二十九の節 サン・バステアンの攻防。 その四




 現れた人影は、老齢によって痩せ衰えた指で拳を作った。枯れた口元くちもとにあてがうと、咳払いを一つ立てる。


 高身長のアラームと雪河セツカの視線に合わせ、宙を浮く男性老人が満を持して潤いを失った唇を開く。


 言葉を決めようとした、次の瞬間。


 拘束法陣コウソクホウジンの隙間から脱した、不衛生な手によって男性老人は全力で殴られた。


 固い物に当たった後、柔らかい物がめくり取られ。見れば、左側の耳が削ぎ落ちている。


「イヒェッ、イヒェッ。凶暴ですわ」


 常人なら昏倒するだろう。最悪の場合、事切れる程の衝撃に、男性老人は金属片がこすれ合うような不快な笑い声を立てただけだった。


「御存知でしょうけれど、左耳が落ちましたよ」


 無関心な声だが、アラームは珍しく敬語をつかっていた。そんな言葉に応じ、老人は拾った耳を無造作にねじ込んだ。


「鏡を見ながら、修繕した方がよろしいのでは」


 人間離れした修復方法には触れず、妙に気になったのか、アラームは着け直された位置のズレを指摘した。


「おおっと。これは後に回そうかの」


 今度は、キノコ狩りの要領で着けたばかりの耳を摘み取った。


「そう言えば、アラーム・ラーアの耳の形は整っておるのぉ。片方だけでも、儂に分けてくれんかね。そこまで、外見の総てが整っているとは。一つくらい儂に寄越よこししても罪には問われまい」


 男性老人は、背に送っていた頭巾フーザを浅く被った。


 視界を妨害していた、霧状の眞素マソは散ったまま。青い月アオイツキの明るい夜に照らされ、頭巾フーザから見える老人は、お世辞にも好印象を得られる容貌ではなかった。


 卑屈な表情。たるむ皮膚から覗く黄色く濁った眼光は非対称。墨色すみいろの長衣の上からでも分かる腰の曲がり具合。


「耳を一つ換えた所で、変化が起きるとは想えませんよ」


 睥睨へいげいするアラームが、挑発するような色を似紅色にせべにいろに乗せる間。男性老人は、赤鬼ロッソー・ディモネに、再び頭を狙われた。


「イヒェッ、イヒェッ。猛獣ですわ」


「それは見れば判かります。オス一物イチモツさらしたまま戦場で暴れる奴ですからね」


 呆れるでもなく、さげすむでもなく。アラームは整い過ぎる顔に、色一つ変えず平静に言い放つ。


「見るモノではない。アラームは、美しい物だけを視界に入れよ」


 雪河セツカがアラームの背後から手を回し、似紅色にせべにいろ双眸そうぼうを覆い隠した。


「それは偏見じゃぞ。こう見えて淑女が涙し、竪琴を片手に叙事詩をうたったとしたら、さぞ傷付くじゃろうて」


「先に凶暴とか猛獣とおっしゃったのは、そちらの方ですよ。変な例えで、話しを曲げないで下さい」


 背後から、白い袖に包まれた雪河セツカに目隠しされるアラーム。対峙たいじするのは、背後から怪物に頭部を狙われる、墨色すみいろ眞導士マドウシ装束の男性老人と言う、奇妙な風景。


 会話の進展も望めない。これ以上留まれば身体が欠ける危険を察した老人は、安全地帯に避難する選択を取ったようだ。


「では、今日の所はこれにて」


 男性老人は、拘束法陣コウソクホウジンともない、静かに海へと沈んだ。わざわざ、残された白と黒の長身達は反応しないが、この現象の意味を知っていた。


 空間を、目的地へ向かって開いたのだ。俗に言えば、空間転移だった。


「また来るのか」


 虚空に、アラームが問う。


なのだろう」


 視界を解放した雪河セツカが応えた。


「せめて、可愛いお婆ちゃまなら善かったのに。海千山千の曲者クセモノだもんなぁ」


 アラームの言葉に、今後を予想した二名は仲良く憮然となり、同時に言い放った。


「面倒くさいっ」




 ◇◆◇




「本当は、二人同時に抱えたいが、俺の腕は二本しかないんだ。一本で身体を抱え、もう一本で尻を支えなければならない。尻を支えない奴は、煉黒レンゴクへ行け!」


 セイイステル救済院で、大人気ない小事が起きていた。紫の蛮族の掃討完了と、避難指示解除を直接告げに来た、運命の双刃シクサル・ミスクリージの片割れが、璜準コウジュンに囚われていた。


 被害者は、ニンゲン属ネウ種モモト族のハニィ。シザーレ眞導都市マドウトシが襲撃される前、サン・バステアンに派遣され、同族で片刃のシシィと共に難を逃れていた。


「だからと言って、何故、男の私なんですか!」


「そっちの淑女を抱えたいが、嫁でもある相手に触れた時の双刃ミスクリージの挙動が怖い」


「そんな所を撫でないで下さい!」


「ここか? ここがい所なんだろ?」


 あられもない姿を恥じるハニィ。璜準コウジュンから脱しようと試みるが、マフモフの君を手にした璜準コウジュンの容赦のない揉み攻撃はゆるまない。


 地上で心配そうにする、黒の群狼クロノグンロウの制服を着用した、シシィの小さな手が空を迷う頃。その翠色の瞳に救い主が映った。


っ。私の愛しい人ダーリンを、ハニィをお助け下さいっ」


 そこには、頭巾フーザを目深に被り直したアラームと、特に気に留める様子もなく素顔を露わにしたままの雪河セツカが徒歩で到着した。


璜準コウジュン。そんなに触りたければ、メイケイかウンケイ、絽候ロコウにしろよ。幸せとは、身近な所にあるんだぞ。見ろよ、選り取り見取りよりどりみどりじゃないか。何と贅沢な事だ」


うるせぇ! 俺が憧れたオオカミ姿の雪河セツカを返せ! 俺を騙しやがって、俺のトキメキを返せ!」


「にゃぬにゃ、にゃにゃハハハっ」


「ハ、ハニィ! 気を確かにして!」


 マフモフ成分不足の璜準コウジュンが暴走する様を囲み、先程の蛮族騒ぎが霞み始めた。


璜準コウジュン


「あぁ!?」


 メイケイとウンケイに素早く対処法を聞き出したアラームは、璜準コウジュンの正面に立った。


「フローリオに着いたら、ドラーセナに頼んで最高級の大地の真珠。シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテを用意してもらう」


 次の目的地、水郷都市・フローリオが誇る生きた伝説と讃えられる料理人の名。まつわる名物料理。


 前者は本人の口から聞いていたが、後者は言い忘れ悶々と過ごしていたと、確固たる情報元を押さえての提案に、璜準コウジュンの腕から拘束力が失われた。


「今度は、裏切るんじゃねぇぞ!」


 璜準コウジュンは威勢良く啖呵を切り、炎州エンシュウ式白衣の裾を蹴りながら、市街地へ帰って行った。行き先は、木札にあった二十一番の客室だ。


 残された面々は、再び漂い始める眞素マソを含む霧状の風景に、それぞれの視線を溶かした。

 短くも濃密な一夜に、明日訪れる日常に備える気分の切り換えを図っているように。





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