第28話:VSゴースト

 目的地まであともう少しというところで、そいつは現れた。

 この世のありとあらゆる闇が融合したかのような暗黒を身に纏い、男三人分ぐらいの背丈はありそうな巨大な体躯を誇る、人型の未確認生物。

 恐らく、あれが黒岩の言っていた『ゴースト』だろう。

 名前から想像するものとは違い、そいつは地面に足をついて、ふらふらと物音一つも立てずに歩いている。鳴き声を発するわけでもないので、視覚以外で感知するのは難しそうだ。頭の部分にはくりぬかれたような白い点が二つあって、目に見えなくもない。

 見るからに邪悪なその生物に、俺たちは接近していた。というより、されていた。

「ミスったな……」

 俺たちは先ほど、目的地付近で背後から迫りくるゴーストの存在に気付いて、なんとか逃げ出そうと、近くの公園に逃げ込んだ。ここにしばらく潜んでいればやり過ごせると思ったのだが、そう甘くはなかった。

 やつは公園内までしつこく俺たちを追い回してきて、結果として出入り口が一つしかないこの場所に、ゴースト一体と人間が二人という構図が出来上がってしまったのだ。

 奥歯を噛みしめてゴーストと対峙しているこの間にも、距離はじりじりと詰められている。これ以上接近されたら、どんな一撃が飛んでくるのかわかったもんじゃない。

「そうだ、あいつに炎をぶつけてくれ!」

 隣の志乃を見て、叫んだ。遠距離攻撃は、こういう時に役立つはずだ。

 しかし、彼女の応答はなかった。

 ただ前方の一点を見つめたまま、身体を硬直させている。

「おいっ! 志乃!」

 見兼ねた俺は彼女の正面に回り、小刻みに震える肩を激しく揺さぶる。

「できないよ……」

 やっと返ってきた言葉には、力がこもっていなかった。

 木の棒を強く握りしめて、

 俺の後ろにあるものを見て、

 血色の悪い唇を戦慄かせて。

「身体が……動かないよ……」

 泣き虫の志乃は、はらはらと涙を流していた。

「…………」

 何か言おうとして、言葉を見失った。

 どうして。

 どうして気づかなかった。

 もっと前に、こんなことになる前に、きちんと話しておくべきだった。

 お互いのコンディションをきちんと把握したうえで、前に進むべきだった。

 やっぱり、俺は無能だ。肝心なことに気付かない。目に入っていたはずなのに、問題としてとらえることができない。たとえ問題視できたとしても、自信がないから行動を起こせることなどほとんどない。いつもそうだ。今だって。

 後悔の波が胸にどっと押し寄せる。自分の心に住まうもう一人の自分が、水を得た魚のごとく饒舌に俺を責め立て始める。お前は幼馴染の変化にも気づかなかったのか? とんだ節穴だな。結局は自分のことしか気に掛けていないじゃないか。この自己中が。

 確かにその通りだ――でも。

 今は後悔なんてしてる場合じゃない。

 鼻をすする志乃から目線を外し、ゴーストに向き直った。

 俺の能力はとても強いと言えるものではないが、せめて少しでもダメージを与えることができれば、こいつはどこかへ行ってくれるかもしれない。

 俺は背負っていたバッグを放り、巨体があと十数メートルの距離まで近づいたところで、能力を使って自分の身体を軽くした。

 前進して、一気に間合いを詰める。

 もちろん恐怖はある。が、志乃を追い込んでしまった罪悪感の方がよっぽど大きい。

 何としてでもこの状況を打開しなければいけない責任が、俺にはある。

「ぅおおおぉっ!」 

 全身を重くして、ゴーストの足を思いっきり殴る。

 ――当たった。

 当たったが、ただそれだけだ。振るった拳はなんなく跳ね返されてしまった。

 ゴーストの身体は透過性があるわけではなく、かといって硬質なわけでもなく、もやもやした空気が固まって弾力を生んでいるような、未知の感触だった。

 ひるんでいるうちに、今度はゴーストが攻勢に出た。

 腕を上空に掲げ、斜めに振り下ろしてくる。

 俺はそれを後ろに飛びのいて避けようとしたが――遅かった。

「ぐぁっ」

 腹部を中心に、五臓六腑が捻じ曲がる。重みのある一撃に、身体は宙を舞った。

 視界がぐにゃりと歪む。

 回転、回転、回転、回転、回転。

 全身が四方八方から殴られるような衝撃に、乾いた呻き声だけが漏れる。

 気が付いた時には、俺は地面に伏していた。

 途中から強くつむっていた目を開く。

 視界が少しぼやけていた。

 全身が痛いような、熱いような、冷たいような、浮いているような。

 そんな奇妙な感覚に苛まれる。

 感覚までもがぼやけているようだった。

 身体が、離れていく。意識が、切り取られていく。

 次第に、そんな感覚すら薄れ始めていく。

「――っ!」

 どこか遠くで声が聞こえる。

「――螢っ!」

 ハッとして起き上がった。離れかけていた意識が戻ってくる。

 体を蝕む強烈な痛みに顔をゆがませながらも、目をこすって状況を確認。

 見れば、ゴーストに近づかれた志乃が、こちらを向いて泣き叫んでいた。

 その表情は、彼女が俺と喧嘩をしたときに見せる表情によく似ている。

 ――どうすればいいかわからなくて、自然と涙が出てきちゃうんだよね。

 いつかの仲直りの後、志乃がそう言っていたのを思い出す。

 今も彼女は、どうすればいいのかわからなくて、涙が止まらないのだろう。

 ……もう、ダメだ。

 ポッキリと、心が折れた。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 志乃に、久遠寺さんに、あの警察官に、謝りたい。

 わかっている。叶わない願いだ。

 何も果たせなかった。何も残せなかった。

 志乃がうずくまって震えている。ゴーストが右腕を振り上げた。

 ぼんやりとその光景を捉えたまま、俺は、全てを諦めて全身から力を抜いた。

 ――その時だった。


「正義の鉄槌ジャスティス・フィストッ!」


 聞き覚えのある声が耳に届いた。

 同時に、ゴーストの巨体がぐらりと前傾し、志乃のすぐ横に転倒した。後ろから衝撃を受けて、バランスを崩したようだ。

「黒岩!?」

 その男、黒岩刀哉は、持ち前の運動神経を生かして、スタッと華麗に着地した。

 驚くことに、彼の右手が全身の二分の一くらいの大きさに肥大している。恐らくそれが彼の能力なのだろう。そして、その拳でゴーストに一発かましてくれたようだ。

 俺はよろけないように気を付けながら立ち上がった。

「助かった……」

 とりあえず、ゴーストが起き上がるまでに体勢を整えることぐらいはできるだろう。

 黒岩に向けて声を張り上げる。

「来てくれたんだな!」

「そうだ! いてもたってもいられなくなってな! 志乃氏、こちらへ」

 大きな手が志乃の背中を押して、二人揃って俺のもとにやってきた。

 ゴーストが未だに動き出していないことを確認してから、黒岩が話し始める。

「ケイよ、怪我をしているようだが、大丈夫か?」

「ああ、俺は頑張ればまだ動けそうだ。でも、志乃が……」

 志乃が何か怪我をしているというわけじゃない。でも、全身を縮こませてびくついている様子を見る限り、精神面で万全の状態とは言えないだろう。戦闘は厳しそうだ。

 そう思ったのだが。

「わ、私……戦うよ」

 志乃は制服の胸のあたりをギュッとつかみ、掠れ気味の、絞り出したような声で言った。

「ごめん、螢……私、人が死ぬところを見て、怖くなっちゃって。なんとなく、螢に守られるつもりになってた。でも、そんなんじゃだめだよね」

 地面に落ちていた視線が、俺に向く。目にたまった涙が、ごしごしと拭われる。

「だから、ここは私に任せて。螢は凪子さんの所へ行って」

 ――え?

 予想外の提案に、思わず面食らってしまった。

「な、なに言ってるんだ、ゴーストとは三人で戦えばいいだろ」

 ……いや、待てよ。

「それ以前に、今すぐここを逃げ出せばいいんじゃないか? ほら、ゴーストも倒れ……」

 公園の入り口の方を確認すると、ゴーストはすでに起き上がっていた。ただし、こちらを見たままじっとしていて、動き出す気配はない。様子を窺っているのだろうか。

 志乃は、どうやらそのことに気付いていたらしい。

「じゃ、じゃあ、やっぱり三人で共闘しないか? ゴースト相手に志乃一人なんて、さすがに危ないだろ」

「案ずるな。我が志乃氏に助力しよう」

 黒岩が手を元の大きさに戻して、自分の胸元に握りこぶしを当てた。

「状況は詳しくはわからぬが、話しぶりからして、久遠寺嬢がどこにいるか見当はついているのであろう?」

「まあ、一応な。あんまり自信ないけど」

「自信の有無はさておき、そういうことなら戦力を分散させてでも、彼女の捜索を優先すべきだろう。見ろ、すでに日が暮れ始めているぞ」

 遠くの空に目を留めると、黒岩の言う通りだった。端から橙に色づき始めている。

 時間がない。

 これから久遠寺さんがいると思しき場所に向かって、もし当てが外れればまた別の場所を探さなければいけないし、たとえ久遠寺さんに会うことができたとしても、現実世界に帰るには、また山を登って鳥居を通過する必要がある。

 そのことを踏まえると、答えは一つしかなかった。

「……わかった。ここは二人に任せたぞ」

「うむ、任せろ。実は我、ゴーストとの戦いは初めてではない」

「そりゃ頼もしい」

 ということは、SO研のメンバーで対処した経験があるということだろう。今更だけど、SO研って実はかなり優秀なんじゃなかろうか。

「私も任せられたよ。気合・バーニング・ファイヤーをお見舞いして、きっとすぐ螢に追いついちゃうから」

「ああ、是非追いついてくれ」

 技名に関してツッコめるほど心に余裕はない。

 その後、簡易的な打ち合わせを行ってから、俺たちは動き出した。

「さあ、ケイよ。久遠寺嬢に歩み寄ること(セクシャル・ハラスメント)をしてやるのだ!」

「SSを引きずるな!」

 大声でツッコミを入れてから、落ちていたバッグを拾って背負いなおしつつ、俺は公園の逆サイドまで移動した。手で合図を送ると、志乃がゴーストに向かって炎を放つ。

 燃え盛る朱色の煌めきは、見事ゴーストに命中した。着弾点で弾けて、豪壮な火花が散る。異形の怪物は大してダメージを受けた様子はないが、標的を志乃に定めたようで、ふらふらとそちらへ移動し始めた。打ち合わせ通り、誘導成功である。

 恐れることはない。志乃の後ろには黒岩が待機している。

 俺はがら空きになった出入り口から公園を出た。

 勢いそのままに、目的地へ向かう。

 さて、ここからが正念場だ。

 二人のことは特に心配していない。

 志乃はすっかりいつもの調子を取り戻しているようだったし、黒岩は運動神経が抜群なうえにゴーストとの戦闘経験もある。お互い協力し合えばきっと迎撃できるだろう。

 問題は俺である。

 正直なところ、もう心身ともにボロボロだった。

 休憩をはさんでいるとはいえ、町の中を長時間歩いたり走ったりで疲労は溜まり、慣れない空間にいるせいで気疲れし、おまけに土手っ腹にゴーストのえぐい一撃をもらってしまって、走るのさえしんどい。

 でも、それでも立ち止まるわけにはいかない。

 よく知っているようで、知らない道。本物のようで、まがい物の町並み。

 走って、歩いて、また走って、俺は偽物の校舎にたどり着いた。

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