第6話

陽が落ち、夜が訪れた。




昼間と違い、宮中は静かだ。




その右奥にある人気のない場所。中心部から離れたとある部屋から、全身黒づくめの者が躍り出る。



足音なく外の中庭の池に向かうと、そこには既に待ち人がいた。




「…待ちましたか、蓮様」



暗闇に佇む待ち人に声をかけると、蓮と呼ばれた人物が振り返った。



「来たか地晏チアン。首尾はどうだ?」



「はい。彼奴からすでに準備は整ったとのこと。いつでも動けます」



地晏と呼ばれた全身黒づくめの者はニヤリと笑い、答えた。



その者の言葉に蓮はふっと冷笑し、冷たい視線を池に向けた。



「そうか。では予定通りだな。しかし、前回は何故失敗した?毒は効いていたはずだ」



蓮が疑問に思っていたことを呟くと、地晏は顔を強張らせる。その額に脂汗。



「申し訳ございません…!その件につきまして、確かに標的には当たったと報告されています。私もこの目で見ております」




「だが、結果は違うではないか。何故そんな失敗をした?私は思い通りにならないと気が済まない性格だと知っているだろ?」



「は!そのことは十分理解しております。ですので、これが最後のチャンスとばかりにあの者を生かしているのです」




青ざめ震えて怯えながら、地晏は誰かを庇うようにしてそう答えた。



蓮の目が細められる。



ひやりとした殺意のある視線。



池から地晏に移し、その口元に歪んだ笑みを浮かべた。



「そうか、なるほどな。ではあの者に伝えろ。今度こそ失敗などしてみろ。その命ないと思え」



何処か愉しそうに喉の奥で笑う。



自分に向けられた言葉ではないが、地晏はぶるりと震え上がる。



「は、はい!必ずやお伝えします。今度こそ、期待通りに、あなたのために動きましょう」




地晏はきっぱりと失敗しないことを宣言した。




蓮はその答えに満足そうに頷くと、ふと、何気なく池のその向こう側に視線を移し、微かに目を見開いた。




向こう側の建物の棟から棟に渡る廊下に、人が歩いていた。



「……地晏。あれは、なんなんだ?」



蓮が何処か呆けたように尋ねる。



呼ばれた地晏はそちらに視線を向けて、僅かに顔を曇らせた。



「……ああ、あれは件の者の犬ですよ。それも見た目と違ってかなりの狂犬だと聞いております」



見た目美しいが細身で、弱々しい印象だ。



しかし、その歩き方は野生のそれに似ている。しなやかで音もなく静かに、それでいて俊敏に。



見た目と違い、よく鍛えられている。



「…はっ!ふはっ、くっくっく…!」



途端、蓮が息を殺し、小さく笑い出した。



久しぶりに似た蓮の笑いにギョッとした。



「ど、どうされたのです?蓮様?」



蓮の沸点がわからない。



地晏は変な顔をして、狂犬と蓮を見比べた。




「い、いや…!なんだか印象が違って!そ、そうか。やはり、あの者はあの者の犬だったか」




笑いを止めて、蓮は淡々と呟いた。



その表情には、何故か落胆の色が見える。



地晏はさらに目を丸くし、「はぁ…?」と意味がわからない様子で頷いた。



「……よい。あの者のことは忘れろ。それよりも、わかっているな?」




首を傾げている地晏に視線を向けた蓮は話を元に戻すと、再度彼に念を押した。



地晏はハッとしたように表情を引き締めて、膝をつき、首を垂れる。



「……は!必ずや成功させます。では私はこれにて失礼します」



そして、話を早々に終わらせると、地晏は夜の闇に溶けこむようにすっとその場で姿を消した。




一人残された蓮は地晏のいた場所からまた向こう側の廊下に視線を向ける。



しかし、そこにはすでに例の狂犬はいなかった。代わりに全く違う者が数名歩いていた。




「…惜しいなぁ、あれ。まるで、獣だ。あれはどうにかしないと…」



蓮は誰にともなく、ぼそりと呟いた。



そこに微かに興味を示すような色合いが込められており、いなくなった狂犬の方をしばらくじっと見つめていた。







*******





ーーーカツン。音がした。



ハッ!と後ろを振り返る。



長い長い廊下には、自分の影が伸びて映っているだけで、そこには誰もいなかった。



だけど、何故か背後に人の気配を感じる。独特な雰囲気を持った人の気配を。





「……気のせいか…?」



彼は微かに溜息をつくと、ズキン!と頭に走った痛みに咄嗟にこめかみを抑えた。




ぐっぐっと眉間に寄ったしわを揉みほぐす。



長いこと書類と向き合い、徹夜で仕事をしていたためか、何日か前から頭痛がする。



立ちくらみはないが、痛みに気が一瞬遠くなりかけて…ハッと我に返った。




「あ、あ、まだ…ダメだ」



倒れるのは早いと自分に言い聞かせて、前方に向き直り再び歩き出す。



手元にある書類を陛下に渡さなければならなかった。




「……あ」



しかし、ふと彼は思い出す。




今宵は駄目だった。




貴妃との大切な蜜夜があった。




「いやだなぁ、俺。すっかり忘れていたよ」



独り言を言っては自分自身にふっと笑い、陛下に渡さなければならなかった書類をまた明日に持ち込もうと、行き場所を変えた。



廊下を左手に曲がり、その奥にある書庫に向かう。




彼は若くして礼部尚書の片腕になった、礼部侍郎だ。



二十代後半。中肉中背で、狐目の色白な男性。



肩まで伸びた紺の髪を軽く後ろに束ね、そこから覗く右耳には瑠璃色の宝石の耳飾りをつけていた。



「……ああ。いいな、主上は。あーんなかわい子ちゃんと今頃イチャコラかよ」




虹家の姫君を思い出し、悔しそうに歯軋りする。



色白でぱっちり目の可愛らしい顔立ちの女性。



いつも頬を染めて、恥じらうように笑う姿がなんともツボである。



「しかし、大丈夫かなぁ。確か、誰かに襲われたって聞いたな。その話題で刑部は忙しいんだよな」



皇帝陛下の花嫁は大変だ。



陛下の敵から命を狙われたり、ライバルから嫌がらせを受ける。それは今の時代に始まった事じゃないが、特に先代と違い、今の皇帝陛下は宮殿で孤立している。




古株の尚書達が彼と対立していると聞く。




残された他の皇子たちも今の皇帝陛下をよく思っていないし、毎日が戦争だ。



命を狙う者が沢山いるためいつも気が休まらない。



その彼のいざこざで花嫁に選ばれた彼女が標的に合ったのだ。




「いつの時代も宮廷内は怖いね」



ふぅと首を振り溜息をついて、やれやれと肩をすくめる。




花嫁を狙った刺客はまだ捕まっていない。




裏で糸を引いている犯人がいるはずだが、刺客は取り逃がしてしまっているし、その情報が全然入ってこなくて、未だに尻尾を掴めない。




誰が犯人かわからない状況で、彼女はあの宮殿で生きていかなければならなかった。



それは寂しく、悲しい。いつなん時命を狙われるかわからない。精神的に追い詰められて先代の寵妃のようになるかも。



「はぁ、難儀な…。まぁ、俺には関係ないか。さて、今日はそろそろ帰るか。ゆっくりと休めるな」



うーん、と背を伸ばして、こきこきと肩を鳴らす。




廊下の突き当たりが書庫だ。



書庫の前は警備兵が見回りをしていた。



挨拶をして、ふとその廊下より右側の外に、歩いている人物に眉を寄せた。



「あれは…親衛隊?」




虹家の姫君には親衛隊がついていた。自国からの護衛者だったらしい。



確か名前は劉…慧影と言っていた。見目麗しい青年だ。



見た目弱そうだが、あれで結構剣術は得意とか。



「……こんな時間に何処に行くんだ?」



彼の自室とは逆方向だ。



あの方向は刑部省がある。



「なんか臭うな…。これは何かあるぞ!」



オモチャを見つけた子供のようにキラン!と目が光る。



努力家で有能な文官として他の文官から一目置かれている礼部侍郎だが、ある一部では噂好きのトラブルメーカーだと有名だった。

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