3,世界が変わる、その瞬間

 江ノ島から帰宅して宿題を進めていたら、読書感想文の課題に選んだ文庫本がないと気付き、徒歩10分強の中学校へ、予め職員に連絡してから14時ころに取りに行った。机の中に入れたままだった。


 大好きな読書を忘れるなんて、どれだけ余裕のない日々を送っているのだろう……。


 中学校は海の目の前にあるが、街への砂の飛散を防ぐための松林が連なっていて、3階の教室からはそれと土のグラウンドしか見えない。夏休みだけれど、そこでは野球部員らが一帯に響く大きな掛け声を上げて練習中。彼らの声をBGMに、少し休憩しよう。


 練習風景を眺めているうち空がみるみる曇り、やがて豪雨が降ってきた。野球部員は急いで校舎内へ引き上げる。幸いにも僕は帰宅せずそのまま塾へ行くつもりで身支度をしていたから無理に学校を出て帰宅する必要はなく、とりあえず一人きりの薄暗い教室で灯りも点けずにぼんやりと外を眺める。


 グラウンドはコーヒー牛乳色の沼へと変わり、ダーツの矢のように長い水滴が刺さっては円周状に跳ねて溶けてまた跳ねてを一秒に数回繰り返している。


 雨が止むまで2時間少々。教室の灯りを僕の頭上一列だけ点けて、しおりを挟んだページから読書して過ごした。


 灰黒く層の厚い雲は霞んだ空気を拭い去り、限りなく瑠璃色るりいろに近い蒼穹そうきゅうは、西からオレンジに染まりつつある。


 塾へ行くだけの代わり映えない日かと思いきや、少し刺激的な一日だった。朝の江ノ島に行けば何かが変わるのだろうか。


 もう塾の時間。「は~あ」と深い溜め息を漏らし、職員室に教室の鍵を返却して学校前バス停16時52分発の東海岸循環ひがしかいがんじゅんかんに乗った。引っ越す前に利用していた路線で、古巣に帰った気分だ。


 車内は6割以上の席が埋まっていて、前ドア乗車の中ドア降車方式だからか後方の座席に乗客が集まっている。僕は中ドア正面の座席に掛け、流れゆくヨーロピアンな街並みをぼんやり眺める。その中に一軒、日本の大多数の街でなら景観に溶け込んでいるであろう昭和の香り漂う落花生専門店がこの道では異彩を放っている。


『次は、駐在所前、ちゅうざいしょまえでございます』


 中年女性のものと思われる録音放送が次の停留所名を告げ、塾が近付いていると憂鬱な気分が肩に重くのしかかる。


 塾に行って勉強して、受験戦争の末に進学して、就職活動をして、できれば誰もが知る大企業に就職して安定した生活をという親の望むレールに乗せられている。どこかでポイントを切り換えなければ、アニメ作家という路線には乗り入れられない。


 と、こうして鬱々としている間にも、世界は水面下で動いていた。


 車窓の左手からいつもより数段きらびやかな夕陽が射し込み、信号待ちをしていたバスは交差点を直進し、着実に駅へと進む。


 そして交差点すぐの停留所でドアが開いたその瞬間、僕の世界は、あまりにも突然に、まるで最高速度の新幹線が長いトンネルを抜けて一気に光が射し込んだみたいに、本当に一瞬にして、世界が一変した。


「わっ……」


 思わず心の声が漏れ、咄嗟に口をふさぐ。


 一目惚れだ。心臓発作を起こしそうなくらい、僕はたったいま乗車してきた彼女に、コンマ数秒で心を奪われた。


 同年代と思しき少女。彼女は読み取り機にバスカードを通しながら「お願いします」と運転士に一礼した。


 なんて気品あふれるで立ちだろう。鎖骨の辺りまでまっすぐ伸びた艶やかなミディアムストレートの髪、白いワンピースから露出する色白の肩から手先まで。そして顔立ち。小さな鼻と、運転士に向けたどこか妖艶な眼差し。こんな表情を出せる女性を、これまで僕は見たことがなかった。


「前のお席、失礼しますね」


「あっ、はっ、はいっ!」


 なんと、なんと彼女は、僕の目の前の座席に腰を下ろしたのだ。この香りはきっと、髪から放たれたシャンプーの香りだ。


 僕は混乱して露骨に下を向き、自らの膝に視線を固定すると、ふわり甘い香りが漂ってきた。


 あぁ、ああっ……。


 きっといまの僕は客観的にとても恥ずかしい様相だけれど、そんなことを気にする余裕はない。


 不意打ちだ、不意打ち過ぎる!


 これが僕の、間違いなく生涯忘れ得ない初恋の瞬間だ。

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