第8話
「陛下…?」
何故、と驚く珠華がポツリと声を漏らす。
剣を掴んだまま息を整えていた琉凰は、珠華に目を向けて、クシャリと泣きそうな顔をした。
「珠麗…だ、大事ないか?」
フラフラとおぼつかない足で彼女に近づき、心配そうに問いかけてくる。
「え…っ?あ、はい。私は、何ともありません」
目の前に何故琉凰がいるのか、未だに状況が飲み込めずにぼんやりした口調で答える。
それもそのはず、彼は珠華のいた席から一番遠く離れた場所にいた。
まさか、この短時間であの距離から一番に駆けつけて来るとは思わなかったのだ。
「余はまた、失うかと…」
カラン、と琉凰の手から剣が滑り落ちた。
刹那、あたたかい温もりが珠華の身体をギュッと包み込む。
「へい、か…?」
驚きに声が上擦る。その逞しい腕に強く抱き竦められて息が止まった。
(嘘…っ、私今、陛下に抱きしめられている?)
そう珠華が気づき硬直すると、琉凰がハッとして離れた。
それは一瞬の抱擁。
顔を真っ赤にして琉凰を見上げれば、彼はいつもの無表情に戻っており、ふいっと珠華に背を向けた。
「貴妃が大事ないならいい。それよりも…朱茗恋!!そなたはこのときをもって、貴妃暗殺の罪により死刑に処する!」
離れた琉凰が真っ先に皆のいる前で告げたのは、朱茗恋の死刑宣告だった。
珠華はポカンとする。
(淑妃が、死刑?)
その切り替えの早さに目を白黒させて、ゆっくりと茗恋の方に顔を向けた。
途端、バチっ!と茗恋の目とぶつかる。
深い憎悪の籠った殺気立った目がこちらを睨みつけており、呆けていた珠華はギクリと顔を強張らせた。
「死ねば良かったのに…!あの、泥棒猫がっ!妾の地位を奪い男どもに傅かれ、あわよくば所有物まで手を出しおって…っ!許さん!絶対に許さんぞ!」
それはまるで呪詛のように、豹変した茗恋が、珠華に向けて憎悪の塊をぶつける。
狂気じみたまでの深い殺意。
その目に、その言葉に珠華はゾッとした。
「朱茗恋、来い!」
両隣に立ち、彼女を捉える衛兵。その横に、冷ややかな眼差しを向けて立つのは門下省侍中、陸志勇。
「茗恋様…あなたは負けた。それ以上、醜い姿を見せるのはおやめなさい。あなたらしくない」
志勇の言葉に茗恋は口を閉ざし、珠華から視線を外す。
酷く圧迫感のある彼女の殺意が逸れて、珠華はホッと息をついた。
(なんて…殺意。こんなにも憎まれていたなんて…っ)
珠華はあの珠麗に向けられていたこの殺意の塊のようなモノに気づけなかった悔しさと、その深さに今更ながら恐怖を感じた。
自分は今まで、本当に何を見てきたのだろう…?
「裁判長!裁判はこれで終了だ」
琉凰が机の下に隠れた裁判長に声を上げた。
よく周りを見ると、刺客が現れた事で大半の者が逃げてしまっている。
ガランとした室内に、裁判長は慌てて立ち上がり、終了の合図を鳴らした。
近くに倒れた四名の刺客は、衛兵が回収して連れて行く。
茗恋は陸志勇と対峙していたが、急に力尽きたようにその場に崩れ落ちた。
衛兵が彼女を立たせて、廊下へと連れていく。
その横にはいつの間にか席を立っていた洸縁がいて、彼がすぐに捕まえるようにと指示を出したのだろう。
珠華は彼女が捕まってホッと息を吐くと、同じように彼女の様子を見ている琉凰の方に向き直った。
まだ彼にきちんとしたお礼をしていない事に気づいたからだ。
(ど、どうしよう…!やっぱり、ちゃんと言わないといけないよね)
誰にともなく呟き、少し迷ったが、珠華は琉凰の方に恐る恐る近づいた。
「あの、陛下…」
その後ろ姿に、遠慮がちに声をかけた。
琉凰がこちらを振り返る。
「ああ、貴妃か。どうした?」
さっきの抱擁なんて忘れたかのように、平然とした態度だ。
少し戸惑いつつ、ちゃんとお礼を言おうと口を開いた。
「さきほどの…刺客から助けて頂き、ありがとうございました」
「助け…?いや、当然のことをしたまでだ。妻を守るのは夫の務め」
微かに眉を寄せ、どこか淡々としたように答える。
「あ…いえ、ですが、陛下のおかげでこうして犯人も捕まえれたわけですし、感謝しております」
「いや、そんな…。あ、貴妃こそ…いつからそんな腕をしていた?」
「そんな腕?」と珠華が首を傾げると、琉凰が探るような目を向ける。
「刺客にも負けない、その剣の腕前だ。そういえば祝舞祭の舞も、見事だったな」
思い出したかのように呟き、こちらをじっと見つめる。
その目に見透かされているようで、ぎくりとした。
「こ、これは護身用に…!嗜み程度、剣を習っていただけですわ!」
咄嗟に思いついた嘘の答えを返すが、琉凰の疑いは晴れない。
ますます怪しいと、そんな目を向けられた。
(うっ…!こ、困ったぁ〜っ。ここで貴妃が刺客を返り討ちするのはいけなかった!)
何もせずにあのまま逃げればよかったか。
でも、そうすれば刺客は珠華を捕らえるまで離さず、一歩間違えればあの世に連れて行かれるどころだったのだ。
ここまできて、それはなんとしても避けたい。
「陛下…これは、本当に私の国で習っていた事で!」
動揺して目線を動かしていた珠華の目が、連れ去られていく茗恋の方へと動く。
その彼女の後ろから珠華のいる場所の真ん中、その位置にスッと突然、透き通った女が見えた。
「ですか…らっ!?あっ…!」
そこでふわりと、透き通った白い女がこちらを振り向いた。
『お姉様…』
白い女は、悲しそうに呟いた。
その女は、前に珠麗の自室に現れた珠麗の亡霊だった。
あの時の珠華は夢を見ていたはずだ。
「あの、陛下!は、話はまた後に…っ!」
そこまで告げて、珠華は目の前の琉凰から珠麗の亡霊らしき女の方へと歩き出した。
「何?貴妃、何を…!?」
訝しげに呟き、驚くように声を上げる琉凰。
珠華の耳に、思考にその声は届かなかった。
(なんで?なんでこんな所に、珠麗の幽霊が!)
前は夢の中の出来事だった。
まさか、これも、今見て起きていることも夢、なのか…?
珠華はふわふわと浮かぶ亡霊から目線が逸らせない。
亡霊はふと、茗恋の方に視線を向けて、珠華の方に悲しそうな顔を向けた。
『お姉様…助けて。まだ、怨恨は消えてはいない』
近くにいるように、声がよく届く。
珠華はその言葉に眉を寄せる。
(どういうこと?助けてって、事件は解決した。まだ何か…何か、あるの?)
そこまで考えて、首を傾げる。
すると、珠麗の亡霊が手を持ち上げ、扉の方に指を指した。
ハッと立ち止まり、つれられるように珠華がそちらを向くと、扉の前に慧影らしき人物が佇んでいた。
連れ去られる茗恋が来るのを待っているかのように、そこに今彼がいることに違和感を感じた。
(なんで、慧影があんな場所で…)
そう訝しげで、ふと、前に、珠麗の亡霊が夢に現れた時のことを思い出す。
あのとき、亡霊を見た夢から目覚めたとき、慧影が目の前に現れた。
それは今も、あのときと同じ流れだ。
珠麗の亡霊が現れ、慧影がいて…珠華はそこで、ハッとした。
「まさか、慧影…っ」
嫌な想像をして、珠華は駆け出した。
『彼を…慧影を止めて』
珠麗の亡霊の声が、再び聴こえた。
はっきりと珠華に向けられたその言葉に、確信する。
(駄目、慧影!)
顔から血の気が引いた。
視界の先で、慧影がゆっくりと茗恋に近づいた。
ドックン!と心臓の音がやけに大きく聴こえる。
悪い予感は、当たった。
彼の手には、鈍く光る剣があった。
(ああっ、いけない!)
慧影はする気なんだ。
大切だった珠麗の、仇を。
「駄目っ!止めなさい!!慧影ぇぇーーーーっ!!」
手を伸ばして、珠華は慧影に向かって思いっきり絶叫した。
……彼との距離が、やけに長く感じた。
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