第2話

翠国の北にある琥珀州。



その琥珀州一、頭脳明晰であり白皙の美貌と噂される珀黎優ハク レイユウ兵部侍郎を兄に持ち、雲悦《ウンエツ)大将軍を祖父に持つ、文武両道の名将である名家の姫君。



それが、珀香凜である。



香凜は貴妃の珠麗より先輩だが、位は徳妃となる。



深窓の姫君と噂され後宮に入り、すぐにも緊張から倒れてしまった彼女。




儚げで守られているのがお似合いの、花のような姫君だが、本当は違った。



人一倍勇敢で頭のキレも良く、大胆にも行動的な一面がある。



まさか、あの香凜が名乗り出るとは思わなかった。



あんなに意気込んで嬉々として危ない橋に渡る彼女に、流石に驚き、少し引いてしまった。



初めて見る彼女の姿に驚かされて、ついつい頷いてしまったが、余計な事を口走ったかもしれない。




…香凜から噂を聞かれ、数日が経つ。



しかし、あれから何もいい案が浮かばず、自室で一人きり、珠華は悩んでいた。



「はぁ…どうしよう?」



このまま見えない敵と戦うのに、どうやって味方を見つける?



それに、本当にあの彼女を、他の妃を巻き込んでもいいのか…。



憂いに満ちた目でそっとため息をついた、そのとき。



『どうしたの?』



不意に、声がした。



一瞬、空耳かと思った。だが次の瞬間、弾かれたように顔を上げると、そこには亡くなったはずの珠麗の姿があった。



透けた体以外、変わらずの優しい微笑みを浮かべて、静かに佇んでいた。




「珠麗?」



がたん、と思わず椅子から立ち上がる。



『ため息をついて、何を悩んでいるの?』



彼女がゆっくりとこちらに近づいてくる。



「珠麗…」



その変わらない彼女の姿に、珠華は泣きそうになった。



彼女は目の前で立ち止まり、珠華の方に両手を伸ばしてその頬を優しく包み込む。



『ああ…バカね、お姉様。なぜそんなに悩む必要があるの?まだ何もしてない前からそんなんじゃ駄目よ』


それはいつもの、叱ってくる彼女の言葉。



珠華が悩んだり悲しんだりと、うじうじする時、珠麗がよくしてくれた。



「でも私…やっていけるかと不安で…」



珠麗を暗殺した犯人は捕まっていないし、まだその命を狙っている。



それが一番の悩み種であり、この後宮で戦うにも良い味方がいないのが何よりも不安。



犯人を捕まえようと動くにも、花嫁としてでは限度があるし、味方だと言ってくれた香凜も勇ましく言っていたが、世間知らずそうで頼りなさげだ。



『それが愚かなのよ。悩むだけ無駄。不安だと悩むなんてらしくない。それを物ともせず蹴散らすのがお姉様でしょ。何も、私の真似などする必要はない』



「真似…?でも、私は珠麗としてこの後宮にいないと。周りに別人だとバレたら…」



『それも愚かな考え。あなたは、それが自分がしたいと思っていること?私の真似事をして…これからもずっと後宮に?』




珠華の言葉を遮り、強く珠麗の亡霊が言った。



いつになく厳しく、冷たい視線。



怒った時の彼女の、それ。



珠華は息を呑んだ。



そんな彼女を見て、厳しかった珠麗の亡霊は微かに笑う。



『ねぇ…お姉様。私はお姉様がそこにいるだけで良かった。あなたが何よりも大事で、総てだった。そのあなたを苦しめてまで、代わりをして欲しくはない。お姉様は自分らしく…』




そう吐き出された言葉は、最後まで聞く事なく、珠麗の亡霊の姿がさらに薄れ始めた。



「え…?待って、珠麗…!」



突然煙となり消えていく彼女に手を伸ばし、叫んだ。



『お姉様らしく、生きて…』



それを最後に、珠麗の亡霊は珠華の目の前で跡形もなく消えた。



「駄目…、まだ行かないで…!」



居なくなった場所を見て、悲しみに叫んだ。



涙が、頬を伝った。




「–––––珠華様っ!」



刹那、大きな声で名を呼ばれて、ハッと目を開けた。



涙で濡れた目で珠華はゆっくりと顔を上げると、目の前には切羽詰まった表情でこちらを見つめる慧影の姿があった。



「あ…え?慧、影…?」



何故彼が、と首を傾げる珠華に、ホッとしたような慧影。



「すみません。勝手に入りました。いくら呼んでも返事がなくて…何事かと思って」



すぐに彼は珠華の許可なしで自室に駆け込んだのを謝る。


だが、珠華はまだぼんやりとしていて、流れた涙は止まらない。



その抜け殻のような姿にギクッとして、慧影は珠華の肩を強く掴み、揺さぶった。



「姫っ…?珠麗…珠華様っ!?」



再び彼の焦った叫び声に、珠華は夢から覚めたように、ハッとした。



「あ…ああ、ごめん。今私、寝ていたのか…」



顔をしかめ、ふと彼が自分の肩に力を入れて凝視していることに、苦笑する。



「慧影、もう大丈夫。目が、覚めたよ」



そう言った彼女の涙も、止まっている。



慧影は僅かに眉をひそめてから探るように珠華を見たが、本当に普段に戻ったような彼女にホッとし、離れた。



「よかった…。うなされて、泣いてるものだから、びっくりしましたよ」



いつからそこにいたのか。



慧影のその言葉に、ふと彼女は眉を寄せた。



「私…何か、言っていた?」



(これは、聞かれた?珠麗の亡霊と、話していたの…)



いつからいたのかわからなかったのでそう尋ねると、慧影は一瞬固まり、すぐににこやかに笑う。




「……いいえ。特に、何も」



(…嘘だ。なによその間は)



「本当に?」



彼の様子から疑うようにもう一度問うと、暫く笑顔を決めていた彼は、観念したように嘆息した。



「いえ…すみません。聞いてしまいました。その、珠麗様の夢を見ていたのですか…?」



また心配そうに表情が変わる。



遠慮がちに尋ねる言葉に、珠華の顔が強張った。



「う…うん。珠麗の…生きていた頃の彼女そのままの亡霊が、私の前に現れたの」



そう答えて、悲しそうに小さく苦笑。



途端に驚くように息を呑む慧影に、微かに笑い、悲しそうに目を伏せた。



「こうして彼女を演じたのが、駄目みたい。いや、真似事をするのは駄目だと怒られたの。なんか、私らしくないんだって。こう、悩む姿がね」



まだ彼女に成り代わって日が浅いのに、夢の中だが本人からもうダメ出しを食らった。



それは珠華の心が弱気になっているため。今の心情を表して、本人が現れた。



「珠華様…それは…」



「うん。わかってる。珠麗は死んだんだから、自分のうちの弱さが、彼女となって現れたのよ。前にもそんなことあったしね。だけどさ、こう夢の中の彼女に言われて気づいたの。香凜様が話してくれた噂。このまま後宮にいて黙っていても、始まらないって」



少し伏し目がちの目がゆっくりと前を向き、意志の強い彼女らしい目が、慧影を射抜く。



「私…やっぱり、珠麗の真似は無理だ。私は私らしく、手にかけた野郎を見つけ取っちめてやる」



それは今までの珠華らしい言葉。



自信に満ちた顔で、見えない敵に向かって挑み立ち向かう勇気ある姿。



それは覆面で護衛していた本来の彼女だ。



驚いていた慧影はその姿を眩しいものを見るように見つめて、くすりと笑う。



「ああ、珠華様。ようやくいつものあなたに戻られたのですね。珠麗様の事があり元気がなかったあなたを心配してましたが…、どうやら吹っ切れたようだ」



慧影は珠華の少しの異変に気付いていた。



そのことに珠華は驚いたが、珠麗らしく振る舞わないと宣言する自分を怒らないことの方が驚きだ。



「なんだ…慧影も心配していたのんだね。でも、周りにバレたら危険だから珠麗らしく振る舞わないって言った事、それは怒らないの?」



思わず気になって尋ねると、慧影はふっと微かに笑う。



「何を言いだすかと思ったら…。いまさらなんですか。珠麗様らしくと頑張って振る舞おうとしてましたが、全然まだまだでしたよね。あの祝舞祭後でも、あなたはあなたのままだった。剣なんか振り回して、陛下や李雷辰に会ったじゃないですか」



つい先ほどでしたよね、と責めるように訴えた慧影に、珠華はうっと言葉に詰まった。



そんな彼女を見て慧影は苦笑し、ふっと意味ありげに笑った。



「珠麗様。それでその夢の中の珠麗様ですが…。あの方は今のあなたを見て、なんとおっしゃっていましたか?」



「えっ!?あー、そうね…。珠麗は一言、『愚か者』だと言っていたわ。悩むなんて私らしくないって、そう『自分らしく生きて』とも言っていた」



思い出すように言葉を紡ぐと、彼は促すようににこりと笑った。



「ほら…、『自分らしく』です。だから今回も、あなたらしく犯人探しに動けばいい」



止める立場のはずの慧影なのだが、このことに関しては彼は初めから、珠華が自ら犯人探しに出ることを望んでいたようだった。



(…なんだ。思い込んでいたのは、私だけか)




そう慧影の顔を見て、何もかも思った。



彼女を亡くした悲しみに落ちこみながらも、彼女の真似事をして、慧影も悲しんでいるのだからと、迷惑はかけられないと、すぐに動かなかった。



それがそもそもの間違いだった。



「慧影…。目から鱗が出た気分」



ボソリと感心したようにつぶやくと、慧影は一瞬だけ目を見張り、すぐににやりと自信に満ちた笑みを浮かべた。










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