2,茅ヶ崎の渚で
私の視界には、小さなちいさな地球の、大きなおおきな海原が広がっている。砂浜に毛布をかけるように穏やかな波が打ち寄せる
江ノ島へ続くサイクリングロードを挟んで背後の砂防林から聞こえるセミの鳴き声、頭のすぐ上を飛び交うオレンジ色のトンボの群れ。ずっと上にはぴーひょろろと弧を描き舞うトビ、沖合い上空には跳ねる魚たちを美味しそうに見下ろす数羽のカモメ。なんだかとてもにぎやかだ。
きらきらきらめく海は太陽から放たれる七色の光から青色を選びとり、入道雲でもくもくしたソーダフロートの空よりずっと深く、その奥に潜む神秘を覆い隠している。
一瞬一秒、少しずつ、ときに刹那に姿を変えてゆくこの世界。それでもこの場所には毎日変わらず寄せては返す
深夜の小一時間しかほっとできない日常に疲れると、私はよくこの浜辺に潮風を浴びに来る。少しベタベタしているから度合いによっては後でシャワーを浴びて着替えなければならないけれど、自宅から徒歩10分で時間を忘れられるのだから、それくらいは我慢する。きょうは風が弱く、絶好のスケッチ日和。
小上がりほどの段差を二つ重ねた高さのウッドデッキに腰を下ろし、トートバッグからスケッチブックと24色の色鉛筆缶を取り出す。きょうは白いワンピースと麦わら帽子の少女が青空の波打ち際で心地よさそうに潮風を浴びながら歩く画を描こう。スケッチブックはお小遣いで購入した秘密のアイテムで、両親、特にお母さんに所持がバレたらきっと「絵なんか描いてないで勉強しなさい」と怒られてしまう。
人間という生き物には、誰も見たことのない世界を創る能力がある。だから私は、世界を創る。この真っ白なスケッチブックに秘めた想いや躍動を散りばめれば、そこに新しい世界が生まれる。実は今朝も日の出前からこの辺りの砂浜を散歩していて、本日二度目の来訪だ。朝と現在お昼の2時では同じ場所でも顔色が全然違って、この時間帯が一日でいちばん騒がしく、ここより少し西にあるサザンビーチちがさき海水浴場では遠方からの人々で賑わっている。
うん、お絵描きって楽しい……!
絵本作家になるために、どんどん絵を描いてゆこう!
集中して絵を一気に描き上げたときにはもう30分は経過していただろう。我に返ればひんやりとした北風が潮風に逆らうようにそよと吹き抜け、空は知らぬ間にほの暗く曇っていた。きょろきょろと辺りを見回すと、さきほどまで飛び交っていた生き物たちの姿がない。
これは、いやな予感しかしない……!
それが的中するまで1分かかっただろうか。なぜ、どうして、波は穏やかなのに、急な土砂降りの雨。大ホールに響く拍手のようなその激しい音は、まるで私が描いた絵を天が称賛しているようだ。
拍手を大雨で表現するなんて、神様は素直じゃないなぁ。
余裕の構えで数秒間妄想していただけでもう全身びっしょり。急いで道具一式を片付け、サイクリングロードを小走りして自宅を目指す。無意味に等しく両手で頭をカバーしながら前のめりに走るランシャツおじさん、キャーキャー叫ぶだけで成す術もなくただ雨に撃たれる残念なヤングママとその子どもたち、猛スピードで真横を
ここからお家まで徒歩10分。雨に濡れてからだのラインがはっきり浮き上がり、下着も透けている。15歳という年齢の割に膨らんでいない胸を見た男性たちの哀れむ視線や、更には露出狂として補導され、おまわりさんからも同情の眼差しを向けられる超近未来が怖い。なるべく人の目には触れず、可及的速やかに帰宅しよう。
国道をまたぐ赤いタイルの歩道橋を渡りきると、気持ち腕を前に組むような姿勢で屈み胸囲を隠す。そして小中高の学校群を横目に松並木の
ちょうどバスが目の前の停留所に停車してびしょ濡れの乗降客たちがいそいそしているけれど、いまの私は無様すぎて乗客の視線が気になるから乗らない。濡れたまま乗ると迷惑だろうし。
おっと、いま近くで落雷した。ドカンと一発すごい音。
あぁ、異国情緒あふれるサザンの街。ろくに目を開けられない土砂降りの中では視覚情報が限定されて、青黄赤などで彩られたアメリカンなおもちゃ屋さんやロサンゼルス風の古びた酒場がやたらと際立つ。雨に撃たれる人物がお人形さんのような美少女であれば、どれほど美しい画になるだろう。しかし残念、ブタに真珠、私に茅ヶ崎とはまさにこのこと。
途中で三度息切れし、膝を手で抑えて豪雨に打たれながらゼーゼーハーハー。なんとか帰宅し、スケッチブックはあまり濡れていなくて安心した。両親は仕事で留守だ。
せっかく塾へ行く前の気分転換をしに来たのに、なんて残念な日だ。これから誰かと出会って自己紹介をするときは『残念女』と名乗ろうかと思うくらい残念だ。とりあえず早く帰宅してシャワーを浴びよう。そのあとに飲む、はちみつ入りしょうがシロップと炭酸水を割った、キンキンなのにからだがぽかぽかするジンジャーエールが楽しみだ。
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