第26話 暗証番号の1桁目 4 (詩音視点)

今、私にとって誰よりも愛しい人は自分の腕の中で穏やか寝息をたてて眠っている。おそらくはお腹も満たされていたため、微睡みに誘導されるがままに眠ってしまったのだろう、私はそんな彼の顔が正面から見えるように頭を静かに自分の膝の上に置いた。


「クスッ、これで二度目ね」


以前、私の所に泊まりに来た彼は疲れていたのか食事の支度を終えて呼びに行った際、眠ってしまっていた。その時も私はこうして彼の頭を自分の膝の上に置き、穏やかに眠る彼を見つめていた。


なんて幸福な時間なのかしら。


こんなにも近くに愛しい人がいて、こんなにも穏やかな時間を過ごす事が出来る、それは私にとって何よりも尊く、何よりも幸福な一時。


私はまるで割れ物を扱うかのように優しく彼の髪をなでた。


「あのノートを拾わなかったら、こんなにも幸福な時間はやってこなかったのでしょうね、でも...」


無月君との出会いは本当に些細な事から始まった、学校の廊下に落ちていた一冊のノート、ノートの1ページ目を見ただけで誰のノートかは分かった、だけど私は持ち主の名前とともに書いてあった一文に興味をそそられ、ページをめくり、続きを読んでしまった。


書かれていた内容は非常にいたたまれない内容だった。彼はとても悲嘆な運命を辿らされていた。そんな悲嘆な運命がもたらした結果は言うまでもなく、彼の精神を大きく歪ませた。だが彼はそんな自分の運命を何度も呪いこそしたが一切としてその中で救いは求めてなどいなかった、最初に受けた印象こそそんな運命を拒んでいるように感じられるものだったが、読み終えて受けた印象は心の何処かではむしろ嬉々としてその運命を受け入れているのではないかとさえ思えた。


「でもね無月君、何で自分に訪れた悲劇を嬉々として受け入れるのかは私には分からないけどね、救いくらい求めたって良いじゃない」


私は納得いかなかった。なぜ悲劇を嬉々として受け入れるのか、なぜ救いの一つも求めないのか、その全てが私には分からなかった。


確かにあなたの行動に関しては少しくらい先に自分の考えをおけるけれど、こればかりは未だに全く分からないまま。


「あなたは私が教えてと言っても決して教えてはくれないのでしょうね」


そして気付けば、私がこの人の救いになってあげようという考えに至っていた。


今を思えば当時は顔すらも知らなかった誰かに対して何でそんなふうに考えたのだろうかと思う時は多々ある、だけどその考えに至った事を後悔した事は一度もない。


「もしかしたらあの時、私がノートを拾うのも運命だったのかもねしれないわね」


だとしたらあんな考えに至ったのも納得がいく、多くの人が非科学的だと笑うでしょうね。


でも私はいくら笑われたって構わない。だってこんなにも愛しいと思える人に出会えたのだから...


「出来ることならあなたをずっと私の側に縛っておきたいけどね」


でもそれはしない、ノートを返却した後に無月君が私に対して別れを切り出した場合は私の負けだ。私は無月君の救いにはなれなかったという事なのだから。


でも、そんな事になった時、果たして私にそれが受け入れられるのかしら?


いや、何を引き換えにしても受け入れなくてはならない。救いになってあげられなかったのだから、せめて無月君に対してもう何の迷惑もかけたくはない。


「でもやっぱり、私はあなたを失いたくはない...」


愛しい人の髪を優しく撫でながら、私はどうしてもその感情を抑え込む事が出来なかった。


出来ることなら、ずっと一緒に同じ時を過ごしていたい。そして何よりも...私は無月君の救いになりたい。だから私はなんとしてでも無月君に自分の事を好きになってもらわなくてはならない。


「ん、え?」


そんな事を考えていると無月君は目を覚ました、公園内にある大時計に目を向けると時刻は午後3時を少し過ぎた頃だった。無月君は大体2時間程度眠っていた。


そして、目を覚ますと自分の正面に私の顔があり、驚いている様子だった。


「おはよう、随分とお疲れだったみたいね」


「あ!すまない!」


無月君は自分がどうしていたのかを理解したのか、急いで飛び起き、あらためて私の横に座り直した。


「僕は寝ていたんだよな?それも大分...すまない、詩音の計画を大きく狂わせてしまった」


「別に良いわよ、これはこれで良い時間を過ごさせてもらったわ、別にこんなのも良いんじゃない」


「それなら良いんだが...」


事実、私は当初計画していた事なんかよりも良い時間を過ごせたと思っている、とても穏やかな良い時間を過ごせたと、むしろ私は無月君に感謝したいくらいだ。


「ねぇ無月君」


「なに?」


「まだ時間はある?」


「ん、もう少しなら、問題ない」


もう別に今更何処かのお店に行きたいとは思えない。であれば、


「私のマンションに行きましょ」


「え?それで良いのか?」


「ええ」


「そうか、分かった」


何処かのお店ではしゃぐよりも、私はもう少しだけ無月君と一緒に穏やかな時間を過ごしていたい。


「さぁ、行きましょ」


私は無理やり無月君の手をとり、引っ張る。


無月君は少し困惑ぎみだ。


あぁ、なんて素敵な時間なのだろうか、こんな時間をこれからも過ごしていたい。そのためにも私は何としてでも負けられない。

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