2月6日『Loony』
「ただいまーっ!」
「おう」
「お兄ちゃぁーんっ!」
「おぅっ、どうしたどうした」
「ゆかはねぇ、幸せなんだよぉ。世界一の幸せ者なんだよぉ!」
「……お、おう、そうなのか、それは良かった。幸せ者ってのは良いことで、せかいぃち幸せ者ってのは、そりゃあせかいでいちばん幸せ者ってことだ。それは良いことだ」
「……でしょっ!?」
「お、おう」
「ゆかはねぇ、大好きなお兄ちゃんと楽しくてやりがいのある仕事と優しい先輩方に恵まれて、とてもとても幸せなんだよー。はー幸せ幸せ」
「……良かったな」
「うん。良かった」
何だかよく分からんが、妹は今日職場で嬉しいことがあったらしい。
今の仕事はゆかの肌にとても合うらしく、毎日仕事を楽しんでいるというのが雰囲気と言うか、オーラとでも言うのかゆかの周りに『楽しい空気』として溢れ漂っているように感じる。
こんな時は俺も何だか嬉しくなるものだ。
辛いことも多いが、妹が幸せだ、幸せ者だと言うのなら、兄であり唯一の家族である俺には何より喜ばしいことだ。
「お兄ちゃん、ご飯はもう食べた?」
「……まだだよ」
「あっ、そうなんだっ? じゃあ一緒に食べよ食べよー。その後一緒にお風呂も入ろうっ」
「おう」
「ってやっぱお風呂はダメかぁ。でもゆかはねぇ、世界一大好きな超超愛してるお兄ちゃんとたまにはお風呂に入りたいんだよーって言っても湯船に二人で入れる訳じゃないんだけどね、ってえええぇ!?」
「なんだよ」
「なんだよって、こっちこそ何だよ、だよっ! 一緒にお風呂入ってくれるの!? お兄ちゃん!」
「おうって、そう言ってるだろ」
「……マジかよー。マジかよそんないきなりかよー晴天の霹靂かよー。一緒にお風呂入るの二ヶ月ぶりくらいじゃないかなー。確かお正月に一緒に入ったっきりだよー。マジかよヤバいかよぉー」
「せいてんのへきぇきなのかよ。よくないことなのかよ」
「……んなワケないじゃぁん! 嬉しいよ。お兄ちゃんっ」
「……おう」
二ヶ月。そんなに俺は長い間風呂に入ってないのか。
いや、妹が言うようにうちの湯船は二人一緒に浸かれるようなサイズではないし、俺の身体は仮に湯船に浸かったとしても、今度は湯船から上げるのに俺とゆか二人では相当に苦労するだろうから(初めて湯船に浸かった時は俺が湯船から脱出するのに二時間以上かかった)浴室に二人で入って一緒にシャワーを浴びたり背中を洗い合ったりするくらいなのだが、そうでない時は身体を濡れタオルで拭き上げるだけだから、実質俺は二ヶ月という長い期間風呂に入っていないことになる。
たまには、一緒に入るのも良いだろう。
間違っても妹の裸に欲情するような俺の身体ではない。
間違いや過ちなど起こりようがないのだ。
「ごちそうさまぁ」
「ごちそうさま」
「さーて、次はお楽しみのお風呂だねぇー」
「べつにおれは楽しみとかじゃあいが」
「ゆかは楽しみにしていましたっ」
妹が右手で敬礼のポーズを取る。何故だ。
テーブルを挟んで椅子に座っていた妹が、ベッドに腰掛けたままの俺に近付いてくる。
やはり何故か敬礼のポーズはそのままだ。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「手でしてあげよっか?」
「……いらん」
「何で? 溜まってないの? 一人でした?」
「まだたぁってない。だからいらん」
「でも溜まってなくても出るでしょ? それにすぐたま溜まるんでしょ? なら先にしとこーよ 悪いことじゃないし」
「いらん。ぃつこいと、入らないぞ」
「それは困る」
ずっと敬礼のポーズのまま、顔と顔が触れそうな距離まで近付いていた妹が、がくっと肩を落とし俺の横に寝転がる。
「よぉ儀が悪い」
「これでもお行儀は良い子だって、ゆかは会社では有名なのです」
「そうなのか」
見直したぞ。
「そうなのです。だからゆかはご褒美が欲しいのです」
「性的なこと以外なぁな」
「性的なこと以外は思い付かないのです!」
「ぁんでだよ……」
「何ででも! ねぇお兄ちゃぁん、何かエッチなことしよぉよぉ。私、まだ処女なんだよぉ? 21でだよ? ヤバくない?」
いや、それを言うなら俺もだけど。
「恋ぃとを作るぁとか言ったことねぇけど」
「お兄ちゃんに恋人になってほしいんだよ。もう伴侶だけど」
「わけが分かぁん」
本当に訳が分からん。
俺に依存していることは分かる。分かっている。
でも、俺にそういうのを求められても、応えられる訳がない。
身体だけ貸せと言うなら確かに出来るだろうが、感情とか、お互いの快楽とかが合わさるから良いもんなんじゃないのか? 知らんけど。
「訳が分からないことないよぉ。ゆかはお兄ちゃんのことがマジで、ガチで、リアルにあいらぶゆーなんだよぉ。何度も言ってるじゃんかよぉー」
「ぁん度も言われてもぁ。諦めぉ」
「諦められないからこうして何度も何度も言ってるワケだが」
妹が口を尖らせアヒルのような唇でブーブー言っている。
うるせぇ。
「うぅせぇ」
「うるさいとかヒドい!」
「はぁ、いいから、風呂、入ぅぞ」
「……うん、入ろっか。……お兄ちゃん、脱いでるとこ、見ないでね?」
「……おう」
この後、風呂でどうやっても見えてしまうのに、そしてこれまでも何度も見ているのに、何故脱ぐ時だけは絶対に見せようとしないのか。謎だ。
全裸なった俺を妹が車椅子で風呂の前まで移動させ、俺は同じく全裸になった(バスタオルを巻いている)妹の肩に掴まり立ち上がる。
立ち上がると言っても、殆ど妹に寄り掛かっているようなもので、妹は俺の体重を必死に支え、湯船の縁にゆっくりと俺を腰掛けさせる。
しかしこのまま手を離してしまうと俺は腰からぐにゃりと折れ曲がって前にも後ろにも重力に一寸も抗うことなく倒れてしまうので、湯船のすぐ脇にある洗面台に両肘を突っ込んで自分の下半身を引っ張るように自分の身体全体を支える。
これが障害者に合わせた風呂であればここまで苦労することはないのだが(病院の風呂は介護士の手も借りるのでとても快適に入れていた)、妹はやはりこの状況を見ても引っ越すつもりは無いようだ。
こんな生きにくい狭い安アパートの一体何がそんなに良いのか。
これも謎だ。
妹は俺の髪と身体をシャワーで洗い流し、シャンプーを立て髪を洗ってくれる。
髪を洗い流した後はもちろん身体を洗ってくれる。
そして次は、妹が空の湯船に入り、俺がシャワーノズルを持ち、妹に背中に寄り掛かりながら妹にシャワーを掛けてやる。
妹が髪を洗い終わり、そのまま身体を洗い、もう一度俺と妹交互にシャワーを浴びせあって、これで風呂は終わりだ。
この作業的な風呂に、息抜きをする余裕なんて少しも無い。
お互いが俺の身体に気を付けながら、必要なことを済ませ、後はまた俺の身体を落とさないように気を配りながら俺を車椅子に乗せ、風呂を出る。
最早ただの介護で、体力の消耗を考えるとスポーツ、いや、リハビリの一環でしかない。
風呂を二人で済ませる練習とでも言おうか。
風呂から上がっても、しばらく汗をかくことすらある。
今は季節的に身体がすぐに冷めて無駄に汗をかくことも、その後また汗をタオルで拭うこともないが、夏にこれをやると何のために風呂に入ったのか意味が分からなくなることだってある。
と言うか本当に無駄だ。徒労である。
「はぁー、お兄ちゃん、良いお風呂だったねぇ、久しぶりの一緒にお風呂、楽しかったねぇ」
「そうか?」
「そうだよー」
「やっぱり、あんぁのただのさぎぃうだった」
「そんなことないよ。お兄ちゃんの肌の温もりを直接自分の肌で感じた。実質セックスだよ!」
「んぁ訳あぅか」
「んな訳あるよ! 大変だけど、シャワー浴びるのは気持ち良かったでしょ!?」
「ぃ分のかぁだを支えうので精一杯ぇ、気持ちいいとか思うよゆぅあかったよ」
心も身体も余裕なんて無い。
自分の身体一つ支えられないのを痛感しただけだ。
妹の肌の温もりなんて、覚えていない。
俺の身体を支える、壁としか感じていなかった。
「また、お風呂一緒に入ってね」
「……はぁ、また、そのうちぁ」
「うん。そのうち、ね」
「せあか、拭いてくれ」
「うん。髪の毛も拭いてあげるね」
「かいの毛はじうんで拭ける」
「いいのっ! ゆかが拭いてあげるのっ!」
「……頼む」
「りょーかいでありますっ!」
ビシッ、と右手で敬礼をして、俺の背中と髪を優しく拭く妹。
何でこいつはこんなに俺に尽くすのかねぇ。
唯一の家族で、血を分けた兄妹で、高校を卒業するまでのほんの三年ぽっちを支えただけの男にこれだけ献身的になれるのは何でなのか。
はぁ。
本当に謎だわ。
余談だが。
次の日の夜、前の夜と打って変わって妹は意気消沈して帰ってきた。
何があったのか尋ねてみると、良くしてくれる先輩に勝負を仕掛けたらコテンパンに負かされたらしい。
先輩が苦手であろう、自分が絶対的に有利だと思っていた勝てる勝負で圧倒的な力量差で負かされ、打ちひしがれていた妹に、何て声をかけたら良いのかよく分からなかった俺だが、晩飯を二人で食べて、ベッドに腰掛ける俺の横に寝転がっていた妹は、突然がばりと起き上がりこう言ったのだ。
「お兄ちゃんっ! 一緒にお風呂入ろうっ! 実質的セックスして気分転換しなきゃ!」
風呂で肌を合わせあってもそれは決してセックスではない。
本当にこの妹は謎だらけだ。
女ってみんなこうなのか?
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