三十一の節 フローリオの、飛べない歌姫。 その二




 フローリオには、陸標ランドマークの一つに挙げられる壮麗な歌劇場がある。数々の名作演劇・歌劇と、流行の先端を発信する、テアータ・テレジエは一代で立ち上げられた。

 その総支配人であり、白鈴楼ハクレイロウの先代支配人ドラーセナ・マリサ。その人が、女傑の空気を閉じながら立っていた。

 普段は存在感があるアラームだが、マリサの隣では添え物の位置に甘んじている気配を漂わせている。そのようなアラームはあるものの、役割だけは忘れてはいなかった。


璜準コウジュン、今からレフラ区のセイエトランヌ救済院に行くぞ」


「あぁ? 俺は錬金術の究極の姿。食後のお菓子ドルチェを食べるのに忙しい」


 レーフ暦が開かれる前時代の頃。化学・科学・眞導マドウに精通した、稀代の天才学者ヴァルゲイン・メーラーがいた。当時の常識によって迫害を受けながらも彼が提唱した事により、後にそれらはとして一括いっかつされた。


 るべき結果に到達しうる化学は、調理の奇跡を説明する事が出来る。


 面倒事など回避したい璜準コウジュンは、目の前に運ばれた、シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテに集中する。アラームが首を突っ込んだ事案など、関わりたくもないと言った態度だった。


 シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテは、チョコレートケーキに、桜桃の水煮と生クリームが層を成す、シザーレの名物菓子になる。


「駄目だ。璜準コウジュンの権限が必要だ」


「権限なんて言われてもな。俺は失業中だ。大体、セイエトランヌ救済院って言えば、三年前くらいにケダモノの襲撃に遭ってから、廃院になってんじゃねぇの?」


 璜準コウジュンの記憶力は、元八聖太師ハッセイタイシの片鱗を披露した。だが、それがどうしたと言わんばかりに、アラームは拾いもせず話しを進める。


「その廃院が、二カ月前から面倒な事になっている。移動しながら説明するから早くしろ。絽候ロコウ、メイケイ、ウンケイは留守番だ」


「留守番か~。アラーム様が仰るんだし、仕方ないか。行ってらっしゃいませ!」


「はい」


「承知しました」


 璜準コウジュンを無視し、絽候ロコウ、メイケイ、ウンケイは返事をした。状況はアラーム主導で淡々と進行する。それでも、璜準コウジュンは主張を試みた。


「おい、主人を間違えちゃいませんか? なぁ、主人って俺じゃねぇの?」


「場所は雪河セツカが把握した。今から行けば、零時までには戻る事が出来る」


「今からって。ウッソだろ、お前。レフラ区まで直線距離で二の六にのろくコーリ(約一〇じゅうキロメートル)もあるぞ!?」


「何と言う、お慈悲の程。おぉ、聖法典セイホウテンの導きに感謝致します」


 璜準コウジュンは悲鳴混じりの意見を立てる。だとしても、アラームは話しの舵を離す事はなく、ドラーセナは敬虔けいけんセイシャンナ正教徒セイキョウトだと全身で表した。


「おい、俺は行くなんて言ってない。ないんだが!?」


 つい先程、高級店ではやってはいけない行動を並べた璜準コウジュン。舌の根も乾かない内に、言動を棚上げした。


 右側にアラーム。左側に雪河セツカ。頭が一つ違う長身に両脇を固められ、璜準コウジュンは強制的に優雅な空間から連れ出された。




 ◇◆◇




 夕暮れを背負う森林の中に、セイエトランヌ救済院が見て取れる。鐘楼しょうろうに加え、聖堂を象徴する身廊しんろう側廊そくろうも崩れ落ちていた。


 災害や戦乱で、家や職を失った人々の居場所。で預けられる乳飲み子。親を亡くした子供達が、無償でセイシャンナの教えと聖法典セイホウテン八経ハッケイ、歴史と読み書きが学べる場所。


 救済院は、セイシャンナ正教国セイキョウコクの布教拠点であり、聖法典セイホウテンを掲げ人民を保護する慈善施設だった。


「丁度、二カ月前。子供が四人いなくなった」


 陽の明度も陰り始め、気温も下がる屋外でアラームは語り出す。


「市警隊は、失踪した子供達を捜索したが、子供達や不審な対象を発見するには至らず」


「ちょ、ちょっと待ってくれ」


 珍しく、璜準コウジュンが顔色を失っている。既に、長身の二名による拘束から解放されていた。


「ただ同時期に、誰もいないはずの救済院で、幽霊を見たと言う証言が増えた。盗賊や、野生生物の気配ではないと、市警隊は確認済みだ」


「今の今まで、フローリオの中心地にいたのに、店から出た先が、二の六にのろくコーリ(約一〇じゅうキロメートル)離れたセイエトランヌ救済院って何なんだよ」


「今の所、領主は動く気配はないらしい。不確定な要素でを騒ぎを大きくしては、街の評判にも関わる。その前に、が片付ける。と、言う寸法だ。荒れた地場を、璜準コウジュンが鎮めてくれたら、名実共にセイエトランヌ救済院は閉じられる」


「俺の話しに答えろっての!」


 一方的に説明するアラームを、怒声がさえぎる。苛々イライラ指数を跳ね上げた、璜準コウジュンのものだ。


「空間移動だよ。時間も差し迫っている」


 璜準コウジュンは、いよいよ腑に落としたらしい。先程から、アラームが時間を気に掛け急かす理由を。


 辺りは徐々に夕闇を増し、淡い霧が漂い出す。陽が沈めば、月が昇る。


「今日は、満月かよ」


「その通り。楽しい旅行で、気がゆるんだか?」


 アラームの言葉を合図に、雪河セツカが半ば朽ちた廃院へ向かった。アラームも、正面に向き直り雪河セツカを追う。


 夕暮れでも、霧状に踊り始める眞素マソに触れられようと、アラームの整い過ぎる口元に浮かぶ、剣呑けんのんとする笑みを隠す事は出来ていなかった。




 ◇◆◇




 小さな集落には、朽ちた救済院が辛うじて原形を留めていた。周辺にわずかに残る人々が、噂を重ねる発生源。その中心部へと、三名は易々やすやすと分け入った。


「一応、の結界で、空間を遮断していたんだがね。この時世、噂が立つ建物に足を踏み入れるとは、アンタ早死にするぞ」


 荒れ果てた一室に、溶け込むように粗末な椅子に座る大柄な人影と、野太い男性の声。漂う生活臭には、何日も入浴していない濃くよどんだ代謝活動の証しが含まれている。


「その声、シザーレ眞導都市マドウトシ・八人会のドールンゲイズか?」


 璜準コウジュンは、声で判断した事を言葉に出した。夕暮れが迫り、差す陽を照らすには充分な光度がない一室では、記憶を頼った勘に近い状況と言える。


「アンタ、まさか璜準太師コウジュンタイシか?」


 既に目が慣れる相手は、正確な情報を元に会話を成立させた。戦場を駆ける機会が多かったドールンゲイズは、報告書の文字情報しか知り得ない者とは違う。互いに、現場に居合わせる事も多々あり、常識範囲内の交流は持っていた。


「それに、そこのお前」


 璜準コウジュンの返答を待たず、その傍に立つ長身の黒装束へと意識を注ぐ。


「パシエ、なのか?」


「御機嫌よう。我が師ドールンゲイズ」


 目深に頭巾フーザを被り、整い過ぎる唇にかつての師の名を乗せる。


 アラームは肘を折り、てのひらを上に両腕を軽く広げた。一拍いっぱくを置き、右掌を左胸へ。片方掛けの外套がいとうで隠れているが、左掌は隙間を作らず、真っ直ぐ降ろされている。

 最後に、相手の視線より下になる位置まで左脚を下げ、軸となる右膝を曲げた。


 シザーレ眞導都市マドウトシ式の礼節を示している。


「はっ! や~っぱ、猫被ってやがったか。俺の目も衰えていなかったって訳だ。じゃあ、パシエの左側に立ってる白髪の白装束のお前は、雪河セツカって事か?」


 張りがなかったドールンゲイズの声に、りし日の勢いが一瞬だけ戻った。反らした厚い胸板を包む、シザーレ眞導都市マドウトシの黒い教師服。言い終えると、繊維がきしむ音と共に、背を丸めた。


 腹の内に乱暴に詰め込んだ、触れられたくない秘密を守るかのように。


「見逃してくれねぇか。弟子を自称するならよ」


 今度は、璜準コウジュンが会話から置き去られた。しかし、アラームとドールンゲイズの間では情報が共有され、何かが進行している。

 そこへ水を差す、野暮な事を実行する璜準コウジュンではなかった。ただ押し黙り、事の成り行きを見守っていた。


「出来る訳がないでしょう? 機密を護るべき立場にある方が、検証中の秘薬を姪御に投与したのですから」


 常識を超える内容に、ドールンゲイズは一筋の動揺すら立てる事はない。それはまるで、アラームの提起を肯定する姿だった。





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