第3話:秘密

 何かが終わりを迎えるとき、俺は大抵「呆気ない」という感想を抱く。そしてそういった感情は、長く続いた物事に対して特段強く働く。

 俺の中で、受験勉強というのは長く続いた物事の好例だ。学校で散々勉強漬けになったあげく、放課後になれば今度は塾に通いまた勉強。平日も勉強、休日も勉強。煩悩を捨て、他人との関わりを減らし、ありとあらゆる感情を押し殺してただひたすら机に向かう毎日。

 しかしそんな日々も、終わるときは一瞬だ。あれだけ自分にまとわりついていたというのに、受験を終えた瞬間にあっさりと離れて、消えていってしまった。

 だから、まだ始まったばかりの高校生活も、終わってしまうときはきっと呆気ないものなのだと思う。同じように、きっと自分の人生も。

 そう考えるとどうにも物悲しい気分になってしまうわけだが、現在俺とその他数人で行っている放課後の教室清掃があと少しで終わることを考える分には、気分晴れ晴れという感じだった。残る俺の役目は、ゴミ袋を中庭のゴミ捨て場まで運ぶのみ。

 両手にゴミ袋を提げ、軽い足取りで廊下を渡る。

 足取りが軽すぎて階段でこけてしまったが、他学年の女子に笑われるだけで済んだからまあ良しとしよう。ほら、身体のケガより心のケガの方がまだマシじゃん?

 ……そうでもないか(遠い目)。

 そして、ゴミの仕分けをするおじさんにギャーギャー言われつつも、つつがなくゴミを運び終えた俺は、いったん教室へ戻った。自分の荷物を肩にかけると、さっさと帰宅するべく今度は昇降口へと歩を進める。

 ふと、そこで俺は、肝心なことを忘れていたことに気が付いた。

 本日の放課後、教師との面談が入っていたのだ。

 テストの結果表が返されてから一週間は面談週間と呼ばれ、生徒はその週のうちに必ず教師と一対一の面談を行わなければならない。面談の詳細な日時は各生徒ごと事前に決められていて、俺はちょうど本日の放課後だったというわけだ。

 ちょうど周りに人がいなかったので「っぶね、忘れるところだった」と独り言を漏らしながら踵を返し、司書室に向かった。

 我がクラスの放課後の面談は教室ではなく、図書室に隣接している司書室で行われる。何故かというと、クラス担任であるベテラン男性教師の森木もりきが図書委員会を担当していて、放課後の図書室が開いている時間は司書室に居る必要があるからだそうだ。

 これに対して生徒は大ブーイング。徳明高校の図書室並びに司書室は、本校最上階である四階の隅っこにぽつんと存在しているため、行くのがだいぶ面倒なのだ。

 今実際にそこへ向かっているわけだが、なるほど確かに面倒だ。というか、荷物を背負って階段を上るのが普通に辛い。森木はたびたび図書室の利用者が少ないことを嘆いているが、逆にこんな環境で利用者が増える方がおかしいんだよ、森木ぃ……!

 心内で担任の悪態をついているうちに、司書室の前へとたどり着いた。

 軽く詰襟を正す。早速中に入ろうとドアノブに手を伸ばしかけたが、ドアについている小窓から室内を見やると、俺の前に面談が入っていたクラスメイトがまだ面談中のようだった。どうやら長引いているらしい。

 恐らく、あの人はテストの結果が芳しくなかったんだろう。ここからだと生徒の表情はうかがえないが、森木の表情がいつになく険しいことは確認できる。おい、いいから早くしろよ、森木ぃ……!

 とは言え、心の中で急かしても意味はないし、このまま突っ立って待っているのもなんだか所在なかったので、俺はいったん荷物を置いて近くのトイレに入ることにした。

 現在地から最寄りのトイレは、図書室とは長い廊下を挟んで反対側の隅にある、明らかに利用者が少なそうなトイレだった。まだ徳明の生徒歴が浅い俺は、もちろん初めての利用である。

 清掃がきちんとされていないのか悪臭のするトイレで用を足し、そろそろ面談は終わったかな、なんてことを考えながら手を洗って廊下に戻った――その時だった。

 どこからともなく、女の叫び声のようなものが聞こえた。

 しかしそれは、決して大音声というわけではない。遮蔽物を隔ててこちらに響いているような、くぐもったかすかな音だった。

 とっさにきょろきょろと辺りを見回す。トイレに入る前と変わったところは特に見受けられない。辺り一帯は無人であるため、「今何か聞こえませんでした?」と勇気を出して尋ねてみることもできなかった。

『……クー……ザ……』

 また聞こえてきた。先ほどと同じような女の声。

 恐怖に駆られつつも、俺は興味本位でその音源の位置を探り始めた。耳に届いたかすかな声と自分の勘を頼りに、忍び足で周辺を調べてみる。

(あれ、こんなところに昇り階段が……?)

 予期しない発見をした。ここは最上階だから、この階段はきっと屋上へと続いているのだろう。でも、確か屋上は普段進入禁止のはずだから、俺には縁がない場所だ。

『キサ……ナ……ッ!』

 あれ、おかしい。おかしいぞ。

 今、この階段の上から声が聞こえたような。

 途端に鼓動が急加速し始める。

 もし、屋上に女生徒がいるとしたら、それは何故だ。何故彼女はわざわざ進入禁止であるはずの屋上に上がって大声をあげているんだ。何を叫んで、これから一体何をするつもりなんだ。

 最悪な可能性の妄想が膨らみ、自然と足がすくむ。背中がぶるりと震えた。

 ……どうしよう。職員室から先生を連れてくるか? でも、それじゃタイムロスが大きい。ここは俺が様子だけでも見に行くべきなんじゃないか? うん、そうだ。そうしよう。

 汗の滲んだ両拳を握り締め、意を決して階段を駆け上がった。

 首を右に向けると、進入禁止の紙が貼られた鉄製の大きな扉が目に入った。普段は施錠されているはずだが、女生徒は何らかの方法で解錠したのだろう。ならば、今も鍵はかかっていないはずだ。

 扉の前で急停止し、少し深呼吸。

 しかし全く落ち着かず、勢いよくドアノブに体重をかけた。そのまま、押す。

 ギギギギギ。

 重い扉が開き、俺ははじき出されるように屋上に出た。

 そして――


裂空斬波れっくうざんぱッ!」


 この目に映ったのは、朱色の落陽を背景に、力強く竹刀を振るう女生徒の姿。

 耳朶を震わせたのは、女生徒が何かの技名のようなものを叫ぶ声。

「…………」

 荒い呼吸を落ち着けながら、俺はその場で茫然と立ち尽くしていた。

 どうやら、女生徒は自分の人生に終止符を打とうとしているわけではなかったようだ。

 しかし、剣道の自主練習をしているという風でもない。竹刀を垂直に振り下ろす練習、要するに素振りをしているのならば、技名のようなものを叫ぶ必要はないだろう。

「驚いたか? この刀は斬撃属性を持った特殊な波動を生成できるのよ」

 ましてや、虚空に向けて技の説明なんてしだすはずがない。

 彼女がこちらに気付いていないのは好都合だった。

 おそらく、あれは彼女にとって誰にも見られたくない行為なのだろう。だから、わざわざ誰も入ってこないであろう屋上に出たのだ。それぐらいの予想はつく。

 ならば、それを目撃してしまった俺はどうするべきか。

 決まっている。見なかったことにして、きれいさっぱり忘れてしまえばいい。今すぐにここを立ち去り、さっさと面談を受けに行けばいい。

 しかし、俺にはそれができなかった。

 女生徒があまりに意外な人物だったからだ。

「喰らえ、裂空ぅ……」

 俺の存在に気付いたらしく、彼女が動きを止めた。遠目からでも目を見開いたのが分かる。首から上がみるみる紅潮していく様子もまた、かろうじて視認できた。

 背中の真ん中あたりまでおろした艶やかな黒髪に、伏せ気味で切れ長の睫毛が印象的な整った顔立ち。目測で女子の平均を超える程度の身長を持ち、スラッとした脚に、出るところは出ているものの、全体的に線が細い印象を受ける身体。気高く凛としたムードを放っていて、普段は寡黙で優秀なクラスメイト。

 その人、久遠寺凪子は、竹刀片手に鬼気迫る表情でドタドタと駆け寄ってきた。

「う、うわっ!」

 めっちゃ怖い。久遠寺さんとはまだ話したこともないし、普段はあまり表情を見せないクールな人だから、余計に怖い。

 不審者か、あるいはUMAに追われているような恐怖(あくまでイメージだが)に襲われて、俺はほぼ反射的に彼女から逃げ出した。重い扉を開いて階段を駆け下りる。

「待ちなさいっ!」

 当然のように久遠寺さんは追いかけてくる。男女の追いかけっこなどと言えば聞こえはいいが、どちらかというとリアル鬼ごっこと表現した方がしっくりくる。久遠寺さんは顔を赤くしているし、金棒のごとく竹刀を手にしているからだ。この様子だと、捕まったら竹刀でぶたれるに違いない。俺は佐藤じゃないのに!

 キュッキュと上履きの音を響かせながら廊下を駆ける。上下に激しく揺れる視界が、面談を行う予定の場所である司書室を捉えた。

 しめた。あそこには担任の森木がいる。逃げ込んで無理やり面談を始めてしまえば、さすがに久遠寺さんも諦めてどこかに行ってくれるはずだ。

「失礼しまー……」

 急停止して室内に入ろうと試みたが、小窓からチラと室内を確認して、不可能だと悟った。なんと、俺の一つ前の人の面談がまだ続いていたのだ。生徒の様子は相変わらずわからなかったが、森木は両手で顔を覆い、絶望をあらわにうつむいていた。いや、もう何があったの?

 色々と心配だが、まずは自分の心配だ。作戦を諦めて、再び駆け出す。続いて俺の視界に映り込んだのは、先ほど利用した悪臭のするトイレだった。

 しめた。男子トイレに逃げ込めば、さすがに久遠寺さんも諦めてくれるはず。

 そう思い駆け込んだのだが、久遠寺さんは俺の想像を裏切って、何の躊躇もなくトイレ内に侵入してきた。あっという間に隅に追いやられる。

 ……何の躊躇もなく男子トイレに入って来る女子も、この世にはいるんだな。

「ふぅ、やっと追い詰めた」

 俺はすっかり息が上がっていたが、久遠寺さんは全くそういう様子がなかった。さすが文武両道なだけはあると場違いに感心してしまう。この人の場合、才色兼備と言ってもいいかもしれない。

 換気扇の音だけが響く中、息を整えつつ、俺は低姿勢で話を切り出した。

「あの、ぶたないでください……」

 言いながら俺は自らの過失に気が付いた。そうだ、個室に入ればよかった。そうすれば痛い思いをせずに済んだのに。

 そんな俺の後悔はつゆ知らず、久遠寺さんは普段通りの表情が薄い顔を斜めに傾ける。

「何を言ってるの? そんなつもり元からないわよ」

「え、えーと、じゃあそれは……?」 

 ご立派なバンブーソードに視線を移す。

「ああ、これね。別に八坂君を叩くために持っていたわけじゃないから安心して。ただ私は、アナタに約束してほしかっただけ」

「……約束?」

「そうよ。何の約束か、大体わかるでしょう?」

 とりあえずしばかれることはなさそうだと分かった俺は、少し緊張を解いて冷静に考えてみた。流れを汲んで……。

「口封じ、的な?」

「その通り。私があんなことをしていたとばれたら、羞恥のあまり学校に来れなくなってしまうもの」

 先ほどの久遠寺さんの表情を思い出す。夕日に照らされていてわかりにくかったが、確かに彼女は顔を赤く染めていた。あの一連の行為はやはり誰にも見られたくなかったもののようだ。

「でも、それなら学校で何故あんなことを?」

「それは、そうね……少し言いづらいのだけど」

 久遠寺さんは腕を組んで少々悩むようなしぐさを見せた。かと思えば、今度は俺のことを熟視し始めた。まるで品定めをしているかのようだ。

「……まあ、八坂君には特別に教えてあげるわ。普段の様子からして、秘密を共有できるような友達が少なそうだから」

「あ、ありがとう」

 いや、何がありがとうなんだ。しれっと傷つくことを言われたぞ。

 どうやら、俺はすでにクラスメイトからそういう風に思われてしまっているらしい。控えめに言って辛い。大げさに言って死にたい。

「念のため……」

 心内でため息を漏らした俺の耳に、蠱惑的な桜色の唇がゆっくりと近づけられていく。息が吹きかかって、耳がくすぐったくなる距離まで近づいた。自然と身体も近づいて、トイレの悪臭をも浄化してしまいそうな甘い香りがふわっと俺の鼻腔を満たす。ああ、今だけは友達少なくてよかった。

「誰にも言わないでね」

 押し殺したような囁きが、妙に艶めかしい。

「は、はいっ」

 目をつむった。

「私はね――俗にいう、中二病なの」

「……は?」

 思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

 あの優等生の鏡みたいな久遠寺さんが、中二病だって? 

「信じられない?」

「し、信じられないも何も、ありえないというか、もはやこの世のすべての理が信じられなくなったというか……」

「あなた、おおげさね」

 クスクス、と久遠寺さんは静かに笑った。とても優雅で、上品で、淑やかな笑みだ。

「でもね、本当なの。私は中学の頃から超能力や異能力に憧れていて、隙あらばあんな風に技を出す練習を続けているわ。……引いた?」

「い、いやいや、全然」

 むしろ共感できる。俺だって異能の類には憧れるし、能力者になったら面白いだろうなー、と思うことはある。技の練習に関しても、少しは心当たりがあった。黒歴史だが。

「そう、それはよかった」

 久遠寺さんは満足げにうなずくと、

「今日は剣道部の練習が無くなったから、久しぶりに屋上に出たの。これを使ってね」

 竹刀を持っていない方の手で、制服の胸ポケットから鍵を取り出した。鍵は黄色いプレートと紐で結ばれていて、プレートには『屋上』と書かれたシールが貼られている。ならば、これは屋上の鍵だろう。

「そんなもの、どうやって……」

「簡単よ。天文部の人に協力してもらえば、の話だけど」

「ん……? ああ」

 全国でもなかなか珍しいことに、徳明高校の屋上には天文台が設置されている。そういえば、放課後に天文台へ向かう天文部の連中を見かけたことがあった。

「つまり、天文部が屋上の鍵を管理している、と?」

「そうよ。正確に言えば、二つあるうち一つの鍵は天文部が部室で管理しているわ。もう一つは職員室で管理されているの」

「やけに詳しいな……」

「屋上という場所が好きだから、個人的に調べただけよ」

 すまし顔の久遠寺さん。きっと天文部の誰かか、もしくは教師にでも聞いたのだろう。

 というか、つまるところ、天文部のやつらは部員でもない人に大した訳もなく鍵を渡したってことだよな。管理ガバガバじゃねえか。

「さて、話を戻しましょう。あまりここに長居したくはないし」

 男子トイレ内を見回しながら、久遠寺さんがごもっともなことをおっしゃった。そう、忘れてはいけない。ここは男子トイレである。もし誰かに入ってこられでもしたら、変な噂を広められること請け合いだ。

 深く黒い瞳が、真剣なまなざしが、俺に注がれる。

「八坂君は私が中二病だということ、内緒にしてくれる?」

 ソッコーでうなずくべき場面かもしれないが、俺は興味が望むままに質問をしてみた。

「もし、嫌だと言ったら?」

 久遠寺さんは目をギロリと怪しく光らせ、竹刀を片手でポンポンと弄んだ。

「裂空斬波をお見舞いするわ」

「ですよねー……」

 普通に「しごく」とか「しばく」とか言われるより怖い。

 だから、というわけではないが、俺はできるだけ力強くうなずいて見せた。

「わかった。絶対に口外しない」

「それはよかった。じゃあ、解放してあげる」

 俺の言葉を聞いて表情を緩めた久遠寺さんが壁際に寄り、退路が生まれる。

「ありがとう――って、ああそうだ、面談のことをすっかり忘れてた」

 大声でひとりごちながら、俺は急ぎ司書室へと向かった。

 数十秒の早歩きののち室内に入ると、さすがに前の人の面談は終わっていたが、森木は疲弊しきった様子だった。面談が長引いた原因を聞けば、「因数分解に苦戦してるみたいだったから丁寧に教えてあげたんだけど、なかなか理解してもらえなくて……」とのこと。お疲れ様です。

 ちなみに、時間が押していたので俺の面談は二分で終わった。

 どうせ、話すことなど何もない。

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