殺人鬼と甘い王冠の旅

市川偶

グルード

 グルードは工業の街だ。錆だらけの鉄骨で作られた駅から降り立つ者は、改札を出た途端、排気ガスの洗礼を受ける事になる。目の痛みに止まらない涙を拭い、口元をハンカチで押さえつつ、彼らは駅前の職業斡旋所を訪ねるのだ。その前に、さっさと踵を返して電車に飛び乗る連中も少なくない。こんな所で働くなんて御免こうむる、という、まだそれほど食い詰めていない者たちだ。そしてその選択は、まぁ正しいと言えるだろう。たいして稼げない上に、身体を壊すのは目に見えている。込み入った理由の無い者が働きに来る街ではないのだ。

 グルードは広いので働き口には困らない。普通の街が二~三個入ってしまうほどの土地は碁盤目状にきっちりと区画が分かれていて、製鉄所や部品工場などが整然と配置されていた。

 各工場の煙突から撒き散らされる黒煙は、常に空を厚く覆っている。青空が見えるのは工場が一斉に休止する日曜日だけで、それも午後の数時間だけだった。そのせいか、グルードでは草木は殆ど育たず、小さな川は汚染されきって生き物の姿を見ることも滅多にない。

 そんな環境が何世代にも渡って続いている為、街の住人は誰もが何かしらの病気を抱えていた。生まれながらに難病を患っている子供の数も多く、グルードの平均寿命は他の街のそれを大幅に下回っている。

 しかし、だからといって人口が減る事はない。工場しかないように見えるこの街にも住宅地があり、そこに住んでいる数千組の家族には毎年コンスタントに子供が生まれているし、職を求める人間が常に流れ込んでいる。

 誰かが死んでも、その代わりはすぐに補充されるのだ。最近では、それが過剰になるほどに。

 環境が劣悪なことが知れ渡っているグルードに働き口を求める人間は、他の土地には居られない悪事を働いたり借金から逃れている者が多く、それが年々増えてくるのは世の中が不景気なせいだろう。

 そのわりに犯罪が少ないのは、グルードには警察の他に自警団がいくつもあるからだ。彼らによって行われる私刑は凄まじく、それが犯罪の抑制に大いに役立っている。それに工場主が雇っている警備員もかなりの強面、工場内での揉め事など無いに等しい。

 労働者たちは黙々と働き、ささやかな生活を営み、やがて普通よりはるかに年若で死んでいく。誰もがこの街を出て行く事を夢見ているくせに、それを叶える者はほんの一握りしかいない。

 世界中でグルードの製品が使われているが、それを作り出している彼らは世間に忘れられた存在だった。

 たまに、この街出身の人間が他所で揉め事を起こした時以外は。



 今日も頭痛で目を覚ました。

 雨の音が聞こえる。それだけで憂鬱になった。

 一瞬、仕事を休もうかと思う。でも、それは出来ない。こんど休日以外に休んだらクビだと、工場長にハッキリ言い渡されている。偏頭痛と膝の関節痛は私の持病なんだけど、そんな言い訳は通らないと彼は言うのだ。

 確かに、私より病弱そうな人もいるにはいる。そしてその人は、一日も休まず出勤してる。だから工場長は正しいんだろう。私は怠け者で、隙さえあれば仕事を休もうとしている仕様のない娘なんだろう。

 狭いアパートの汚れた窓に雨粒が激しく叩きつけられているのを、イライラした気分で暫く眺めた。いくら睨んでも雨が止むはずもなく、観念して寝床を出る。

 ベッドの脚が不吉な音を立てて軋んだ。これはアパートに備え付けのもので、途方もなく古い。買い換えても良さそうなものだが、大家がそんなことをするわけがない。真っ白な髪に小太りで、七十はいっているだろうと思われる彼女は、人当たりのよさそうな外見と違って性格がキツく、すぐ癇癪を起こす。私の希望を伝えようものなら、近頃の若い者は物を大切にしないとか何とか、的外れな説教をされるだけだ。

 工場の同僚の大家は親切な良い人らしく、心底羨ましい。そのアパートに空き室が出たら、すぐにそっちへ引っ越したいぐらいだ。

 キッチンで湯が沸くのを待っていると、膝がしくしく痛みだす。これは子供の頃に事故に遭った時の後遺症で、治るどころか年々酷くなってきている。工場での仕事は立ちっぱなしだから、辛くて仕方ない。特にこんな天気の日には。

 でも、どうしようもないんだ。私みたいな天涯孤独で何の技能も持っていない女がまっとうな職を手に入れるのは大変で、今の仕事だってようやく就く事が出来たものだから。

 沸いた湯を小さなポットに入れて、擦り切れたパジャマを脱ぎ、仕事着に着替える。

 油と埃にまみれた作業着は、いくら洗濯してもちっとも綺麗にならない。おまけに支給されたのはこの一着だけだ。土曜の夜に洗っても今日みたいに天気の悪い日は完全に乾かなくて、湿った服を着て出勤する事もある。それで風邪をひいたのも一度や二度じゃない。職場で着替えられればいくぶんマシだけど、更衣室が無いから。

 唯一の救いなのは、この街では仕事着で家を出る人が殆どなので誰もが似たり寄ったりの格好をしている事だ。他の街では、私のような若い女がこんなみすぼらしい姿で仕事場に向かうなど考えられないに違いない。

 戸棚を覗いたら、まだあると思っていたパンが無くなっていた。そういえば、ゆうべ最後の一切れを食べてしまったんだっけ。

 お腹は空いてるけど、どうしようもない。諦めて、コーヒーだけの朝食を済ませる。

 カップを流しに置いて、申し訳程度の化粧をし、服についている細かい埃を念入りにブラシで払ってから、壁にかかっているコートに腕を通した。

 お父さんの形見のこのコートは私には随分大きくてみっともないんだけど、仕立ても生地も良いものなので暖かく型も崩れていない。グルードという街は全体に水はけが悪いせいか冬は凄く冷えるのだけど、これのおかげで助かっている。裾が長過ぎて、気をつけていないと色々な所に引っかかってしまうのが困りものだけど。

 最初のお給料で買った手袋とスカーフはだいぶ布が薄くなってしまっているから新しいのが欲しいけど、なかなか気に入ったものが見つからない。

 毛糸の帽子を被って、これで防寒は万全だ。安物の合皮の鞄に頭痛薬を放り込み、編み上げ式の安全靴を履き、傘を持って部屋を出る。

 ドアの鍵をかける音が誰もいない廊下に響いた。足音を立てないようにそっと歩くのは、階下に住んでいる大家が病的に神経質なせいだ。少しでも物音を立てると、泣きそうになるほど怒られる。

 コートの裾をつまみ上げて、そろそろと階段を下りた。時々、二つ隣の部屋に住んでいる家族の末の息子が釣り糸を張っていることがあるから、足元に目を凝らしていなければならない。

 悪戯にしては悪質なその行為を大家が強く注意しないのは、その家族の家賃の払いがいいのと自分は階段を使わないという理由からだ。それに、その息子の母親は少々ノイローゼ気味だし、父親は自警団のリーダーなので、住人の誰もが面倒を恐れて直に文句を言いに行ったりはしない。私もそれに倣って、もっぱら自衛するに留めている。

 嫌な緊張とともに漸く階段を下りきって、裸電球が一つ点いているだけの玄関ホールを突っ切る。全てが狭いこのアパートだけど、ここだけは不自然なほどスペースをゆったり取っている。何でも元は大きなお屋敷だったのを改装した為らしい。

 このホールを大家は殊に大切にしていて、他の部分はほったらかしのくせに、ホールだけはいつでもピカピカに磨き上げられている。底がつるつるした靴だと滑って歩き難いことこの上ないんだけど。

 建てつけの悪いドアを開くと、凄い音がする。この音で大家が部屋から顔を出すのは分かっているから、なるべく素早く外へ出た。朝からあの不愉快な顔は見たくない。後ろ手に力いっぱいドアを閉め、傘を差してから歩道に足を踏み出す。

 石畳の道を、硬い靴音を立てながら足早に歩いた。早めに工場について、大きな重油ストーブで身体を温めておかないと手が悴んでちゃんと動いてくれなさそうだ。

 細い路地裏から表通りに出ると、早朝にもかかわらず大きなトラックが鉄屑を満載してごうごうと走っている。それも何台も。街はずれのスクラップ工場へ行くのだろう。いつもの光景とはいえ、何とも言えず気が重くなった。

 振動が酷いけれど、文句を言いに顔を出す住人はいない。朝は忙しくて、そんな事をしてる暇はないからだ。

 寒さと湿気で更に痛みを増した膝を庇って歩いていると、歩道ギリギリに走っていたトラックに盛大に水しぶきをかけられた。咄嗟に傘で防ごうとしたけど間に合わなくて、コートも靴も濡れてしまった。頭にくる。

 水気を吸った服がずっしりと重くなった。喚きだしたいのを堪え、地面だけを見ながら住宅地区を抜ける。

 工場地区へと繋がる交差点で信号待ちをしている人々の列に加わり、寒さを紛らわす為に小さく足踏みした。周りを見たら、殆どの人が同じようにしていたので可笑しくなる。そんな些細な事で、朝からの憂鬱な気分が少し晴れてきて、単純な自分に今度は自然に笑みが出た。

 信号が変わり、横断歩道を渡る。

 足を引きずって歩く私は、人の群れからみるみる置いていかれた。何人か顔見知りの人もいたけど、一緒に行こうとは言われない。並んで歩いていて私は楽しい人間ではないことを、彼らは良く知っている。誰だって朝っぱらから余計な気は使いたくないだろうから、それは当然だ。

 働いている工場の煙突がそろそろ見え始める。緩い傾斜のその坂道の途中には毎朝昼のパンを買うベーカリーがあって、濡れた服が気にはなったけどなるべく普段通りの顔をして店に入った。

 傘をたたんで水を切りドアを開けると、やたらと大きな音でドアベルが鳴る。

「おはよう!」

 私の顔を見て、バゲットを何本も抱えたまま店主のウィルが声をかけてきた。

「今日は一段と寒いねぇ。膝は大丈夫?」

 眉をひそめて、心配そうに聞いてくれた。

 グルードに来て初めてこの店を覗いた日から、彼は何かと私の事を気にかけてくれる。理由は、私が口をきけないから。

 ウィルの亡くなった妹さんが私と同じ境遇で、何となく放っておけないのだという。彼の奥さんのパティもその妹さんを可愛がっていたらしく、同様に私に気を使ってくれる。そろそろ初老にさしかかろうという年齢に見える彼らには子供がいないので、私を娘のように思っているのだと冗談交じりに言われた事もあった。それはとても有難いけど、時々どうしようもなくわずらわしい時もあって、そんな自分に自己嫌悪する事も度々だ。

「おはよう、マリア」

 私が来たのに気付いたパティが店の奥から顔を出す。そして私のコートがぐっしょり濡れているのに目を留め、顔を顰める。

「どうしたの、そんなに濡れて」

 彼女はウィルに気が利かないと言わんばかりの目を向けて、奥から大きなタオルを持ってきた。

「傘は持ってるのよね。ああ、トラック? あいつら歩行者の事なんか道端の石っころぐらいにしか思ってないからねぇ」

 頭の回転の速いパティは、一人でまくしたてながら床が汚れるのも気にせずにコートの裾を絞って水気を取り、タオルで私の顔を拭いてくれた。

「仕事までまだ時間あるでしょ? 紅茶でも淹れるからそこに座って温まっていきなさい」

 壁にかかった時計を見てからそう言って、店の隅にスペースを取ってある喫茶コーナーの椅子に私を座らせた。半ば強引に私のコートを脱がせ、ヒーターの温風が当たるように壁にかけてくれた。

「できるだけ乾かさないとね」

 私が頭を下げると、彼女は気にしないでと言って微笑んだ。

 ウィルが紅茶を運んでくる。

「いつものでいいんだろ?」

 テーブルの上に、店の名前の入った紙袋を紅茶と一緒に置いた。中には私がいつも買っている丸パンとチェリーパイが入っているはずだ。

 おつりのないように代金を手渡し、それから手話で有難うと伝える。彼らにはそれが理解できるので、キチンと意思を表す事が出来る。

 それから少しの間、パティが凝っている刺繍の話を聞き、出勤の時間が迫ってきたのでもう一度礼を言ってから店を出た。コートはまだ生乾きだったけど、さっきよりは随分ましになっていて、私は改めて二人に感謝した。

 紙袋を抱え直して、傘を開く。焼きたてのパンとパイの入った紙袋は温かく、心が安らいだ。帰りに朝食のパンを買う時に、改めてお礼を言おうと思う。

 頭痛も僅かながら治まってきた。小さい子供のように傘をクルクルと回しながら、工場に向かう。何となく足が軽いような気がした。

 機嫌良く歩いていると、ふいに後ろから声をかけられた。

「あのぅ…」

 それが本当にいきなりだったので、飛び上がるほどびっくりする。慌てて振り向くと、そこには黒い服を着た老人がいた。まともに目が合い、身体が固まる。

「この時間に開いているレストランはありませんか?」

 灰色の瞳を持つその老人は、ゆっくりとそう言った。薄い唇から漏れる声がしゃがれていて聞き取り難い。皺だらけの顔の中央に、細く尖った鼻が目立っていた。傘をさしていないので、真っ白な髪が濡れて、額や頬に張り付いている。

 良く見ると、着ている服はあちこちほつれてボロボロだった。靴も。食い詰めて流れてきた人かと思ったけど、それにしては言葉は丁寧で顔つきにも荒れた所がない。

 私が口を開かない理由を、老人は誤解したらしい。濡れた髪を整えてから、苦笑しつつ言葉を続けた。

「怪しい者ではありません。この街に新しく来た牧師です」

 老人の弁によると、駅に迎えに来るはずの前任者が何故か姿をみせない。しばらく待っていたが、電話をすると風邪で熱を出して寝付いているという。あいにく家人は昨日から留守なので、誰かに道を聞いて自分で教会まで来てくれないかと言われた。すぐ分かるだろうと歩き始めたが、道行く人たちは皆急いでいて道案内を頼んでもことごとく無視された。途方に暮れていたところ、私に会ったのだとボソボソと言う。

「何しろ、この子たちが腹をすかせているんでね」

 その言葉で、老人の後ろに目をやった。すると確かに、まだ学校にも通っていないような年頃の子供たちがいる。それも何人も。全員が痩せこけていて粗末な服を着て、靴もはいていない。どの子も濡れネズミで、死んだ魚のような目をしていた。

「可哀想な孤児なのです。私が引き取って育てているんですよ」

 訊かれもしないのに、老人はそう言った。

 子供たちは私の存在に気付いたのか、どんよりとした目をこっちに向けてくる。その中の一人に私の視線は釘付けになった。

 ズタ袋を頭から被ったような服を着ているその子は、中では一番痩せていた。折れそうに細い手足が、袖や裾から伸びている。幼い子供とは思えないほど端正な顔立ちをしているその子の目は、他の子とは明らかに違っていた。

 ゾッとした。なんでって、その目が、冷たい暗い、およそ人間とは程遠いものだったから。その子が、ツンと尖った鼻の頭に皺を寄せ、柔らかそうな唇に笑みを浮かべた時、私は思わず後ずさってしまった。その表情が、物凄く邪悪なものに見えて。

 その子が私のコートの裾に手を伸ばそうとするのを振り切って、鞄の中のメモ帳とボールペンを取り出す。

 私は喋れない事。レストランは無いが、近くにベーカリーがあるので、そこで何かを買って子供たちに食べさせてはどうかという事。その店で教会への道を聞けばいいという事。店への道順。それを素早くメモに書き、押し付けるように老人に渡す。

 老人はメモを読み、聞こえないほどの声で失礼しましたとか助かりましたとか呟いて、来た道を戻って行った。子供たちも、その後に従った。例の子がチラリとこっちを振り向いたので、慌てて顔をそむけ工場へと向かう。せっかく温まった体が、すっかり冷えてしまったような気がした。



 夕方、仕事を終えると急いでベーカリーへ向かった。いつものように笑顔を向けるウィルに、今朝の老人のことを訊く。

「ああ、あんたが教えたのか」

 彼はそう言って、私を今朝と同じ席に座らせる。

「びっくりしちゃったよ。爺さんだけかと思ったら、子供がゾロゾロついてくるもんだからさ」

 狭い店が子供だらけになったと言って、ウィルは笑った。パティが数えたところ、子供は全部で十二人いたらしい。

 私の予想通り、この世話好きの夫婦は彼らの体を拭き、自分たちの昼食だった温かいスープを飲ませ、老人に説教をしたそうだ。

「あんな格好させといて、引き取って育ててるが聞いて呆れる」

 子供好きの二人は、まるであの老人が目の前にいるかの如く怒っている。

「あんなのが牧師だなんて世も末だね」

 パティがまくし立てるのに、ウィルは同じような不機嫌な顔をして頷いた。

 それから三人で一時間ほど、牧師と子供たちの話をしたが、不思議だったのはウィルたちが例の子を殆ど覚えていなかったという事だ。

「そういえば頭からフードをずっぽり被った子がいたような気がするなぁ」

 そう言ったのはウィルで、一番子供たちと接していたパティに至ってはまるで記憶にないという。

 その子がどうかしたのか、と聞かれて適当に話を誤魔化した。もしかしたら、あの顔は私の見間違いで、あの子も他の子と同じような平凡な子供だったかもしれないと思い直したからだ。もし、そうじゃないとしても、だからどうしたと言われれば返す言葉はない。

 結局、あまり遅くならない内に話を切り上げ、いつもより少し多めにパンを買い、帰路についた。その頃には雨はもう止んでいて、傘を杖代わりにしてアパートへ向かう。

 一瞬、教会へ寄ってみようかと思ったけど、あの顔を思い出して身震いし、おとなしく部屋へ戻った。



 翌日は休日で、私は昼まで眠るつもりだった。それが破られたのは、大家に物凄い勢いで部屋のドアを叩かれたからだ。

 今月分の家賃は払ったはずなのに、とパジャマの上からガウンを羽織って対応する。いつもならこんなだらしない格好を見た途端、グチグチと嫌味を言い始める彼女なのに、今日は違った。真っ青な顔で興奮しきっていて、早口に喋っているのだが、何を言っているのかさっぱり分からない。

 埒があかないので部屋に通し、熱いお茶を淹れ落ち着かせた。

「あんた、大変な事が起こったってのに、何を呑気に寝てるのよ!」

 大家は私の『怠慢』を責め、それから一気に事件について猛烈な勢いで喋り始めた。

「人殺しがあったの! それも一人や二人じゃない、しかも全員子供なのよ。見つけた人の話だと十人以上なの。もう教会は血の海よ! 一体誰があんな酷い事を。この街はもう長い間、平和だったはずなのに。きっと余所者のゴロツキの仕業ね。もう安心して子供たちを外で遊ばせる事もできないわ」

 口から泡を飛ばして何度も同じ事を言う彼女の話の途中から、私の胃は鉛を飲んだように重たくなってきていた。

 たくさんの子供、教会。間違いなく、昨日の子供たちだ!

 いてもたってもいられなくなり、コートを着て部屋を飛び出した。後ろで大家が何かを喚いていたけど、そんなのに構ってはいられない。

 私のアパートから教会までは、けっこう距離がある。けど、このとき私は膝の痛みも忘れて飛ぶように走った。

 教会に近づくにつれて、顔を強張らせた男のひとたちの姿が多くなってくる。住宅地区の中に子供の遊び場として利用されている広場があり、その奥まった所に小さな教会はある。

 息を切らして広場へたどり着くと、そこはもう人でいっぱいで、こじんまりとした教会の周囲には警察によってロープが張られていた。人ごみの中で一生懸命つま先立ちしてみるが、中の様子はさっぱり分からない。

 どうしようと思っていると、野次馬の中にウィルの顔が見えた。向こうも同時に私に気付いたらしく、こっちに駆け寄って来る。

「えらい事になった」

 彼は私の腕を引っ張って群集から離れると、小声で言った。

『やっぱり、昨日の子たちですか?』

 私の手話での問いに、彼は頷く。

「ほぼ間違いないと思うよ。この街では見たことない子供たちらしい」

『あの老人は?』

「分からん。死体の中にあの爺さんがいたって話は聞いてないが…」

 死体という言葉に頭がくらくらした。ふらついた私を、咄嗟にウィルが抱えてくれる。

「大丈夫か?」

 頷いて、もう一度、教会の方を見た。

「見つけたのが、そうとう年取った婆さんと、その家の嫁さんでな。婆さんは気丈だったのに嫁さんが泣き喚いて大変だったらしい」

 最近の若い者はだらしないと言うウィルの顔色はとても悪く、彼が相当な衝撃を受けているのが分かった。

『警察に言った方がいいでしょうか。昨日の事』

 ウィルは少し考えて、頷く。

「そうだな。事が事だしな。なに、俺とカミさんも一緒に行くから心配するな」

 この時ほど、彼を頼もしく思った事はない。思わず涙を零す私の背中を、ウィルは優しく撫でてくれた。

 しばらくすると、にわかに周囲が慌しくなった。顔を上げると、集まった人々がロープをくぐって教会に殺到しようとしている。

「何だ?」

 ウィルが言うのと教会の中からの銃声は、殆ど同時だった。

 それは二度、三度と続き、後は静かになる。

「犯人が…」

 息を呑むウィルの顔は、紙のように白くなっていた。教会に入ろうとしていた野次馬たちも凍りついたように棒立ちになり、黙って事の成り行きを見守っている。

 やがて、犯人は射殺されたと警官から説明があり、現場の確保のため何人なんびとたりとも教会内には出入り禁止だと脅され、私を含めた住人たちは何度も教会を振り返りつつ広場を後にした。

「うちに来るか?」

 ウィルはそう言ってくれたが、丁寧に断る。

 明日、一緒に警察に行くという約束をして、私たちは別れた。



 殆ど眠れないまま朝一番で、ウィルの店に行った。二人は私が来るのを待っていてくれて、パティが私の工場に電話を入れて欠勤の許しをもらい、三人で警察に出向く。

 昨日の事件について耳に入れておきたい、というウィルの申し出に対応したのが署長だったのには驚いた。パティがそっと耳打ちしてくれたところによると、彼らはこの街で生まれ育った幼馴染らしい。しかも署長はウィルに頭が上がらないらしく、想像していたよりずっと丁寧な対応をしてくれた。

 先ず私が筆談で、それを引き取る形でウィルたちが昨日あった事を伝えると、署長はいちいち難しい顔をして頷いた。

「分かりました。大変貴重な情報をありがとうございます。実を言うと、犯人の身元は分かっているのです。最近、都市部を中心に暗躍している臓器売買グループの一人で、この街には取引に来たのだと思われます」

「つまり、あの子供たちはそういう目的で?」

 ウィルは顔を顰め、パティと私は顔を見合わせる。

「ええ。しかし問題は、取引相手らしい人物がここに来ている様子は無い事。そして何故商品である子供たちを殺してしまったのかという事です」

 話が血なまぐさい方向に向きそうだったので、ウィルは気を利かせて、私とパティを先に帰らせてくれるように署長に頼んだ。

「詳しい事、知りたいなら明日話をしよう」

 帰り際そう言われたが、首を振った。彼は私の髪を撫で、何も心配はいらないと優しい目をする。

 ウィルと署長に頭を下げて警察を出た後、パティは、厄落としだと私をちょっといいレストランに連れて行ってくれた。

「考えれば考えるほど胸が悪くなる事件だけど」

 食欲が無い私に店で一番高いワインを薦めながら、彼女は溜息混じりに言った。

「なるべく早く忘れるしかないわね。ほんの少し運が悪かっただけなのよ。あなたも私たちも」

 その言葉と一緒に重ねられた手が温かくて、私はまた不覚にも泣いてしまった。

「それでね、こんな時に何だけど」

 パティはそこで一旦口をつぐみ、私の機嫌を伺うような目をしてまた口を開いた。

「前々から考えていたんだけど、あなた、私たちの養女になる気はないかしら」

 その申し出自体は、予想外ではなかった。今まで何度かそういう意味のことをほのめかされていたから。

 膝の上に手を置いて俯いた私に慌てたように、パティは言葉を続ける。

「もちろん、あなたの気持ちが第一なのは分かってるの。でもね、やっぱり若い女の子が一人で暮らしてるのが私たちとても心配なの」

 それから彼女は、自分たちがどんなに私を気に入っているか、初めて会った時から他人のような気がしなくて、いつの間にかどうしても一緒に暮らしたいと思うようになってしまったのだという事を切々と語った。

 正直、悪い話ではないと思った。私は彼らが好きだし、工場の仕事よりパン屋の方が楽に決まってる。

 それでも私はすぐに返事をせず、考えさせてくださいと言った。私は生まれつき慎重で臆病な性格なのだ。

 パティは、それでいい、でも良い返事を待っていると答えた。あくまで私の意志を尊重するし、断っても今まで通りの付き合いは変わらないとも付け加える。

 実は、そう言われた時点で、私の気持ちは固まっていた。食事を終えアパートに帰る道々、どういう風に彼らの申し出を承諾しようかと色々と考える。これであの大家ともお別れだと思うと、スキップでもしたい気分だった。

 部屋に戻り、昂った気持ちを鎮めようとコーヒーを淹れる。事件のことでは気が塞ぐけど、それを吹き飛ばすほどの幸運が舞い込んだおかげで口元が緩んだ。亡くなった子供たちには悪いような気がしたけど。

 カップを持ち、何気なく窓際に立った。アパートの側に立っているたった一本の街灯が、夜道を薄ぼんやりと照らしている。その灯りの下に立っている人影を見た瞬間、私の心臓は凍りついた。

 あの子だ。昨日会った時とは違う服を着て、私の部屋の窓を見上げている。ゾッとするあの笑顔で。

 カップが手から滑り落ちた。熱いコーヒーが服にかかるが、動けない。あの子に見据えられて。

 どれぐらいそうしていただろう。子供は右手の人差し指を、自分の口元で立てた。内緒だよ、とでも言うように。

 あの子がやったんだ! 一瞬で、そう悟る。どうやってとか何故とか、そんなのはすっとばして、それが事実なんだと分かった。

 足がガクガク震える。次は私の番?

 そう思った瞬間、子供は夜の闇の中に駆け出して行った。思わず床にへたりこみ、大きく息をつく。混乱した頭の中で、誰かが『逃げろ』と言った。その声は亡くなったお父さんにとても似ていた気がする。



 翌日の早朝、グルードの駅にはマリアの姿があった。

「旅行かい?」

 顔見知りの駅員に声をかけられ、彼女は曖昧に笑う。

 その顔つきを見て、駅員は一人合点した。ここに流れて来たとき同様、この街にもいられなくなって別の場所に流れていく者も少なくはないから。

「頑張れよ。君は綺麗だから、そのうち良い事もあるさ」

 その言葉にマリアは頭を下げ、丁度きた列車にゆっくりと乗り込む。

 そしてそのまま、二度とグルードには帰って来なかった。

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