26,ありがとう

 苦難の乗り越え、ときどき逃げた先には幸が待っているという。その通り、僕らはこの街に上陸してから順調に子孫を繁栄させた。


 後から来た集団の子や孫も加わり、一帯に生息するトンボの個体数はシオカラトンボやギンヤンマなどの在来種より、僕らウスバキトンボが圧倒的多数を占めるようになった。


 けれど僕らは彼らより華奢で、その餌食になることもしばしば。僕の子孫ももう何頭喰われてしまっただろう……。


 シオカラトンボなんか僕らより小さいのに平気で襲撃してくる。


 けれど群れが絶滅するほどのダメージはなく、真夏の太陽を浴びながら海辺や野原を悠々自適に飛び回る日々が続いていた。


「おかしいな、最近ちょっと寒い」


「お前もそう思ったか。お互いそろそろ寿命かもな」


 夜、野原に自生する木の枝にぶら下がってからだを休めているとき、親友とそんな話をするようになった。


 妻、親友、その妻が枝からぽろりと地に落下して亡くなったと知ったのは、翌朝だった。未曾有の冷え込みに耐えきれず、夜明け前には力尽きてしまったのだろう。


 けれどそんなに悲しくないのは、もうじき僕も皆を追いかけられる確信があったから。はねはボロボロに傷み、生きているほうが不思議なくらいだ。


 辺りを飛び回っていると、やはり群れの個体数は一日にして激減していた。一区画100頭はいたのに、きょうは数十程度だ。


 あれ? それにしても何かおかしい。


 そのわけを、僕はすぐに理解した。


 若者がいない。翅がきらきら輝いている若い個体が一頭もいないのだ。


 そこで僕は、自分たち老いぼれがしてきた、大きな間違いに気付いてしまったのだ__。


 沖縄、つまり南国で生きるように設計されたからだは、活発な敵に襲われても絶滅せぬよう繁殖力はあるものの、寒さにはめっぽう弱い。


 だから、地上より寒い水中では幼虫や卵が死んでしまうのだ……。


 つまり僕らが生きてきた証は、もうじきすべて消し去られてしまう。


 沖縄を旅立ち、敵に追われ風に吹かれ雨に撃たれてもなお海を越え、山を越えてきた日々は、まるで意味を成さない。


 あぁ、こんなこと、知らなければ良かった。


 僕は長く生き過ぎてしまった。こんなことになるなら、僕も夜が明けぬうち皆とともにまだ見ぬ果てへと旅立ちたかった。


 絶望に暮れて群れの中を力なく浮遊する。他の連中には黙っておこう。一時的だけれど子孫を繁栄させられた僕はまだ幸せ者。若い衆にこんなことが知れたら一大事。ばれてしまうのは時間の問題だけれど、わざわざ告げる必要もあるまい。


 すべては僕ら、老いぼれの責任だ。これを世では『老害』といったかな。


 いっそのこと何かに食われてしまえばと思うも、他種のトンボや鳥たちは僕になどまるで興味を示さず、無情にも命はその後何日も続いている。


 僕は死を、一日千秋の想いで待ちわびている。


 けれど誰も、殺してはくれない。自ら命を絶つ術も知らない。からだが本能的に食を求めて、小虫を食べてしまう。群れの仲間から聞いた話だが、この世で自ら命を絶てる生物は人間だけという。


 気付けばシオカラトンボやギンヤンマも姿を消して、代わりに僕らより小さくて紅いトンボたちが姿を見せるようになった。アキアカネだ。


 訊ねると、彼らはウスバキトンボとは真逆の体質で、避暑のために夏の間は山地で過ごしていたのだとか。冬の間も卵は死なず、春になると孵化するそうだ。


 彼らも僕を食う気などないという。


 気付けばウスバキトンボの姿は、もう僕のほかには見られなくなってしまった。


 報われないなぁ。僕なりに懸命に生きてきたのに。まさか最初の段階で取り返しのつかないミスをしていたなんて。


 旅になど出ず、意地でも沖縄に残っていれば良かった。渡航してからでも、体力があるうちにもっと温暖な土地を探しておけば、まだ策はあったかもしれない。子孫を繁栄させ世代をつなぐという生物の至上命題を不作為的に放棄した僕の後悔は、募るばかりだ。


 民家の庭先。木々の葉は紅く染まり、オレンジの僕はなんだか薄汚い。


 アキアカネたちは背後の冷たい池に平然と卵を産み落としている。ほとりでは、その様子を人間の娘がしゃがんで観察している。娘はおそらく6回ほど冬を越しているだろう。


「あ、オレンジのトンボさん! ちょっと大きい! トンボさんトンボさん、聞こえていますか?」


 振り返った娘は、枯れ枝にぶら下がる僕の存在に気付き、話し掛けてきた。言葉の意味は理解できるが、返答はできない。


 娘の眼はつやつや澄んでいて、僕よりずっと長く生きてきただろうに、まだ世界をよく知らないようだ。


「夏の間、いっぱい飛んでいたトンボさん、ですよね?」


 あぁ、そうだよ。


「ありがとう。オレンジトンボさんのおかげで、あまり蚊に刺されずに済みました。作物を荒らす虫さんも食べてくれて、まいにちおいしいごはんが食べられています。悲しいことかもしれないけど、オレンジトンボさんの仲間を食べたツバメのヒナさんたちは、元気に巣立っていきました。オレンジトンボさんがいてくれたおかげで、みんなしあわせになれました! 本当にありがとうございます!」


 そんな、そんな、君は何を言っているのだい? 僕らはただ、自分が生きるために小虫を食べてきただけだよ。ツバメがどうなろうと、知ったことではないのだよ? 感謝される義理なんて、これっぽっちもないんだよ?


 けれどなんだか照れくさくて僕は、頭をぽりぽりと掻いてしまった。


「ふふ、伝わったかな? お茶でも飲ませてあげられたらいいのに」


「おやつの時間よ~」


「はーい!」


 民家の縁側から、母らしき人物が娘を呼んだ。


「なんのお構いもできずごめんなさい。ゆっくりしていってくださいね!」


 では! と、娘は母のもとへてけてけと駆け寄っていった。


 夕刻が近付くこの時間の日差しは少し暖かく、束の間の安堵感を与えてくれる。いつもなら活発になるのに、なんだかきょうはやけに眠い。というか、娘の言葉を聞いたら全身の力が抜けて、眠くなってきた。


『ありがとう』


 そんな言葉、使ったことあったっけ?


 トンボ同士でも、その言葉を交わす者はいた。けれど僕は、使わなかった。


 食料があって、近くに誰かがいて、やがて孤独になって。けれど僕はそれでもなお気付かなかった。支えられるのが当たり前で、感謝なんて習慣を身に付けてこなかった。感謝されることもなかった。


 そうか、その一言を、その感情を知るために、僕はきょうまで生かされたのだ。


 ありがとう、おかげで最高のみやげが手に入ったよ。


 間違いだらけの一生だったかもしれないけれど、いまなら自分に胸を張れる。そんな気がしたよ。


 友よ、妻よ、僕を支えてくれたすべてに、ありがとう。


 その感情に満たされたとき、ふわっとからだが軽くなった。見下ろせば僕は枝からぽろりと墜ちていて、娘は茶をすすりながら母とともに羊羹ようかん咀嚼そしゃくしていた。その表情は大層満足げで、幸福に満ちていた。


 空は暮れなずみ、海のほうでは雲間からはしごが伸びていた。きっとそれを上がった先に、皆が待っている。

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