第8話:静かな微笑

 俺の記憶が正しければ、志乃以外の女子を家に入れるのはこれが初めてだ。

 今日この時間には家に誰もいないことを知っていたので、インターホンを押すことなく、手持ちの鍵でドアを開ける。

「ただいま。まあ、入って」

「お邪魔します」

 折り目正しくお辞儀をしてから久遠寺さんも玄関に入ってきた。

 久遠寺さんの提案は、俺の家にて久遠寺さんが『何でもできる』ことを証明すること。

 言わずもがな、まだ知り合って間もないような女子を家に上げるなんて俺にはハードルが高い。というわけで一度は断ったのだが、久遠寺さんは意外にも粘った。

 彼女の口調はいつも通り静かだったが、その眼にはまるでそうしないといけないかのような焦燥感がにじみ出ていた。理由は分からないけれど、とにかく彼女は毅然としていた。

 その迫力に押されて、それに、玄関前で水掛け論を披露するのも嫌だったので、俺はしぶしぶ提案を飲むことにした。いや、ほんとにしぶしぶだよ? ぜ、全然喜んでないし。

 俺も久遠寺さんも、服の濡れた部分をタオルで拭いてから廊下に上がった。やはり相合傘では全身を守ることはできない。右腕が冷えるぜ。

「八坂君の部屋はどこかしら?」

 久遠寺さんが階段の前で何やらきょろきょろしている。

 他人に自分の家をじろじろと見られるのは、なかなかに恥ずかしいものだ。しかし、俺にとって自分の部屋を見られるのはそれ以上に恥ずかしいことである。いや別に、特に見られちゃ困るようなものがあるわけじゃない。ただ、俺の部屋自体が見られたくないものというか、まあそんな感じだ。

 というわけで、代案を出してみる。

「リビングじゃダメか?」

「ダメ」

 あえなく撃沈。

 俺の落胆した表情を見かねたのか、久遠寺さんが言葉を継いだ。

「私、男の子の部屋には入ったことがないから、せっかくなら入ってみたいし……どうしても嫌、というのなら諦めるけれど」

「どうしても嫌」

「……そう言われると逆に入りたくなるわね。やっぱり八坂君の部屋に行きましょう」

「嘘つきだ!」

 俺の講義の声を無視して、久遠寺さんはすたすたと階段を上がっていってしまった。恐らく二階に俺の部屋があると踏んだのだろう。ははは、残念だったな。合ってます。

 全力で止めにかかろうかとも考えたが、傘に入れてもらった恩を仇で返すような真似はしたくなかったので、仕方なしに俺も後に続く。

「ここかしら?」

 久遠寺さんは角の一室の前で足を止め、俺に尋ねた。

「合ってる……」

 うーん、なんで一発で当てられたんですかねえ。二階にはほかにも両親の寝室と物置部屋があるのだが、三分の一の鋭利な直感は空回りしなかったようだ。

「では、お邪魔……したいところだけど、その前に片付けなどはしなくていいのかしら?」

「ああ、それは不要だ」

 きっぱりと言い切ってやった。部屋は清々しいくらいに綺麗な自信がある。

「面白みがないわね……」

 久遠寺さんは若干つまらなそうな顔をしつつもドアを開けた。あの、変なところで期待されても困ります。

「お邪魔します」

 部屋に入り、全体を見渡す。

 一面に敷かれた水色のカーペットの上に、ベッド、机、椅子、そして収納棚がいくつか。

 必要最低限以外のものは、何もない。俺の部屋は、そういう部屋だ。

「これが……男の子の部屋、なのかしら」

 うろうろと周辺を探索し始めた久遠寺さんが、ぽつりとつぶやいた。

「いや、俺の部屋はちょっと変わってるから……」

 言いながらがりがりと頭を掻く。

 俺の部屋は、昔はこうでなかった。もっともっと『もの』であふれかえっていた。

 例えば、絵画、漫画、小説、ちょっと奮発して買ったギター。その他諸々。

 志乃の影響を受けたのか、小さいころから競争心が高かった俺は、それらを使ってなんでもかんでも上手くなろうとした。そして、たくさんの夢を持った。

 画家、漫画家、小説家、アーティスト、その他諸々。

 今思えば身の程知らずでばかばかしい話だが、当時の俺はその気になれば何にでもなれると、本気でそう思っていた。

 しかし、中学に上がったばかりのころ、俺はついに自分のろくでなさを自覚した。才能という壁に阻まれて、情熱を持って取り組んできたものすべてに挫折した。

 それからというもの、部屋中の『もの』が俺をあざ笑っているかのように思えて仕方がなくなった。同時に、才能がないやつに触れられる『もの』が不憫だと思い始めた。

 だから、親の反対も押し切って、全部捨てることにしたのだ。

「……あら?」

 久遠寺さんが部屋の隅で足を止めた。その視点は、壁に掛けられた額縁に留まっている。ああそうだ、例外があった。

「それは、お気に入りの絵なんだ。それだけは昔から飾ってある」

 背後から事情を説明する。が、久遠寺さんは微動だにしない。額縁に吸い込まれてしまいそうなくらい、見入っている。気に入ったのだろうか。

「洗練されてて、なんていうか、綺麗だよな」

 せらせらと流れる川とそれを囲む豊かな自然が描かれた、よくある風景画。ところが、クオリティーが他のそれとは段違いだ。細部は繊細な筆致で丁寧に描き込まれていて、全体としては精彩に富んでいて、視覚以外にも働きかけるようなエネルギーがある。俺もこの絵を初めて見たときは、食い入るように見つめていたものだ。

 そして、たっぷりと間を置いた後。

「……ええ、素敵な絵ね」

 久遠寺さんはこちらに振り向くと、普段通りの微笑を浮かべた。

 それはたぶん、彼女にとって精いっぱいの『普段通り』だったのだと思う。

 でも俺は、微笑みの裏にひっそりと隠れた辛苦を読み取ってしまった。

 その意味も分からずに。

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