27,世界でたった一つの物語
「どう、だった……?」
美空は僕のほうに顔を向けつつ、しかし目を合わせようとはしなかった。自分の描いた物語を目の前で読まれるというのは気恥ずかしく緊張するだろう。
「良かったよ。トンボの生態だけじゃなくて、それによってもたらされる恩恵や食物連鎖、彼らの気持ちまで丁寧に描かれていて、心温まるお話だった」
「ほんと?」
「うん、ほんと」
「ほんとにほんと? うそじゃない? 正直に言ってほしい」
「うん、本当。好きなお話だな。これが正直な気持ち」
「本当に!? お世辞はいらない」
美空は目を潤ませ、すがるように僕をぐっと見詰めている。その目力とオーラに僕は視線を彼女の目に固定されて逸らせないが、蛇のような猟奇的なものではなく、あらゆる集団から疎外され、味方を求める独りぼっちの子どものようだ。
「本当だよ。そんなに不安がってどうしたの? なんだか朝から様子がおかしいし……」
「良かった……。不安だったから、本当に良かった……」
美空はぐすん、ぐすんと鼻をすすり、ぽろぽろと涙を流し始めた。
やはり、なにかあったんだ……。
「実はね」
数分間泣いて落ち着きを取り戻しつつあるとき、鼻をすすりつつも、美空は涙の理由を語り始めた。
◇◇◇
これは昨夜、真幸と谷戸散策から帰った後の話。
お風呂上がりの22時ころ、私はトンボの物話を描くため机に向かったのだ。そのとき、学習机の本棚に差した書物の密度が下がって遊間ができていると気付いた。
自由帳が、一冊も無くなっていたのだ。
一冊一冊、心を込めて一所懸命に描いた物語が、知らぬ間に抜き取られていた___。
「あぁ、あれ? 捨てたわよ」
やはり……。
犯人はあいつしかいないと、リビングで独りドラマを見る母を問いただしたらあっさり白状した。
「きょう燃えるゴミの日だったから急いで捨てちゃった。あんた落書きなんかしてないでちゃんと勉強しなさい」
なんか? 落書き、なんか……?
確かに、好きなようには描いていた。毎晩毎晩、1時間。早く帰れた日は22時から深夜1時か2時まで、ちょっと凝った長めのお話も描いたりした。
短いお話も長いお話も、その一つひとつが私にとってはとても大切で、キャラクターひとりひとりに命を吹き込んでいる。
あの女の子もあのウサギさんも、みんなみんな、燃やされちゃった。
物語のあらすじは覚えているけれど、同じ絵はどうしたって二度とは描けない。
親が、実母がこんなことをするなんて。いいえ、理解はしていた。母は他人に無関心の薄情者。どうしてお父さんはこんなのと結婚したのだろうと、最近疑問を抱き始めていたところだ。
けれど、どうしてそんなことが平気でできるの?
袋に詰められて、苦しかっただろうな。
生ゴミに混ぜられて、気持ち悪かっただろうな。
投げ捨てられて、心が傷付いただろうな。
燃やされて、言葉では言い表せないくらい熱かっただろうな。
目を付けられてからずっと、怖かっただろうな。
ごめんね、みんな、ごめんね。
私がもっとわかりにくいところにしまっておけば、こんなことにはならなかったのにね。
あれから、母とは一切口を利いていない。
◇◇◇
「守れなかった。私、みんなを守れなかった……」
そんな、そんな、酷すぎる。よその親に口出しとかそういう次元じゃなくて、もうなんというか、色々な言葉が駆け巡るけれどどれもしっくりこなくて、僕は息を切らすしかできない。
「うあああっ、うああああああああああああ!!」
美空は僕の胸に額を押し付け、せき止められていたものを吐き出し始めた。
「どうしてそんなこと、されなきゃいけないの!? わたし別に何もしてない! してないから悪いの!? どうして、どうしてなの……?」
美空がこんなに悲しんでいるのに、僕はただ胸を貸して、捌け口になるしかできない。
わかっている。僕にはどうしたって、世界でたった一つの、コピーもない捨てられた物語を取り戻せない。
母親に文句でも言えばどうにかなるだろうか?
けれどそれでも、物語は戻らない。
僕ができることといえば、どんなことがあっても彼女の味方であるしかないのだ。
陽は暮れて、江ノ島の灯台からわずかに光が届く。
空に瞬く星は、ほんの数百メートル先の通りから見上げるよりよりずっと鮮明で、海は砂浜をそっと撫でている。
僕も少し戸惑いつつ、甘い香り漂う美空の頭にそっと手を添えた。
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