第8話

朝議が終わるその半刻前。




朝陽に照らされた明るい寝室の香炉から、酸味のある爽やかな香りが漂う。



『陸志勇が出頭。次は地晏の番だ。刻を待つ』



その紙から微かに梅花の匂いがした。



先程この報せが届いて、彼女は焦っていた。




陸志勇が捕まったなら、彼はきっと話してしまう。




「あの愚鈍王め!どこまでも私の足を引っ張りよって…!」



グシャリと紙を握りしめ、冷たく吐き捨てる。



「れ、蓮様!身体に触ります!」



その隣でハラハラと見守っていた付き人が口を出す。



「黙れ、地晏!お前が、お前があの娘に情など持つからこんな事になるんだ!」



近づいた付き人の顔を張り手して、突き飛ばす。



よろめいた付き人は、運悪く香炉のある台に倒れ、ガシャン!と香炉が倒れて手に当たった。



慌てて手を払い水場に駆け込むが、その右手にはポツポツと赤い斑点の痣ができていた。



「地晏!今度という今度は、あの女を片付けろ!」



地晏は微かに息を呑み、彼女から受けた言葉に頷いた。



「はい。必ず、今度こそ…片付けます」



返事を返すと、彼女はふっと口元を歪ませ、哄笑した。






◇◇◇◇◇






簡単にはいかないと思っていた。



ぬらりくらりと交わされて、毒の件から話題を少しずつ変えていき皆の注意を逸らしていく。



陸志勇の話術が凄いのが、琉凰側が誘導できずにそれを納得させる事ができなかったのか…。



結果、陸志勇を犯人だとこの場で捕まれる事はできなかったのだ。



朝議は半日以上かかり、それが終わると、皆が疲れた様子で室内から出て行く。



決定づけた確かなる証拠がない限り、彼を捕らえることはできない。



あの筆談も本物ではあるが、もともと毒を調べるのは彼の仕事もあって独断でした事は周りに知られたくなかったと、この件を公にする事なく進めていきたかったという、陸志勇が貴妃にした配慮だと答えたのだ。


そして、独断ならそれは陛下も軍を勝手に動かしたのだから同じような事をしていると指摘されて、逆に反撃されてしまった。



その件で周りは陸志勇の話から陛下の話になり、収集が効かなくなり、混乱する中でこの話は無理だと判断して、朝議を終わらせた。



陛下は雨月大将軍にきちんと謝罪をして、正式に許可を得るようにと約束した。



だが、反対派の者達はそれだけでは納得がいかない様子だった。



あの香の袋の事も、礼部侍郎が上手く彼の様子を探るためにボロを出せるか誘導したが、持っていた張本人がいない事で陸志勇に大きな打撃を与えられなかった。



たしかに彼はそれを知っていた様子で、動揺したところもあったが、持ち場の冷静さを取り戻し、動じる事なく、香の話もうやむやにされた。


「あー、あー疲れたなぁ」



「散々な話し合いだった」



「陛下は何をしたかったのだ?こんなに時間をかけて…」



そういろんな文句を垂れて出て行った臣下達。




彼等の時間を割いてまで陸志勇を捕まえたかったが、逆に反撃されて、臣下達の信頼は遠のくばかり。陛下の立場も危うくなった。



「爪が甘かったな」



席を立たずにいる礼部尚書と次郎。刑部尚書に御史台に、陸志勇と雨月大将軍。



声を発したのは、雨月大将軍だった。



蒼の官服に身を包み、腰に大きな剣を携えている。



議会に参加するにあたっての正装服だが、他の者とは少し違い、質素な作りである。



「雨月大将軍…あなたはどうしてそこまで…」



洸縁が警戒して、険しい表情で彼を睨む。



雨月大将軍は睨む彼を無視し、真っ直ぐに皇帝陛下を見ていた。



その目には敵意はなく、反対派の主導者でもないただの臣下として接していた。



琉凰はその視線を受け止め、僅かに口元を綻ばせた。




「いいや…これでいいのだ」



何故か、そこに絶対的な余裕があり、陛下側が押されている事になんら焦りも不安もないようだ。



「それは、負け惜しみですか?主上…。私を捕まえるにはまだ早い」



続いて口を開けたのは、雨月大将軍の隣に立った、陸志勇だった。



彼は冷めた目を向けていたが、琉凰に対し嘲笑ったり蔑んだりという感情は見えなかった。ただ、微かな憤りが見えた。



「陸侍中!そもそもあなたが朱恋茗様と何らかの繋がりがあるから、こんな事になったのではないのですか!?」



我慢できなく責める洸縁に、志勇はせせら笑った。



「何らかの繋がりとは…無粋な言い方ですね。その証拠も掴めないでいるあなたたちに、とやかく言われる筋合いはありません」



はっきりと告げて、洸縁の言葉をかわす。



「止めろ洸縁。失礼だ」



責めた彼を諌めて、琉凰が陸志勇に向き直った。



「今回はこれにて解散だが、余からそなたに一つ、話していないことがある」



「話していないことですか?一体何の話でしょうか?」



陸志勇が改めて話をする琉凰に眉を寄せ、聞き返した。



「陸志勇殿。そなたの慎重さには感服するばかりだ。余は未熟者で至らないところばかりで、周りと臣下と疎遠しがちだ。だが、それでも余には少ないが、味方はいる」



「…一体、何の話です?仲間がどうとかくだらない友情話でもするつもりで?」



話の意図が見えず、陸志勇は訝しげに問いかけた。



琉凰はゆっくりと洸縁と、そして今回味方とまではいかないが助け舟をくれた礼部侍郎に視線を向け、不敵に笑った。



「そなたは馬鹿にするが、それは時に武器になる。余には何処にも所属しない部下がいてな。そやつが言うには、淑妃の持つ匂い袋の中を見た者がいる。礼部侍郎が紹介してくれたように、その武官となる者をな、この場に呼ぶように命じたのだ」




そこまで告げると、陸志勇と雨月大将軍が驚いたように目を見張った。



その瞬間、扉の方が何やら騒がしくなった。



「議会の最中、失礼致します!」



すると、一人の武官がこちらに駆けつけるように、扉から琉凰たちの前に現れた。



それはずっとこの場に姿を現さなかった、李雷辰だった。



「李将軍が、なぜ?」



今になってこの場に現れたことに、陸志勇は険しい表情をして彼に鋭い視線を送る。



「おい、雷坊。お前、なんで今になってここに…」



雨月大将軍も彼の存在に不思議そうにしている。



「大変遅れまして申し訳ありません!この李雷辰、主上の勅使にて例の武官をお連れしました!」



敬礼と一緒に、高らかに目的を告げた。



その扉からゆっくりと、緊張した面持ちで現れたのは雷辰の部下、陣湯庵だ。



「お前は…!」



刹那、陸志勇の顔色が変わった。



「も、申し訳ありません志勇様!私が至らないばかりに、こんな事になってしまい、申し訳ありません!」



陸志勇の姿を目にした途端、怯えたように謝り出す陣湯庵。



「ああ、そなたが例の匂い袋の者だな。何、そう怯えなくても良い。雷辰から聞いていると思うが、そなたはあの朱恋茗と同じ、匂い袋を持ち歩いているな」



「あ…、は、はい。あれは淑妃様の、その付き添いの侍女が、私にくれた物です」



「そうだな。淑妃付きの侍女から貰い、そなたはそれを肌身離さず持っていた。それを今、そなたは持ってはいるか?」



陣湯庵が顔を真っ青にして、周りに視線を向けた。



そして、離れた場所にいる礼部侍郎の方に向き、止まった。



「あ、あの…礼部侍郎に、渡しました。匂い袋の…」



「なっ…、お待ちください主上!」



そのとき、黙って聞いていた陸志勇が大きく声を上げて遮った。



止めに入った彼に、皆が一斉に振り向き、陣湯庵は小さな悲鳴を上げる。


「なんだ、陸志勇?今、この者に直接、匂い袋の件について尋ねておる所だが…?」



青ざめた顔で自分を見つめる陸志勇を、琉凰は冷たく見据え、話の邪魔をするな、と視線だけでそう訴えた。




「いえ、申し訳ありません!ですが、今、このような話をされても、朝議は終わったばかりで、話は後日議会でしなければ…」


「ああ、その事なら問題ありません。陸侍中。周りを確かめてみてください」



洸縁がにこりと笑って、二人の間に割り込んだ。



陸志勇はハッとして周りに視線を向けて、そこに残っている者達の顔を見渡した。



先程議会した際に話に加わった者だけが見事にこの場に残っていた。



そして、御史台は監察官として陸志勇を観察していた。




微かに舌を鳴らし、陸志勇は目を閉じて怒りを鎮めるように深く息を吸い込んだ。



「…なるほど。そういうことですか。どうぞ、話を続けてください」



取り乱したのは一瞬で、すぐに彼は冷静さを保ち、にこやかに話を進めようと促した。



琉凰は必死に感情を殺す彼に対し、面白そうに笑みを浮かべると再び陣湯庵に向き直った。




「では、許しを得たので話を再開する。陣湯庵。そなたが貰った匂い袋には、種子と枯れた花弁が入っていた。それはあの淑妃がよく使われている香と同じ匂いがすると聞いたが、それは誠か…?」



「あ、それは…」



チラッと陸志勇の顔色を伺う。


彼は澄ました顔で何も言わず、達観することを決め込んだようだ。



何も言われない事に少しホッとして、陣湯庵がはっきりと告げた。



「そうです。あれは淑妃様の好む物と同じ物だそうです。その彼女…侍女が香合した物で、私は何も知らずにそれを持ち、志勇様がいち早くそれに気づかれました。『少し貸してくれ』とだけ言われ、素直に渡しましたが、あれが毒になるとは思っていませんでした…!」



陣湯庵は淑妃の侍女から貰い、それを大事に持っていただけで中に何が入っていたのか知らなかった。



ただ、この場で始めて聞く、その淑妃付きの侍女とは誰なのか…。




そちらの方が今回の貴妃事件の、重要な鍵となる。




「よう、話してくれた。知らなかったそなたには何の罪もない。この件に関し、関与なしとする。御史台長官、それでよいかな?」



琉凰が御史台の長官に目を向けて尋ねると、彼は頷き「罪状はなし」と決定づけた。



「それでは陣湯庵は罪状無しとし、李将軍。彼を連れて行ってください」



その二人の言葉を聞き入れた洸縁が、雷辰に頼み、陣湯庵を引き下げさせる。



陣湯庵はホッとしたようにその場を離れようとしたが、ふと足を止めて、陸志勇に顔を向けた。



「志勇様。長く、私たちの味方になってくれた貴方には感謝しています。彼女を、どうか…どうか、よろしくお願いします」



『彼女』とは果たして誰の事を言っているのか。



陸志勇が痛感したような顔で小さく頷き、どこか諦めにも似たため息をついた。



頷いた彼を見て、「ありがとうございます」と感謝して、陣湯庵は雷辰に連れられて現れた同様に部屋を後にした。

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