三章
第7話:『なんでもできる』
その日の放課後、一時的に学校という支配から卒業した俺は、いつも通り一人で下校していた。
運動部の威勢のいい掛け声と、吹奏楽部の華やかな演奏を背中に受けながら、校門を抜けて、足早に自宅を目指す。
昼休みに比べて風は弱まっていたが、相変わらず空は曇っていて、いつ雨が降り出してもおかしくないような状態だった。折悪しく、今日は傘どころか常備しているはずの折り畳み傘も忘れてしまったので、もしも雨が降ったら甚大な被害を被ることになる。雨よ降るな。太陽よ顔を出せ。
「……あ」
祈りながら歩いていたというのに、俺の願いは神に聞き届けられなかったらしい。
ポツリ、ポツリ。
露出している手や顔に、小さな水滴が着弾してはじけるのを感じた。あーあ、降ってきちゃったよ。今のところ雨粒は小さいけど、なんだかひどくなりそうな予感。
こうなったら本降りになる前に帰宅するべく、走って帰るか。
そう思って早歩きを小走りに切り替えると、
「ひゃっ」
背後から女性の悲鳴が聞こえた気がして、反射的に振り返る。
そこには、アスファルトの上にみっともなくうつぶせになっている女子生徒の姿があった。察するに、何もないところで転んでしまったようだ。パワポケの東かよ……。
転倒系女子が呻きを上げながら顔を上げる。
「ってあれ? 久遠寺さん!?」
地面にこすったせいか鼻は赤くなっているし、ちょっぴり目に涙はたまっているが、間違いなく俺の監視人その人だった。
少しの逡巡を経て、とりあえず起き上がれるよう手を差し伸べる。
「……大丈夫か? ってか部活に行ったはずじゃ?」
「今日は休んだのよ。……っ!」
久遠寺さんは俺の手を借りて起き上がったものの、擦りむいた膝小僧が痛むようで、表情をこわばらせた。見れば、軽く出血している。超痛そう。
「この程度大したことないわ。ガーゼがバッグに入ってるはずだから……」
強がる優等生が自分のバッグを手繰り寄せ、側面のポケットをごそごそとあさると、本当に布のガーゼが出てきた。ガーゼ常備って、あなたは女子力の権化ですか。
そういえばこの間、志乃が「女子力の文字を組み合わせると『努』になるから、女子力と努力はほぼ同じ意味なんだよ」とか自信満々で言ってたけど、それは違うと改めて思った。そもそも右上の部分ちょっと違うじゃねえか。
膝にガーゼを巻く簡単な応急処置が済むと、久遠寺さんは近くに転がっていた所有物らしき黒い傘を持ち上げて立ち上がった。『傘の使用は暗色を基調としたものに限る』という校則をきちんと守っているのが彼女らしい。傘の外で、俺も立ちあがる。
「ごめんなさい。見苦しいところを見せてしまって」
朱がさした顔を傘で半分隠しつつ話す久遠寺さん。
意外だとは思わなかった。超人のイメージがある彼女が転んだり、それを他人に見られて人並みに恥ずかしがることは、おかしなことではない。人間は誰だって何かしらの失敗をするし、それは彼女も例外ではないのだ。俺はこの数日間監視される側だったが、それぐらいのことはこちらからも観察していた。
「八坂君が急に走り出したから追いかけようとしたのだけど、焦ったせいか、滑ってしまってこの有り様……余計な気を遣わせてしまったわね」
「そんなの気にしなくても――って、俺を追いかけてたのか?」
「そうよ。監視のためにね。今日の昼はあんなこともあったから、心配になってしまって」
「ああ……まあ、
気を付けたところでどうにもならない感が半端じゃないけど、まあ一応ね。
とそこで、傘を傾けて空を仰ぎ見た久遠寺さんが、一言。
「傘」
「はい?」
「持っていないの?」
意味もなく自分の手を見てから、首を縦に振る。
「なら、入っていいわよ。八坂君だけ濡れるのもかわいそうだし、雨も強くなりそうだわ」
「えっ、あっ、ああ。あー……」
相合傘ってことになりますが、そこは大丈夫なのでしょうか?
なんてセリフをわざわざ口にするほどの度量は俺にはなく、かわりに幼児のごとくあ行を連呼した。そしてそのまま、「おぅ」とか言いながら傘の内側の世界へと飛び込む。
――傘の中では、雨が降っていなかった。
ってそれは当然だ。いかんいかん、動揺してるみたいだ。沈まれ俺の心。
俺が大きく深呼吸を繰り返している横で、久遠寺さん&傘は移動を始めた。俺も深呼吸を続けつつその横に並ぶ。どうやら俺の家の方に向かっているようだが……。
「なあ、どこに行くんだ?」
「八坂君の家よ」
「まさか、送ってくれるつもりなのか?」
なんでこの人俺の家知ってるんだろう、という疑問は期待でひねりつぶした。
「まあ、大体そんな感じかしらね」
フフ、と怪しげな笑みを浮かべる久遠寺さん&傘。いや傘は関係ねえよ。沈まれ俺の心。
彼女は何か企んでいるようだが、だからと言って好意を無下にするわけにもいかないし、ここは傘の内側でおとなしくしているのが得策だろう。
「ところで八坂君。あなた、部活動には入っていないのかしら?」
「ん? いや、入ってるぞ、帰宅部」
「それはあってないようなものでしょう……」
剣道部員に呆れられてしまった。実際その通りだから何も反論できない。
徳明高校は四月の初めに仮入部できる期間があり、そのうちに新入生は部活動の選択を迫られる。俺も適当にいくつか仮入部してみたのだが、三年間続けられそうな部活はただ一つしかなかった。
それが帰宅部だ。一流の帰宅部員に、俺はなる!
……だって、仮入部してみても何の情熱もわいてこなかったんだもの。許して。
「そんなことより、久遠寺さんは部活休んで良かったのか? 剣道部のエースなんだろ?」
この間黒岩に聞いた話なのだが、久遠寺さんは一年生にして剣道部のレギュラーかつエースであるらしい。文武両道もここまでくると恐ろしいくらいではあるが、不思議と嘘だとは思わなかった。
そして、やはり黒岩の話は事実だったようで、久遠寺さんは訂正を入れずに話を続けた。
「今日は顧問の先生が出張で部活に出れないの。だから自主練になったのだけど、私は出なくてもいいと思って」
「へえ。じゃあ、それだけ腕に自信があるってことだよな」
「まあ、そうね。私はやろうと思えば何でもできてしまうから。顧問の目がなければ、練習する意味なんてほとんどないわ」
久遠寺さんは前を向いたまま、一切の淀みなく言い切った。
それは決して、鼻にかかったような物言いではない。ただ淡々と、揺るがぬ事実を言っているだけのように聞こえた。
確かに久遠寺さんはテストで全教科満点をたたき出すような人だ。しかし、先ほどのように足を滑らせて転んだりもするし……なんでもできるって、どういうことだろう。
「ねえ、八坂君。私は八坂君のことを気に入っているわ。だって、八坂君は人生がつまらないと感じているんでしょう?」
深く考え込みそうになった寸前に、久遠寺さんの声で我に返った。
「ああ、まあそうだな」
どうやら黒岩との会話を盗み聞きされていたらしい。気分は良くないが、それが理由で久遠寺さんに気に入ってもらえたのなら、まあ良しとしよう。
……いやちょっと待て、人生をつまらないと感じているのが気に入った理由になるなんて、なんだかおかしくないか?
懐疑の念が顔に出ていたのか、久遠寺さんは嚙んで含めるような口調になった。
「そんな訝しむような顔をしないで。実は、私も八坂君と同じなの」
「同じ?」
「そう。私も人生がつまらないと感じているのよ」
そんなセリフを、何故か微笑みまじりに、楽しそうに告げる久遠寺さん。
これは驚いた。彼女の言葉と雰囲気が乖離していることに対してではなく、彼女の思想に対して、だ。衝撃を受けたと言ってもいい。
つまらない? そんなの嘘だろ。だって、楽しそうじゃないか。テストで全教科満点を取れば、並々ならぬ優越感に浸ることができるし、一年生ながら剣道部のエースとして活躍すれば、まるで救世主のような栄光を手にすることができる。
そんな感じのことを言ってみると、「そういう類の喜びにはもう飽きたわ。むしろ、自己陶酔しているようで嫌いなの」ときっぱり否定されてしまった。
「本当は、才能なんて要らないぐらいよ」
俯いてそんなことを言う彼女の目には、諦観のような、怨恨のような、深い黒色が渦巻いていた。その色が言葉の空々しさをかき消し、真実味を演出している。
でも、訊かずにはいられなかった。
「……そういうものなのか?」
「そうよ。八坂君みたいな普通の人にはわからないでしょうけど」
ああ、さっぱりだ。
色々なことで挫折を経験してきた俺にとっては、そういう才能を持て余している気持ちが全く理解できなかった。一生わからないんじゃないかとさえ思える。
俺が人生に飽きた、もとい世界がつまらないと思っているのは、つきつめると自分に何の才能もないからだ。
娯楽が楽しくないのは、それを享受するだけの能力が自らに備わっていないから。
人生の終幕のことを考えてしまうのは、そこに至るまでの自分の人生に無能ゆえの限界を感じているから。
過去のやる気に満ちた自分が頭によぎり、悲しくなるほどすんなりと腑に落ちた。
俺は今でも、心のどこかで才能を渇望しているのだ。
「……もしかして、気にさわってしまったかしら?」
俺の表情が自然と険しくなっていたのだろう。久遠寺さんが足を止めたので、隣に目を向けると、彼女は不安そうな表情を浮かべていた。
こうして向き合ってみると、顔が近い。傘の中だから当然だが。
「だ、大丈夫だ」
目が合ってしまい、すぐに顔をそらした。上目遣いにこちらを見る久遠寺さんが、なんか胸にこう、ズキュンというかズキンというかドキンというかバイキンというか。
「そう。ならいいのだけど……」
俺が何も言わずとも、久遠寺さんは俺の普段の帰り道を正確になぞっていく。
どうやらこの人は俺の家の位置だけでなく、それに至る帰路さえも完璧に把握しているようだ。普通に怖い。けれどそれに対してツッコむのはさらに怖いのでやめておく。
代わりに、俺は気になっていたことを尋ねた。
「……なあ、ひとつ聞いてもいいか?」
「なにかしら」
「さっき言ってた、『何でもできる』っていうのは、どういう意味なんだ?」
「……言葉そのままの意味よ?」
俺の言いたかったことは伝わらなかったようで、クエスチョンがリレー。
「ええと、例えば、久遠寺さんが何でもできるっていうなら、さっきだって転ばなかったんじゃないかなー……と思いまして」
もっといい例えがあったような気がしたけど、とっさには思いつきませんでしたとさ。
隣の様子をうかがうと、少しだけ頬が赤くなっていた。恥ずかしいのか怒っているのか困っているのか、そこからは汲み取れない。
「……もしかして、何もないところで転んだ私を遠回しに馬鹿にしているのかしら?」
声音的に三つ全部ありそうな感じだった。どこからともなく竹刀が具現して叩かれそうな雰囲気。危機回避能力で口が勝手にしゃべる。
「いやいや、そういうわけじゃないって。純粋に気になったから」
「……そう」
コホン、とひとつ咳払いをしてから、久遠寺さんが説明しはじめる。
「何でもできる、というのはあくまで私の能力がきちんと発揮されるような状況における場合よ。さっきの場合は、雨が降り始めたばかりで地面が滑りやすくなっていたことと、八坂君が突然走り出したから焦ってしまったことが、私が転んでしまった原因なの。状況が悪かったということね」
……うーん。
言い訳にしか聞こえないのは、俺の耳がおかしいからだろうか。
「なんだか、『言い訳でいいわけ?』という顔をしているわね」
「どんな顔だよ! そして寒い!」
ってか、久遠寺さんっておやじギャグを言うような人だっけ?
「まあいいわ。どうせ、今から証明してみせる予定だったのだから」
「……え、今から?」
久遠寺さんが足を止めたので、俺も立ち止まる。
顔を上げると、そこには見飽きた俺の家があった。
改めて言う。
「……え、今から?」
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