第7話

日が沈みかけて薄っすらと空が朱色に染まる。



カァカァ、と鴉の鳴き声がした。



夕餉前の時刻、珠華は寝室で休んでいた。



あのあと、天狼は自分の用は済んだとばかりに、話が終わるとさっさと部屋を出て行った。



自分の仕事でやることがあるとか。



彼が居なくなると慧影と二人きりになり、気まずかった。



なにせ、慧影はこの話と、あの陛下の件を黙っていた。



「珠華様…このあとは…」



慧影が何かを話そうとした時、珠華は「一人にしてくれ」と彼の顔を見ることなく、素っ気なく告げた。



それは今の彼女に出来る精一杯の接し方だ。



このまま顔を付き合わせていたら、慧影を責めて責めて酷い事を口走るかもしれない。醜く八つ当たりをするかもしれない。



それが嫌で、珠華は慧影を突き放したのだ。



「…っ」



慧影の息をのむ音がした。



きっと彼は傷ついた顔をしているかもしれない。



珠華はそれを見るのも嫌で、顔を背けていた。



暫く沈黙が続いたが、慧影からため息がした。



これ以上いても珠華と話ができないと察して、「失礼します」と言って静かに出て行った。




二人が居なくなると、珠華は自室に一人となった。



日が沈む外のせいで中に陽が入らず、人の気配もなくなり、静まり返った室内は虚しくみえた。



この場に一人っきり。



そう思った途端、じわじわと見えない何かに追い詰められるような恐怖を感じて、身体の芯から冷えて強張っていくような感覚がした。



「あ…っ、これ…!」



その瞬間、ぐらりと目眩がした。



慌てて、近くの柱に手をつける。



「侑鈴…。どうして…」



いつから、珠麗に殺意を?



あの刺客も、彼女が関わっているのか?



何故、自分を騙して…!



考えれば考えるほど胸が苦しく、切なかった。



慧影がこの話をすぐに伝えなかった理由がよくわかる。



彼も言っていたことだが、決定的な証拠を掴むまではと、珠華の為を思い黙っていたのだろう。



珠華はそれからすぐに寝室に向かった。



これ以上立っていられなかった。



目眩は少し治ったが、頭がズキズキと痛む。



ふらつく足取りで寝台に倒れこみ、そのままゆっくりと目を閉じた。



少し休んでいれば体調も治るだろうと、珠華は疲れた体を休めることにした。



そのまま、すぐに睡魔に襲われた。




意識が沈んで、うとうとする。



−−カチャッ。



そのとき。横から微かに物音がした。


薄っすらと目を開けて顔だけをそちらに向ける。



寝台の右横の燭台の前に、侍女らしき者が立っていた。



眉をひそめ、「誰?」と珠華が声をかけた。



相手はビク!として、驚いたように珠華の方に振り返った。



「あ、すみません珠麗様。夕餉前にとお茶をお持ちしましたがお休みだったので…」



侑鈴だった。



いつもと違い、少し冷たい雰囲気でどこか焦っているような表情をした。



「侑鈴…?お茶はいいわよ。それよりも夕餉はまだかしら?」



起き上がりながら意識をはっきりさせるように首を振る。



「あ…ゆ、夕餉はもう暫くお待ちください。その、先程徳妃様から梅を頂きました。夕餉の前に、お召し上がりになりますか?」



徳妃、珀香凛が持ってきたらしい。


燭台のあるお盆に乗せた梅を珠華に見せる。



梅と言っても、その上に甘い蜜を垂らした甘味のモノだ。



酸っぱさと甘味で女子の間で人気があるらしい。



「あ…そうね。それなら頂きましょう」



まだ一度も食べた事がない代物だ。



「では、梅と…喉が乾くかもしれませんので、お茶も置いておきますね」



侑鈴は珠華が断ったお茶を下げなかった。



その態度に、先程のことを思い出して少し警戒する。



(下げずに置いておくのって、まさかこのお茶に何かあるのかしら?)



心の中でそう思いながら、侑鈴から梅の乗った皿を受け取った。



「ありがとう…。香凛様には何かお返しをしないといけないわね…」



お礼を告げて、さりげなくその梅に変わった事はないか目視した。



特に変わったのはない気がする。でも、見るだけではわからない。



すん、と匂いを嗅いでみると、梅の香りと蜜の甘い匂いがした。




「どうぞ、珠麗様。こちらでお召し上がりください」



侑鈴が小さな菜箸を渡してきた。



それを受け取って、ふとそのとき、チラッと袖から覗いた右腕に、虫に刺されたような赤い斑点が見えた。



すぐに手を下げたので、じっくり見えなかったが、今日の朝の侑鈴には、そんな虫刺されのような痕はなかった気がする。




「ねぇ…侑鈴。右袖に何か付いているわ」



さりげなさを装って、珠華は侑鈴の右手に注意を向けた。



「えっ?右袖、ですか?」



彼女は気づいていないのか、驚いた様子で珠華の言葉に素直に右の袖を巻く仕上げた。



すると、右手首の少し下に、ポツポツと何かの痕がある。



「あ…っ」



だが、すぐに彼女は小さな声を上げて顔色を変えると、慌てたように袖を直し、珠華の視線から遠ざけた。



「そこ、大丈夫?何か、虫に刺されたような痕があったけど…?」



心配そうに、それでいて探るような問いを投げかける。



ぐっ、と言葉を詰まらせ、侑鈴は強張った笑みを浮かべた。



「いえ…お気遣いなさらずに…。これは、きっと昼間についたのでしょう。庭でお手入れをしていたので、そのときに虫に刺されたのだと思います」



そう彼女はなんて事ないように冷静な態度で、珠華の問いに答えた。



「ああ、そう…。なら心配いらないか。じゃあもういいわよ。夕餉になったら来てちょうだい」



ここはいつも通りに、と珠華はそれ以上何も聞かなかった。



すると侑鈴が微かに息をついて、どこかホッとしたような表情を見せた。



それは一瞬だったが、珠華は見逃さなかった。



(安心した…?腕の赤い斑点…。何か、あるのか?)



侑鈴が犯人だとあの二人の男から聞いて、見方が変わり、もっと彼女の行動を注意しようと考えた。



だが、今のところは、彼女から殺意は感じられない。



ただ、先程いらないと断ったのに、お茶は持っていかずにいることは、疑う余地がある。



珠麗の時は白湯に毒を盛っていたのだから、今度も飲み物に混ぜてくるかもしれない。



今すぐには無理だが、念のためこのお茶やその器も調べさせようと思った。



「では私はこれで…。夕餉ができましたら、また参ります」



「ええ…よろしく」



侑鈴は素直にそれに従い下がると、いつものように静かに寝室を出て行った。




居なくなった侑鈴を見て、「ふう」とため息をつく。



徳妃の珀香凜からの頂き物という梅のこれも、食べない方がいいだろう。



「はぁ…疲れた」



いつもの何気ないやりとりとして普通に接したが、もうすでに胃が痛くなってきた。



まだ彼女が犯人だと分かっていない以上、いつも通りの態度というのは、酷く疲れることだ。



まだ一日も経っていないのに…。



蜜をかけた梅の乗った皿を燭台に戻し、寝台から降りた。



その梅を食べたと見せるように細工をしなければならない。



菜箸で細かく潰し、種だけを取ると、その梅の身だけをいらない布の上に乗せる。



手に触れないように注意しながら、誰にも見つからないように奥の棚のその裏に隠すことにした。



(ここに置いて…後日、調べてもらうわ)



棚の横で座り込み、裏に手を伸ばす。



すると、コツン、と何か、手に当たった。



「え…?何かある」



すでに棚の裏に、何か四角いものがあり、それを手探りで掴んで、奥から引っ張り出した。



「箱…?うわぁっ!?何か臭うわ…」



その箱は汚れていて、中から鼻が曲がるような強い異臭がした。



なるべく鼻で息をしないように、勢いよく、箱の蓋を開けてみた。




モワッと臭いがきつくなり、思い切り顔をしかめながら箱の中に視線を向けた。



「えっ!?こ、これは…!!」



次の瞬間、珠華は驚愕した。



汚れた箱に入っていたのは、小さな袋と黒い香炉だった。


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