25,創作家のストレスファクター

 星川さんの視線を気にしつつ、一呼吸置いて、物語の続きを読む。


 おや? 次のページへ進むと、紙面にまるい水滴の痕があり、ざらざらして蚊に刺されたようなぷっくらとしたふくらみが数ヶ所ある。


 描いている途中、ぼんやりしていたとかで唾液を垂らした? それにしてはふくらみが小規模かつ数が多い。


 ならばやはり……。そうか、そうなのか。こうしてシグナルを出しているのだから、なおさら彼女としっかり向き合おう。


 まずはちゃんと物語を読もうと、次のページをめくる。



 ◇◇◇



「おっ、おおおっ!!」


「あっ、あああん!!」


 生き残った僕ら4頭はそれぞれ結婚し、せっせと子孫を繁栄させた。後から来た数組の仲間も加わり、2ヶ月後、雨季を越えた頃には数千のウスバキトンボが海辺や広場を飛び交うようになった。


 わいわいがやがや明るい家族。仲間がいっぱい、楽しいな。



 ◇◇◇



 なんということだ。学校の自由研究でまさかの下ネタ。ダルメシアンの件とは異なる意味で恐れ知らずだ。


「えーと星川さん、この、おおおっ!! とか、あああん!! っていうのは?」


 そもそも女子はどこでこのような知識を身につけるのだろう? 保健体育の授業で男子はなぜか教室で漢字ドリルをやらされている最中、視聴覚室で大人のビデオを見せられるのだろうか?


「そういうの好きかと思って。箱根で私がもたれ掛かったときだって、おなかに何か硬いのが当たってたし。私、カラダに自信ないからうれしかったけれど」


 当たってたか。星川さんが寛大で良かった。不可抗力とはいえおっきした竿さおを当てるなど普通の女子なら大変なことになるのに、むしろ喜ばれてしまうとは。世の中色々な人がいるものだ。


「そうか。うん、大好きだよ!」


 好きなことは素直に好きと言っておく。


 このまま提出したら先生に怒られそうだけど……。


「良かった。まゆ……清川真幸に喜んでもらえたらと思って描いたお話だから」


 僕のために描いた物語、だと? うれしいことをさらっと言われた。僕も星川さんくらいうれしい言葉をかけられる男になりたい。


「別に苗字つけなくてもいいよ」


 と、さりげなくファーストネームで呼んでもらえるように誘導してみる。


「じゃ、じゃあ、まゆ、真幸、で」


 星川さんはもごもごと紅潮し、あさっての方向へ目を逸らしながら僕に告げた。


 かわいい。外見は美人であるが内心ろくなことを考えていないと知った現在でも、初めて出逢ったときのときめきは消えない。


 彼女の仕草に息を呑みつつ、会話を続ける。


「うん。なら、僕も美空って呼んでいい?」


 そこへ踏み切って良いものかと、問いかけた瞬間、後悔をはらんだモヤが脳や胸に広がり、重苦しくなってきた。いったい僕は彼女との心の距離をどれくらい縮められているだろうか?


「ど、どぞ!」


「では、美空」


 良かった。承諾してもらえて、本当に良かった。美空のたった一言が、信じられないくらい気持ちを軽くしてくれた。


「はい、真幸」


 生ぬるい風が吹く暮れなずむ渚で、しばし沈黙。


「どうしたの? 真幸、なんだか様子が変。視点が定まっていなくて挙動不審」


「まさか、ファーストネームで呼んでもいいなんて」


「ふふふ、おかしなことを言うね。星川さんとか清川さんなんてよそよそしい呼び方、ちょっと壁を感じない?」


「いや、それはほら、適度な距離感というか」


「距離感? 確かに親しき中にも礼儀ありだけれど、余計な距離感は要らないよ。コミュニケーションの邪魔になるだけ。というより、私が真幸をファーストネームで呼んでいるのに、どうして躊躇ためらう必要があるの?」


「確かに……」


「でも、なんとなくわかる、その気持ち。実はね、私も少し前までそうだったの。親さえも信じない人間不信だから、学校の友だちともなかなか馴染めなくて。だからみんなと、ついきのうまでは真幸とも距離を置いた接し方をしていたけれど、その度に心にモヤがかかるというか、頭や心が重みを増していって。


 なら思い切って相手を信じてみたらどうかなって、あるときふと思ったの。それからかな、多忙でストレスフルな毎日でも、少しだけ気楽な日々を送れるようになったのは。それまでは、狭い人間関係の中で殻に閉じこもって何をやってもダメで、イライラしてばかりだった」


 そうか、美空もそうだったのか。多忙な日々のなか、コミュニケーションに悩む___。


 受験や周囲の期待、創作をしたいのに時間がない。ひらめいたとき、できれば目の前の答案用紙やノートにアイディアを書き留めておきたい。


 僕はそんな毎日を送っているけれど、彼女もまた、同じような悩みを抱えていて、しかし僕より少し先を歩いているのだ。


「そうか、ごめん、ありがとう」


「ふふっ、どうして謝るの?」


「なんとなく、不快な思いをさせてしまったかなって」


「なんとなく? いやいや思いっきりズタズタです。もう修復困難なくらい」


「すみませんすみません本当にすみません!!」


「ふふふっ、こんどスイーツでもご馳走してくださいっ。でもね、こういうのは順番だから仕方ないんだよ。私だって以前はそうだったって、いま言ったばかりでしょう? だから、この一連の会話で真幸が新たな一歩を踏み出すきっかけを得られたのなら、私はうれしい」


「新たな一歩?」


「うん。心の距離が縮まると、相手がこれまで教えてくれなかったことを教えてくれるようになったり、親密になるだけじゃなくて、心の豊かさとか、世間のいろんなこととか、自分だけでは知り得なかったことをたくさん知れるようになって、視野が広がるの。私はその恩恵を少しずつ受けられるようになったから、こんどは真幸にそれを伝えられたらいいな」


 もうなんというか、美空は同い年なのに僕とはまったくちがう次元を生きていて、自分は彼女と同じ15年間をどれだけ愚かに過ごしたか、現実に打ちのめされた。


 けれどそれを新たな苦悩にする意味などない。歩んできた道はそれぞれ異なるのだから、過去を顧みるよりも今後の精度を上げて行こうと、前向きに捉えるほかないのだ。


「よろしくお願いいたします。あ、そろそろ陽が沈んでしまうので、続き読ませていただきます」


「どうぞ」

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