第5話
杏莉の表情が追い詰められた時の、それになった。
一瞬助けを求めるかのように茗恋を見たが、ハッとして裁判長に向き直った。
今ここで茗恋に向けて助けを求めても、今度は茗恋が怪しまれる。
「わ、私は…知りません。それを彼に渡したという証拠などないはずです!」
裁判長の言葉を否定して、今度は湯庵の証言も否定する。
「証拠ですか?では、その証拠を公開します」
そこで裁判長は、あの綺麗な匂い袋ともう一つ、珠麗の寝室にあった薄汚れた匂い袋を出した。
「この汚れた匂い袋はこちらの綺麗な物と作りが一緒です。調べた所、これは紅国の職人の手作りであり、世に二つとない代物です。あなたが陣湯庵に渡した物は、こちらの綺麗な匂い袋。先の陸志勇での証言に出ましたが、これは淑妃が持ち歩いていたとされる匂い袋です。そして二つの中身も同じ、蝋梅です」
「そ、それだけでは証拠になりません!」
陣湯庵の登場が彼女を取り乱し、叫ぶ。
否定し続ける彼女の姿はあまりにも滑稽だ。
「ええ、これだけでは証拠にはなりません。それに、これを持っていた淑妃の方が犯人の可能性が高くなります。しかし、あなたはこれを使い先の証言の妹の話のように、貴妃の毒殺に使用した。そのときあなたは一つ、大きなミスをしていますが、わかりますか?」
「は…?何を一体…?」
ミスなど言われても身に覚えのないと、訝しげる。
「これは、先の証言の妹…司侑鈴があなたの代わりに証拠として提出してくれたものです。この汚れた匂い袋ともう一つ、一緒に箱に入っていたのがこの紅の香炉。初めは汚れて分かりませんでしたが、これを綺麗にしたところ、この香炉にも梅花の柄が刻まれておりました」
途端、杏莉の顔から血の気が引く。
真っ青な顔で彼女は自分の右腕を左で掴む仕草をした。
「おや…?司杏莉、右腕をどうされましたか?」
それに目をつけた裁判長がすぐさま指摘した。
杏莉は無意識に抑えていたようで、ハッとしたように手を離す。
「確か、先日ですが、貴妃から証言をもらいました。夕餉前、眠っていた彼女の前に侍女の司侑鈴がお茶を運んできたそうです。そのとき、その運んできた司侑鈴の右腕に、爛れた様な…赤い斑点があったと。失礼ですが、あなたの右腕をこの場で見せて頂けますか?」
びくり、と彼女は怯える様にその場で震えた。
「な、なんでそんな…!こんな皆様の前で肌をさらけ出すなんて…っ」
肌の露出に抵抗があるのは当たり前の反応だ。しかし、動揺し過ぎていて視線が左右に泳いでいる。
「ああ、恥ずかしいのはこの際置いてもらいましょう。腕だけなので、見せてもらったらすぐに戻してくださればいい」
裁判長が巧みに言葉を並べて追い詰めていく。
「チアン…」
そのとき、ボソリ、と。
主人の茗恋が静かに呼んだ。
「一瞬だけ見せればいいのです。それで捕まりはしません」
彼女がにこり、と勇気付けるかのように言った。
しかし、茗恋は知らないのだ。
先日の事、珠華が侑鈴と杏莉の入れ違いに気づいた、決定的な証拠になるそれを!
「何を躊躇っていますか。見せてあげなさい」
裁判長の次に、今度は知らずとはいえ、茗恋も彼女を追い詰めた。
逃げ場がない。
杏莉は真っ青な顔で拳を握り、ゆっくりと右腕に触れて、袖をまくった。
「おおっ…!」
「あれは、何か痕がある」
「火傷か…?証拠になるな」
刹那、周囲が騒めき立った。
確かに彼女の右腕に赤い斑点があり、それは何かの花の形に見えたのだ。
茗恋もまさかあるとは知らずに、微かに驚いたようだ。
「確かにその腕には発赤がありますね。何か虫に刺されたような…かぶれた跡にも見えます。それはどうされたのですか…?」
裁判長が腕の赤い斑点を尋ねると、彼女はさっと袖を戻した。
「これは…数日前に、淑妃様のために薬草を採りに行った時にかぶれた跡です」
「かぶれた跡にしては、本当に花のような形をしていますね。そこに当たった、あるいは押し当てたような…くっきりとした跡に見えます。本当に、かぶれたものですかね…?」
裁判長が再び疑いを向けると、微かに震えた杏莉が「そうです!」と声を上げた。
「私ではわかりかねますね…。そうだ!ここには今、貴妃の専属侍医がいます。彼に診てもらいましょう!」
よい提案だ、とわざとらしく声を上げて、裁判長が黄天狼を名指した。
天狼は予定通り名を呼ばれると、立ち上がる。
「私で宜しければ…この場で確認しましょう」
にこり、ではなくニヤリと笑みを浮かべる。
その笑みに顔色を変えて、杏莉は首を振る。
「そんな…こんなの、ただのかぶれ跡ですわ!」
それを拒否するかのように声を荒げ、彼女は右腕のそれを庇うように左手で掴んだ。
「この際だから診てもらいましょう。さぁ、黄侍医。証言台に来てください」
拒否する彼女を無視して裁判長が証言台に天狼を呼ぶと、彼は迷う事なく、ツカツカと足音を鳴らして証言台の前に移動した。
一瞬、天狼が控えにいる茗恋に冷たい視線を向けたように見えたが、本人は気づいていないようだ。
それどころではないようで、杏莉がここで白状すれば、今度は彼女が証言台に立ち、追求されるからだ。
口元を隠しては表情を見せまいとしているが、そこには先程までの余裕さはないように見えた。
「貴妃様の専属として名誉ある職を頂いています、黄天狼と申します。早速ですが、あなたのその右腕を診させてください」
猶予を与える事もなく、直ぐにでも証拠をつかもうと、天狼は迫力のある笑みを向けて杏莉に声をかけた。
さぁ、と手を伸ばす天狼に、微かに身を引く杏莉。
見せまいと、抵抗する彼女に焦れたのか、天狼は素早い動作で彼女の右腕を掴み自分の方に引っ張った。
「あっ…!?」
再び、曝け出された腕。
顔が触れるほど近くに引き寄せ、赤い斑点を難しい表情で凝視する。
「何を…っ」
「これは…薬草でかぶれた跡ではありませんね。肌に浮かび上がるように跡が付いている。これは何かに当たり、火傷した跡に見えます」
はっきりと、天狼が答えた。
周囲は彼の言葉にまたざわついて、杏梨を見る目が変わる。
少しの間、沈黙が落ちた。
杏梨が目を閉じて、この世の終わりのような顔をした。
「裁判長、これは紛れもなく火傷の跡。それもまだ日が経っていません」
再び口を開いた天狼に裁判長は頷くと、杏梨に鋭い視線を投げた。
「黄侍医はそう言っていますが…司杏莉、その跡はどうしてついたのですか?」
再度、彼女の口から聞くため同じ質問をすると、杏莉がため息とともに目を開けて、真っ直ぐに裁判長を見据えた。
「…これは、私が茶を運ぶ時につけたものです」
その答えでは説明になっていない。
「司杏莉、茶を運ばれてもそのような跡はつきませんでしょう?その火傷の跡の形はあなたの主人である淑妃が愛用する物についている梅花の花と同じように見えます。それはこの紅の香炉ではないのですか?日常的にもこの香炉は使われていて、尚且つ、貴妃暗殺にも使っていた。その際に誤って右腕に当たってしまったのでは…?」
それが確かな証拠になる、と裁判長が強い口調で切り込んだ。
杏莉はハッとしたように、裁判長の手元にある香炉を見つめて微かに顔を歪ませると、深いため息をついた。
「……これは、仕方がなかった事ですわ。淑妃様は誰よりも国母に近い方。選ばれし方なのです。それなのに、あの妃は陛下の寵愛を独り占めして…邪魔だった」
ポツリポツリと呟くように吐いた声は冷たく、深い憎悪が込められていた。
ようやく白状した彼女のその動機に、珠華は一瞬目眩がした。
(仕方が、ない…?陛下の寵愛を受けるため、ただ邪魔な者を排除したってわけ?)
国の王のいる皇宮では、よくある話だ。
それでも、仕方がないという理由で人を殺めるのは大罪であり、くだらないと珠華は激しい怒りを覚えた。
それは証言台の近くにいる天狼も同じだろう。
あの夜の、侑鈴を捕まえた時のように、いやそれ以上に冷たい表情で杏莉を睨みつけていた。
「それが、今回の事件の動機ですか?貴妃が皇帝陛下の御寵愛を独り占めして、淑妃が皇后の座につけないから、邪魔だった貴妃を殺そうとした?」
裁判長がもう一度確認する。
杏莉は頷き、その表情は強張っていたが無表情に近いものだった。
認めた事で、周りは一層騒がしくなった気がした。
ギュッと手に力を込めて、珠華は今にも罵倒したい衝動を抑えようと必死だった。
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