名もなき創作家たちの恋

おじぃ

2006年8月

1,プロローグ


 この世界には、運命を変える出逢いがある。代わり映えない質素無味な日々から、まだ見たことのない新しい世界へと連れ出してくれる、魔法のような出逢いがある。


 僕にもそんな、出逢いがあった。その相手とは、アニメーションだ。アニメーションに恋をしていると言っても過言ではない。


 世界に名を馳せる巨匠が撮った劇場アニメの数々、テレビ放映されている国民的アニメや深夜アニメ。そのすべてを鑑賞しているわけではないけれど、ジャンルを問わずにアニメ全般が好きだ。各作品が持つ世界観、キャラクター、音楽などを一度に楽しめる、こんなにも自由で優秀なコンテンツは他にあるだろうか。


 いつか僕も、たくさんの人々を夢中にさせて、ずっと心に残る作品をつくりたいと、秘かに野望を抱いている。


 しかし中3の夏休み、受験勉強の夏。自室の机に山積しているのは絵コンテやシナリオといったアニメ関係の書類ではなく、学校や塾の宿題の山と受験対策用の問題集。それをこなすだけで精いっぱいの僕には創作活動に打ち込むどころか、アニメを視聴する余裕さえもない。


「あぁ、イライラする! 勉強なんかして何になるんだよ!」


 塾から帰宅して食事とシャワーを済ませ、23時から机に向かい1時間。体力の限界まで勉強しなくてはと机に広げた数学ドリル。解法がわからなくて思わず心の声が漏れる。


 ◇◇◇


 ふぅ、きょうも一日お疲れさま。


 西暦2006年、中学3年生の夏休み。それは事実上の猛勉強月間で、音楽や家庭科のような主要科目以外の学習をしないから、脳は学期中よりずっと忙しく、からだは強張こわばっている。大学までエスカレーター式の私立女子校に通っているとはいえ、油断して著しく成績が悪化したら進学させてもらえなくなる。


 塾から帰宅して、お夕飯とお風呂を終えたら23時を過ぎている、そんな毎日。まだ帰らないお父さんは、きっと私より忙しい日々を送っているのだろう。バス通りに面した3LDKのマンションの一室では、この時間でも自動車の通過する音が数秒おきに聞こえてくる。


「記憶が定着しないからもう寝なさい」


 お母さんにはそう忠告されるけれど、それでも私は寝られない。


「もうひと頑張りするね」とキッチンで温かいカモミールティーを淹れ、グラスポットとティーカップをトレイに載せて慎重に持ち運び、自室にこもった。こう言っておけば「仕方ないわね」と許してくれる。


 お母さんをだまして月灯りがふわりと射し込む南向きのお部屋に篭ると、学習机に装備されている白色灯は使わず、左端に置いてある高さ30センチのシャンデリア型スタンドライトを点け、まどろみの空間を演出する。趣味の時間には暖色照明のほうが気乗りする。


 左のラックから十数冊のノートの間にひっそり挟んだ自由帳をスッと抜き取り、右手で引き出しの中の24色入り色鉛筆の缶ケースを取り出す。


「私の時間、はじまりはじまり~」


 そう、おやすみ前の小一時間が、私が私であるための、とってもとっても貴重な時間。


 自由帳という小さなフィールドに、自由気ままに色鉛筆を走らせる。きょうは小さな女の子と白ウサギのお話を描いてみよう。


 誰にも内緒だけれど、私の将来の夢は絵本作家。


 絵本はどんな本よりも早く、読者を別の世界へいざなってくれる、心のオアシス。私もいつか誰かに喜んでもらったり、温かい気持ちになってもらえる、そんな世界を描きたい。


 物語の舞台は小学校の飼育小屋。飼育委員の3年生の女の子は、白ウサギを小屋から出して、外の囲いで給餌きゅうじをしている。季節は秋、時間はうーんと、夕方4時くらいにしようかな。少し陽が傾き始めたころ。


「はい、ニンジンあげるっ!」


「いやいや、ぼくはニンジンよりキャベツのほうが食べやすくて好きなんだ」


 ページをめくり、次の絵を描き込む。前ページの裏は白紙のまま残しておく。


 女の子はプラスチックのバケツから手のひらサイズに切り分けたキャベツを一枚つまんで「そうなんだ、はい、キャベツ」


 キャベツを手渡すと白ウサギはそれをもきゅもきゅと三口かじり、手中に抱えたまましゃがむ私を再び見上げた。


「ありがとう。わがままついでに、僕の夢を叶えてくれないかい?」


「夢?」


「そう、夢。小さな夢」


「なぁに? 言ってごらん?」


「ぼくはね、おそとの世界を見てみたいんだ」


「おそと? おそとの世界は危ないよ? 車とか、カラスとか、敵がいっぱいだよ?」


「くるま? なんだそれ。ぼく知らない」


「車っていうのはね、私よりずっと大きくて、どんな動物さんよりも速く走れるとってもこわ~いものなの。でも、どうしてもって言うならちょっと冒険してみようか」


「やったぁ! ところで、どうしてきみは、ぼくが喋っても驚かないの? ほくはいま、生まれて初めて人間の言葉を喋ったのに。それとも他のところで飼われているウサギは、ぼくみたいに喋るの?」


 この小屋には他に二羽のウサギがいて、いまはお昼寝をしているご都合主義の設定だ。ついでに仕切りを隔てた隣のお部屋‘には’二羽の‘ニワ’トリと、セキセイインコもいる。


「ふふっ、そういうことを言うと夢の世界が壊れるからやめようね」


「そうか、わかった。ははははは」


「ふふふふふっ」


 絵を描いて、一人芝居をして、ページをめくりまた絵を描いて、その間にカモミールティーを少しずつ口に含んでのどを潤して、最後の一口まで飲み干した。今夜はこれくらいにしておこうかな。


「あぁ、もうだめ疲れたぁ……」


 絵本を描き終えた途端に脱力感と疲労感が全身を支配して、一刻も早く床に就きたくなる。


 勉強漬けの毎日はそれだけでも疲れるのに、それでも創作はやめられない。


 自由帳と色鉛筆缶は開いたまま、飲み終えたポットとカップは食洗器へ。


 いつか、できればそう遠くない未来に、私の描いた物語で誰かが感動したり、幸せな気分になってもらえたら……。


 そんな日を夢見てスタンドライトを消灯し、ベッドに横たわる。


「ふふっ、今夜も楽しかった♪」


 ◇◇◇


 カシャッ、カシャッと秒針が時を刻む音で目覚めた午前4時。休憩のつもりでベッドに横たわったけれど、4時間近く眠ってしまったようだ。


 着替えを持ってまだ新築独特の接着剤や塗料の匂いが残る階段を下り、シャワーを浴びる。


 近所のアパートから一軒家へ引っ越して2週間。少しずつ新生活に慣れつつあるこの頃。


 勉強漬けで頭のモヤが取れないから、朝飯前にサイクリングでもしてくるか。


 ジーパンとTシャツを着用してオレンジジュースをコップ一杯飲み干したら、江ノ島えのしまへ向けて出発だ。


 僕が住む場所は神奈川県の沿岸部、湘南しょうなん地区に位置する茅ヶ崎市ちがさきし。何人かの大御所芸能人や宇宙飛行士ゆかりの、和洋が調和した茶屋町ちゃやまちだ。


 江ノ島は隣の藤沢市ふじさわしに浮かぶ本土と橋で結ばれた小さな島で、僕の家からは自転車で片道30分。全国的には観光地、地元の人々には散歩コースやジョギングおよびサイクリングの折り返し地点として親しまれている。昼近くになると島に架かる橋は観光客で埋め尽くされてなかなか進めないけれど、早朝はほとんど人通りがなくスイスイ進める。


 一方通行と見間違えるほどの道幅しかない『ラチエン通り』を南へ進み、国道134号線に突き当たると、早起きのセミが合唱する松林の合間を貫く抜け道から沖に覗く烏帽子岩えぼしいわ。正式には姥島うばしまというけれど、戦闘訓練で射撃の的にされ、偶然にも烏帽子のような形状に削られてそう呼ばれるようになった茅ヶ崎のシンボルだ。


 信号待ちがやたら長い国道の横断歩道を渡り、抜け道からサイクリングロードに入って東へ進む。


 まだ日の出前なのに、ジョギングや犬を連れた主に中年層や、砂浜を見下ろせばボードを持って海に入ったサーファー、首から一眼レフを提げた初老男性、スケッチブックを持った若い女性ほか数名が散りぢりに歩いている。幼い頃から見慣れた湘南の朝だ。


 右手に江ノ島が浮かび、鎌倉かまくら葉山はやま逗子ずしなどから成る三浦みうら半島の山々の背後には、濃いオレンジと淡い水色のコントラスト。この辺りでは海ではなく、山影から陽が昇る。西の空には伊豆いず半島と日本最高峰、富士山ふじさんの影が藍色あいいろに浮かび上がっている。


 まるで開演前の劇場のような、これから始まる新しい一日という物語に馳せるときめきを隠せずにいる、そんなそわそわした静けさが、この海岸線を支配している。


 まぁ、僕に用意された今日の物語といえば、相も変わらず塾だけれど……。


 それでも少しは気分が晴れた、そんな一日の始まりだった___。

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