第9話

目の前が真っ赤になり、これ程までに怒りを感じ、殺意が浮かんだのは初めてだ。



遠くで、珠華の声が聴こえた。



一瞬躊躇した慧影だが、ゆっくりと前を通っていく茗恋の顔を見て、何かが崩れた。




気づけば獲物を持ち、それを彼女に向けていた。



「…止めろ」



刹那、ギュッと強く、獲物を持つ手を掴まれ引き寄せられた。



「…っ!お、まえ…?」



慧影の手首を掴みしようとした事を邪魔したのは、天狼だった。



「そんな事をするな。あいつはそれを望んでない」



いつも飄々として掴み所のない幼馴染みの彼は、らしくない真剣な表情を浮かべて慧影を見据えていた。



「あ…?あい、つ?」



慧影が呆けたように呟く。



その間に、茗恋が離れていく。



(くっ…!せっかくの機会が!!)



「邪魔を、するなっ」



慧影は感情に任せ手を振り払うが、全くビクともしない。



逆にギュッと力強く握られ、慧影は痛みに顔をしかめた。



「お前こそ…邪魔をするな…!」



慧影はそのまま引き寄せられ、怒りにつり上がった目で天狼に鋭く睨まれた。



「ここでこんな事してみろよ。それこそヤツの思うツボだ!せっかく与えられた機会を、お前は無駄にする気か?」



怒りの孕んだ冷たい声で吐き捨てるように言われ、慧影はハッとする。



怒りと茗恋の憎悪に我を忘れ、周りが見えていなかった。



公衆の面前で茗恋の命を奪えば、せっかく捕らえ、処刑する意味がなくなる。



慧影自身も捕まり、それこそ復讐など出来ず、珠華を悲しませるだけだ。



「…ちっ」



茗恋を仕留める機会だったが、こうなっては諦めるしかない。



連れ去られる仇は、廊下に消えていった。



「離せ…っ。いつまで掴んでいる」



まだ掴む天狼の手を乱暴に振り払い、冷たく吐き捨てる。



天狼がパッと手を放した。



「…ふっ。その様子、思い直したようだな。阿呆なことをされなくて済んだ」



続けて、クスッと馬鹿にしたように笑う。



それにムッとしたが、茗恋に対する殺意は薄れていた。



「〜〜〜〜いっ!慧影っ!!」



すると、唐突に珠華の叫び声が聴こえてきた。



慧影がハッとしてそちらを振り向けば、人をかき分けて必死な形相で駆けつけてくる彼女の姿があった。



「ほら慧影。ご主人様の登場だ」



ポンと肩に手を置き、この状況を楽しむかのように天狼がニヤリと笑う。



「うるさい、黙れ」



それを睨み返して、肩に置かれた天狼の手を払おうとすると、天狼がパッと手を引っ込めてフッと微かに笑い、その場を離れていった。


「あいつめ…」


その後ろ姿を恨めしげに睨んでいると、そこに入れ違いのように、珠華が目の前に現れた。



「慧影…っ!」



息を切らせて駆けつけてきた珠華は、怒りからか顔を真っ赤にして慧影を睨みつけている。



全く人目を気にせず、ここまで来た彼女を見て、慧影は首を傾げた。



「珠華…珠麗様?危ないですよ」



慧影は珠華がこちらに来たその理由に気づいていたが、あえてそれには触れずに主人に向ける、丁寧な口調で告げた。



すると、息を整えていた彼女が一瞬ムッとしたように顔をしかめ、すぐに慧影との距離を詰めて、思い切りその手を振り上げた。



−−−バッチーン!!



途端、頬を叩く音が響き、目の前がチカチカした。



「珠麗様?」



まさか、ここでビンタをされるとは思わなかった。



慧影は驚きつつ叩かれた頬に触れる。



驚く彼の目の前で、叩いた珠華がキッと鋭い視線を向け、ドス!と腹に一発拳を入れた。



「あ、あんた…っ、あなた馬鹿なの!?なんでそんな事をする気になるわけ!信じられない!」



続けてドスドスと、珠華がお腹辺りを殴る。



「ちょっ…いた、いたいっ。珠麗様、手加減…っ」



彼女の本気の拳が痛くて抗議した。



「無駄よ!あんたのする事は、あの子を悲しませるだけ!そんなふうに後悔させてどうするつもり!?」



だが、彼女は言いたい事を叫んで、なかなか殴る力を緩めない。



「くっ…!わ、わかりました!わかりましたから…落ちついて!」



その地味な攻撃に顔を歪めながら、彼女の手首を掴んで諌める。



その行動は珠華らしい。怒るのも当然のことだ。



(あーあ、やっぱり怒らせたか…)



心配する気持ちもあるだろうが、形振り構わずに攻撃する彼女のその姿を見て、慧影は少し反省した。



すると、次第に掴んでいた彼女の力が弱まり、叫ぶ声も段々と弱々しくなった。



「…珠麗様?」



そのまま顔を伏せて動かない彼女に、どうしたのかと、急なことに心配になった。



「珠麗様?一体、どうし…っ?」



そこまで言いかけた慧影の前で、珠華が伏せた顔を上げた。



彼は思わず、息を飲んだ。



彼女は泣いていた。



悲しそうではなく、悔しそうに、何かに耐えるように唇を噛み締めて、ポロポロと涙を流していたのだ。



「え…?あ、あの、珠麗様っ!?」



動揺し、パッと慌てて掴んだ手を放す。



今までにも泣いている彼女を見たことはある。しかし、こう突然、泣かれるのは初めてだ。



昔から、彼女の泣き顔が苦手だった。



「慧影は…馬鹿よ」



ポツリと彼女が呟いた途端、ふらりと、突然彼女の体が揺れてこちらに倒れ込んできた。



「えっ!?珠麗様!!」



驚きと困惑に声を上げ、抱き止める。



すっぽり収まる彼女の身体は異様に熱く、息が荒かった。



(まさか…!)



ハッとしてその額に手を当て、顔から血の気が引いた。



彼女は熱を発していた。



珠麗と同じ顔がどこか苦しそうに歪み、ゾッと背筋に悪寒が走った。



「何をしている?」



そのとき、後ろから声がした。



慧影がハッとしてそちらを振り向くと、冷たく見下ろす皇帝陛下の姿があった。



「陛下…っ。貴妃様が、貴妃様が…!」



抱きしめる手が震え、込み上げてくる感情を訴えかけるように、悲痛な声を上げた。








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