ベリシス

 眠るのは好きじゃない。たいてい悪夢をみるからだ。

 夢の中の僕はいつも子供で、何か恐ろしいものに追いかけられている。影のような真っ黒なものに。

 いくら走っても、僕はその影を振り払えない。

 そいつの息は、ずっと僕の首筋にかかっている。もしかしたら、ソレは僕の背中に張り付いているんじゃないか。必死に逃げながら、頭には次々と恐ろしい考えが浮かぶ。

 足が竦んでしまいそうになるけど、走るのを止めるわけにはいかない。捕まったら殺されてしまうからだ。何故だか、それが分かる。だから心臓が悲鳴を上げても走り続けなければならない。

 でも、結局無駄な抵抗に終わるんだ。それが夢の決まりだから。

 肩の所を、長い爪のついた黒い指に思い切り掴まれる。その感触は夢とは思えないほどリアルだ。僕は叫ぶ。泣く。命乞いする。当然のことだけど、それは叶わない。

 鋭い爪が喉に押し当てられる。それが真っ直ぐ横に引かれ、僕の喉がパクリと割れる。生温かい血が流れ出す。

 そして、僕の意識は真っ暗な穴の中に落ちていく。



 嫌な感じと共に目が覚める。何度も見ている夢なのに、未だに慣れる事はない。全身が汗でびっしょりだ。

 僕は子供から大人に戻っている。そりゃそうだ、あれは夢なんだから。けど、自分が殺されたという感覚だけはちゃんと残っている。

 周りをそっと見回してみた。もちろん、何も変わりはない。

 古い木造アパートの二階。狭いワンルームの部屋が僕の住処だ。鉄パイプのベッド、簡素なキッチン、ユニットバスが備えつけられただけの殺風景な。

 それでも小さなテレビだけは、最近ようやく手に入れた。中古で今時モノクロという代物だったが、僕にはこれで十分だ。

 悪夢を忘れようと、頭を一つ振ってベッドを下りる。壁にかけてあった洋服をハンガーから外しながら、テレビのスイッチを入れた。

 今日もニュースでは例の事件のことをやっている。三ヶ月前から、この街で毎日のように起きている殺人事件だ。

 アナウンサーが原稿を読みあげるのを聞きつつ、顔を洗い身支度をする。薄いコーヒーをカップに注いで、改めて画面に目をやった。派手な化粧をしたレポーターが声高に犯人の残虐さを非難している。そのヒステリックな声が寝起きの頭に響いた。

 今回の被害者は女性らしい。らしい…というのは死体が原型を留めていないからだ。犯人は常に、被害者の体を徹底的に破壊し尽している。それがこの事件の特徴だった。皆一様に、ハラワタを引きずり出され、目玉を抉られ、耳を削ぎ落とされ…という状態で発見されている。ただ、生きたままそうされたのではないらしかった。犯人は彼らの息の根を止めてから、それらの暴力を行っている。

 報道はされていないが、僕は犯人が死姦をしたり体の一部を持ち去っているに違いないと思っている。もっともそんなのは誰もが予想している事で、自慢気に言うほどのことでもない。典型的な猟奇殺人事件。

 誰もがテレビのニュースに釘付けになり、新聞や週刊誌を買い漁った。街の殆どの連中が、犯人に怯えながら、一方で確実にこの状況を楽しんでいる。

 確かにここは田舎だが、だからといってこんな事まで娯楽にしてしまう人間の神経は僕には分からない。猟奇事件に熱病のように浮かされている街を、危険だと思っている。ここでは余りにも平和が長くて、皆が事件を現実のものと考えていないのだろうか。テレビドラマを観ているような感覚なのかも。

 僕は一週間ほど前から、この街を出て行く事を考え始めていた。それというのも犯人が捕まる気配が全くないからだ。ちょっとした厳戒態勢になっているこの街で、やすやすと人を殺し続ける犯人が、僕は恐ろしくてたまらない。まして、これはハッキリと無差別殺人なのだから。

 今日こそ職場に辞表を出し、アパートを引き払う事を大家に言わなければ。

 被害者の頭部が見つからない、という情報を聞いて、僕は改めて決意する。本当はもっと早くそうしようと思っていたのに。もう億劫がっている場合ではなかった。なけなしの気力を振り絞り、面倒な話を切り出すしかない。

 時計を見ると、家を出なければいけない時刻を少し過ぎている。急がなければ。遅刻なんかしたら辞めると言い出しにくくなってしまう。

 テレビのスイッチを切り上着をひっかけると、部屋を飛び出しアパートの階段を駆け下りた。

 外に出ると朝の空気がヒヤリと冷たい。それを吸い込むと肺が痛くなったが、僕は構わず走り出した。



 薄汚れた雑居ビルの二階に、勤め先の会計事務所が入っている。通りに面した窓には事務所名がペイントされていたはずだが、今ではほとんど剥げ落ちて、所々黄色いペンキが残っているだけだ。どうせなら全部きれいに落としてしまえばいいのに。

 建物の中に入り、ホールを抜ける。古い階段を昇って、二階フロアの一番奥にある職場のドアを開けた。何とか始業時間に間に合い、ホッとする。

「おはようございます」

 挨拶をしながら入っていった僕を迎えたのは、いくつかの非難のこもった視線だった。いつものことだ。この事務所の所員は僕以外は年寄りばかりで、やたらと朝が早い。家にいてもする事がないのか、誰もが馬鹿みたいに早く出勤してくる。彼らにしてみれば、きっちり時間通りに出勤する僕は遅刻しているのも同然なんだろう。どうせ始業時間まで仕事なんかしてないくせに。

 ただ、所長だけは僕と同じか、それより少し遅いぐらいなのだが。窓際の席を見ると、珍しく彼はもう来ていた。

 所長はでっぷり太った赤ら顔の中年で、いつも右手の指に煙草を挟んでいる。そのせいで指がヤニ色に染まっているし、歯の方も酷いもんだ。

 僕は彼の席に近づいた。所長は僕が目の前まで来ても気付かないようで、机の上の書類に視線を落としている。

「所長」

 声をかけても、反応がない。

「所長。ジード・ハンブリッグです」

 もう一度、今度はかなり強い調子で呼んでみた。

「ああ、何だね」

 彼はのろのろと顔を上げ、尊大に口を開く。誰に対してもそういう態度を取るのは、この男の癖だった。そうやっていれば、自分が偉く見えると思っているらしい。僕はそれが苦手だった。顔を見ているだけで口の中がカラカラに乾いてくる。

 しどろもどろになりそうだったので、数日前からポケットに入れっぱなしになっていた辞表を、僕は黙って机の上に置いた。

 その途端、所長の表情がはっきりと不快そうなものになる。予想通りだ。この人は、部下が何かを主張すると、必ずこういう顔をする。

「君、ちょっと」

 所長は辞表を掴んで立ち上がり、僕を応接室に引っ張って行った。部屋に入ると、座れと言われる。僕はおとなしく埃だらけのソファに腰掛けた。

「何が不満なのかね」

 向かいに座った所長が、こっちを見ずに聞いてくる。

「君にはずいぶん良くしてやってるつもりなんだがね」

 それは嘘だ。この事務所では僕は体のいい雑用係で、給料だって一番安い。

「ご厚意には感謝してますが…」

 僕は心にもない事を言った。どうせもう辞めるんだし、逆らうこともないだろう。

「実は、この街を出ようと思っているんです」

「それは…」

 所長は身を乗り出した。

「例の事件のせいかね?」

 黙って頷く。

「ジード君」

 僕はここに勤めて以来初めて、彼に親しみのこもった声で名前を呼ばれた。

「君はいくつだったかな」

「はぁ、今年で二十五になります」

「いい年をした男がそんなものを怖がって職を捨てるとは、バカげてるとは思わないか?」

「思いません。少なくとも僕は」

「ふぅん」

 彼は呆れた顔で、溜息をついた。

「奥さんは何て言ってる?」

「僕は独身ですよ、所長」

「そうか、そりゃいかん。家庭を持っていれば、もっと現実を見られるはずだからな。そうだ、私の知り合いに良い娘がいる。君さえ良ければ話をまとめてやろうか」

「まだそんな気はないんです」

「ご両親はどうする。置いて行く気か?」

 僕はうんざりした。所長は僕の両親の葬式に参列したはずだった。たった二年前の事なのに、この男はもう忘れてしまったらしい。

「両親は居ません。所長も葬儀に来てくれたじゃないですか」

 そう言ってやると、彼は慌てふためく。

「そうだったかなぁ。あ、そうそう確か車の事故だったね。二人ともいっぺんに。思い出した…いや決して忘れてたわけじゃないよ。ただ私も色々と忙しいもんだから。誰の葬式に行ったかなんて、いちいち覚えてはいられないんだ」

 次々と失言をする所長に、僕は呆れた。いい加減な人間だと知ってはいたが、まさかこれほどとは。

「そんな事より、辞表を受け取って下さい。できれば今日限りで辞めさせていただきたいんです」

「それは君、いささか非常識じゃないかね」

「でも、僕がいなくなっても大して困りはしないでしょう?」

「困るんだよ、急に言われても。君も知っての通り、ウチは人手が足りないんだし」

 要するに、使い走りがいなくなるのが困るんでしょう? という台詞を僕は呑みこむ。

「とにかく、なるべく早く街を出たいんです」

「どうしても、かね」

「はい。申し訳ありませんが」

「君は恩知らずな奴だ」

 彼は明らかに怒っていた。

「私があんなに目をかけてやったのに」

「勝手を言ってすみません。退職金とかそういうのはいりませんから」

「当然だ」

 所長は冷たく言った。僕は黙って頭を下げ、立ち上がる。

 と、所長がいきなり僕の右手を握った。

「まだ、なにか?」

 彼はそれに答えずに、握った手を親指で撫でる。所長の手はその風貌から想像していた通り、脂ぎっていて妙に温かかった。ぬるついた手汗が気持ち悪い。

「君とはもっと親しくなりたかったよ」

 そう言って、所長は僕の体を舐めるように見回した。その視線の意味に気付き、慌てて手を振り払う。

 応接室を飛び出すと、そこに待っていたのはニヤニヤ笑う所員たちの顔だった。

「まったく所長の趣味にも困ったもんだ」

 誰かが言うと、事務所の中は悪意に満ちた笑いで一杯になる。

 皆、知っていたんだ。所長が僕をどんな目で見てたのか。

 いたたまれなくなって駆け出す僕の後ろから、彼らの笑い声だけがいつまでも追いかけてきた。



 案の定、大家の所でも話は難航した。住人の中で家賃を滞納していないのは僕だけだったからだ。

 大家はもういい爺さんで、年寄り特有のしつこさでクドクドと僕をかきくどいた。

 げんなりしつつ、とにかくもう出て行くと決めたのだと言うと、所長と同じく態度を一変させる。敷金を返す気はないとか、それじゃあ今すぐ出て行けとか、そんな事を怒鳴り散らした。

「分かりました」

 溜息をつきながらそう答え、部屋に戻る。

 さっそく荷物をまとめようとして苦笑した。そんな物は殆ど無い事に気付いて。数着の服と両親の写真。それから、洗面道具と使い古したマグカップ。使いかけのインスタントコーヒーも。布団やケトルはこの部屋に元々あったものだから置いていく。僅かな荷物をボストンバッグに詰めるのに、大して時間はかからなかった。

 二年間、僕はここで一人で暮らした。両親が死んで、それまで住んでいた家を売り、このアパートに越して来たのだった。だから、この部屋での思い出など全く無かった。ただ眠るだけの部屋だったから。それでも、いざ出て行くとなると、何がしかの感慨があるのが不思議だった。

 手に入れたばかりのテレビにほんの少し未練がでて、スイッチを入れる。ちょうど夕方のニュースをやっていて、やはり例の事件を大々的に報道していた。夜は一人で出歩かないように、というフレーズが何度も叫ばれている。

 そろそろ外が暗くなりかかっている。僕はテレビのスイッチ切りてっぺんを軽く撫で、電源を引っこ抜くと部屋を出た。

 階段をそっと下りる。大家の部屋がすぐ下にあって、気付かれるとやっかいだからだ。

 アパートから数百メートルほど遠ざかると、ようやく安心する。このまま駅へ行って、やってきた列車に飛び乗ってしまおう。アテなんかないし、何処へ行ってもこの街よりはましだろうから。

 どうせ僕は、元々ここが好きじゃなかった。両親が死んだからじゃない。子供の頃からそうなんだ。どこが…と聞かれても困る。何もかもとしか言いようがないからだ。食べ物の好き嫌いと一緒で。

 子供の頃から過ごした街が嫌いだなんて、僕はどこかおかしいのかもしれない。両親は、この街が大好きだったし。

 考えてみれば、二人が亡くなった時、ここを出て行けばよかった。もう僕をここに縛り付けるものは何も無くなってたんだから。

 僕は裏道を選んで歩いた。知り合いに会うのがイヤだった。この街を出て行く所を、何故か見られたくなかった。

「ねぇ」

 突然声をかけられて、僕は飛び上がった。必要以上に驚いてしまったのは、それが子供の声だったからだ。薄暗がりの中で聞くそれが、とても不気味に聞こえて。まして女の声だったから尚更だ。

 恐る恐る振り向いてみると、すぐ後ろに小さな女の子が立っていた。年は七~八才ぐらいだろうか。腰まで伸びた見事な銀髪には軽いウェーブがかかっている。大きな瞳は明るい緑色。子供特有の丸みのある唇が、まるで化粧をしたように紅く光っていた。

「ねぇ」

 少女はもう一度言った。

「列車に乗るの?」

 僕が頷くと、また口を開く。

「どこ行くの?」

「決めてない」

「行き先も決めないで列車に乗るなんて、あなた変わってる」

 少女は大人びた口調でそう言うと、ゆったりと微笑んだ。

「でも良いわね、そういうの」

「………」

「私も連れて行ってくれない?」

「え?」

「連れて行ってよ。お願い」

 少女に懇願されて、僕は戸惑った。

「馬鹿なこと言ってないで早く家に帰りな。テレビでもいってるだろ。夜一人で出歩いちゃダメだって。お父さんやお母さんが心配するよ」

「親なんていない」

 少女が口を尖らせる。

「消しゴムで消しちゃった」

「何を言ってるんだ?」

「一人歩きが危ないのなら、あなたが一緒にいてくれればいいのよ」

「僕はこの街を出て行くんだ」

「素敵。私もそうするつもりだったの」

 とんでもない事になった。この女の子、顔は可愛いけどアタマの方が少しイカれてるのかもしれない。警察に連れて行って保護を頼むべきだろうか。

「警察に行こうなんて思わない方がいいわ」

 少女は僕の心を見透かしたように言う。

「そんな事したら、あなたに殺されそうになったって言っちゃうからね」

「何だって!?」

「それとも私を裸にして変なことしようとしたって言った方がいい?」

「馬鹿を言うんじゃない! 子供のくせに」

「だったら連れてってよ」

 頭が痛くなってきた。これ以上この子にかかわるのは得策じゃない。僕は少女に背を向けて駅へ向かった。

「一人で行く気?」

 背中に浴びせられる言葉は、聞かなかったことにする。

 駅で適当な切符を買った。

 こんな時に街を離れるなんて胡散臭い奴と思われるかもしれない。などと余計な心配をしていたが、僕みたいな人間は意外と多いらしい。大きな荷物を持った人が何人も待合室にいた。彼らの話に聞き耳を立てると、どうやら皆、この事件が解決するまで親戚や知り合いの家に身を寄せるつもりみたいだ。なるほど、それは利口な考えだ。感心しながら、切符に鋏を入れてもらって改札を抜ける。

 ホームへ向かおうと足を踏みだした途端、肩をつかまれた。

「あんた、子供を置いていく気か」

 非難を込めたその声は、駅員のものらしい。仕方なく振り向くと、そこにはあの子がいた。駅員にしっかりと手を繋がれて。

「その子と僕は関係ないですよ」

「酷いよ、お父さん!」

 僕の否定の言葉にかぶせるように、少女が叫んだ。その目からはみるみる涙が溢れてくる。

「どんな事情があるか知りませんけどね。こんな可愛い子を置いて何処へ行こうっていうんです」

 駅員の視線が、いっそう鋭くなった。そして、衆人環視の中、長い説教が始まる。

 こういう状況になると、僕はからっきし駄目なのだ。何か言い返そうとしても、言葉が出ない。

 駅員はひとしきり話し終えると、少女を僕に押し付けて仕事に戻った。しかし、まだしっかりと僕の方に目を向けている。

 僕は仕方なしに少女の手を取って側へ引き寄せた。だって、どうしようもないじゃないか。周囲の人々も、僕らの事を興味津々といった感じで見ている。と言うより、この子の美しさに見とれているのかもしれない。

 明るい所で見る彼女は、本当に綺麗だった。しかも、なんともいえない品がある。この子は僕を父親に仕立て上げたが、どう見ても自分はその器じゃなかった。実際、僕と彼女を見比べている人が何人もいた。

 いつまでもじっとしているわけにはいかない。慌てて少女の手を引き停車中の列車に乗り込むと、適当な席に腰掛ける。彼女は僕の横に座った。

「怒ってる?」

 まるで年頃の女が彼氏にするように甘える。僕は黙ったままでいた。

「だって仕方ないじゃない。私はどうしてもここを出て行きたかったし、あなたは連れて行ってくれないって言うし」

「当たり前だろ。それより今からでも遅くないから、さっさと家に帰れよ」

「だから家なんて無いんだってば。私は一人ぽっちなの」

「嘘を言うなよ。君みたいな子供が、たった一人で生きていけるわけがない」

「でも私は確かに一人だし、今までちゃんと生きてきたわ。これは本当のことなの」

「信じられない」

「若いのに頭が硬いのね。まぁいいわ。これからゆっくり分からせてあげるから」

「これからって…。ずっとついて来る気か。冗談じゃないぞ」

「ところが冗談なんかじゃないの。私はあなたと一緒に行くのよ。そして、あなたは私を守ってくれなくちゃ」

 この子は何を言ってるんだろう。やっぱりどこか狂ってるんだろうか。こんなに可愛いのに、神様は酷い。

 少女は僕の気持ちなどお構いなしに、古ぼけた…それでいて仕立てだけは良さそうなコートを脱いだ。その下には、やはり古いデザインの白いワンピースを着ている。

 ただ、履いている靴だけは新しかった。エナメル製で、赤くて、ピカピカ光ってる。

「この靴、気に入らないの。次の街に着いたら新しいのを買うわ」

 少女はそう言って『ね』という顔を作ると、ニッコリ笑った。こうやってじっくりと顔を見ると、この子の美しさは不自然なほどだった。肌の表面で、車内の電灯に照らされた産毛がキラキラ光ってる。

 髪をかき上げると、ピアスをしているのが分かった。それはちょっと変わった形をしていて、瞼をかたどった銀の台座の中に義眼が嵌っている。子供が身につけるものとしては余り趣味がいいとはいえない。それに細工が凝っていて、かなり高価な物に見えた。そういう点でも、こんな小さな子には相応しくない。

「それ高いんだろう?」

 気付いた時にはそう聞いていた。

「え?」

「そのピアスだよ」

「ああ、これ」

 少女は薄く微笑んだ。

「高そうに見える?」

「うん。実のところ、僕はそういう物に詳しくはないんだけどね。高そうには見える」

「私も知らないのよ。いくらするのか」

「誰かに貰ったの?」

「そう」

「誰に?」

「知らない女の人」

「何だい。そりゃ」

「それ綺麗ねって言ったらくれたのよ」

「ふぅん」

「死ぬ前にね」

「えっ?」

「それよりあなたの名前は?」

 少女の話題は、何の前触れもなく変わる。

「私、あなたのこと何て呼べばいいかしら」

「まぁ名前はジードだけど」

「何か暗そうな響きね」

 余計なお世話だ。

「君こそ名前は」

「ないの」

「はぁ?」

「私、名前がないのよ。今のところ」

「…言ってる意味が…」

「あなたそうやって、いつも同じ言葉を繰り返させるの?」

 少女は不愉快そうに僕を睨む。

「馬鹿みたいだから、やめた方がいいよ」

「酷いこと言うな。いくら子供でもいいかげん怒るぜ」

「人間て図星を指されると、頭に血が昇るのよね」

 口の減らない子だ。そして、こういう手合いは、僕がもっとも苦手とするところなんだ。

「すぐに降りるんだ。僕はこれ以上、君に付き合う気はない」

「あら、本当に怒ったの?」

「当たり前だろ。馬鹿にされて気分のいいやつがいたらお目にかかりたいね。それに、僕は一人でいるのが好きなんだ。誰かと一緒に行動するなんて考えただけでイヤになる」

「ふーん。あなたってワガママなのね」

 言われて、ドキリとした。それは母親に何度も言われた事だったから。しかし、他人に言われたのは初めてで。

「また本当のこと言っちゃったみたい」

 少女は悪戯っぽく笑って、僕の顔を覗きこむ。

「ああ、そうさ。僕はワガママで自分勝手なやつなんだ。だから君もどこかへ行きたいなら別のやつに付いていったほうがいい」

「そんな風に開き直るのが、あなたのクセ?」

「………」

「でも、私もちょっと言い過ぎたみたい」

「もういいよ」

「良くないわ。あなたまだ、私を連れてくって言ってないよ」

「だからそれはお断りだって」

「本当に頑固なのね」

 少女は可愛い溜息をつく。

「ところで、私の名前の事だけど」

「やっと本当のことを言う気になった?」

「本当に私には名前が無いの。でも…」

「でも?」

「ニックネームならあるわ。それもたくさん。皆、好きなように私を呼ぶの」

「どういうこと?」

「分からないの?」

「全然」

「そういう人っているでしょう? 例えば、誰もその人の名前を知らなかったり、私みたいに名前がない人を呼ぶ場合、それしかないんじゃないかしら」

「ああ…じゃあそれでもいいよ。君の名前は?」

「切り裂きジャックの再来」

「え?」

「それから、破壊魔。えーと、史上最悪のシリアルキラー、地獄の使い、それから…」

「ちょっと待って」

 それらには聞き覚えがあった。毎日のようにテレビで叫ばれていたから。

「そんなはずないだろ。だってそれじゃあ」

 僕の反応を見て、彼女はもう一度嬉しそうに笑う。

「やっと気付いた? 私が誰なのか」

「そんなこと、あるわけない」

 だってそれは、連続殺人犯の通称じゃないか。

「イヤになっちゃう。どれもこれもセンスの欠片もなくて」

 少女は僕の言葉を無視してそう言うと、肩をすくめる。

「悪い冗談は止めろ」

「真面目な話よ」

 彼女は僕の顔を見てニヤッと笑った。その表情がまるで大人みたいで、ゾッとする。

「知ってて言ってるのか? それは例の殺人犯の呼び名だぞ」

「そうよ」

「こんな趣味の悪い冗談、僕以外の人間に言ったりしてないだろうな」

「だから冗談じゃないって言ってるでしょ。それに、あなた以外の人に、こんな大切なヒミツは打ち明けない」

 真面目くさって言う少女に、溜息が出た。

「…分かった。そういう遊びが流行ってるんだな」

「なんのこと?」

 小首を傾げる仕草が、どうしてもわざとらしく見える。

「僕みたいな鈍くさい大人をからかって楽しんでるんだろ?」

 最近の子供の悪質さは、目に余るところがある。

「あのねぇ」

 彼女は、僕を見たまま、救いようがないという表情をした。

「私はそんな下らない事はしない。それに、あなたを鈍くさい大人だとも思っていないわ。そんな風に思っている人を、自分の保護者に選ぶわけないでしょ」

「保護者って…」

 何のことだよ。

 僕は多分、不思議そうな顔をしたんだろう。彼女は聞かれてもいないのに、熱心に喋り始める

「私みたいな子供が一人でいるのは何かと不都合があるの。第一、目立つじゃない」

 何より目立つのはその容姿だと思ったが、そんな事を言える雰囲気ではない。

「子供は何処に行くにも大人と一緒じゃなきゃならないって、そう世の中が思ってるから仕方ないの。本当は一人で何処へでも行けるのにね。あなたみたいに」

「大人になれば、出来るさ」

 僕がそう言うと、少女はなんとも言えない複雑な顔をした。

「そう…なれればね」

「は? そんなの誰だってなれるだろ」

「私が病気でもうすぐ死ぬとしても?」

 僕は、ハッとした。

「うそうそ。私は死なないよ」

 言葉に詰まってしまった僕を、彼女は笑い飛ばす。今度こそ僕は本気で怒った。

「いい加減にしてくれよ! 僕にはそんな子供の遊びに付き合ってるヒマはないんだ。新しい仕事だって見つけなきゃならないし。君みたいな子連れじゃ何かと不便だろ!」

「違うわ。逆よ」

 少女は諭すような口調で静かに言う。

「私みたいな子供を連れているから、仕事が探しやすいんじゃない」

「どうして、そうなる」

「だって子供を養わなきゃならないんだから。急に辞めたりサボったりしないと思うのよ。雇う方は」

 ああ、確かにそんな考え方もあるな。しかし。

「そう上手くいくわけがない」

 悲観的なのは生まれつきだ。

 彼女は慰めるように、僕の膝に手を置いた。

「大丈夫。私といれば、最悪でも食べる物や寝る所に困ることは無いわ。それだけは保障してあげる」

 一体、なにを言ってるんだ、この子は。こんな子供に何が出来るっていうんだよ。しかも、こんな性悪な子に。

「それは頼もしいけど」

「でしょう? だから私を連れて行ってよ。じゃないと殺すしかなくなっちゃうし…」

 僕の皮肉を無視して、少女はまた勝手なことを言う。

「殺すなんて、軽々しく言うな」

「あら、とっても簡単よ? そんなの」

「やめろってば」

 胸が悪くなってくる。

「人間なんて、すぐ死ぬのよ。別に刺したり締めたりしなくても、誰かの意思通りに動かされて自殺する事だってあるじゃない。ねぇ、考えてみて。事故で死んだとされてる人の何割かは殺されているかもしれないって」

 僕は両親の事を思い出した。二人は事故死だったから。けど、殺されたなんて思いたくもない。

「テレビドラマの見すぎだね。全く無いとは断言できないけど」

 そんなの、そうそうあるわけがない。

「そうかなぁ、私、やった事あるんだけど」

「だから、もうやめろって」

「あなたがイヤなら、もうやめてもいいよ。本当は私だって、こんな危険な話したくないんだから。でも信じてくれないんだったら…」

「分かった分かった、信じるよ。信じればいいんだろ」

 もう、ウンザリだ。

「確かに君は殺人鬼で、今まで何人も殺してきたんだろうさ。しかも絶対に自分が疑われない方法でね」

 少女は僕の顔をじっと見ている。そして、諦めたように笑った。

「やっぱり信じてないみたい。仕方ないわよね。それが普通だもの。それじゃあ、こういう話なら信じてくれるかしら。実は私、ここから五百キロ先にある街に住んでいる叔父さんの家に行くつもりなの」

 ようやく現実的な話が出たので、僕はほっとした。

「それはどうしてかっていうとね。私、この街に養子に貰われてきたんだけど、あまり酷い折檻をされるんで家出してきたの。で、たった一人の叔父さんの所へ逃げる途中ってわけ」

「そういう事なら、やっぱり警察に行った方がいいんじゃない?」

「馬鹿ね、ジード」

 彼女は、僕の名を初めて口にした。

「警察っていうのはね、子供より大人を信用するのよ。そして、私みたいな哀れな子を狼が住んでる家に平然と送り返してしまうんだわ」

 ああ、そんな話は聞いた事がある。当の子供が死んでからだって、警察が動くのは稀だ。

「しかし…僕は誘拐犯と間違われるかもしれない。そんな事情なら尚更だ。それに、君の叔父さんが君を守ってくれるという保証はあるのか?」

「叔父さんは私が好きだったもの」

 少女がクスッと笑う。

「ただ、奥さんがいなかったから。自分が男手で育てるより夫婦二人揃った所がいいって判断したみたい。それが失敗だったわけだけど」

「うーん…」

「それから、あなたが誘拐犯だって疑われる心配は無いと思う。里親の二人は私を探したりしないと思うし、警察の方だって例の事件で手いっぱいなんだから」

「だからこそ、君が居なくなったら事件との関係性が」

 こんな綺麗な子供がいきなり姿を消したら、誰も気付かないわけがない。被害者として捜索される事は、十分考えられる。

「それは、大丈夫よ」

 彼女は、謎めいた笑みを浮かべた。

「ちゃんと手は打ってあるから」

「え?」

「あなたには関係ない。それより、ねぇ。お願いだから、私を叔父さんの所まで連れて行ってよ。実を言うと私、お金をたくさん持ってるの。一人じゃ物騒だし、怖いのよ」

「だったら、僕だって安全とは言えないぜ」

「そんなことない。私、人を見る目はけっこうあるつもりよ。あなたはお金目当てで私をどうにかしようなんて思ってないはず。大体、お金になんて余り興味が無いんじゃない? たいして必要だと思ってないんでしょ」

 僕は驚いた。彼女の言う事は、ある程度当たっていたからだ。

 それにしても、この子はどういう子だろう。年のわりには色々な言葉を知っている。僕は途中から、大人と会話しているような錯覚に何度も襲われた。

「叔父さんの話、は本当なんだね?」

「それじゃ連れてってくれるの?」

 少女が顔を輝かせた。

「仕方ない。まだ完全に信じたわけじゃないけど、もし本当なら放っておけないし」

「ありがとう」

 彼女は、いきなり僕の首にしがみついてきた。甘い香水の香りがふわりと漂う。

「それじゃあ、名前を教えてくれ。名無しのままじゃ不便でしょうがない」

「そうねぇ」

 緑色の瞳が、考え深そうな色をたたえる。

「あのね私、自分の名前が好きじゃないんだ。だからジードと旅をする間だけ、違う名前で呼んでくれる?」

「それも何かの遊びなの?」

「そう思ってくれていいわ」

 僕にはさっぱり理解できない。けど、この子の事はどうせ何もかも分からないんだ。

「分かった。で、何て?」

「ジードが考えて」

「ええ?」

 参った、僕にはネーミングセンスが無い。

「苦手なんだよ、そういうの。何たって子供の頃に飼ってた犬の名前を同級生や近所の人に笑われたぐらいで」

「私は犬じゃないわよ」

 睨まれた。

「苦手だったら、余計に真剣に考えてよ。そんなに難しくはないわ。あなたが好きな言葉とか、綺麗だと思う単語でいいの」

「なるほど」

 それは良いヒントだ。僕は頭をフル回転させる。

 でも、この子が言うような言葉は、頭の何処を漁っても見つからない。僕には、そういった能力も欠落しているのだ。

 悩んでいる内に、幼い頃、母親に聞いた話を思い出した。

「ヤスミン…ていうのは、どう?」

「ヤスミン?」

「どっかの国の言葉で『花』っていう意味なんだって」

「ふぅん」

 少女は暫く黙っていた。そして。

「いいんじゃないかしら。意味も綺麗だし、口にした感じも素敵。本当をいうと余り期待してなかったんだけど」

「じゃ、合格?」

「そうね、かなり気に入ったわ」

 少女、いや、ヤスミンにそう言われると、何故か安心した。まるで両親に褒められた時のように、嬉しくなる。

「ねぇ、列車はいつ出るの?」

「さぁ、時刻表は見てないからな。でも、もうすぐじゃない?」

「少し寝たいわね。私、昨日から余り寝てないの」

「そう。実は僕も同じだ。どうも夢見が悪くてね」

 笑い合って、僕らは仮眠を取ることにした。どうせ次の駅までは、かなり時間がかかる。起きていても腹が減るだけだし。それに、他の乗客が僕たちのいる客室に入ってきはじめている。ヤスミンがまた恐ろしい事を言い出さないようにする為には、寝るのが一番良い方法に思えた。

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