1月31日『これからの話』

 23時58分。

 私がBと交代したのはそのタイミングだった。

 終電にはもう間に合わない。


「『幸せこと』だった『普通のこと』……?」

 私はゆかちゃんの言葉を繰り返す。

「そうです。先輩に何があったのかは知りません。教えてくださいとも言いません。きっと先輩だって話したいとは思ってないと思います。でも、考えてほしいんです。今先輩が辛いと感じていることは、これまで感じていた『幸せ』があったからこそではないですか? 『普通』になってしまった『幸せ』があったからこそ、今、先輩は『不幸』なんじゃないですか?」

 …………。

 そうなのかな。

 ゆかちゃんが言うように、幸せだった二重人格が当たり前になってしまったから、今私たちは不幸なのかな。

 特殊な私たちの関係が、私たちの普通になってしまったから、その普通を失うことが酷く不幸に感じてしまっているのかな。

 ……確かに、そうかもしれない。

 でも、それが分かったから、それに気付いたからと言って、失うことを恐れる気持ちは変わらない。何一つ影響しないんじゃないかな。

 結局、私たちの心の傷は癒えない。

 その『不幸』は変わらない。

「でも、そんなの気持ちの問題で、何が変わる訳じゃないよね? もし、本当に失ってしまったら、それは不幸なことでしょう? 気の持ちようで事実や結果は変わらないじゃない。過程の苦しみを見ないふりして見過ごしてるだけじゃない」

 結局、何も変わらないじゃない。

 最後に苦しみが押し寄せてくるだけで。

 問題を先延ばしにしただけで。

「はい、そうです!」

「え……そうですってゆかちゃん……」

 相談に乗ってくれて解決案を出してくれていたのでは……?

「そうなんですよ先輩! 問題は解決しないんです! ずっと、ずっと続くんです。最後の最後まで、失ってしまったその後もずっと。切っても切り離せないんですよ」

「えぇ……ダメじゃん……」

「ダメではないです」

「解決しないんでしょ? 苦しいのがずっと続くんでしょ? それはダメなことじゃないの?」

「だから、角度の問題なんだと思うんですよ」

「角度?」

「はい」

 そう言って、ゆかちゃんは大きく頷いた。

「先輩、不安とか失う恐怖とかって、切り離せないものです。当たり前ですよね。だって、この先起こるかもしれない未来、つまり未知の世界の話なんですもん」

「うん」

 だから考えずにはいられないのだ。

 Bをまた失ってしまう恐怖。独りになってしまう絶望を思い出してしまうのだ。

「起こらないかもしれないから不安になっても仕方ない。なんて言っても、そんなの精神論で、現実を見てないだけだって、そう思いますよね?」

「う、うん」

 何だかそう言われると私が矮小なことを言ってるように聞こえるけれど。

 いや、事実そうなのだろうけれど。

 でも、それが事実だ。

「では、失うこと、失ってしまうことを考えることが『不幸』だとしたら、今、それを持っていること、今その状態は『普通』ですか?」

「ん? ……『普通』……『普通』じゃない……かな。失っていない今は『幸せ』だと思う」

「はい、そうです。『普通』になってしまっている今は、実は『幸せ』なんです」

「う、うん、確かに。え、いやでも、結局『不幸』な未来の可能性は消えないよね? ならそれまでに味わう苦しみも変わらないよね?」

「そりゃそうですよ!」

 バンッ! とゆかちゃんがテーブルを両手で叩く。

「えぇ!?」

 思わず私は後ろに仰け反る。

 背中がテーブル席の背もたれにぶつかる。

「だから角度の問題なんです! 未来を見る角度を変えるんじゃないんですよ!」

「えぇ? 『普通』じゃなくて、『幸せ』な今から未来を見ていこうって話なんじゃないの?」

「違いますよ!」

 もう一度バンッ! とテーブルが叩かれた。

「今から未来を見ても、不安なものしか見えないんだから、未来から今を見るんです! もしかしたら『不幸』かもしれない未来から、とても『幸せ』である今を見るんです! 立ち位置を未来の自分と入れ替えるんですよ!」

「え、ごめんごめん、ちょっとなに言ってるのか分かんない。あと、その考えだと変えるのは角度じゃなくて視点だと思うんだけれど」

「細かいことはいいんですよ!」

「えぇ!?」

 そんなので良いの!?

 私は一体何を聞かされてるの!?

「結局ですね、どこから見ようとそんなことは構わないんですよ!」

 えぇ!? 構わないの!?

「『何処から見るか』じゃないくて、『何を見るか』なんですよ!!」

 漸く結論に辿り着いたのか、ゆかちゃんは「むふー」と大きな鼻息をついて胸を張る。

『これでどうだ』と言わんばかりのどや顔で、いかにも鼻高々といったとても誇らしそうな表情である。

「『何処から見るか』じゃなく、『何を見るか』……ね」

 私はゆかちゃんの言葉を繰り返す。

『幸せ』だった『普通のこと』

 私たちがいつの間にか慣れて普通になってしまった二重人格普通のことを、もう一度二重人格特別なこととして見るということ。

 今から先の見えない未来を見るのではなく、いつか遠い未来にいるだろう自分から、今の私たちを見る。

 今の、二重人格幸せな私たちを見てあげる。

 果たして、そんなふうに考えられるだろうか。

 果たして、今とは違う気持ちになれるのだろうか。

 果たして、それに何か意味があるのだろうか。

「先輩、私ですね、両親から教わった考え方で、とても好きなものがありまして」

「うん? うん」

 また唐突に何だろう。

「一言で言うと、『今に感謝する』ってことなんですけど」

「うん? ……どういうこと?」

 また、何か難題を持ち出されている気がする。

「例えばですけど、私や先輩、今、生きてますよね?」

「はい、生きてます」

「私たちが生きているのって、心臓が動いて、血液が脳に、手足に運ばれて、肺が酸素を取り入れて、って、身体のあちこちが動いているからじゃないですか」

「うん、そうだね」

「では先輩、先輩は、どうやって心臓を動かしていますか?」

「え、いや……、自分で動かしてるって言うか……勝手に動いてる……よ?」

「ですよね。私たちが食べているデザートは、食べた後に胃を通って腸を通って、いずれ出ていくじゃないですか。でも胃液は自分の意思では出ていませんよね。腸は自分の意思で栄養を吸収しているワケじゃありませんよね」

「……うん」

 何だか難しい話になってきたぞ。

「私たちは生きているけれど、私たちの身体を動かしているのは、私じゃない、と言えるんです。あ、勘違いしないでほしいんですけど、別にじゃあ『神様が動かしているんだー』とかそういう話じゃないんです」

 良かった、違った。

 実は勧誘なんじゃないかと思い始めてた。

「だからですね、私たちが生きているのは、何だかよく分からない色んな奇跡でできているってことです。心臓が動くこと、肺で呼吸ができること、食べたものを消化したり排泄できること、色んな数えきれない奇跡の中で私たちは生きてるんですよ」

「うん、成る程ね」

「だから、今、生きていること、考えていること、良いこと、良くないこと、その全ての『今に感謝する』ことが、とても大切なことなんだと思うんです」

「んんん……。ゆかちゃん、言ってることは分かったわ。確かに素敵な考え方だと思う。ご両親はとても素敵な考え方をお持ちだと思う。でも、今に感謝するって具体的に何をどんなふうに感謝するの?」

「簡単ですよ。「ご飯美味しく食べれてありがとう」とか、「トイレに行けてありがとう」とか、「健康でいれてありがとう」とか、「風邪をひいている自分ありがとう」とかです」

「え、風邪にもありがとうなの?」

「そうです。『今に感謝』ですから。確かに風邪をひくことは良いことではないかもですけど、風邪をひくと色んなことに気付けませんか? 普段、健康でいれるありがたさとか、看病してくれる誰か、とか、仕事のフォローをしてくれる誰か、とか。普段の生活では気付けない色んなもののありがたさに気付きませんか? だから、「風邪をひいている自分ありがとう」なんですよ」

「……成る程……うん、成る程ね」

 確かにそう言われるとそうかもしれない。

 病気やケガをしたからこそ、感じるいろんな経験や感情があるものだ。

 Bが、私が寝ている間に資料を作ってくれたこともそうだ。

 私と交代している間、Bは私の為に、自分の為にも色んなことを頑張っている。

 今のこの生活に至るまでに、Bは私に色んなことをしてくれた。色んなことを頑張ってくれた。私の為に色んなものを犠牲にして、私の為に生きてくれた。

 そうしてできている今の自分に、今ある全てのものに『ありがとう』と感謝するってことか。

「素敵な考えだね」

「そうでしょう? 私、この考え方すごく好きなんです。だから、辛い未来が待っているかもしれないけれど、今の私にありがとうって言うし、未来の自分にもいつかありがとうって言ってあげるんです」

「うん。そうだね」

「だからですね。今、とても苦しい気持ちだったとしても、そう思えるのは『苦しい』と思わせるくらい幸せな状態にあるから、そう思わせる何かがあるからで、そう思わせてくれることには、ありがとうって、言ってあげるべきだし、そう思うほうがずっとずっと幸せなことだと思うんですよ」

「…………」


 この時、私は頭を何か硬いもので殴られたような衝撃を受けた。

 正直、ゆかちゃんの話は回りくどくて解りづらかったし、「そうかな?」と思わせる部分が無かった訳じゃない。

 でも、幸せな今をそうじゃなかったことにして、辛い未来しか自分には待っていないんだと思うこと。その考え方自体が我が儘で、不幸な考え方なんじゃないかと、ゆかちゃんの話を聞いて気付かされたのだ。

 不覚にも、ゆかちゃんの解りづらいお説教に納得させられてしまったのである。



「じゃあ先輩、今日はごちそうさまでしたっ。また明日会社で!」

「はいはい。それじゃあ、お疲れ様。おやすみね」

「はーい! おやすみなさいですー! ごちそうさまでしたぁー!」

 そう言って見送った後、私もタクシーを拾って帰路につく。

 時計を見ると午前2時。

 小さく溜息を吐いて、あと数時間したら仕事だと少し憂鬱になる。

 流れる街の灯りを横目に、瞼を閉じてまたゆっくり思考にふける。

 て言うかゆかちゃん、お金全然持ってないとかどういうことなの。

 よくそんな状態でご飯に誘ったよね。

 これじゃ体のいいたかりじゃないか。

 ……まあ、良い勉強代か。

 気の良い彼女なりの、思い遣りだったということにしておこう。


 それにしても、まさか年下の女の子にこんなに長くお説教されるとは思わなかった。

 さらに驚いたのは、私は今、スッキリしているということだ。

 ほんの二日前は、私と彼には悲しい結末しか待ち受けていないんだと、本当に暗澹とした先の見えない闇夜を彼と二人手を繋いで歩いて行くのだと思っていた。

 その繋いだ手が、いつかするりと私の指をすり抜けて、二度と触れない場所に行ってしまうんだと嘆いていた。

 いや、いつかはそうなってしまうのかもしれない。

 実際の話、この先私と彼にどんな未来があるのか、何も分からないのだ。

 私が、彼の感触や温もり、声や話し方を知らないように。

 そしてそれを自分の身体で確かめることが決して叶わないように。

 未来が未知の世界であることは変わらないのだ。

 何も変わらない。

 後輩の有り難い為になるお説教を受けたところで、本質的に何かが変わる訳ではないのだ。

 角度を変えてみたり、視点を置き換えてみたり、不幸だと思っていたことに感謝をしてみたりしても、結果が出てしまえばその結果に一喜一憂してしまうに違いない。

 訪れてしまった悲しい未来に嘆き、憤るしかできない。

 辿り着きたくなかった終着に、我が身の二重人格不幸を呪うしかできない。

 きっとそうなのだ。

 私と彼が同じ身体を共有している以上。

 そしてそれが一生続くという保証がどこにもない以上、私たちは自分の二重人格特殊に怯えながら生きていくしかない。

 この気持ちは私たちにしか分からない。

 私たち二人だけしか知らない。

 私たちだけの二重人格不幸

 でも。

 でも、それでも、後輩が鼻息を荒くして言っていたように、私が今、こうして彼のことを想ったり、彼との未来を不安に感じたり、この先どんな未来が待っているのだろうと悩んだりできるのは、今、私たちが二重人格 幸せだからに違いない。

 私たちがこの特別な関係を大切に、大事に、愛しく思っているからに違いない。

 私たちは幸せだから、失う未来をこんなに絶望しているんだ。

 私も彼も、お互いに掛け合う言葉が見付からないほど苦しかったのは、失う未来を想像したくないほどお互いを想っているから。

 この幸せな時間を失ってしまうのが、死ぬほど恐ろしいから。

 今が本当に幸せだからだ。

 ……そう、私たちは本当に幸せだったのだ。

 誰にも話せないような特殊な関係の私たちだけれど、私たちだけ知っていればそれで良いと思える。

 私たちだけの秘密でいればそれで良いと思える。

 こんなに特殊で、誰にも話せない私と彼の二重人格普通

 私たちだけの二重人格幸福


 誰も知らない私と彼のこと。

 私と彼だけの関係。

 私と彼だけの秘密。

 私と彼だけの恋愛。

 私と彼だけの物語。

 私と彼は、これからも日替わりで毎日を生きていく。


「今日は、どんな書き置きを残そうかな」



*終*

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