第五章 翠国の貴妃

第1話

そこは鮮やかな色の花が咲き、美しい池がある懐かしい故郷。




「あれ…?ここって、確か実家の…」



珠華が生まれた家の中庭。



幼い頃、よく珠麗と慧影、天狼と遊んだ場所。



「お姉様!!」



刹那、後ろから明るい声が響いて、勢いよく抱きしめられた。



「え!?しゅ、珠麗!」



珠華は驚いて後ろを向くと、楽しそうに笑う幼い珠麗がいた。



「もう、お姉様!私ずっと待っていたのよ?さぁ、こちらにいらして」



やけに嬉しそうな顔で、強引に手を取られ引かれる。



「あの、珠麗…。私が何故ここに??」



さっきまで欲望と嫉妬が渦巻く宮廷にいた。



前を歩く珠麗に混乱しながら問いかけると、こちらを振り返った彼女がクスッと笑った。



「何のこと?変なお姉様!それより、約束していたでしょ?私と、『もう一度お茶を飲みましょう』って」



それは、珠麗が後宮に上がる前に話していた事だ。



いつか自由になれたら、楽しい話をいっぱいして、昔のように姉妹らしく仲良く暮らしたいと。


「それは…昔の話よ。あなたは…」



そこで珠華は言葉を飲み込み、珠麗の最期を思い出して暗い表情をする。



「昔…?お姉様、さっきから変なことばかり言ってる」



だが、珠麗は足を止めてこちらを不思議そうに見つめる。



「そんなことより、ほらはやく!もう、慧影が準備しているの!」



グイグイと手を引く珠麗に急かされる。



「えっ?でもこれは…!?」



そこまで言って、珠華はハッとした。



珠麗に引っ張られているその手が、子供のように小さかったのだ。そして、さっきから喋っている声も昔の高い声だ。



「あれ…?あたし、なんで……?」



ぼんやりと、頭が真っ白になる。



「お姉様?」



再び珠麗の呼ぶ声がして、ハッと我に返った。



「ああ…そうか。珠麗と慧影と天狼の四人で、お茶会するんだった」



思い出した。少し前に、約束した事だ。



珠麗が一ヶ月に一回はしたいと言っていた、四人だけのお茶会。



何故今の今まで忘れていたのだろう…?



珠麗を見ればニコリと笑って、そこに連れて行く。



引かれた先はキラキラと輝いていて眩しい、中庭の地亭。



その下の水面に蓮の花が浮かぶ。



すでに準備された長机の上には美味しそうな果実や御菓子があり、周りに色とりどりの花びらが散らばっていた。



「見て、お姉様!私と慧影でこんなに用意したのよ!」



自慢げに話す珠麗が嬉しそうに声を弾ませる。



珠華ははしゃぐ彼女に苦笑する。



席にはすでに天狼が座り、その前にはこちらを迎え入れるように慧影が立っていた。



「さぁ、お嬢様方。今日は特別ですよ。お茶も、珠華様の大好きなモノを用意しました」



ニコニコと笑って一礼し、机に向かうように促す。



珠華はそのまま珠麗に手を引かれながら、彼らが用意した席に座った。



その場に、甘くて美味しそうな匂いが漂う。



誰もが幸せそうに笑い、珠華は彼らと共にその楽しい時間を過ごした。




…………『貴妃様』。



ふと、そのとき。



どこからともなく声が聴こえた。



お茶を口に運んでいた手を止め、振り返る。



でもそこには誰もいない。



皆を見ても気にしている様子はなく、各々楽しくお茶やお菓子を食べている。



『目を、開けて…!』



再び、誰かの声が聴こえた。



「ねぇ…誰か、呼んでない?」



不思議に思いながら、珠華は近くの珠麗に声をかけた。



彼女は不思議そうに笑い、「誰も呼んでないわ」と呟く。



「あ、お姉様。全然食べてないよ!ほら、これ美味しいよ?」



そう目の前のお菓子を手に、口元に運んでくる。



「珠麗…っ、もごっ!」



そのまま口に無理矢理詰め込まれた。



驚きながら口を動かして彼女を睨むと、クスクスと笑われた。



「ほらほら、もっと食べて飲んで」



子供ながら、楽しく可笑しく、彼女は笑う。



……『戻ってきてくれ…』



また、どこかで声がする。



切ない、悲しいような男の人の声。でも、この声は、どこかで聞いた事がある。



「…あたし…この声、知っている気が…」



食べるのをやめて、立ち上がる。



急に、ここにいてはいけないような気持ちになった。



「珠華様?」



幼い慧影が首を傾げる。



『珠華様!目を、覚まして…』



また、声がした。それも目の前にいる慧影とそっくりで…低く悲しい声。




刹那、目の前で楽しくお茶会をしていた慧影と天狼の姿が、煙のようにフッと消えた。



「えっ!?あれっ?…あっ!ここは、現実じゃない…?」



思い出して、と内なる自分の声が聴こえる。



幻聴のように聴こえたあの二つの声も、現実の慧影と珠麗の大切な人の声に似ていた。



「行かないと…っ」



焦るような気持ちになり、その場から離れようとした瞬間、腕を掴まれた。



振り返れば、幼かった珠麗が大人になってこちらを悲しそうに見つめていた。



「お姉様…行かないで」



珠麗が切なそうに呟く。



「珠麗…」



「ここにいれば、ずっと私と一緒だよ?あの時のように四人で…ずっと幸せでいられる」



彼女の言う通り。ここにいれば、ずっと珠麗といられる。



楽しく笑いながら…幸せに暮らせる。



「ほら、お姉様…。私と離れたくないでしょ」



必死な様子で、掴む手に力が入る。



「うん……そうね。ずっと、ずっと珠麗と一緒にいたいわ」



今の気持ちを素直に答えると、彼女が嬉しそうに笑う。



その笑顔は昔と変わらず、珠華の心を照らす…大好きだった笑顔。



「なら、一緒にここでお茶会をしよう。私と一緒に…」



そう言って珠麗が手を放し、席に戻る。



だが、珠華はその場から動かなかった。



「お姉様?」



眉を寄せてこちらを見る。



珠華は微かに顔を歪ませ、込み上げてくる悲しい気持ちを押し殺した。



「ごめんね。珠麗、ごめんなさい」



謝る珠華に、珠麗は美しいその笑みを引きつらせた。



「あたしはここにはいられない。待っている人達がいるの」



グッと唇を噛み、泣くのを堪えるように呟く。



すると、珠麗がクシャリと泣きそうな顔をした。



「嫌だ…っ。お姉様、約束したでしょ?ずっと私の側にいるって!!」



声を張り上げ訴えかけるように叫ぶ、悲痛な声。



珠華は目を伏せ、首を振った。



「ここじゃない、珠麗。あなたは、ここにはいない。これは…あたしの、幻」



夢の中だ…。



そう認め答えた瞬間、周りの景色が変わった。



翠国の貴妃の自室、その中庭に。



そして、目の前にはあのとき毒殺された時の珠麗がいる。



「本当に…いいの?」



己に問いかけるかのように、珠華の幻の珠麗がじっと探るような目で呟く。



珠華は微かに頷いた。



「珠麗はもういない。あたしが…いえ、私が珠麗。代わりに生きていくの」



それが今の珠華だ。



はっきりと答えた彼女の頬を、はらはらと涙が伝った。



「そう…。じゃあ、これでお別れね」



幻の珠麗がゆっくりと近づき、珠華の前であの大好きな笑顔を浮かべた。



それを見て、珠華は堪えきれずに堰を切ったように泣き出した。



「あああっ!珠麗…ううっ…!珠麗…ああっ、珠麗!」



近づいた珠麗に堪えきれず声を上げて手を伸ばすと、ふっと目の前で彼女の姿が煙のように消えていった。



途端、がくんと膝から力が抜ける。



地面に崩れ落ちた珠華は、誰もいなくなったその中庭で独り、子供のように泣いた。

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