【百十丁目】「やれやれ…こいつは珍客万来だね、どうも」
「…こういう時ってよ」
悪友の
「マジでリアクションに困んのな…」
「そうか。お前、こういうシチュエーションは初めてだっけ?」
チラリと横に立つ雄二を見ながら、僕…
腐れ縁の不良公務員は、呆然となったまま頷いた。
「俺ぁ、妖怪バカの誰かさんと違って、比較的『普通』の路線で生きてきたからな。それに、さっきは偉そうに語っちまったけど、先輩から聞いたあの話だって、心のどっかでホラ話なんじゃねぇかって思ってたからよ」
雄二が、信じ難いものを見るように…そして「眼前の光景から目を逸らせない」というような
その声も、こいつにしては珍しく、僅かに震えているようだった。
無理も無い。
学生時代、もの好きにも「神秘学」を専攻し、これまで数多の
「
そして、遂に開けた行く手に、巨大な瀑布がその姿を現したのだった。
“明王滝”…行方不明事件が起こるという噂が立ち、今は人も通わなくなった秘境の滝だ。
切り立った断崖から、燃え上がるような周囲の紅葉の色を反射し、流れ落ちるその姿は、夕刻の斜陽もあって、まるで炎の滝のように見える。
そんな神秘的な光景は、景勝地としては中々のものだった。
もっとも。
そこに「あり得ないもの」があれば、そうした評価はガラリと変わる。
ゴオーン…
辺りに響き渡る、寂しげな寺の鐘の音。
静かな…しかし、滝の音にもかき消されることなく響くその音と共に、鏡面の如き巨大な滝の
「これが…
ここに着いて、初めてそれを目にした僕は、辛うじてそれだけを呟いた。
雄二に至っては、最初は声も無く硬直していた。
薄暮の“明王滝”…そこには、人知を超えた“幻想峡”が顕現していた。
夜明け前の群青に近い空には、あり得ない数の星影が見える。
淡く五色に輝く薄雲が、その狭間を漂う。
風が運ぶのは、おぼろに瞬く
その中を、彼方まで広がる山々。
その稜線は、今まさに暁を迎えようとして居るように白い暁光を浮かび上がらせている。
そして。
その山々の中腹に、漂う幽光に浮かび上がるのは…古びた寺院だった。
幻の古刹「
雄二が先輩方から聞いたその姿が、眼前の瀑布に投影されたように鮮やかに浮かび上がっている。
しかも、僕達が立っている滝の対岸から瀑布へ、金色の霧が掛け橋のようにアーチを描いていた。
「…自分であれだけカッコいいこと言っておいて何だが…いざこうして本当の話だった分かると、マジでビビるわ」
ゴクリと唾を飲み込む雄二。
僕も同感だった。
簡単に「夜光院へ赴く」と言ってはいたものの、いざこれほどの現世の法則から外れた光景を目の当たりにすると、度肝を抜かれる。
だが…道は開けた。
開けてしまったのだ。
「よし…行こう。多分、あの霧の橋の先が入口になってる筈だ」
万が一を考え、懐に忍ばせた対
それに雄二がゴクリと喉を鳴らす。
「よ、よし」
「…雄二、今ならまだ間に合うぞ…?」
僕は歩みを止めると、振り返らずそう言った。
深山亭ではああは言ってくれたが、ここから先は、いくら付き合いのいい腐れ縁の友人でも、おいそれと踏み込んでいい世界ではない。
しかも、
勿論、荒事に発展させるつもりはないが、万が一ということもある。
「天霊決裁」だって、どの程度の効果が期待できるか分からない。
せめて、
そんな
「止めろって。マジで覚悟が萎えるだろ」
その場で伸脚しながら、雄二は、
「それよか、とっとと突っ込もうぜ。要はあの寺目指して行けばいいんだろ?」
「…悪い」
「いいって。そんかわし、お前が先に渡れよ。慣れてんだろ?こういうシチュエーション」
ニヤリと笑う雄二に、僕は苦笑した。
「分かったよ」
僕は霧の橋の前まで歩み出ると、息を飲んだ。
黄金の霧は、間近で見ると、何と真下が透けて見える。
頼りなくモヤモヤと漂う様から、足場としてはこれ以上なく不安だ。
試しに手近に落ちていた石を霧の橋の上に投げてみる。
すると、石は霧の橋を突き抜け、あっさり落下していった。
「お、おい!」
それを目の当たりにし、盛大に慌てる雄二を手で制すると、僕は恐る恐る右足を霧の橋へと乗せる。
すると、足元にしっかりとした固い感触があった。
「大丈夫だ…行ける」
思いきって両足を乗せると、僕は霧の橋の真ん中まで進んで振り返った。
それを見た雄二も、怖々足を乗せた。
「お、おおお~!?スゲェな、これ!一体どうなってんだ!?」
「原理は僕にも分からない…でも、さっき石が落ちたところを見ると、もしかしたら生物は通れるのかも」
「生物だけ?」
「詳しい説明は省くけど…こういう『神秘』に基づいた現象は、多くの場合『神秘』自体を恐れたり、崇拝する『生物の意思』が影響を及ぼすことが多いんだってさ」
「へぇ…じゃあ、さっきの石は『意思』が無かったから、落ちていったってのか?石なのに」
…この状況でダジャレが飛び出すあたり、こいつもいいタマである。
「無駄話はいいから、先を急ごう。たぶん、この橋もそんなに長い時間は顕現しない筈だ」
暮れゆく夕空を見上げながら、僕はそう言った。
これも推測だが、この滝の中に現れる幽世への入口や霧の橋は、夕刻のこの限られた時間しか現れないのだろう。
でなければ、夜光院の宝を狙う輩にも、早々に発見されていた筈だ。
「げっ!それを早く言えよ!」
慌てて先を急かし始める雄二に押されるように、僕は滝へと近付いていく。
いい加減、全身がずぶ濡れになってもよさそうな距離になるが、不思議と周囲は霧雨程度の飛沫が漂うだけで、濡れ鼠になる心配はなさそうだ。
それより、むしろ霧でできた半透明の足場が進む足を
何せ、50メートル近い空中を歩いているのだ。
高所恐怖症でも無くても、肝が冷える。
「ここが境界か…」
いよいよ滝の表面に向かい合う。
眼前一杯に広がる異界の風景に、僕はともすればカチカチ鳴りそうになる歯を噛み締めた。
あと一歩踏み出せば、そこはこの世界とは異なる異界なのだ。
僕は意を決して、恐る恐る右手を滝の中に入れる。
すると、黄金の波紋みたいなものが生じ、僕の手は濡れることなく、そのまま滝を突き抜けた。
水を突き抜けている筈が、冷たいという感覚も無く、僕の手は異界の風景の中で僕の意思どおりに動いている。
(よ、よおし!)
僕は目をつぶると、思いきって身体ごと滝の中に突っ込んだ。
その瞬間。
風のにおいが変わった。
恐る恐る目を開くと、薄暮だった風景が一転し、暁が迫る夜空のような世界が広がっていた。
滝に中に広がっていたあの異界の景色が、実際の風景として目の前にある。
「おお…ホントに入れたぞ…!ファンタジーだな、こりゃ!」
呆然と立ち尽くしていた僕の横に、同じように境界を越えてきた雄二が立ち並ぶ。
興味深そうに周囲を見回していた雄二は、ふと正面にある山を見上げた。
「あれが夜光院って寺か…あとはあそこを目指せばいいんだろ?思いの外、近そうでラッキーだったな」
宙を漂う不思議な浮遊光のお陰で、暗い割に周囲の様子はつぶさに見てとれた。
いま、僕達が立っているのは、来た時と同じ滝の表面の前だった。
足元から行く手には、銀色の霧がやはり掛け橋のように伸びている。
ちょうど滝の瀑布を隔てて、合わせ鏡のごとく世界が存在しているようだ。
銀の霧を渡りきると、そこからは一面の草はらだ。
そして、その先に夜光院がある山がある。
雄二が言うように、遠くにあるようで意外に近いようだ。
よく見れば、山門とその前に伸びる石段も見える。
徒歩なら、かかっても30分くらいだろうか。
「行こう」
「へ?まずは
「そういう『異世界』じゃないんだよ!ここは!」
相変わらずのノリを発揮する雄二にそうつっこんでから、僕達はいよいよ夜光院を目指して歩き始めたのだった。
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「つ、着いた~…」
半刻後、幸いにも僕達はさしたるアクシデントも無く、夜光院へと辿り着いた。
敢えて言えば、最大の難関はこの石段だ。
二百段は下らない急な傾斜を、延々と登り続けたので、山門の前に辿り着いた時には既に息切れを起こしていた。
「相変わらず、鍛え方がなってねぇなぁ」
一方の雄二は、ケロリとしている。
さすが日頃、
この程度の石段踏破は、平地を歩くのとさして変わらないようだ。
「前から思ってたけどよ、
四つん這いになって息を整える僕を呆れたように見下ろしながら、雄二が溜息を吐く。
七森 紅緒…彼女は雄二の実の妹だ。
僕の妹、
「鉄拳小町」のあだ名で知られる、ショートカットの可愛い娘だ。
雄二同様、小さい頃から拳山じいちゃんの鍛錬を受けていたせいか、空手の全国選手権で連続優勝を成し遂げており、中学校の頃には町に出没していた暴漢を一人で叩きのめしたこともある。
そんな彼女も、雄二同様、並みの女子高生の身体スペックを遥かに凌駕していた。
「紅緒ちゃんを…比較対象にするなよ…体力バカ兄妹め…」
切れ切れになる息を整えながら、辛うじてそれだけを言う僕。
確かに元々体力がある方ではないけど、一般人なら誰しも僕のように息切れくらい起こすだろ、こんな石段。
「へいへい、悪うござんしたね、体力バカで…んで、これからどうすんだ?」
「そうだな…」
そう尋ねてくる雄二に、僕は前方に立ち塞がる山門を見上げた。
こうして改めてみると、夜光院の外観はまんま日本の寺院と同じだ。
人が十人は並んで通れそうな山門を基点に、左右には白い土塀が続いている。
ここに着くまで、遠目でも観察してみたが、他に入口になりそうな場所はなさそうだ。
僕は頷いた。
「ここには、ある人の所在を聞きに来ただけだし、正攻法でいこう」
「つまり?」
「普通にお客さんのように、正面から堂々と行く」
「そいつぁ、話が早くていいな」
そう言うと、雄二は思い切り息を吸い込んだ。
そして、次の瞬間、
「
不意に。
お得意の大音声でそう叫ぶ雄二。
僕は堪らず耳を塞いだ。
そして、目を剥いて雄二に詰め寄る。
「ばっ…!お前、いきなり何叫んでんだっ!?」
「だって、正面から行くんだろ?」
「そうだけど!心の準備ってもんがあるだろ!?」
「何だよ、まだ出来て無かったのか?」
何をいまさら、という表情でそうのたまう雄二。
こ、このクソ度胸ヤロウめ…!
「それに時間帯を考えろよ!いまは夜中だぞ!夜光院の皆さん、寝てたらどうすんだ!?」
「そん時ぁ、謝ればいいんだよ。それに、意外に夜型かも知んないだろ」
この幽世に足を踏み入れて半刻ほど。
最初こそ、あり得ないシチュエーションに戸惑っていた雄二だが、どうやら早くも順応しているらしい。
この辺の順応性は、流石といえるが…ノリで働く状況判断能力は昔から治らない。
「それより、応答がねぇな」
「…そうみたいだな」
雄二の言葉通り、夜光院には変化はない。
山門も固く閉ざされたままだ。
「よーし、ならもう一回…」
再び大きく息を吸う雄二を、僕は慌てて羽交い絞めにした。
「だぁぁぁっ!だから、止めろって言ってんだろ!!」
「うるせぇぇぇぇぇッ!!」
不意に。
そんな声と共に、分厚い山門を蹴り開けて、一人の女性が姿を見せた。
ギョッとなる僕の目の前で、女性は仁王立ちになり、僕達を見下ろした。
よく見ると、肩から胸元まではだけた薄紫の着物姿の美人だ。
着物の裾からは、色っぽい太ももが露出しており、雄二の鼻息が荒くなるのが分かる。
見た目は
豊かな黒髪を背中で束ねており、料理中だったのかさらに三角巾で抑えている。
そして…有難くないことに、手には鋭い包丁が握られていた。
女性はギロリと僕達を睨みつけると、牙を剥いて吠えた。
「テメエら、さっきから人の家の前で何騒いでんだ!?食い殺すぞ、ボンクラ共!」
「す、すすすすすすみません!」
女性のあまりの気迫に、思わず直立不動になる僕。
一方の雄二は、髪型と服装を整えると、静かに一礼した。
「大変失礼しました。こんな夜分に、本当に申し訳ありません」
さっきまでの脳天気さを引っ込めて、礼儀正しくそう述べる雄二。
「自分達は
出た。
雄二お得意の猫被りだ。
要領のいい雄二は、こうした対応を得意とし、もっぱら年配層には高い評価を得ることが多い。
案の定、女性は怒気を和らげ、
「降神町だって?へぇ…」
女性の目が鋭くなる。
「じゃあ、お前らも
へ?
女性が先程以上に怒り心頭になったぞ!?
僕達が降神町から来たことに、何か問題でもあるのか…!?
「そうと分かりゃあ、さっき言った通り食い殺してやる…!」
不意に女性が三角巾をむしり取り、包丁を振りかざして襲い掛かって来た!
何てこった…
事情を話すまでも無く、荒事になってしまったぞ!?
女性の標的は…雄二か!
さすがにギョッとなる雄二。
が、次の瞬間、腰を落とし、右手をガッツポーズのように構え、左手を腰だめに構える。
「まずはお前から開きにしてやる!」
恐ろしい速度で包丁を繰り出す女性。
あわやという場面だが、雄二は垂直に構えた右手を素早く旋回させ、女性の腕を弾くことでその切っ先をうまく
目を剥く女性。
「テメエ…妙な技を…!」
再度繰り出される包丁の連撃。
それも、雄二は何とか防ぎきる。
僕は改めて、その攻防に目を奪われた。
雄二の空手の腕は知っていたが、ここまで高いレベルで披露されたのを見るのは初めてだった。
女性の攻撃は、明らかに常人のそれではない。
それを雄二は防戦一方とはいえ、互角に凌いでいる。
一旦身を引いた女性は、スゥッと目を細めて、雄二を睨んだ。
「ふん…ちったぁ腕に覚えがありそうじゃねぇか。テメエの名前は?」
雄二は、それにニカッと笑う。
「七森 雄二ッス」
「ななもり…だと!?」
その瞬間。
女性の眼の色が変わった。
同時に…
“双方、そこまで”
不思議な声が辺りに響き渡る。
声の主の姿は無いが、どうやら男性の声だ。
何だか、夜光院自体が喋っているような錯覚に陥る。
“
その声に、南寿と呼ばれた女性は山門の奥を振り返る。
「…いいのかい?
“構わんさ。久方ぶりにまともな客のようだしな”
笑いを含んだ声に、南寿さんは舌打ちし、
「チッ…久し振りに美味い肉にありつけると思ったのによ」
と、そんな物騒なことを小声でボヤいたのだった。
------------------------------------------------------------------
「ここだ。入んな」
南寿さんに案内され、夜光院の門をくぐった僕達は、伽藍の一つに案内された。
僧房と思われる建物の最奥に位置するその部屋は、長い廊下を進んだ先にあった。
「し、失礼します…」
恐る恐る障子を開ける。
そこは畳が敷き詰められた広い和室だった。
ちょっとした人数で宴会が出来そうなくらいに広い。
その中央に、極楽浄土の様子が描かれた大きな屏風があった。
そして、その前に一人の男性が座っていた。
五十代くらいの無精ひげを生やし、ボロボロの袈裟を
あまり清潔とは言えない、ウェーブがかった長髪を無造作に束ねており、首には大きな数珠をぶら下げたいた。
パッと見はやさぐれたお坊さんみたいな感じだ。
だが。
その眼には見る者を畏怖させる精気が宿っていた。
「よく来たなぁ。まあ、座んなよ、お二人さん」
あらかじめ置かれていた紫の座布団を顎で示す男性。
僕と雄二は顔を見合わせてから、恐る恐る座布団に腰を下ろす。
「さぁてと…そんじゃあ、改めて名前を聞かせてくれよ…っと、その前にこっちから名乗ろうか」
男性はにこやかに笑った。
「俺は
「けっ、台所番の間違いだろ」
どっかり
「昔っから、飯炊きばっかさせやがってるくせによ」
「あはは、悪いねぇ。ここで料理が出来るのはお前さんしかいないからさぁ。放っておくと、皆飢え死にしちゃうでしょ?」
唇と尖らせて不平を洩らす南寿さんに、北杜さんが
「で、お前さん方は?降神町から来たって言ってたな?」
「あ、は、はい!僕達は降神町役場から来ました。僕は特別住民支援課の十乃と申します」
「同じく、防災課の七森ッス」
僕達の自己紹介を聞くと、北杜さんは目を細めた。
「聞いたか、北杜。“とおの”に“ななもり”だとよ」
低い声でそう言う南寿さんに、真剣な表情で何やら考えていた北杜さんが、顔を上げる。
「…悪いな、お二人さん。これに名前を書いてみてくれ」
そう言いながら、北杜さんは袈裟の袂から紙と鉛筆を取り出し、僕達に放り投げる。
訳が分からず、顔を見合わせるものの、僕達は互いの名前を書き記し、北杜さんへ手渡した。
「ほうほう…“十乃”に“七森”…か。成程成程」
「あの…僕達の名前が何か?」
納得したように頷く北杜さんに、僕は恐る恐る尋ねた。
すると、北杜さんは明るい表情で、
「あー、悪いな。何でもないよ。ちょっとした、人違いだ」
人違い?
一体、誰と僕達を間違えたのだろうか…?
「さて…誤解は晴れたようだし、改めて
北杜さんにそう促され、僕は
ただし、雄二も居る手前「
全てを聞くと、北杜さんは眉根を寄せ、
「いや…そんな奴はここには居ないな。よしんば隠れたとしても、この寺の中に居る限り、俺に感知できない訳がないしな」
「それって、つまり…侵入も不可能ってことスか?」
雄二がそう尋ねると、北杜さんは頷いた。
「まあな…ああ、そか…言い忘れていたが、俺は“
僕は驚いた。
“野寺坊”は謎の多い妖怪とされている。
伝承では、荒野の廃寺に現れる妖怪で、村人の布施が無くなり、廃寺に追い込まれた住職の怨みが妖怪として化けて出て、夕暮れ時、無人の寺で寂しく寺の鐘を鳴らすとされていた。
その鐘の音は遠くまで響き渡り、近隣に寺などが無いにも関わらず、聞こえる場合があるという。
“野寺坊”は、古い絵巻ではボロボロの僧衣を纏った怪僧の姿で描かれているが、昔からその姿を目にした者はおらず、正体も不明のままとされていた。
しかし、これで納得がいった部分もある。
まず、昨日深山亭で聞いた鐘の音は“野寺坊”であるこの北杜さんによるものだということだ。
更に言えば、彼が人が滅多に踏み入れられない「幽世」に棲んでいたため“野寺坊”が鳴らす鐘の音源は全く分からず、かつ“野寺坊”の正体も不明のままだったのだろう。
「ええと…北杜さんが妖怪ってことは…もしかして」
「ああ。あたしも妖怪だよ。“
雄二の視線を受け、南寿さんが鼻を鳴らす。
“古庫裏婆”は“野寺坊”と同じく寺院に関連する妖怪の一つだ。
元々は人間で、とある寺の住職の妻だったが、夫の死後、寺の庫裏に住み着き、住職が七代を過ぎる頃には、檀家が寺に供える食べ物や金銭を盗み取り、さらには墓地に葬られた屍を掘り起こし、皮をはいで死肉を喰らう妖怪になったとされる。
資料によっては、三途の川にいて、死者の衣服をはぎ取るというという“
成程、さっきの迫力を見れば、それも頷ける。
「じゃあ、太市君はここには…」
「居ねぇよ。保証する」
僕は肩を落とした。
決死の思いでここまで来たことが無駄になった脱力感もあるが、それ以上に彼の手掛かりが得られなかったことが残念だった。
「遠路はるばる来たのに、残念だったねぇ」
「あ、いえ。こちらこそ、お騒がせしてしまって済みませんでした」
僕は恐縮して頭を下げた。
夜光院を守る彼らにしてみれば、人騒がせな客であったのは間違いない。
北杜さんも南寿さんも口にこそしないが「K.a.I」が暗躍している状況なら、なおのことだろう。
「御免」
と、そこに一人の僧が姿を見せた。
北杜さんと同じ長髪の僧侶だ。
きりっとした顔立ちの美丈夫だが、その両目は固く閉ざされている。
その顔を見た瞬間、僕は危うく声を上げかけた。
そこに居たのは
昨晩、温泉の中で偶然知り合った
西心さんは、見えない筈の目で僕達を捕捉したように顔を向けた。
「…む?来客か?これはすまぬ。失礼したな、北杜殿」
「ああ、いいよ、西心。それより随分早いお帰りだが、どした?いつもの見回りに出たばっかじゃねぇか」
「うむ。実は
「だーかーら!違うってば!」
そんな声と共に、二人の女性が縄を打たれた姿で引っ立てられてきた。
それを見た僕と雄二が目を丸くする。
「お、
「
驚く僕達に、役場の同僚である
「十乃君、七森君!」
「良かった…二人共無事だったんですね」
口を開けたまま立ちつくす僕達と織原さん達を見比べて、北杜さんが苦笑した。
「やれやれ…こいつは珍客万来だね、どうも」
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