第2話 あいかわらずのかわら
洪水の多い街に住んでいた。子供の頃に。
その日も降り続く雨に下水道のマンホールがゴボゴボと噎せ返っていて、あぁコレは溢れるな。と子供心に眺めていた。普段歩く街が水浸しになっていくのは、あの時分には心躍るエンターテインメントだ。
洪水の終わり、道路には置き去りにされた河底の遺物たちが実用も意味も喪って、泣きだす前の迷子のように静かに辺りを見回している、それはかつての自分があるべき場所を探すような、なんとも言えない風情を持ち、洪水終わりの濡れた強い風がそれらを撫でる、寂しい光景が好きで見て回った。いつも学校帰りに通る河原、その背丈の高い黄ばんだ草が泥水で凪いでいる。
そしてソコに見慣れぬモノを見つけた。
山羊だか牛だかの屍体?成体のそれより一回り小さく、かといって子供の動物ではないようだ。
それは成長過程のサイズといった雰囲気が無く、親の股ぐらから小さいこいつが這い出てきて、順調に成長するさまが何故か上手く想像できず、はじめからこういう体格の生き物であるとしか思えない。
世界の中でこいつの体分一つ、とても小さい穴が開いているかのようだ。
手になじむ大きさの石とか、振り回すにちょうど良い棒とか、そんなことは絶対にありえないが、自分に見つかるために予め誂えられたような不自然な程よい大きさ、そういった体格の生き物である。
死んだことにも気付かず、唖然と死という状況を遠巻きに眺めるように眼球が乾いている。
でもよくあることだ、洪水の後は。
どこからか何かを飲み込み、そして突拍子も無いところに置いて帰る。
水が溢れるということは、何かが零れ落ちるとは、つまりそういうことなのだ。
(白い濁流と赤土の澱から組立られた土人形)
屍体の存在を感じながら、あまり気持ちいいモノでも無いので、その日は帰った。
すっかり乾いたいつもの街並みにふと、あの屍体を思い出して見に行った。水に浸かって枯れ、赤く腐った草の間に、まだ在った。
ソレは何故か腐臭が無く、しっかりと皮があるのになんだか半透明で、青い血管、赤い血合いが透けて見えた。孵化寸前の卵の中身が罅の間からまかり間違ってまろび出たようである。
硬直した瞼には白い睫毛が走り、瞼の上からも虹彩の色が透けて見える、目元は
僕はソイツを”ベリーのゼリー”と名付けた。生きても無いし、死んでも無いし、透明でベリーの色が差している、だから”ベリーのゼリー”だ。
僕はお供えものを作った。赤いイチイの実を取れるだけたくさん取り、道端で白い石英の石を拾って神社の手水の水と一緒に黒いお椀に入れて供えた。
初夏の陽炎の奥で、赤く腐った草むらも暴力的なまでに蔓延る青い雑草が覆い尽くし、藪蚊の群れが僕を河原から遠ざけ、
”ベリーのゼリー”は本格的な夏が来る前にいつの間にやら無くなっていた。
僕は今も、街で暮らしている、役場で、働いている。
相変わらず洪水の多い街だから時期が来ると役人の仕事は多い。
僕の洪水の時期の仕事は、洪水で街の隅々まで点在するゴミの確認、処理 。
そして洪水の後といえば、スナーク狩りだ。
スナークってのはとにかくナンセンスな存在なので何かにかこつけて突然居る。
見た目もナンセンスだから、なんとでも言える。ただ、ブージャムはヤバイ。
もしソレがブージャムだったら、僕たちは途端に食われてしまう。
食われてしまったが最後、消化され、(現実に代入される変数としての幻想)になってしまう。
つまり起き抜けに見た夢の続きを追いかけてまた眠るような人生となる、死ぬまで。
だが、ブー
思いだしたことがある。
僕がガキの頃に見た”ベリーのゼリー”、アレはスナークだったんだろうと。
あるとき、同僚にスナークの話をしてみたら ソイツも子供時代、そんなスナークを見たという。アイツもここの生まれなのか、とぼんやり思っていると、昏い微睡みに吞まれ、もう終業時刻である、洪水の時期はほとほと疲れ、このように時間があっという間に過ぎてしまうものだ。
そうか、ここらに多いヤツなのか、となんとなく思って家にかえった。
いつもの河原の帰り道を。
もう星の数ほども通ったような道だ、自分が生きているより長い時間をこの道を通り過ぎたように思う。
自分は背の高い草の背丈をとうに追い越した。
洪水の時期だから、あの頃と同じように黄色く凪いで横倒しになっている。
僕は子どものころから何も変わらず、そしてこれからも何も変わらない。
僕は目まぐるしく変わるあなたが好きだった。
あなたは今どこにいるのか。
河向こうに灯りが見える、僕の家だ。橋を渡らなければ。
自分の妻にも話してみた、半透明のスナークの話。
妻も見た事があると言う。
そう言うと、妻は2階の寝室に行ってしまった。
僕は泣き出す前の迷子の子供のように静かに辺りを見回した。
僕は察しがついてしまった。
”ベリーのゼリー”はブージャムで、ここはブージャムのせいで消えたものどもの街なんだ、と。
僕が(現実に代入される変数としての幻想)なのだ、と。
僕は静かに立ち上がり、鏡の前で歯を磨く。
僕の目元は
洪水の後に乾いて汚れた砂が目に入ったのかもしれない。
歯を磨き、妻のベッドに潜り込む。
妻の体はこの寝室の暗闇の中で、そこだけぽっかりと穴が空いているように感じた。
僕はこの空間の空いた穴にぬるりと這入りこむ。
そして、繫殖する。
僕はあの河原に行ってみた。”ベリーのゼリー”はいない。
ただかつて僕の作ったお供えものが、いくつもの数。
聞き覚えのある子供の笑い声が聞こえた。子供の声がスナークだ!という。
そして不吉な一言、
『あぁ、僕がブー、、、。』そして、沈黙。
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