第17話:真剣勝負②

「じゃんけん、ぽい! あいこで、しょ! あいこで、しょ! あー、負けた……」

「では、押田さんが外側、私が内側に決まりね」

「はーい……」

 じゃんけんでコースの内側争奪戦をした結果、勝者の久遠寺さんが内側に決まった。

 志乃が芝生の切れ目から若干離れた位置にとぼとぼと移動する。トラックの内側と志乃の間に久遠寺さんが挟まった。

 さて、いよいよレース開始である。

「じゃあ、一応ルールおさらいするぞ」

 スターターであるところの俺が声をかけると、二人分の頭がかくっと縦に揺れた。

「まず、スターターは俺が務める。よーいドンの掛け声で手を振り上げるから、それを合図にスタートしてくれ。足を固定する器具がないから、スタンディングスタートで頼むぞ。で、スタートとゴールのラインは見にくいけど靴で引いたその線な。あ、あと、志乃の希望によりストップウォッチでタイムを計ることになってるから、久遠寺さんにもそれだけ伝えておく。あとは……なんか質問とか、そういうのある?」

 問うと、すかさず志乃が手を挙げた。

「はーい。走ってるときに腕をぶんぶん振って相手を妨害したらどうなりますかー?」

「え……そんなことしないでください」

 しまった、全然質問の答えになってない。

「はーい」

 って、あっさり引き下がるのかよ。なら質問するなよ。

 まあいい、気を取り直して。

「他にはあるか?」

 この様子だと志乃からはまともな質問が飛んでこないだろうから、久遠寺さんに問いかける。すると、彼女はわずかに頬を赤らめたかと思えば――

「私、実は……」

 衆人環視の中、おもむろに体操服のズボンに手をかけ、下に……

 ……………………

 …………

 下に?

「え、えっ! ……あ」

 ズボンの下から、黒いスパッツがこんにちは。

 いや、こんにちはじゃないよ。心停止するかと思った。

「ズボンの下にスパッツを履いてきたのだけど、この格好で走ってもいいかしら?」

「あー、まあいいんじゃない……か?」

 ぴっちりと締め付けられたふともも周りから目をそらしつつ、自信なさげに答えた。

 スパッツ着用を許可すると、志乃とは服装的な意味合いで不公平になる。体操服のズボンよりもスパッツの方が見た目からして走りやすいに決まっているのだ。そのあたり、この勝負の企画者はどうお考えなのだろう。

 当人に目配せすると、「偶然だね!」とよく分からないことを言い出した。

 まさか……

「じゃじゃーん」

 ズボンの下から、黒いスパッツがこんにちは。もうこんにちはでいいや。

「本当はスパッツで走ろうと思ってたんだけど、やっぱりちょっとずるいかなーって思って、脱げないでいたんだよね」

「あら、全く同じ状況に陥っていたのね」

「ほう、じゃあ二人ともスパッツでよさそうだな」

「だねー」「そうね」

 話がまとまると、二人はトラックの内側に脱いだズボンを置いてから、元の位置についた。今の動作に関して、志乃は脱ぎ捨てたって感じだが、久遠寺さんは芝生の上できちんと畳んでいる。これぞまさに女子力の差。志乃も少しは久遠寺さんを見習ってほしい。

「さて、もう質問はないな? じゃあ、始めるぞ」

 頷いたのを確認してから、二人のはす向かいに陣取る。スターターがどのあたりに立つべきかわからなかったので感覚頼みだが、志乃に文句を言われないということはポジションとして間違ってはいないのだろう。

 選手たちが一言二言言葉を交わし終えるのを待って、静かになると右腕を腰の高さに構えた。前傾姿勢をとって、左手でストップウォッチを握りしめる。

 首から上だけ動かして二人の様子を見ると、揃って俺以上に深く前傾姿勢を取り、両腕を前後に構えていた。俯いていて表情は確認できないが、緊張感だけはひしひしと伝わってくる。空気が張り詰めている。

 ……そろそろだな。

「位置について……よーい」

 競馬のスターティングゲートよろしく右腕を振り上げ、左手でスタートボタンを押す。

「ドンッ!」

 ピッ、という音とともに、二人が前方へはじけ飛ぶようにスタートを切った。

 みるみる加速して、俺の目の前を横切っていく。

 最初の直線では志乃が一歩リード。彼女は以前、スタートダッシュが得意だと豪語していたことがあるが、それはスタンディングスタートにも当てはまるらしい。小刻みに足を動かして前進するピッチ走法が功を奏しているのだろうか。

 一方、久遠寺さんは長い足を生かした走り方をしている。一歩で進む距離が大きい、ストライド走法だ。出だしこそ後れを取ったものの、カーブに入ってからは徐々に距離を詰めている。

 そして、長い直線に入ると二人は横に並んだ。久遠寺さんがそのまま抜き去るかと思ったが、志乃が陸上部の意地を見せている。

「ファイトー」

 すっかりレースに夢中になっていたが、我に返って二人に声援を飛ばす。ここからだと聞こえないかもしれないが、俺が言いたいだけだから別に構わない。

 横並びのまま二度目のカーブに差し掛かった。外側の久遠寺さんが大回りになるため不利なのだが、均衡は崩れない。どうやらこの勝負、最後の直線にかかっているみたいだ。

 ――来た。選手たちが真っ直ぐこちらに向かってくる。影が大きくなっていく。

 志乃は余力が残っていないようで、苦しそうに顔をゆがめている。足もスタート時より上がっていない。最初からずっと全力を出し切っているのだろう。普段から後先考えずに行動するようなやつなので、まず間違いない。

 久遠寺さんも同じように顔をしかめている。が、フォームは全く崩れていない。さらに、隣の様子を目でちらちらと窺っていることも併せて考えると、体力が残っていないというわけではないようだ。

 明らかに久遠寺さんが有利に見えた……けれども。

 最後の最後で、志乃が体一つ分出し抜いた。

 そのまま思い切り体を前のめらせてフィニッシュを決める。続いて、久遠寺さん。左手の親指に力を込めて、二人分のタイムをストップウォッチに記録した。

 速い、んだと思う。四百メートルのタイムの基準が分からないので、二人が速いのかどうかも正直よく分からない。少しだけ画面を見つめた後、俺もゴールの先へ歩き出した。

「お疲れ」

 肩で息をしている両者にねぎらいの声をかける。

 志乃は完全に燃え尽きたようで、膝に手をついたまま俯いていた。それに比べれば久遠寺さんは疲労が軽く、俺に気付くと物乞いをするように手を差し伸べてきた。ん? なんのことだ……ああ、そういえばレース前にタオルを預かっていたんだ。

 ジャージのポケットに突っ込んでいたタオルを引っこ抜いて渡す。

「ありがとう」

 若干声のトーンが低い。昨日は自信満々だっただけに、落ち込んでいるようだ。

 才能の塊とはいえ、今回は少しばかり相手が悪かったということだろう。志乃は志乃で努力の天才だからな。なんとか励ましてあげたい所存。

「惜しかったな」

「でも、負けは負けよ」

「それはそうだけど、志乃相手にしては良いレースだったんじゃないか?」

「……良くないよ」

 突然、右から不満げな声が飛んできた。

「え?」

「全然、良いレースじゃなかったよ」

 見れば、顔を上げた志乃が鋭い目つきでこちらを見据えていた。右手で、服の胸元をきつく握りしめている。感情が高ぶったときに出る志乃の癖だ。

「私、分かるんだ。陸上長くやってるから。走ってる最中に並んだ人の息遣いで、この人はまだ力残してるな、とか、この人はもう疲れてるな、とかさ、そういうの」

「…………」

 今度は久遠寺さんが俯いてしまった。

 まずい。空気がピリピリしている。不穏だ。

 この間のように口喧嘩になっても困るし、どうにかして止めなければ。

「なあ、志乃」

「螢は黙って。凪子さんに言ってるから」

「はい」

 部外者は大人しく黙るしかなさそうだ。

 怒気を前面に押し出した顔が、再び久遠寺さんに向く。

「ねえ、凪子さん。レースの終盤、手を抜いたよね?」

「……」

 久遠寺さんは何も答えない。答えられない。

 志乃はそれを無言の肯定と受け取ったようだ。

「なんで、なんで……そんなことしたの?」

 声が震えていた。強く握った拳も、同じように小刻みに震えている。

「私が負けたら、プライドが傷つくと思ったから? 私が負けたら、かわいそうだって思ったから? それとも、その両方?」

 激しい言葉が、久遠寺さんの身体を締め上げていく。

 久遠寺さんは叱られる子供のように、しゅんとうなだれて無抵抗だった。何かを諦めているような、悟っているような、そんな感情が周辺を漂っている。

「勝ち負けとかじゃなくて、私は……わたし、は……」

 志乃の頬に、一筋の涙が零れた。

「手加減されるのが、一番、悔しいよ……」

 最後には、力なくぽたぽたと涙を流す志乃。

 顔を上げた久遠寺さんが悲痛に目を細めて、直角まで腰を曲げる。

「……ごめんなさい」

 しかし、その返事は返ってくることなく、嗚咽交じりの足音はとぼとぼと遠ざかっていった。たぶん、あのまま帰宅するつもりだろう。

 俺たちは、だだっ広い運動公園のど真ん中に取り残された。

 そよ風にじわじわとむしり取られて、何一つプラスの感情は残っていない。

 志乃は泣き虫だ。今も昔も。

 陸上の大会で上位に入ると泣くし、喧嘩すると泣くし、映画観ると泣くし、話が盛り上がりすぎると泣くし。

 喜怒哀楽が激しくて、全部涙に変換してしまう。あいつの身体はそうなっているのだ。

 ……さて、腰を折ったままの久遠寺さんにどう声をかけたものか。

 志乃はもちろん、彼女だって相当ショックを受けているに違いない。なにせ、最も恐れていた事態を招いてしまったのだ。相手のことを、傷つけてしまったのだ。

 慎重に言葉を選ぶ。

「なに、気にしすぎなくていいさ。あいつは切り替えが早いから」

 無理やり笑顔を作って明るい声を出そうとしたが、頬の筋肉は引きつり声はぼそぼそと小さくなってしまった。しかし、言っていることは事実だ。志乃は感情を涙に乗せて体外に零しているためか、色々と切り替えが早い。

「……そうね」

 ようやく上半身を起こした久遠寺さんの顔には、寂寥の影が差していた。

 ん?

 何故か、遠い昔にその表情を見たことがあるような気がする。記憶の奥底のどん詰まりに沈んでいた光景が、ふわっと一瞬脳内に投影されて、また沈んでいった。

「いつまでもこうしていても、何も変わらないわ」

「……そ、そうだよな」

 なんだったんだろう、今のは。

 そう考えたのは一瞬で、次の瞬間には意識が別のところに持っていかれた。

 まるでお面をつけ変えたみたいに、久遠寺さんの表情がころっと変わっていたのだ。

「だから、決めたわ」

 その顔は、嫌にさっぱりとしていた。

「八坂君の監視も、もうやめにする」

「――え?」

 どうしてそうなるんだ。

 久遠寺さんが中二病という事実を、俺がばらすことを阻止するために行われていた監視。その監視に終止符を打つということは、俺が一定の信用を得たということ。

 文脈を無視して額面通りに捉えると、そういうことになる。

 しかし、今の言い方では、まるで監視に別の意味や目的があって、それを達成することを諦めたかのようだ。

 ならば。

「……久遠寺さんの監視は、ただの監視じゃなかったのか?」

 何か、他の意味や目的があったのか?

 問うと、久遠寺さんは薄く微笑んだ。

「鋭いわね。でも、答えることはできないわ」

「どうして?」

「私の、せめてもの矜持だから」

 そう言って、踵を返す久遠寺さん。しかし、歩き出しはしない。

 棒立ちのまま不思議に思っていると、やがて、背中越しにか細い声が聞こえた。

「今まで、ごめんなさい」

 今にも消え入りそうな、儚い、微かな声。

 何故謝る? 何に謝っている? 今までってどういう意味だ?

 疑問が次々と浮上してくる。

 それを口に出せないまま固まっている間に、心なしかいつもより小さく見える背中が、物悲しげに揺れるポニーテールとともに、ゆっくり遠ざかっていく。

 足が動かない。

 彼女の考えがわからなくて、わからないのが怖くて、近づけない。

 俺は、だだっ広い運動公園のど真ん中に取り残された。

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