第29話:才能とは
そよ風が吹いている。
この異様な空間にも、現実の世界と同じように、風が吹く。風が、私に安らぎを与えてくれる。じくじくと痛む心を、どこか遠くへ運んでくれる。
校内随一の景勝地である屋上で、フェンス越しに沈む夕日を眺めていた。
――私は、どうしてこんなところにいるのかしら?
少し考えてみると、何故か笑いが込み上げてきた。
考えるまでもなく、それは私自身が最もよくわかっていることだ。
私は、逃げた。
今までじっと耐えてきたことが急に馬鹿らしくなって、気が付けばここにいた。
自分が思っているより、私は弱かったということだろうか。
自分のことがよくわからない。何がしたかったのかは、わかっているつもりだけれど。でも、結果的に何もできなかった。それが全てだ。全て失敗に終わった。
それでいい。
つまらなかった私の人生は、どうせもうすぐ終わるのだから。
「……」
感傷に浸っていると、微かに、背後から階段を駆け上がってくる音が聞こえた。
――もしかして。
胸が高鳴ったのは、ほんの一瞬のこと。
それを遮るように、意固地な自分が顔を出した。
フェンスから手を放し、身構える。
――どうして?
どうして、終わらせてくれないの?
屋上に飛び出てきた人物を見て、私の中で何かが決壊した。
◇◆◇
名も知らぬ人々が行き交うことからもわかるように、学校は公共の場だ。
だから、校舎内にはすんなりと入ることができた。それはよかったのだが、無音で無人の校舎というのは、どうにも居心地が悪いものだった。
何も描かれない黒板、誰にも座られない椅子、使われない机、教卓。静寂のせいか、大量のそれらがひとりでに動き出すような、不気味な想像に囚われてしまう。
人の気配がないのは、ここが安全地帯の外にあるからだろう。安全でない建物に需要はないということだ。
そわそわした気持ちのまま、俺は土足で廊下を突き進み――
重い足に鞭打って、一段飛ばしで階段を駆け上がり――
そして、重い扉を開けた。
ギギギギギ。
目に映ったのは、パノラマの夕焼け空と、制服を着た黒髪の女生徒。
いつかの光景がフラッシュバックする。
彼女に追いかけられて、彼女と初めて話して、彼女の秘密を知った、あの日。
もう、遠い昔のことに感じる。
あの時とただ少し違うのは、彼女がすでに俺の存在に気付いていることと、その手に握っているものが、竹刀ではなく、本物の刀になっていることだった。
「久遠寺さん!」
よかった。やっと見つけられた。
安心したせいか、全身から力が抜けそうになるのをこらえて、フェンスに駆け寄る。
――しかし。
「来ないで」
彼女は柳眉をひそめて、しとやかな動作で刀を構えた。
夕日に赤く照らされた、白く滑らかな、陶磁器のような肌。それを際立たせるかのように、上品な光沢を放つ、か黒い刀。
その刀は、志乃が持つ木の棒と同じで、彼女の能力が生み出しているものだろう。それはわかる。
でも、彼女がそれを俺に向ける理由は、わからなかった。理解したくなかった。
「なんで……なんでだよ」
たじろぐ俺を見て、久遠寺さんはニヒルな笑みを浮かべた。
「私の
「……は?」
「聞きとれなかったのなら、もう一度言ってあげましょうか。私の黒龍……」
「わ、わかった。もういい」
聞き取れなかったわけではない。あまりに突飛な言動だったから驚いただけだ。
俺は心の内で盛大にため息をついた。
この気取った感じは、間違いない。中二モードになっている。どうしてこの状況でそんなわざとらしい演技ができるんだろうか。
呆れつつも、素に戻るよう説得を試みる。
「なあ、久遠寺さん。今はそんなことしてる場合じゃないだろ。しばらくここにいたら元の世界には帰れなくなるんだぞ? 急いでここから出ないと――」
「うるさいっ!」
「…………」
俺の弁舌は、久遠寺さんの声とはとても思えないような、金切り声に遮られた。
全身を硬直させて、顔をこわばらせて、彼女のそれは、まるで痛みに悶えるような絶叫だった。伝わってきたのは、怒りではなく、苦しみだ。
あまりの変貌ぶりに戸惑っていると、やがて、うなだれていた頭が上がった。
「とにかく、近づかないで。それとも、斬られたいの?」
何事もなかったかように、微笑が浮かんでいる。
なんとなく、わかった。
彼女は、久遠寺凪子として俺に向き合うことを恐れているのではないだろうか。中二病の演技に没頭することで、自分自身を抑え込んでいるのではないだろうか。
きっと、そうだ。そうに違いない。でなければ、あの身を裂くような叫びはなんだ。
俺は額の汗を拭ってから、両手に力を籠め、気持ちを奮い立たせた。
それならば――
俺は無理やりにでも久遠寺凪子を引きずり出してやる。
「おおおおおおおおおっ!」
身体を軽くして、久遠寺さんめがけ、韋駄天のごとく疾走する。
対する久遠持さんは目を見開いたかと思えば、険しい表情になり、刀を上段に構えた。
「
どこかで聞き覚えのある技名とともに、刀が垂直に振り下ろされる。
すると、鋭い剣閃が波動となり、俺に向かって直進してきた。
「なっ……!」
左足で踏ん張り、右に飛ぶ。
俺のすぐ後ろを、冷たい感触が通り抜けていった。
危なかった。とんだ初見殺しだ。
息をつく間もなく、俺はまた走り出す。久遠寺さんのもとへ、一直線に。
「どうして……?」
視界に捉えた久遠寺さんの表情からは、困惑の色がうかがえた。それでも、身体はまた刀を振るえるよう準備している。剣道で鍛え上げられたであろう、美しい上段の構え。
本気で行かなければ、本気で殺される。
恐怖や躊躇いをかなぐり捨て、俺は猪突猛進の勢いで突き進んだ。
「くっ!」
お互いの間に距離がほとんど無くなったところで、久遠寺さんはギュッと目を閉じて、再び刀を振り下ろした。冴えわたるような黒い刀身が、俺に牙をむく。血をよこせと、殺意をむき出しにして迫りくる。
しかし。
その勢いは俺の頭上で死んだ。
「……?」
ゆっくりと瞼を上げた久遠寺さんは、うっすらと濡れた目元を何度も瞬かせた。
彼女が刀をぎりぎりのところで止めたわけではない。
俺が両手で受け止めたのだ。俗にいう、真剣白刃取りである。
もちろん、種も仕掛けもある。大した運動神経を持ち合わせているでもないこの俺が、ここ一番でそんな妙技を使いこなせるほどこの世は甘くない。能力を使い、一時的に身体を硬くして刀を受け止めただけだ。
ただ、この方法では久遠寺さんの黒刀を受けきることができなかったようで、手のひらから少し出血してしまった。刀を握ったままの手から、鮮血がぽたぽたと滴っている。
それを見た久遠寺さんの顔が青ざめた。
「血が……」
彼女に握られた刀も、怯えるように震えている。すでに身体がボロボロなので今更この程度の傷などなんともないのだが、傷口にまで振動が伝わると、さすがに痛い。
「久遠寺さんがやってることだろ」
「…………」
痛みをこらえ、たしなめるように言うと、彼女はそっと睫毛を伏せた。
白刃取りの体勢のまま、しばし互いに動きが止まる。
そよ風が吹いて、艶やかな黒髪が揺れた。距離が近いせいで、甘い香りが漂ってくる。
音が少ないこの場所では、お互いの呼吸や、自分の心音がやけに耳につく。疲労で乱れた息づかいも、緊張で激しくなっている自分の動悸も、嫌でも意識してしまう。
――冷静になれ。考えろ。久遠持さんが考え直してくれるような言葉を。
落ち着かない頭で言葉を探していると、久遠寺さんの方から口火を切った。
「人生は……少なくとも私の人生は、つまらないものだと、そう思っていたわ。でも、そうではないとわかったの」
切れ長の睫毛の下で、深く黒い瞳が、真っ向から俺を見据えている。
「つまらないだけでなく、辛かった」
その言葉は、確信を伴って、この胸に鋭く斬り込んできた。
「だから、私はここへ来たのよ。逃げてきた、と言った方が適切ね。情けないけれど、私には耐えられなかった」
ごめんなさい。
小さく付け加えられたその声は、現実世界で最後に聞いた久遠寺さんの声と重なった。
これ以上話す気がないことを悟り、今度はこちらから切り出す。
「俺だって、普段の生活で、つまらないと思ったり、辛いと思うことはある。というより、基本的にそういうことばっかりだ。でも……たまには楽しいこともある」
久遠寺さんの眉が、ピクリと動いた。
「この間ゲーセンに行った時のこと、覚えてるよな」
あの時、久遠寺さんは言っていた。
今日はちょっとだけ楽しかった、というようなことを。
「久遠寺さんはゲームのことを簡単すぎてつまらないと言っていたけど、それでもゲームセンターで楽しむことはできた。ってことは、ゲーム以外で楽しいと思えることがあったってことだよな?」
問いかけても、久遠寺さんは答えない。ただじっとこちらを見つめている。
それでいい。俺の言葉を聞いて、考えてくれるだけで構わない。
「人と接するのは、案外楽しいことなんだよ。――俺も、最近まで気づかなかった。中学に上がったばかりの頃、自分が無能だって知って、色々と挫折してから、人生の何もかもがつまらなくなったって感じてたから」
志乃に振り回されて、黒岩のボケにツッコんで、久遠寺さんと他愛のない話をして。
何の感情を抱くこともなく、当然のように受け入れていた、毎日の出来事。
それらが心を満たしていたことを、知らなかったんだ。
ゲームセンターで、久遠寺さんに聞かれたことを思い出した。
――八坂君も、人生がつまらないと思っているんでしょう?
あの時は答えられなかったけど、今なら言える。
「俺は、今では人生がつまらないとは思ってない」
断言すると、久遠寺さんが目を細めて反駁を加えた。
「確かに、楽しいことがあるのは事実よ。でも、辛いことの方が多いわ」
……辛いこと、か。
それはそれで、枚挙にいとまがない。否定することはできなかった。
肩を震わせながら、彼女は心の叫びを吐き出していく。
「私は、誰かから奪ってしまったんじゃないかと思えるぐらい、人よりも多くのものを持って生まれてきてしまった。私には、そんなもの要らなかったのに」
小さく唇をかんで、柄を握る拳を握り締めて、何かをこらえるような表情で。
そこに、普段の彼女の面影はなかった。
「才能は、人を傷つける。刀のように、人の心を深く斬りつけるのよ。本気でやろうが、手を抜こうが、結果は変わらない。私の周りにいる人はみんな、傷つくことになるわ。だから、私は孤独であるべきなの」
「――そんなことないっ!」
反射的に叫んでいた。
体の内で燻る熱が、言葉を薪にして発火し、激しく燃え上がっていく。
「俺にとって久遠寺さんの才能は死ぬほど羨ましいし、正直、差を感じて辛くなったりもした。でも、それでも久遠寺さんの近くにいたいって思ったんだ。だって、久遠持さんは、他人を傷つけたくなくて自分を縛ってしまうくらい、優しい人だから」
言い終えてから、気が付いた。
だいぶ恥ずかしいセリフになっている。
意識した途端に顔が熱くなり、俺と同じように頬を染めた久遠寺さんの「……ありがとう」という小さな返事によって、それは更にヒートアップした。
しばらく妙な空気が流れて、しかし、久遠寺さんの表情は徐々に曇っていく。
「……でも、私は、あなたのことをひどく傷つけてしまったわ」
しゅんとうなだれる久遠寺さん。
彼女が何のことを指しているのか、俺にはわかる。
お互いに握ったままの刀には、もはや何の力もかかっていない。それを引き抜いて、傍らに置く。
俺は無意識のうちに放り出していたバッグを拾ってきて、中のものを取り出した。血がつかないように、慎重に。そして、その絵を目の前に掲げた。
「これ、久遠寺さんが描いたんだろ?」
異空間にまで持ち出したものは、俺が一番好きな風景画だ。
川、草、木、花、鳥。それらが太陽の光を浴びて輝いている、きらきらと眩しい絵。
それは同時に、俺が挫折をしたきっかけ(・・・・・・・・・・・)でもある。
「どうしてそれを……」
久遠寺さんは驚きこそすれ、否定はしない。なら、この絵はやはり久遠寺さんが描いたものなんだろう。俺の曖昧な記憶は、間違っていなかったようだ。
「ずっと忘れようとしてたことを、掘り返したんだ。そしたら、思い出した」
中学の頃、美術部に入って間もなく、俺は、絵のコンクールに初めて応募した。
「結果として、一年生ながら努力賞を受賞した。きっと、絵を描きまくってた成果だったんだと思う。もう、半端ないくらい嬉しかったよ。才能を認められた気分になって」
様々な夢を見ていた中、将来は絵描きになろうと、そんな風に考えたりもした。
「それで、ワクワクしながら受賞作の展覧会に行った。自分の絵をいろんな人が見る様子を眺めていたかったからな。……でも、そんなのはすぐにどうでもよくなった」
「私の絵を……見たから?」
上目づかいで、か細い声で、尋ねられる。
「そうだ」
久遠寺さんの絵は、そのコンクールで最高の賞である大賞に輝いていた。
もっとも、当時は作者の名前など気にしていなかったから、大賞を取ったのが『久遠寺凪子』だったことは記憶の隅に追いやられていたわけだが。
「久遠寺さんの作品を一目見て、俺はその世界に一気に引き込まれた。どんなに言葉を尽くしても足りないくらいに美しい世界で、俺は一人の絵描きとして、必死にその構造を理解しようとした。でも……全くわからなかったんだ。次元が違った」
俺には一生理解できないものがあることを、悟ってしまった。
「……それで、八坂君は泣いていたの?」
「あ、ああ」
やっぱり、見られていたのか。
人生で初めての大きな挫折を味わった後、俺は美術館の隅っこでしばらく泣きじゃくっていたのだ。あの時はとにかく辛かった。自分がいかにちっぽけであるかを知って、自分の代わりがいくらでもいるような妄執に囚われて、勝手に存在を否定されたような気になって、今すぐにでもこの世から消えてしまいたくなった。もう、どんな未来も描けなくなってしまった。
その後もショックから立ち直ることができず、俺はやがて美術部を辞めた。
そして、今の俺がいる。
「ごめんなさい。私のせいで……」
「いや、久遠寺さんのせいじゃないさ。どうせいつか気づいてたことだろうし」
「でも……でも……」
久遠寺さんの双眸が揺らめき、苦悩にまみれた一筋の涙が零れ落ちた。
「私は……ずっと、謝りたかった。才能が人を傷つけることもあると、教えてくれた、あなたに……ずっと、全部を話して、謝りたかった」
涙声で、彼女の芯がさらけ出されていく。
「高校が一緒になって、クラスも一緒になって、謝罪をしろって、神様が言っているみたいで……私、八坂君に近寄ろうとしたんだけど、でも、やっぱり怖かった」
「それで、監視なんて言い出したのか?」
「そうよ……。私の秘密をばらしてほしくないのは本当だったけど、でも、監視の一番の目的は……八坂君に接近することだった」
ぐすん、と鼻をすすって、ポケットからハンカチを取り出し、涙を拭う久遠寺さん。
監視の別の意味とは、つまりこのことだったようだ。俺が想像していたものと、それはほとんど変わらなかった。
「八坂君に私の才能を見せれば、絵のことも思い出してくれるかもしれないと思って、試してはみたのだけれど……うまくいかなかったわ」
わざわざ俺の家まで来て料理を作ってくれたり、俺をゲーセンに連れて行ったのは、どうやらそういう目的だったらしい。
随分と遠回りなやり方に感じたが、それだけ俺に真実を知られるのが怖かったということだろう。それでも謝ろうというのだから、久遠寺さんはやっぱり優しい人だ。
「八坂君に謝るどころか、私は八坂君にとって大切な人を傷つけてしまった。また、昔と同じ過ちを繰り返してしまった……それで、私は……」
「ここに、来たんだな」
神妙な面持ちで、こくり、と頭が上下に揺れる。
「帰る気はないのか?」
「…………」
すぐには返事がなかった。当然だろう。決意を固めて、勇気を振り絞って、ここまで来たはずなのだから。
「志乃がさ、運動公園でのこと、久遠寺さんに謝りたいって言ってるんだ」
「…………」
「実は黒岩も、久遠寺さんと話してみたいってよく言ってる。あいつコミュ障だから」
「…………」
「俺だって、さっき言った通り、その、久遠寺さんには、居てほしい」
近くに、とは気恥ずかしくて言えなかった。
「……でも、私がいる限り、また誰かが傷つくことになるわ」
「それは、必ずしも悪いことじゃない」
「……え?」
「才能の差を感じるのは確かに辛いことだけど、でも、それがきっかけで新たな一歩を踏み出せることだってあると思う」
実際のところ、もし俺が久遠寺さんの絵に出会わずにそのまま絵を描き続けていたら、もう引き返せないところまできて自分の才能の限界を感じ、散々な生活を送るはめになっていたかもしれない。
「それに、もしかしたら久遠寺さんの才能を上回ることもあるかもしれないだろ? 志乃は努力の天才だし、黒岩はああ見えて本気出せば創作の腕は確かだし、俺は……まあ、なんか始めてみようって気になってるし」
最後だけ説得力が足りない気がするが、まあいいだろう。本当にそれだけだから他に言いようがない。
「……ふふ。それは、楽しみね」
目を赤くした久遠寺さんが、輪郭を柔らかく歪めて、微笑んだ。
女の子らしい、可憐な笑顔だった。
「戻ってきてくれるのか?」
期待を込めて問いかけると、いつも通りの優雅な所作で、彼女は俺に背中を向けた。
艶のある黒髪を、そよ風になびかせて。
沈みゆく、真っ赤な夕日を眺めながら。
「仕方がないから、また、八坂君を監視してあげるわ」
彼女は楽しそうに、そう言った。
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