2月7日『Crime notice』

「お兄ちゃん、今年のバレンタインはチョコ手作りしようと思うんだけど、食べてくれる?」

「今年の、って。今年も、だるぉ?」

「まあそうなんだけどさ。いいから、ゆかがチョコ作ったら食べてくれる?」

「おう、食うけど」

「そっか。良かった」

「……?」


 朝飯を作ってる妹から唐突に聞かれ、俺は答えた。

 後ろ姿で表情は分からないが、足をぱたぱたと鳴らしているところをみると、喜んでいることだけははっきりと分かる。

 ベーコンの焼ける匂いが鼻をくすぐる。

 脂が焦げて、パチパチと弾け飛ぶ音と共に芳ばしい匂いが部屋に充満し始めている。

 今が一番丁度良い焼き加減だと推測できる。

 俺はどうやら人より匂いに敏感なタイプで、匂いで何かを嗅ぎ分けられる、とかそういう特技は無いのだが、……いや、だからこの場合は敏感と言うよりは過敏と言うのが正しいのか。

 人間誰しも経験したことがあると思うが、苦手な臭いを嗅ぐと、喉の奥が『げぇっ』となるような、えずくような感覚に、人よりも多く陥る。

 ことさら煙草と酒の臭いが苦手で、煙草は言わずもがなだが、酒は日本酒や焼酎、ワインなんかの『香りを楽しむ』もの全般は、はっきりと『嫌い』と言うのが正しい。

 働いていた頃は、どうしても酒の席に呼ばれてしまうことが多くて、臭いを我慢して過ごしたり、すぐに顔が赤くなるたちを利用して酔っぱらって寝た振りをしてやり過ごしたり、本当に酒の臭いで具合が悪くなって横になったことも少なくない。

 まぁ、今後そういう席に俺が招かれることは無いのだが、妹も知らないこの性質を今さら誰かに教えることもないだろうから、俺はこれからもそういうものに出会すたび、鼻を摘まみながら、臭いものには鼻に栓をしてやり過ごしていくような人生を送るのだろう。


「今年のチョコはどんなのが良い?」

「種ぅいとかよく分からん」

「へっへー、実はもう決めてあるんでしたー。リクエストがあっても上げるチョコは変わらないんだよー」

「じゃあぁんで聞いたし」

「まあまあ、もしかしたら気が変わって作ったかもしれないじゃん?」

「ふぅん? まぁいいけど。俺はお前が作ってくれたものぁらぁんでも食うよ」

「え、何それ、プロポーズ? ちょっと待っててお兄ちゃん、録音するからもう一回言って」

「いや、言わねぇけど」

「何でよもぉー」


 振り返り俺とやり取りをしている間に、ベーコンの焦げる匂いが濃くなってきた。

 完全に焼き過ぎだ。

 証拠に会話の途中だったにも関わらず妹は喋るのを止め、ガシッガシッとフライ返しで焦げ張り付いたベーコンをこそぎ剥がしているようだ。

 ……はぁ、今日も平和だ。

 部屋の天井には灰色の煙がもくもくと漂っていて、部屋には焦げの臭いしかしない。

 くせぇ。

 

「…………」


 何も言うまい。

 フライパンを洗う音が聞こえる。

 ジュウジュウと何かの焼ける音もする。

 きっと焦げたベーコンを捨て、新しいベーコンを焼いているんだろう。

 見てみぬ振りをすることが正しいということも世の中にはある。

 ガチャっ、と炊飯器の蓋が開く音が聞こえた。

 ベーコンの香りは焦げの臭いに完全に征されて焼き加減を推し測ることはできないが、きっと今度は丁度良い焼き加減になっているのだと思う。


「お兄ちゃんっ、朝ごはんできたよぉー!」

「っ!?、…………おう」

「もぉー、ボーッとして、何考えてたのー? さてはゆかのエプロン姿見て、エッチなこと考えてたんでしょぉー。やだもぉースケベー」

「ぁにをどうしたろぁそんぁ考えにぁるんだ」

「何をどう考えてもゆかはお兄ちゃんを欲情させる方法を考えてますよー」

「どうしてこうぁった……」

「ゆかは昔からこんなだよっ、ゆかは何も変わんないよ、お兄ちゃんがどうなっても。ゆかは変わんないよ」

「…………おう」

「さ、ごはん食べよ? 冷めちゃうよー」

「おう」

「あ、ところでお兄ちゃんは裸にエプロンと裸にリボンだったらどっちが良い?」

「ぶっ!!」

「ちょっ、お兄ちゃん汚いっ」

「お前が変ぁこと言うかぁ!」

「もぉー、冗談じゃん冗談ー」

「本当かぉ……」

「さーて、どうでしょうー? バレンタインをお楽しみにねぇー?」

「……」


 何だか今朝は妹の様子が変だ。

 時折、思い詰めたように俺をジッと見詰めている時があるが、今朝もまさにその状態だ。

 俺も、自身の情緒が不安定だと思うことが度々あるが、妹もそれに近い状態にあるのではないかと思う。

 妹が俺の顔をじろじろと見てくる。

 止めてほしい。

 事故の時、資材に顔から突っ込んだ所為で俺は顔にも大ケガを負った。

 瞼の骨が潰れ、鼻も潰れて千切れ、顎から頬にかけて皮が剥がれて皮膚移植をした(皮膚移植の噂に聞く通りに、本当に尻の皮を顔に張り付けられていたとは)。

 妹が俺のセラミックの人工骨が埋まって腫れぼったくなった瞼を指でさすってくる。

 急にどうした。


「傷、すっかり良くなったね。もう痛そうに見えないよ」

「良くぁんかぁってねぇよ。B級ほぁー映画のゾンビみてぇだ」

「自分の顔しばらく見てないくせにー」

「お前が家中の鏡捨てぅかぁだぉ」

「だってお兄ちゃん、鏡ばっかり見ててつまんなかったんだもん。お兄ちゃんは実はナルシストだったのかと思ったよゆかは」

「そうだったぁ、もっと悲惨だっただろうぁ。こんぁになっちまって」

「そうだねぇ、きっとそれだけでしんじゃってだだろうねぇ。きっと私を置いて死んじゃってただろぉねー」

「……んぁことねぇぉ」

「そうかなー?」

「……そうだぉ」


 妹は言いながら俺の顔を満遍なく、特にケガをして歪んでしまった傷痕を丹念に触ってくる。

 止めてほしい。

 今さらどこが螺曲がってるとか、触って自覚させないでほしい。

 部屋に鏡が無くなっても、スマホの画面に反射された顔を毎日目にしているんだ。

 毎日自分の顔が黒い液晶に反射されるたびに溜息を吐いているのだから、傷を抉るようなことをしないでほしい。

 いや、妹にそんなつもりはないのだろうが。

 妹の手付きは至って優しい。

 と、急に抱き締められた。

 何故か頭を撫でられる。

 ケガでもして、近所のお姉さんに優しくされている子供のような扱いだ。


「ゆかねぇ、お兄ちゃんが、生きててくれて嬉しいの。生きるのを止めなかった、ゆかの為に諦めてくれたのがすごくすごく嬉しいんだよ」

「……」

「だからね、ホントに、本当にね、ゆかの全部をお兄ちゃんにあげたいって思うんだよぉ?」

「……」

「気持ち悪いかな、こんな妹。本気でお兄ちゃんの物になりたいって思ってる。本気でお兄ちゃんの子供が欲しいって思ってる。気持ち悪いよね。ヤバいよね、こんな妹は、ね。こんなヤバいやつ、マンガにもアニメにもいないよね」

「……」

「受け入れてくれなくても良いの。それが拒否じゃないなら」

「召し使いでもメイドでも奴隷でも何でも構わないの。ゆかのこと、これからも傍に置いてくれるなら」

「お兄ちゃん……私ね」

「……」


 ヤバい。

 今日の妹は本気でヤバい。


「お兄ちゃんの赤ちゃんが欲しい」


 ……妹は俺より精神が病んでいるんじゃないだろうか。

 ブラコンなだけだと思っていたが、とうとうヤンデレ属性まで身に付けてしまったらしい。

 こんな状況では、自分の身体のことで鬱になっている場合じゃないと、俺は思った。

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