いた。
「ヤ、ヤスミン、といいます」
「ヤスミンちゃん、ね」
女将さんが少々疑わしげに、頷く。
「おばさんは、何ていうの?」
ヤスミンはついと顔を上げて聞いた。
「あたしはローズ。ついでに言うと亭主はザックさ」
自分の名が耳に入ったのか、達磨ストーブの前で暖を取っていた彼が小さく笑って頭を下げる。
「ところで、あんた達、こんな夜遅くに列車で何処に行くつもりだったの?」
「別に…何処って事もないですけど」
「夜逃げってわけじゃないんでしょ?」
「まさか、違いますよ」
「ご両親は?」
ローズが次々と質問を浴びせかけてくる。
「死にました」
「あら、お二人とも?」
「ええ」
「まぁ…ご病気?」
「いや、事故です」
「車の? まぁ怖いわねぇ。お二人いっぺんに?」
「はい」
「どれくらいになるのかしら」
「二年かな」
「大変だったわねぇ」
ローズは大袈裟に身振りを加えて、僕たちに同情してみせた。
「小さい妹さんを残してねぇ。それじゃあご両親もさぞ心残りだったでしょうね。それ以来、あなたがこの子の面倒をみているのねぇ」
「ええ、まぁ…」
僕は言葉を濁した。
「でもそれじゃあ、仕事中なんかはヤスミンちゃんは一人でお家に?」
「いや、仕事は辞めたんで…」
「あら」
彼女の顔に、僅かに不快感が漂う。
「お金持ちなのねぇ」
明らかに嫌味の混じった声で言われた。
「いや、そういうわけじゃないんです」
「でもねぇ」
ローズの目が『いいご身分よね』と言っていた。これで、彼女の僕に対する評価は決定してしまったみたいだった。
いい年をして定職も持たずに、親の財産を食潰しているロクデナシ。そんな兄に付き合わされて、妹さんも可哀想に…といったところか。
僕は、これ以上ローズと会話をするのは得策では無いと判断した。まだちょっと食い足りなかったが、食事を切り上げることにする。
「えっと、あの、ご馳走様でした。もう休みたいんですけど」
「ああ、そう」
ローズは立ち上がって、腰の辺りをポンポンと叩いた。それはおそらく彼女の癖なのだろう。
「部屋は二階だからね。たいていの物は揃ってると思うけど、何か足りなかったら遠慮なく言って」
僕たちがもう一度礼を言って食堂を出ると、ザックが付いてくる。彼は僕らを追い越し、先に立って歩き出した。その手には僕の鞄がある。そういうのは普通、先に部屋に入れておいてくれるものじゃないのかな。
ザックは二階の部屋に僕たちを案内して、オヤスミと言ってドアを閉め、去っていった。
あてがわれた部屋は、清潔で、何もかもがきっちり整理されていて、だけど物凄く狭かった。小さなベッドがひとつと、小さなテーブルがひとつ。それだけで部屋がいっぱいだ。一応ユニットバスはついているものの、図体がデカい僕が使うにはいかにも手狭だった。
「何か部屋というより巣みたいね」
ヤスミンは部屋に入ると、勢い良くベッドに腰掛けた。
「ああ、お腹いっぱい」
「それは良かったね」
「あんまり美味しくなかったけど。だってアレ、完全な田舎料理よ」
ヤスミンはそう言いながら、ペロリと舌を出す。
「あんなに美味しそうに食べてたのに?」
「ジードだって、そう思ってたくせに」
僕は苦笑いした。全くこの子の読心術は大したもんだ。こんな小さな子に、僕は隠し事ひとつ出来ずにいる。
「でも、あの人の厚意だからね。食事の時間はとっくに終わってるのに、わざわざ作ってくれたみたいじゃないか」
「偽善者ね」
ヤスミンはくすくす笑う。
「本当は分かってるんでしょ? あれはあの人の自己満足に過ぎないんだって。ああやって、いい人ぶるのが大好きなんだってね」
「君は何でもそうやって斜めに見るのか?」
一体、この子はどういう生き方をしてきたんだろう。僕には想像もつかない程の善意と悪意に晒されてきたのだけは確かみたいだけど。
「ねぇ、気がついた?」
「なにを」
「あのオジサンね」
ヤスミンはそこで、鼻の頭に皺を寄せる。
「私に色目を使ったわよ」
全く、何て言葉を使うんだ、この子は。
「まさか」
「本当に気付かなかったの? ほんとに?」
「うん」
「ダメよ。もっと注意深くならなきゃ。いざって時に死ぬ事になるわ」
「それより、そんな言葉はあんまり使わない方がいい」
「だって、他に言いようがないじゃない。あんないやらしい目つきは」
「彼はいい大人じゃないか。それが、君みたいな子供にそういった興味を抱くわけが無い」
「あら、そういう趣味がある大人って結構いるのよ?」
「………」
確かに。でも、まさか、実際お目にかかるとは思っていなかった。
「あの人、私たちが兄妹だってこと、疑ってる」
「え?」
「あなたを凄く羨ましがってるわ。私を自由にしてると思い込んで」
「冗談じゃない」
「だけど、あの人の頭の中ではそういう事になってるのよ」
それが本当だとしたら、気が重い。
「僕ってそんな風に見えるのかな」
「気にすることないわ。ああいう人にとっては、ジードが実際どんな人間だろうと関係ないの。自分の事で頭がいっぱいなんだもの。自分中心にしか物事を考えられないのよ」
ここにいるのは、本当に年端もいかない少女なんだろうか。僕は、無意識にバケモノでも見るような目つきになっていたかもしれない。
「とにかく、ここには長居しないほうが良さそうね」
「うん」
「明日、すぐに出発しましょう」
「彼、何か仕掛けてくるかな」
「それは分かんない。でも、用心した方がいいのは、おばさんかもね」
「何故? ちょっとお節介なだけの人じゃないか」
「だって私たちに興味津々だもの。明日になったら、もっと色々訊かれるわね。賭けてもいいわ」
「なるほどね」
「それって、すごく迷惑じゃない?」
「だね」
ヤスミンはふっと溜息をついた。
「私、お風呂入ろうかな」
そして、突然言う。
「あ、ああ。そうした方がいいね。何しろ今日は冷えたから」
母親のようなセリフを吐く僕を、ヤスミンは笑った。
「ジードは?」
「いや、僕はいいよ。あんな狭い風呂じゃ却って疲れそうだし」
「そう、それじゃ入ってくる」
ひょいとベッドから下りると、彼女は浴室へ向かう。
「あ、ダメだわ」
彼女が足を止めた。
「どうしたの?」
「だって着替えが無いもの。この服は埃っぽいし、お風呂上りには着たくない」
「バスローブかなんか置いてあるんじゃないか?」
「そう?」
ヤスミンは少し小首を傾げ、改めて浴室に入っていく。
少しすると、誰かが部屋のドアを叩いた。うっかりすると聞き逃してしまいそうな、小さな音だ。誰かに聞かれるのを恐れているような。
僕はさっきの話を思い出した。よりによって、彼女が風呂に入っている時に訪ねてくるなんて。
用心して、ほんの少しだけ扉を開く。果たしてそこには、ザックが立っていた。銀色のトレイに、ホットミルクとコーヒーを乗せて。
「何か?」
わざとそっけなく言ってやると、彼は少し焦ったようだった。
「ああ、いや…女房がこれを持って行けと言うもんでね」
言い訳がましく、口の中でモグモグと言う。
「それはどうも」
飲み物を受け取る為に、もう少しだけドアを開けると、ザックは首を伸ばして素早く部屋の中を見回す。
「おや、ヤスミンちゃんは?」
そう言いつつ、彼の目は浴室のドアに張り付いていた。シャワーを使う音で、彼女がそこにいると気付いたのだろう。
「今、風呂ですよ」
僕はなるべく何でもない口調で答える。ザックの目の光に危険なものを感じて、この男をさっさと追い出すことにした。
「気を使ってもらって、すみません。僕らもう休みますので」
丁寧に言いながら、体半分ほど部屋に入ってきていたザックを肩で押し出し、ドアを閉める。が、一向に立ち去る足音がしない。ドアに耳を押し当てて、水音を聞いているに違いない。胸糞が悪くなってきた僕は、ノブを掴んでいきなりドアを開けてやった。ザックが驚いて飛びのく。
「まだ何か?」
じろりと睨んでやると、奴は真っ赤になってスゴスゴと階下へ去って行く。それを見届けてからドアを閉め、内側からしっかり鍵をかけた。ヤスミンの推測は当たっていたようだ。僕は脱力感に襲われた。
コーヒーに手を伸ばしかけて、やめる。何か妙なものでも入れられていたら、たまったもんじゃない。
「ジード」
風呂場から、ヤスミンの声がした。
「誰かきたの?」
「ん、ああ。アイツだよ」
「あ、そう。ねぇ、私もう出るわ」
風呂に入ってから、まだいくらも経っていない。
「ゆっくりしたらいいのに」
「だって何だか、お湯がぬるいの」
全く、なんて事だ。親切そうな顔をして、実はローズは結構いいかげんらしい。
「すっかり冷えちゃった。風邪ひいたらどうしてくれるのかしら」
ブツブツ言いながら浴室から出てきたヤスミンは、古いバスローブを着ている。ペラペラした着心地の悪そうなそれを身にまとった彼女は、何だかとても可哀想に見える。
しかし、それでも彼女の美しさが損なわれる事はない。濡れた銀髪がくるくると渦を巻き、若い皮膚は水滴を弾いている。こうして見ると、ヤスミンはずいぶんと華奢だった。今まで布がたっぷりしている服を着ていたので、気付かなかったが。
「痩せてるんだね」
「そう? でも大人が痩せてるのとは違うでしょ。子供はこれぐらいが普通よ」
「じゃ、ダイエットしてるわけじゃないんだね」
「さっき見なかったの? 私って凄く良く食べるんだから」
「ふぅん。まぁ、僕には女の子のそういう事は、全然分からないけどね」
「正直ねぇ」
ヤスミンはニッコリ笑って、僕の隣に座る。
「ね、本当にシャワー浴びなくていいの?」
「何だよ。自分でぬるいって言っておいて、僕にはすすめるのか?」
「ううん。ただ、ジードって毎日ちゃんとお風呂に入らないとダメなタイプかと思って」
実はそうなんだ。だけど、今日みたいな日は別だ。狭い風呂が嫌だってのは嘘じゃないけど、それ以上に疲れ切っている。
「別にいいいよ。それより早く寝たい」
「そうね、そうしましょ」
「じゃ、僕は毛布を敷いて床で寝るから」
「あらダメよ」
ヤスミンが僕の腕を掴む。
「こんなに寒いのに、なに言ってるの」
「でも、このベッド小さいし…」
「ムリヤリ詰まれば何とかなるわ。それに、くっついてた方があったかいでしょ?」
「まぁね」
僕らは笑い合って、狭いベッドに体を押し込んだ。窮屈ではあったが、布団は柔らかくて気持ちいい。どうしても足の先が飛び出してしまうけど。
せめてヤスミンだけでも暖かくしてやろうと、僕は彼女を抱えるように腕に包んだ。甘い体臭がまとわりつく。濡れた髪が冷たかったが、気にならなかった。
「おはよう」
目を開けると、ヤスミンが僕の顔を覗きこんでいた。彼女はもう服を着ていて、昨夜よりは随分元気そうな顔つきでニコニコ笑っている。
「僕、寝過ごした?」
部屋が妙に明るい。
重い頭を振りながら体を起こす。少し寒気がした。やはり昨夜、冷えたんだろう。
「そうでもないわ。十分ぐらい前に、おばさんが食事だって呼びにきたけどね」
「ああ、そりゃマズい」
すっかり目が覚める。
「先に行ってて」
「分かったわ」
待っててあげると言われるのを一瞬期待した僕を置いて、彼女はさっさと部屋を出て行った。それがあんまり素早かったから、思わず笑ってしまった。腹が減ってるなら早く言えばいいのに。
急いで着替えて食堂に行くと、他の客もまだ食べている最中でホッとした。
スプーンを持ったヤスミンが僕に合図をする。周囲の客たちが、一斉に僕を見た。理由は分かっている。ヤスミンのせいだ。彼女はやはり目立ち過ぎる。
無遠慮な視線に意味も無く頭を下げながら、僕はヤスミンの隣に座った。
「おはよう。良く眠れたかい?」
目ざとく僕をみつけたローズが、元気良く聞いてくる。
「おかげさまで」
答えると、満足げに笑った。昨夜不興を買ってしまったのが嘘みたいな対応だった。
「すぐに用意しますからね。コーヒーでいいのね?」
「はぁ」
朝から張り切っている女将さんは、大股で厨房に入って行った。圧倒されている僕を、ヤスミンがクスクスと笑う。
「ゆうべ、お湯が出ませんでしたって言ったら、すごく恐縮されちゃったわ。もう可笑しいぐらい」
そう耳打ちされた。
「そんなこと言ったのか」
「あら、宿屋ってサービス業でしょ? 親切のつもりで言ってあげたのよ」
澄ました顔をしてヤスミンは、小さな器に入っているマーマレードをスプーンですくって口に入れる。
「これ、素敵に美味しいわ」
「そりゃ良かったね」
彼女と会話していると、ローズが僕の分の食事を持ってきてくれる。スープとパンと、彩り良く盛り付けられたサラダと茹でたソーセージ、それからマーマレードとバター、コーヒー。見るからに美味そうだ。
「さ、どうぞ」
自信満々に、彼女はそれを薦める。
「いただきます」
パンを手に取り、バターを塗って口に入れるのを、ローズはジッと見ていた。パンは焼きたてらしくて温かく、いい匂いがする。外側がパリッとしていて中が柔らかくて、最高だった。
「やっぱり焼きたては美味しいですね」
お世辞ではなくそう言うと、ローズがニッコリと笑う。
「それがウチの自慢なんですよ」
満足そうに答えて、また他の客の世話をしに行った。
「褒め上手ね」
ヤスミンが意外そうに言う。
「普通だよ」
と答えて、僕は周囲を見回した。明るい陽の光の下で見た時に初めて気付いたのだが、この宿は小さいけれど小奇麗なものだった。
そして、女将さんは大変な働き者のようだ。彼女は常に何か仕事をしている。僕がのんびりと朝食を食べている間にも、ジャガイモの皮を剥き、コーヒーのお代わりをついで回り、と一時もじっとはしていない。食事をしてる客の数はそれほど多くないのに、彼女のする事は無尽蔵にあるように見えた。
コマネズミのように…というのは、ローズの為にある言葉みたいだ。それに引きかえ、彼女の夫の方はそういうわけにはいかないようだった。恐ろしく働き者の妻と違って、ザックは相当な怠け者らしい。妻が忙しく立ち働いているというのに、自分はストーブの前で動かない。何か手仕事でもしているのかと思っていたのだが、そうではないらしい。ポケットから何かを取り出しては口に放り込み、ボンヤリと窓から外を見ている。
不思議なのは、そんな亭主を女将さんが一言も咎めない事だった。
「あそこから一歩も動かないのよ、あの人」
僕の視線に気付いたのか、ヤスミンがまた小声で言う。
「何もする気がないみたい。あれでよくこんな商売していられるわね」
「その分、奥さんが頑張ってるんだろ」
「そうね」
そのローズが、小ぶりの水差しにジュースを入れたものを持って、僕らに近づいて来る。
「しぼりたてだよ。足りなかったら言ってね」
ヤスミンに向かって愛想良く言うと、それをテーブルに置いて、また忙しそうに離れて行った。
「すっごいサービス」
「君の苦情のせいだろ」
「あら、これがお詫びだと思ってたわ」
ヤスミンはそう言って、皿に乗っているクッキーをつまんだ。
「そんなに気にしなくてもいいのにね」
楽しそうに、彼女はそれをパクつく。
「この分だと、まだ続くわよ」
「サービスが?」
頷いて、ヤスミンは僕を見上げた。
「しばらく泊まってみるのもいいかもね」
昨夜、自分で言った事を忘れたように、彼女は付け足す。
「でも、それは…」
僕がそう言いかけた時、ザックと目が合った。その瞬間された何ともいえない笑みは、僕の食欲をみるみる削いでいった。
その毒に当たったのかもしれない。部屋に戻った途端、寒気が酷くなった。頭と関節が痛む。口の中が苦い。
僕は滅多に寝込んだりしないが、そのせいで却って熱には弱かった。額を触ってみると、案の定、熱い。
フラフラとベッドに倒れ込む。
「どうしたの?」
ヤスミンが慌てて僕の側に来た。
「顔、真っ赤よ」
「ああ、やっぱり」
「風邪?」
「多分ね」
「さっきまで元気だったのに」
「うん…でも今は気持ち悪い」
「私が夕べ布団を取っちゃったからかしら」
ああ、そうだったのか。じゃあ仕方ないな。
「こんなこと、滅多にないんだけどね」
そう言う自分の声が弱々しく聞こえる。我ながら、ちょっと大袈裟だ。
「とにかく薬を飲まないとね。おばさんに聞いてみる。ああ、お医者さんを呼んでもらえるかしら」
ヤスミンは一人で喋り、あわただしく部屋を出て行った。取り残されて心細くなる。初めて来た土地で病気になるなんて、僕はやっぱりツイてない。
考えてみれば、僕はいつだって間が悪いんだ。遠足の日に麻疹になったり、家族で遊びに行こうって時に足を挫いたり。思い出すと気が滅入ってくる。
ヤスミンは、なかなか帰って来なかった。次第にヒリついてくる喉をさすって、布団にもぐりこみ、体を丸める。
そしてそのまま、僕は眠ってしまったらしい。
どこまでも続く長い廊下を、僕は歩いている。そこには僅かな光源しか無く、ほんの数メートル先は真っ暗だ。
ときどき立ち止まり後ろを振り向くと、そこもまた闇。ということは、このボンヤリした光は僕と一緒に移動しているんだろう。そう思うと、何故かゾッとした。
その上、廊下の向こうから、何かがやって来るのが分かる。何故なら、はるか前方から濡れた布を引きずるような音がするからだ。ズルズルベチャベチャという音は、やって来る者が何かマトモじゃないって事を想像させる。そいつがいきなり姿を現した時の事を考えると気が狂いそうになる。
でも引き返すわけにはいかない。後ろからも同じ音が聞こえてきたから。僕はそいつらに挟みうちになっているのだ。
どうしよう。何もいい考えが浮かばない。
それにしても、ここは何て熱いんだ。頭の上でゴウゴウ鳴っているのは風の音に違いないのに、ここには少しも吹き込んでこない。
ちょっとでも風が吹いてくれたらなぁ。この息苦しさが多少は楽になるかもしれないのに。そう思いながら重たい足を一歩踏み出した途端、途方もなく冷たい手が僕の額をガッチリと掴んだ。
ハッとして目を開けると、そこには女将さんの心配そうな顔があった。一瞬、状況がつかめない。呆然としていると、彼女の唇が動いた。
「大丈夫かい? 熱があるんだって?」
すぐに、大丈夫ですと答えようとしたが、喉がガサついて咳が出ただけだった。
「風邪みたいだね」
「夜更かしした上に、布団を跳ね除けてるんだもの」
ヤスミンの声がした。
「あらまあ、何てこと。昨夜はあんなに寒かったのに」
「兄さんて、すごく寝相が悪いんです」
言いたい放題言われているが、反論する元気はもちろん無い。ウトウトしてる内に、また熱が上がったようだった。
額に手をやると、濡れタオルが乗っかっている。さっきの夢は、どうやらこれのせいらしい。
「とにかく薬を飲まないとね」
「すいません…水を…」
「はい。ここにありますよ」
ローズは僕の体を起こして、コップを持たせてくれた。中に入っていたのが冷水ではなく湯冷ましなのが有難い。僕はそれを一気に飲み干した。喉が腫れているらしく、水分が心地よい。
「もう一杯下さい」
言うより早く、ローズが新しく水を注いでくれる。今度は一口ずつ味わって飲んだ。ヤスミンはそんな僕を黙って見ている。まるで観察してるみたいに。
「大丈夫?」
彼女はそう言ったが、僕には全く心配そうに聞こえなかった。
粉薬を飲まされ、布団を山ほどかけられて、さぁゆっくり寝なさい、と押さえつけられた。布団には湯たんぽまで入っている。
汗をかくと、ローズがマメに着替えさせてくれた。恥ずかしかったが、抵抗する気もないほど僕はグッタリしていた。多分それは熱のせいだけじゃなく、馬鹿みたいに積み上げられた布団にのぼせていたんだと思う。彼女が余りにも細々と世話を焼いてくれるので、ゆっくり眠るヒマもないほどだ。元気な時より、余程忙しい。
ヤスミンは、殆ど顔を見せなかった。それが彼女の意思なのか女将さんの気遣いのせいなのか、僕には分からない。ザックの事が頭によぎり、少し不安になる。
「妹さんの事は心配しなくていいよ。アタシがしっかり面倒みてるから」
僕の心を見透かしたように、ローズが言う。
「すみません。ご迷惑かけて」
「いいのよ。あの子は手がかからない子だし、アタシは人の世話を焼くのが好きなんだからさ」
ローズはカラカラと笑って、もう一度、心配しないでと繰り返した。
「ねぇ、この宿、少し変わってると思いません?」
僕の枕元で果物の皮を剥きながら、彼女は唐突に話し始めた。
「そうですか? 僕はあまり宿屋に泊まった経験が無いものですから」
「ここはねぇ。元はアタシの家だったの。アタシの娘時代は普通の民家だったんです。それを父が改装して宿屋にしたんですよ」
「へぇ、そうだったんですか」
たいして興味の無い話題だし、頭は熱で朦朧としていたが、神妙に相槌を打つ。何しろ、こんなに面倒をかけてるんだから。
「アタシは反対したんですけどね。だって、アタシは、そりゃあこの家が好きだったんですもの。でも父が事業に失敗して、新しい仕事もなかなか無かったもんですからね。泣く泣く決心したんです」
長い話になりそうだな、と僕は覚悟した。
「昔はここも、こんな風じゃなかったんですよ」
その一言を皮切りに、昔話が延々と続く。以前は、この宿は随分と流行っていた事。女将さんの母親の料理は一流レストランにも引けを取らないほど美味しかった事。庭の薔薇目当てで来る客が後を絶たなかった事。一時、あの食堂が芸術家のサロンのようになっていた事。両親が相次いで亡くなってから、何もかも上手くいかなくなった事。それを何度もクドクドと繰り返す。正直言って聞き流したいが、そうもいかない。
「それでも一時期よりは随分と良くなってきたんですよ。お客様も増えてきたしね。そりゃ昔には及びもつかないですけども。なかなか評判がいいんです。けっこう忙しくなってきたんで、兄も駅の仕事なんて辞めて手伝ってくれればいいんですけど」
「ああ、そういえばお兄さんにはお世話になりました」
そう言うと、彼女は上機嫌な笑顔を僕に向ける。
「いいえぇ。あの人もね、アタシと同じで人の世話を焼くのが好きな性質なんです。だからまぁ、あの仕事も向いてると言えば向いてるんですけど」
「でも肉親が手伝ってくれれば何かと心強いですからね」
熱のせいか、僕の口からは次々と彼女が望んでいるだろうセリフが飛び出す。
「そうなのよねぇ」
ローズは感慨深げに頷くと、溜息をついた。
「あの人も頑張ってくれてはいるんですけど」
あの人、というのはザックの事だろう。どう見ても頑張ってるようには見えないが、この女将さんの性格上、他人に身内の恥を晒すのを潔しとしないに違いない。
「ここを昔以上に繁盛させるのが、アタシの夢なんです。きっと実現させてみせますよ」
僕に向かってそう宣言する女将さんの顔は、まるで少女のように楽しげだった。
夜になっても僕の熱は引かなかった。それどころか、かなりの高熱になっている。
女将さんが心配して、医者を呼んできてくれた。近所に住んでいる幼馴染なんだそうだ。
「だから、多少の無理はきいてくれるんだよ」
言葉通り、診療時間はとっくに過ぎているにもかかわらず、そのロッシという医者は往診に来た。
「ローズの頼みじゃ断れないからなぁ」
苦笑しつつ診療鞄の中から色々な道具を出して僕を診察し、風邪だと診断した。
「喉が酷く腫れているね。熱も高い。もっと早く呼んでくれれば良かったのに。解熱剤を出しておくよ。炎症止めと一緒にね。腫れが引くまでは物を飲み込むのも辛いだろうが、食事はちゃんと摂るように。薬も忘れずに。だいぶ酷くなっているから無理はしないようにな。まぁ数日も大人しくしていれば大丈夫だとは思うが。君の体はけっこう頑丈みたいだからね。明後日ころには熱も下がり始めると思うよ」
彼にそう言われると、何だか元気が出てきた。でも喉の痛みは明らかに酷くなってきていて、朝は飲めた水さえも受け付けなくなっている。こんな状況では、まともな食事など出来そうにない。
「リンゴをすりおろしたのとか、蜂蜜入りのヨーグルトだったら何とか喉を通るだろう。冷たいポタージュとかね。あんたは料理はお手の物なんだから、そのへんは宜しく頼んだよ」
ロッシが言うのを、ローズは頷きながら聞いている。
「小さいストーブは無いかな。その上で湯を沸かして…」
「分かったわ」
「部屋は常に暖かくね。あとは静かに寝かせておくんだね。何たって風邪には睡眠が一番だから」
様々な指示を与えて医者が帰ると、ローズは言われた通り部屋にストーブを持ってきた。ストーブに火を入れると、狭い部屋はすぐに暖まってくる。
「ヤスミンちゃんは、今夜はアタシと一緒に寝なさいな」
うつるといけないから、と彼女は言う。ヤスミンはちょっと考えて、こう答えた。
「ありがとう、おばさん。でも私、兄さんが心配なの。たった二人の兄妹なんだもの。寝てなんかいられないわ。私が看病したいのよ」
「とんでもないよ。あんたはまだ小さいんだから。こういう事は大人に任せておけばいいの」
二人は暫く何だかんだと言い合っていたが、ヤスミンの強情さにローズが折れた。
「仕方ないわね。それじゃあ、あんたの寝床をこしらえてあげるから」
腹を決めると、女将さんの行動は早かった。いくつものクッションやシーツを使って、あっという間に小さなベッドを作ってしまう。
「じゃあ、大人しくね。お医者さんが言ってたように、お兄さんをゆっくり寝かせてあげなきゃいけないんだからね」
「はい、分かってます。ありがとう」
ヤスミンはそう言って、神妙に頭を下げる。しおらしげなその態度に、ローズは満足そうに笑った。
「本当に仲がいいのね」
それから彼女は、タオルや水差しや果物の入った籠を用意すると、二人ともすぐ寝るようにと言い、部屋を出て行く。
しばらくの沈黙。
「世話好きっていうのは、本当みたいね」
先に口を開いたのはヤスミンだった。
「まるでお母さんみたいじゃない?」
「でもさ、君に大人しくしてろって言ったわりに、あの人、昼間は僕を相手に喋りまくってくれたよ」
「あらそう。じゃ悪化したのは、おばさんのせい?」
「かもね」
「まぁ、それに付き合うジードも悪いとは思うけど」
ヤスミンが呆れたように肩を竦めた。
「だって仕方ないだろ。世話になってるんだし」
「はいはい。とにかくもう寝なさいよ。私も横にならせてもらうから」
「狭くて寝づらいんじゃないか? それじゃ」
僕は即席ベッドを顎で指した。
「そんな事ないわ。商売柄かしら。さすがね。あんなに手際いい人初めて見た。とっても良く出来てるわよ、このベッド」
「そっか」
「少なくとも、昨夜よりは寝心地いいと思うわ」
「ああ、それはそうだね」
「でしょ?」
ヤスミンは悪戯っぽく笑って、ドアの鍵をかけに行く。シリンダー錠と掛け金の音が、部屋に響いた。
戻ってきた彼女はワンピースを脱いで肌着姿になり、自分の寝床に潜り込む。
「寒くない?」
「暑いくらいよ。そのストーブのおかげでね。ね、ちょっと火を小さくしていい?」
「うん。空気も悪くなりそうだから。ちょっと窓を開けといた方がいいかもね」
「分かったわ」
ヤスミンはベッドから這い出し、その通りにする。
「ほんとうにうつったらどうしよう」
僕の言葉に、ヤスミンは視線をこっちに向ける。
「なにが?」
「風邪。そしたらまた、女将さんに迷惑かけるし」
「迷惑ねぇ…おばさん迷惑そうにしてた?」
「思ってたって、そんなの顔に出すわけないだろ」
「私には嬉しそうに見えたけど、すごーくね」
「えぇ?」
「だから言ったのよ。世話好きは本当なのねって。いるじゃない、そういう人って」
僕はそれ以上反論しなかった。確かにそれは、僕自身も感じていた事だったから。
「それに、私は病気になんかならないから大丈夫」
「そんなの分からないだろ」
「だって今までそうだったもの」
僕は吹き出しそうになった。こんな小さい子がそんな風に言うのが、可笑しくてたまらなくて。
「これからなるかもしれないじゃないか」
「ぜったい大丈夫だってば。余計な心配してる場合じゃないでしょ。今、病人なのはジードなんだから」
「はいはい」
この子は言い出したら絶対曲げない。それは良く分かってる。
「ああ、やっぱり、昨日よりずっといいわ」
小さいベッドに体を収めて、ヤスミンは気持ちよさそうに呟く。
上から見ると、それはまるで小動物の巣みたいに見えた。そこで丸くなっている彼女は、ハムスターか何かのようだった。
「そんなに狭いのに?」
「私、もっと狭いところで寝た事だってあるわ」
ヤスミンはそう言って、枕代わりの黄色いクッションを軽く叩いて形を整える。
「早く寝なさいよ。私、今日は眠いの。何だか疲れちゃって」
「うん、おやすみ」
すぐに彼女の寝息が聞こえた。
僕といえば、薬は効いているのに体がだる過ぎて眠れない。こういう時はとにかく目を閉じているのが一番だ。そうしていれば、自分でも気付かない内に眠ってしまえるものだから。
翌朝になると、体はかなり楽になっていた。
今日も僕より早く起きていたヤスミンは、開け放した窓の前でリンゴを丸ごとかじっている。
「もう、あんまり暑くて変な時間に目が覚めちゃったわ」
たいして不機嫌そうでもなくそう言うと、今度はオレンジに手を伸ばす。
ストーブは消されていて、彼女が空気を入れ替えておいてくれたせいか、部屋の中は丁度良い温度になっていた。
「何だか十も老けちゃったみたいね」
僕の顔を覗きこんで、ヤスミンが言う。
「体から水気が出ちゃって縮んじゃったのかしら」
「起きぬけから酷いこと言うなよ」
「あら、ごめんなさい」
「でも、だいぶ良くなった気がする」
「そうね。さっき額を触ったら、熱は引いたみたいだったもの。でも顔色はまだまだね。あと髭が剃れたらいいんだけど。人相が悪くなってるわ」
言われて顎を撫でてみると、なるほどヤスミンの言う通りだった。
「でも、その方がカッコ良く見えるかも」
からかわれていると分かっているのに、何故か顔が熱くなる。
「ね、食事はここでするのよね」
「うーん。下に行ってもいいけど…」
「ダメダメ。もう、おばさんには言ってあるんだから。私の分の持ってきてもらうように」
「呆れたな」
この子と女将さんは、どんどん二人で色々な事を決めていってしまう。
「気が利くって言って欲しいわ」
ヤスミンが微笑んだ時、部屋のドアがノックされる。
「はぁい!」
元気良く返事して、彼女はドアを開けに行った。
「あら、ずいぶん具合良さそうね」
僕の顔を見るなり、ローズは言う。美味しそうな匂いが部屋の中に漂った。
「じゃあ、もっとちゃんとした食事が良かったかしら」
彼女がトレイに乗せて持ってきたのは、温かいミルク、オニオングラタンスープ、それに果物を刻んだものがたっぷり入っているヨーグルトだった。それを見た途端、腹が鳴る。女二人が顔を見合わせて笑った。
「あらまぁ」
「そういえば、夕食たべてなかったものね」
「はぁ…すいません」
顔が赤くなっているのが自分で分かる。
「さぁさぁ、とりあえず、これを食べて。何か追加を持ってくるからね」
女将さんは、ベッドに起き上がった僕の膝にトレイを置くと、部屋を出て行った。
「ジードったら、恥ずかしいわね」
「うるさいな。仕方ないだろ」
ヤケクソで答え、ヨーグルトを口に入れる。冷たくて気持ちいい。
「私も食べようっと」
ヤスミンはホットミルクのカップを手に取り、また果物を食べ始めた。小さな口の周りが牛乳と果汁で汚れる。
「君こそ、行儀良く食べたら」
「この方が美味しいじゃない。後で拭けばいいの」
軽く睨んでくる仕草が、大人の女みたいでドキリとした。
「ほら、ジードこそ布団に零してるわよ」
「え、あ!」
スプーンから零れ落ちたヨーグルトを袖口で慌てて拭くと、彼女は声を上げて笑う。
「おばさんに怒られるわよ」
そう言う彼女の周囲には果物の種がいっぱい散らかっていて、僕は心の中で、君もね、とやり返した。
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