第9話:久遠寺さんの悩みごと

 一階のリビングで、背もたれのない椅子に座り、俺は期待に胸を高鳴らせていた。

 久遠持さんの何でもできる証明第一弾ということで、手始めに冷蔵庫のあまりものを使って料理を作ってもらうことになったのだ。

 親に無断で冷蔵庫を漁るのは夕食の食材が不足する的な意味で若干まずいような気もしたが、最悪夜に俺が買い出しに行けばいいだけの話だ。それよりも久遠寺さんの手料理が食べたい。本人が何でもできると豪語しているぐらいだから、きっと美味しいんだろうし。

「さあ、召し上がれ」

 キッチンの方で調理器具たちの愉快な物音が鳴りやんだかと思えば、机上には豪華な食事が並んでいた。時間短縮のために白飯こそないものの、恐らくコンソメがベースの野菜がたっぷり入ったスープと、色、形が整った卵焼きが四つと、香ばしい香りが食欲をそそる豚肉の生姜焼き。あー、これ全部うまそう。

 机の横では、マイマザー愛用の黄色いチェックのエプロンを着こなした久遠寺さんが優雅に笑みを浮かべている。そこからは一抹の不安も感じ取ることができなくて、やはり絶対的な自信があるんだなー、と再確認させられた。

 しかし、ううむ、こうして正視してみると本当に美人だ。エプロンをつけることによって母性まで醸し出ていて、聖母天使女神と称えたいくらい。着用を提案してよかった。

 手料理をふるまうだけでなく配膳までしてもらって、さらにはエプロン姿まで披露してもらって、なんだか至れり尽くせりという感じだった。帰るときに玉手箱とか差し出されたりしなければいいけど。

「じゃあ、いただきます」

 手を合わせてから、まずは湯気を立てているコンソメスープに箸を伸ばした。一瞬、スープだから箸よりスプーンの方がいいような気もしたが、これだけ野菜が入っていればむしろ箸の方が食べやすそうだ。

 つかみあげたのは大根。見るからにスープがしみ込んでいる。短時間でよくここまでしみ込んだものだ、と感心しつつも口に運んだ。

「……うまい」

 大根、うまい。固くもなく、かといってとろけてしまうほどでもない、程良い食感だ。そしてやはり、スープの味が良くしみている。このスープの味加減も絶妙である。

 間髪入れず、お椀に口をつけてズズズとスープを煽る。

 あったか~い。

 悪天候で気温が低い今日、このスープは俺の身体を芯から温めてくれそうだった。というか、実際に飲んだそばから全身がポカポカしてきた。生姜でも入っているのだろうか。

「これ、マジでうまいな」

「ふふ。そう、それはよかった」

 自然とこぼれ出た感想に、久遠寺さんはご満悦そうだ。

 あっという間にスープを飲み干してしまうと、リアルに「ホッ」と息が出た。これ、すごい滋味に富む料理っぽいし、週一で飲んだら青汁とかより健康にいいんじゃないか。

「他の二品も自信があるのよ」

「おう、じゃあ次は……これいってみるかな」

 豚肉の生姜焼きを箸でつまみ上げ、たれをこぼさないように細心の注意を払いつつ、豪快にかぶりついた。

 うん、これもうまい。なんだか、いつも食ってる生姜焼きとは一線を画している。

 もぐもぐ味わいつつ、どこが違うのか考えてみると、それはまず肉の柔らかさだった。できたてだからなのか、はたまた調理法に工夫が施されているからなのか、原因は不明瞭だが、とにかく肉が柔らかかった。そのうえジューシーで、かといって脂っぽいわけでもない。

「まさか、我が家には高級肉が眠っていた……?」

「普通の豚肉よ」

「ですよね」

 それは分かっていても、思わず疑いたくなるような出来だった。

 そしてそれは、たれにも言えることだ。なんかこう、コクがすごいんだよ、コクが。あー、白飯食いてえ。この一口で二杯分ぐらいいけそう。

「またの機会があれば、ご飯も一緒に出してあげるわよ」

「お、おぉ……!」

 俺の考えを見透かした久遠寺さんが嬉しいことを言ってくれた。

 またの機会か……あればいいんだが。うん、きっとあるよね。あるある。

 ペロッと生姜焼きを平らげると、残る手料理は卵焼きのみとなってしまった。

「先に言っておくと、俺は卵焼きには少々うるさいぞ」

 何といっても、志乃マザーの卵焼きという原点にして頂点的なポジションが俺の中で確立されているからな。何においても、不動の地位を動かすのはなかなか難儀なはずだ。

 ……でも、もしかしたら。

 久遠寺さんの余裕すら窺わせる微笑を見て、可能性が膨らんでいくのを感じる。

 今まで蓄積した経験など一切関係なしに、彼女の料理ならあっさりと超えてしまうのかもしれない。いや、きっとそうなる。そういう予感がする。

 ひどく体感的なものだが、恐らくこの久遠寺凪子という人間は、どの分野においてもこんな風に成功を予感しているのだろう。あるいは確信しているのかもしれない。

 それは、どれだけ退屈なことなのだろうか。

 敷かれたレールの上を歩いていくのは、人生において堅実だがつまらない生き方だと揶揄されるケースが多い。だが、都合上レールの上を歩かざるを得ない者もいれば、最初からレールなどなしに一人で歩くことを強制される者もいる。

 そんな中で、久遠寺さんはきっと前者に分類されるだろう。持って生まれたものが多すぎて、それに自分自身が縛られて、いわゆる自縄自縛の状態に陥っているのだ。だから、この世界がつまらなく感じる。

 初めて、『何でもできる』ということの意味を理解したような気がした。

「早く食べないと、冷めてしまうわよ?」

「あ、あぁ」

 急かされて、俺は一番手前の卵焼きをひょいと箸で持ち上げた。そのまま口に放り込む。

 たぶん、世界で一番ぐらいに美味しかった。



 久遠寺さんはそれからもいくつかの証明をしてみせた。

 第二弾は持参してきたけん玉。玉をぶんぶん振り回したり、手を猫の手のような形にした状態からけんと玉を弾いてシュバッと穴に通したり、色々と派手な技を披露していただいた。感化されてちょっと俺もやってみたけど、大皿とかいう初歩中の初歩的な技すらうまくできなくて悲しかったです。

 奇跡的に盤と駒が物置部屋に眠っていたので、第三弾は将棋。試行錯誤しつつ何度も挑んだけど、全く勝てる気がしなかった。なんでも久遠寺さんは将棋の本を読みこんだことがあるらしく、対局中は常にどう指すべきかが見えているんだとか。

 いっそのことプロ棋士にでもなれば? と提案してみたけれど、つまらないから嫌だと一蹴されてしまった。かくいう俺も超弱いので将棋は好きになれない。だいたい二歩ってなんだよ。弱いものが寄り集まって必死で守り固めてるのに反則なんてあんまりだ!

「じゃあ、八坂君は特別に二歩ありでもいいわよ。けど、果たしてそれで勝てるのかしら」

「……ごめんなさい」

 弱いものが二人ぐらい寄り集まっても、強い人にはなかなか勝てそうにないね。やっぱりスイミーぐらい集まんないとね。うん。


 そんなこんなしているうちに、日が落ち始めていた。

 窓から差し込んだ斜陽の淡いオレンジが、がらんとした部屋ごと俺たちを包みこむ。

「そろそろお暇しようかしら」

 持参したものその二であるルービックキューブを手の平でごろごろと弄びながら、久遠寺さんがぽつりと漏らした。ナイスタイミング。そろそろ親が帰ってきてもおかしくない時間帯に差し掛かりそうだった。

「今日は色々見せてもらえて面白かったよ」

「……それだけかしら?」

「え、何が?」

「感想」

「あー、うーんと……」

 俺はカーペットから腰を上げつつ、何を言うべきかよく考えてみた。

「まずは、久遠寺さんが何でもできるってのが本当だってわかった」

 もちろん、本日見せてもらった例が氷山の一角にすぎないことは百も承知だ。そのうえで俺は信じる。そもそも、本能的な部分が否定することを許さない。

「あとは、純粋にすごいなーと」

「……そう」

 久遠寺さんはやおら立ち上がり、静かに相槌を打った。

 妙だ。俺は彼女のことを讃えたはずなのだが、その表情は愁いを帯びている。恥じらいをごまかしている風でもない。久遠寺さんは平素から表情が薄いため考えが読み取りにくいのだが、この時に至っては何を考えているのかさっぱりわからなかった。

 俺はその表情を少しでも変えたくて、肺腑が訴えることをそのまま口に出した。

「死ぬほど羨ましい」

 すると、久遠寺さんはちょっと目を見開いてから、口元をほころばせた。

「顔が怖いわ」

 そう言われて初めて、身体中に力が入っていることに気が付いた。意識的に脱力すると、顔のこわばりも解ける。ああ、やっぱり素直な気持ちを伝えるのは緊張するもんだ。

「でも、それが本心だということはよくわかったわ」

 久遠寺さんは荷物をまとめながら、昔を懐かしむように言葉を継いでいった。

「幼い頃は、人の手助けをするのが生きがいだった。成功を収めれば周囲に褒めてもらえるし、羨望のまなざしを向けられるのも心地よかったから。……でも、大きくなっていくうちに、周囲の言葉は単なるおべっかに過ぎなくて、羨望のまなざしは嫉妬の裏返しでしかないということに気付いたの」

 部屋のドアの前に立ち、久遠寺さんはなおも続ける。

「だから、これだけ色々なことができても、私は人のために能力を使わなくなった。人との関わりも極力避けるようになった。そうするしかないと思ったから。でも、そんな生活を送っているうちに、生きていることがつまらないと感じ始めた……」

 静かなため息がこぼれる。そこには、諦観の色が濃く表れていた。

「……俺と関わってる」

「え?」

 俺は、親指を立てて自分に向けた。

「俺とこうして関わってるじゃないか」

「それは監視のためにやむを得ず、よ」

「あ……あぁそうか」

 さいですか。そんな予感はしていたけれど、改めて言われるとちょっとショック。

 落ち込む俺を尻目に、久遠寺さんは「お邪魔しました」と恭しく一礼した。

 部屋を出ていこうとするその背中に、再び浮かんできた言葉をぶつける。

「俺たちって、似てるのかもしれないな」

「そんなことないわ」

「そ、そうだよな。すまん」

 真っ向から否定されて、突発的に羞恥が込み上げてきた。頬が熱を帯びる。

 ――俺なんかが久遠寺さんと似ている? そんなわけがない。何を言ってるんだ俺は。一瞬でもなんでそんなことを思ったんだ?

 俺が密かに悶えていると、久遠寺さんはそっと俯いて目を細めた。

「確かに人生をつまらないと思っているところは共通しているけれど――私は八坂君のように、本心をぶつけることなどできないもの」

 自嘲的な薄笑いを目の当たりにして、頬の熱は引き、ぞわりと肌が粟立った。その仕草から、彼女の懊悩が痛ましいほどにありありと伝わってきたからだ。

 それきり俺は何も言えなくなってしまい、玄関口で別れの挨拶だけ交わすと、久遠寺さんは止まない雨の中を帰っていった。

 自室に引き返し、ベッドに身体を投げ出す。相合傘やら手料理やら慣れないことの連続だったせいか、すっかり疲れてしまった。

「…………」

 わからない。

 口ぶりから察するに、人生がつまらないと感じてしまうこと以外にも、久遠寺さんは大きな悩みを抱えているように思える。いったい何を悩んでいるのだろうか。

 さっぱりだ。


 その日の夜、俺は課題の難問以外で久しぶりに長考した。

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