本音 その4

 警察官は、他の誰でもなく、地図子さんたちゼミメンバーと私に用があるらしい。

 配膳を片付け、ゼミのテーブルに同席してもらう。

 責任者以外が同席しても仕方がなかろうというとこで、地図子さん、ウエノ君以外のメンバーは解放してもらうことにした。ウエノ君は、取調べの最中にも、指導教授たちの詰問に応えねばならないことを、最初に陳謝した。

 警官は、二人とも制服姿ではあったけれど、どうも上司と部下らしい。初老の、髪は白くも薄くもないのに妙に皺が目立つほうが、地図子さんに挨拶した。私とおっつかっつの体型をした若いほうが、どうやらメモ係らしい。パンパンに張ったウエストにベルトがのめりこんで苦しそうにしているのを見て、非常に親近感が湧く。年配のお巡りさんのほうは表情が穏やかだったし、若いほうは実直そうだった。二人の様子からして、どうやら深刻な事件ではなさそうで、少しだけ安堵する。

 で、いったい、なんだろう。

「それが、キョウセイワイセツザイというか……」

 若いほうは、あまり豊富なボキャブラリーの持ち主ではないようで、私が水を向けると、ズバリ、そんなことを言った。上司がたしなめメモに専念するように言う。強制猥褻という漢字が思い浮かぶまで、数秒を要した。

 もしかして、アマネ君か?

 しかし彼が警察沙汰になるとしたら、ミニスカからポロリの露出であって、マクラ言葉は「強制」でなく「公然」になるだろう。では、福島君か?

 私の想像の中の福島君゛か、パチンコ屋の色っぽい従業員の尻を撫で回す前に、お巡りさんから「学生さんとは直接関係のないこと」という前書きが出た。

 どうやら、白石さんが懇意にしていた、というか一緒に居酒屋巡りしていた重機屋さんグループの問題らしい。

 説明はちと長くなるが、ここで寄り道をして背景を語っておく。

 姫との駆け落ちトラブルで、結局最終的に重機屋さんたちは、下請けの仕事を切られてしまったとのこと。重機を本社に帰して、社員たちも女川を引き払う前に、照源寺の震災倒壊した墓石の立て直しを依頼されたそうだ。照源寺は旧女川一小奥に位置する曹洞宗の古刹で、境内内には町営の火葬場も併設されている、女川最大のお寺である。ウチと同じ行政区、浦宿二区に所属し、現住職は昔消防団員でもあった。

 近所の旅館(すなわち、我が旅館)に泊まっていたという縁で、重機屋さんたちに、この仕事の白羽の矢が立ったらしい。町内外のガテン系の若い衆は、みんな復興工事でネコの手も借りたいくらいの忙しさなのに、スキャンダルのお陰で他の仕事をする余裕ができた、という口コミも、もちろんこの依頼の遠因なのだろう。同じ墓地と言っても、JR石巻線沿線の上方に最近開発された分譲区画ならまだしも、本堂周辺の好位置にある墓地群は江戸時代に遡るものもある。とにかく足場は悪く、しかもクルマや重機の出入りなど、全く考慮に入ってないシチュエーションなのだ。つまり、倒れた墓を起こすのも、まったくの人力頼み、というわけである。高齢化著しい檀家さんたちだけではどうしても限界がある。浦宿駅前には、ビホロという、定年退職者さんたちを集めて、この手の仕事を万屋的に請け負う組合もあるのだけれど、順番待ちがイヤだったり、人間関係のしがらみ等の理由で、他所から来たひとに頼みたい、という人たちもいたのかもしれない。

 お巡りさんたちの聞き込みによると、重機屋さんたちがなんとか最初の一件を苦労してこなした後は、リレー式の紹介で、三週間分の仕事が入ったそうである。宿泊を継続したいと言われ、ウチでは困ってしまった。いわゆるダブルブッキング、彼らが退去するのを見越して、大口団体客の予約をとったばかりだからだ。平身低頭して、宿泊替えをお願いした……この辺の経緯までなら、私にも周知のことだった。

 重機屋さんたちは、他の宿泊施設に移る代わり、浦宿区内の他の古民家を丸ごと一軒賃借したという。前の借主は震災で住居を失った宮ケ崎のひとで、新築建築により新居に引っ越していった。几帳面な人だったらしく、壊れた部屋の鍵や天井の照明等が修理されていたという。後釜に居座るのは、決して悪くなかったということだ。家賃も築年数に合わせて格安だったけれど、ひとつ、問題があった。食事の世話や、風呂トイレ等の掃除をするひとがいなかったのである。幸いにして、宿泊所は古民家だけあって無駄に部屋数が多かったから、彼らは本社から賄いの派遣を以来した。経理担当兼任として、アラサーだけれど、ギャルという形容がぴったりの、ノリのいい女性がやってきたそう。

「で。その女の人が、その、強制猥褻された、と」黙って聞いていた地図子さんが、確認するように言う。「それが、ウチと、何の関係が?」

 年配の警察官のほうが、頭をかきかき、言う。

「それがですね、お宅の学生さんが、妙なことを吹き込んだらしくて」

「妙なこと?」

「カイシャの発展のためにはの、女子社員は、すべからくノーパンミニスカになる必要がある、とか何とか」

「えっ」

「セクハラを正当化する屁理屈ですな。なんでも、創造的な仕事をするためには欠かせない道徳の勉強のためだとか。いやがる女性のパンツを脱がして、何が道徳かと思ったんですが。我々をケムにまくための屁理屈だと思っていたら、存外これが大真面目なんですな。で、この屁理屈の出所をたどったら、当ゼミナールのみなさんにぶち当たった、と」

「あの。重機屋さんの話、もう少し詳しくお願いできますか」

「ええ」

 事務所代わりのダイニングルームで、現地責任者の所長が帰宅早々、おごそかに、唐突に、パンツを脱ぎなさいとい勧告したそう。他の社員も三々五々帰ってくる中、そろそろ夕食の支度にとりかかろうとしていた女性社員は面食らった。不倫に誘うつもりならもっとムードがあってしかるべきだし、単なるセクハラなら別な意味での「ムード」があってしかるべきではないか? 宴会要員としても優秀なこの女子社員は、酒席の下ネタ話にも平気でつき合うノリのよい女性だったから、最初はこれが何か、たちの悪いその手の冗談だと思っていたらしい。所長がなぜかトコトン本気なのに気づいて怒り、単なるセクハラではなくて新興宗教の信者のような真剣さで口説いているのに気づいて、気味が悪くなったそうだ。

「で。結局、パンツを脱いだんですか?」

「……生理中だったそうです」

 未遂ではあるし、というか単なる口論のレベルで終わったわけで、交番にも

苦情として持ち込まれた。刑事事件として立件するより社内処分、あるいは労基署に告発するような性質の出来事ではあるから、所長には厳重注意、女性当人にはシェルターの存在を含めた相談窓口の利用法を案内して、そのときは引き上げてきたそうである。

「ノーパン強要の屁理屈を詳しく聞かないでしまって、後で後悔しましたよ。それで、次のセクハラ相談のときに、根掘り葉掘り聞きましてね」

「次?」

「石巻の屋根屋さん。重機屋の所長と、そこの社長がゴルフ仲間だとか。屁理屈を伝授してもらって、自分の秘書に応用したんですな」

 秘書とは名ばかりの社長の愛人だったらしく、プレイの一環として、ぞくぞくわくわくしながら社長室でパンツを脱いでいたらしい。来客時お茶を出すときにはスリルがあって興奮が止まらなかったという証言ももらってきたそう。けれど、社長の意向は社長室の前に収まらなかった。朝晩の通勤、出張という名の不倫旅行にもノーパンを強いられて、次第に辟易してきたらしい。わざと公然猥褻罪で捕まって、社長の無理強いのせいだと訴えてきた。秘書兼愛人としてはお払い箱になったそうだけれど、彼女もまた、何かに憑かれたような雇用主の信念に背筋が寒くなった、と証言していたそうだ。

「さらに、まだあるんですけどね」

 屋根屋さんの紹介で足場屋さんが。そしてその足場屋さんの知人の植木屋さんが……と際限なくセクハラ魔の名前が出てくる。秘書や従業員やパートの女性たちにノーパンミニスカを強いようとした「非常識」なオッサンが、漏れなく零細企業や個人商店のオッサンであるのが面白い、と若い方のお巡りさんが感想を漏らす。私個人としては全く面白くないし、笑えない。

 自分の会社の従業員もパンツを脱がせたいから、その屁理屈を教えろ、と元ネタ探しに奔走する社長さんもいるらしい。いつか、このゼミに脂ぎったワンマン社長が押しかけてくるかもしれない、とありがたくない情報も聞かされる……。

「訴訟とかは、勘弁してほしいわ」

 神経質に何度も脚を組みなおしながら、地図子さんが言う。同感です、と私が相槌を打つと、「ポトフ君。感心してないで、対策考えなさい」とお説教されてしまった。

 私は、改めて、警察官に問うた。

「その、妙な屁理屈を最初に重機屋さんに吹き込んだ学生さんって、赤髪のチャラチャラした若い衆ですか? 耳に何個もピアスをつけてる?」

「いえ。いかにもお嬢様って感じの、フリフリの服を着た女の子ですよ」

 白石さんか。

 そう言えば、重機屋さんたちが退去するとき、前のことは水に流して、お別れコンパとか称して、単身彼らの飲み会に乗り込んでいったっけ。まったく、怖いもの知らずだ。ちやほやされるために、そこまで命をかける女の子の心情が、よくわからない。

 姫が何気なく漏らした私たちの実験計画が、高い評価を得たから社長さんたちに採用される運びになったのではないらしい。彼女のカリスマ性のせいもある、という意味のことを、年配のお巡りさんが説明した。

「で? 実際、どんな道徳で、どんな勉強なんでしょう。その、女性のパンツを公然と脱がすのは?」

 ウエノ君は、塩原教授の追い討ちが激しくなってきたらしく、とうとう席をはずした。

 地図子さんに促され、私がしぶしぶ理論と実験とそのダイジェストを話した。若い方の警察官は一生懸命メモをしていたが、途中で手を動かすのをやめた。やっぱり、それなりに難しいのだ。口頭だけで、短時間で説明するなら、なおさらだ。その上で、ラボ内での実験と、エロ社長が私の論理を借りて従業員のパンツを脱がせようとしていることは、まったくの別モノであることを説明した。アトリエや診察室等、女の子を脱がして当然の場所で脱がすのと、断熱材貼りたての屋根の上や剪定途中の松の下で脱がすのはまったくの別、といちったら感じが分かるだろうか。

「ていうか。ポトフ君。強制的に女の子のパンツを脱がす時点゛て、場所がどこだろうが関係ないでしょ」

 いや、まあ、そうなんだが。

 今言おうとしているのは、その、正当化の論理に使われているという、火の粉ををいかに払うかという問題であって……。「ええっと。親鸞ぼこりとか、本願ぼこりとか、聞いたこと、ないでしょうか?」

 年配のひとなら耳に挟んだことがある単語かな、と思ったが、お巡りさんは双方とも首を横に振った。自分、クリスチャンなんで……と若い方が頓珍漢な個人情報を披露してくれる。でも、クリスチャンなら、逆説的に、浄土真宗の教えの理解がしやすいのでは? とも思う。

「悪人正機説というのは、本来、仏様はすべての凡夫を救いますよ、という救済の思想なのだけれど、この意味を曲解して『悪人だって救われるなら、積極的に悪いことをしても大丈夫』と自己正当化の言い訳に使うひとが出てきました。この、ヒネクレ者、そしてその考え方自体を本願ぼこりとか親鸞ぼこりとか、言うんですよ。で、ウチの論理を逆手にとって、従業員の女の子を脱がしちゃおうっていうのも、この『ほこり』のたぐいだってことです」

 年配のお巡りさんが、相槌をうつ。

「なるほど。言い訳のために、無理に捻じ曲げた解釈」「そういうことです」

 もっとも、弟子の唯円による『歎異抄』によれば、この手の『ほこり』への訓戒が行き過ぎ、悪行をなした者の念仏道場への立入禁止等、本末転倒な問題が起きたことを述べている。私の論理実験をラボの外で行おうとすれば、おそらくこういうスケベな手合いの協力を得なければならなくなることも確かで、一方的にセクハラ魔と糾弾するのは避けたいところではある。

 年配のお巡りさんが言った。

「で。あの……論理を捻じ曲げていることは分かりました。警察としては、被害相談を受ければその旨、言い聞かせていきますが、他に具体的な対策、みたいなものはありますか?」

 そう、すぐに思いつくものでもない。

 地図子さんは、なぜか早く帰ってもらいたがっていた。先ほどまでは感じてなかった、関西人特有の警察への不信感が沸々と沸きあがってきたらしい。彼らが帰ったあと、胡散臭いのよ、とぼやいていた。途中までは紳士的……じゃなく淑女的に対処していたのに、いったいなんだと問いただすと、「太ったほうに、なんか、笑われたような気がした」という答えが返ってきた。絶対そんなことはありません、と私は力説したが、「だって、ホントに、フフンって鼻息が漏れてた」と地図子さんは取り合わなかった。


 とにかく、警察まできてしまったのだ。

 自分では危険思想だなんて微塵も思ってなかったけれど、当面ラボの外に出したらイカン思想であり倫理なんだろうと、自覚する。

 地図子さんの大学院のオタクサークル話といい、さきほどの重機屋さんの話としいい、情報漏洩の元凶は白石さんであり福島君なのだろう。二人を止めねば。キツク言ってきかせねば。

 しかし、二人とはどうやっても連絡が取れない。

 電話にも出ない。部屋にもトイレにもいない。たった数十分前には、一緒に食事を取っていたのに。アマネ君は自室で新聞を読んでいた。畳にゴロンと寝転がっていたが、のろのろと起き上がり、相手してくれる。

 福島君の居所だけは知っている、とアマネ君は教えてくれる。

 お巡りさんの来訪があった直後、石巻に出かけてしまったとのこと。

「また、パチンコにでも?」

「スーツを買うって、言ってましたけど。コナカか青山か、スーツ屋さんにいったんでしょう」

「背広ですか? あの赤髪とピアスに似合うのって、あるのかな? 安っぽいホストみたいになっちゃうような。ナンパの小道具かな? あ、でも、クルマとか、アシ、ないはずですよね? 石巻線の上りまで、時間あるはずだけれど」

「ハイヤーで行きましたよ」

「ハイヤー?」

「そう。黒塗りの立派なやつで。なんでも、パトロンついたとか」

「パトロン?」

「福島君を講師に、なにやら一席ぶってもらう約束らしいですよ。前払いで、オカネをもらったとか。相手はペンキ屋さん、船具塗料関係の商社だとか。女子社員の新人研修の指導をするとか。なんでも、創造性を養うためにセミナーのコンサルタントをやるとか」

「えっ」

「教える内容が多岐に渡るし、教育期間は短いから、毎日睡眠時間二時間くらいで頑張ってもらわないとダメですねって、その、先方の社長さんと話してたかな。それから、雑音があっては集中できないから、携帯電話等外部との連絡手段を全部取り上げてカンヅメにすべし、とも言ってたと思います。朝昼晩とスローガンを叫ばせて、習得すべく倫理に反する行動をする女の子は、即粛清。それから……内容を機械的に覚えるのも大切だから、エンドレスのテープを作って、二十四時間、その合宿所で流しっぱなしにしましょうって」

「ええっ。それって、洗脳……」

「教育が完了した後、社長室で女子社員にはかせるミニスカートなら、任せてください、とも話していたようです。半分しかお尻が隠れないような、セクシーなのを買える店、知ってるから、とか何とか」

「えええっ。要するに、ヌーディズムの倫理を売って歩くってことじゃないですか……いや、倫理にかこつけて、ノーパンミニスカの洗脳法を売って歩くってことじゃないですかっ」

「たぶん。警察にとっちめられそうになったら、ウエノさんや教授や、ポトフさんに責任を押しつけて逃げる気なんでしょう。それと。成功のアカツキには、後払いの謝礼のほかに、女顔のかわいい男子社員にセミナー受講させる権利をくれ、とも嘆願していたみたいです」

「ええええっ。やっぱり、そっち方面にも、目覚めていたんですか」

「最後の、僕やポトフさんが驚いても、仕方ないでしょう」

 正しい論理が広がる前に、胡散臭いのが石巻じゅうにはびこってしまう。どうして、止めなかったんです?

「福島君の胡散臭いセミナーを受け入れる会社っていうのは、福島君が行かなくとも、最初から胡散臭く、セクハラ蔓延するような会社じゃないかなあって、思って。確信犯の誤解を解こうと思ってもムダですよ。最初から誤解なんてしてないんですから。女の子を脱がせる、格好の口実と思ってるんですから」

「まずいなあ」

「まずいでしょうね。何か、対策、ないんですか?」

「さっき、警察の人にも聞かれました。すぐにはアイデア出ないって、返事しました」

 二人でまったり対策を練っているところに、教授が血相を変えてねじ込んできた。ノックもしないで、ドアを開けて。注意しようと思ったが、とてもそんな雰囲気ではない。

 白石さんを、探しているらしい。

 私は、福島君の困ったセミナー話を教えようとした。それどころではなかった。

 A4のコピー用紙に、緑のサインペンで頼りない字が書いてある。

「駆け落ちします。探さないでください。上野章一郎」

 私とアマネ君が説明を求めるまでもなく、地図子さんは言った。

「この旅行で持ってきた彼の荷物、全部消えてるの。駆け落ちっていうことは、相手がいるってことでしょ。白石ナオミは、どこに行った?」

「まあまあまあ。我々が隠したわけじゃないです。それ、ホントにウエノ君の字なんですか? たとえホントに駆け落ちだったとして、相手が白石さんとは限らないでしょう。まあ、白石さんに前科があるのは確かですけど……」

「彼女の荷物も、ない」

 大宮妹は、兄とスマホで対戦ゲームをしていた。チカの荷物は部屋にあったが、奇妙なことに、本人の姿が見えない。母親から電話しても出ない。

 私とアマネ君は、口々に言った。

「もう一度聞きますよ。ホントに、白石さんと駆け落ちですか?」

「まさか、ウエノ君、母娘丼としゃれ込んだわけじゃ……」

 鬼の形相、とはこういうときに使う表現なのだろう。教授の頭に角が生えてないのが、不思議なくらいだった。チカが一種のマザコンであることは、地図子さん自身が重々承知ではないか。たとえウエノ君が、パンダのような人畜無害なオタクだろうが、母親の彼氏、というだけで、娘の興味関心の対象になりうることは、ありうる。

 教授を目の前にしても、臆することなく、アマネ君はしゃべった。

「そういえば、昔、アニメでそんな話を見た気がしますよ。エヴァンゲリオンだったかな……」

 母と娘と三角関係か。映画や漫画や戯曲や小説なんていう表現形式が生まれた瞬間から、語られてそうなストーリーではある。

「ポトフ君。あなた、何を知ってるの?」

 なんだか、キョドってるな、と詰問され、白を切りとおすことはできなかった。

 彼はもともとロリコンの気があり、年増好きではないとい告白を、何十ものレトリックのオブラートに包んで、しゃべった。しかし残酷なる事実は、ストレートで伝わってしまったようだ。

 地図子さんは、しだいに無表情になってしまった。

「とにかく、ウエノ君を探して」

 執筆者がいなければ、論文できないでしょ。

 アマネ君が引き止めるまでもなく、パタンと静かにドアを閉め、出ていったのだった。

「……何を話していたのか、忘れてしまった。あっ。そうだ。福島君の行方」

「いいんですか? 放っておいたら、修羅場間違いなしなのに」

「いろいろかまけたって、修羅場ですよ。気になって、気になって仕方ないけど、まず自分に降りかかりつつある火の粉を払うのが先決、と思います」

 でも、二人で知恵を出し合ったが、これといった名案は思い浮かばなかった。

 アマネ君は再び、畳の上にゴロンと寝転がった。ポトフさんも天井のしみの数、数えませんかと誘われて、私も押入れから予備の枕を出して、彼に倣った。

「ホント、ウエノ君、どこいっちゃったのかなあ。ポトフさん、恋愛相談されたとき、なんか、思わせぶりなこととか、言われなかったんですか」

「きっと、近所をうろついてますよ。クルマは置いていっちゃったし、大荷物なんだから、そう遠くにいってないはず」

「ウエノ君が、いなくなったら、ノーパンミニスカ実験、中止しかありませんよね。その場合、結局、ポトフさんのアイデアはどうなるんでしょう?」

「どう、とは?」

「誰にも、実験実証されないまま、宙ぶらりんになる?」

「そうかも。もともと、枯れて、朽ち果ててしまう予定のアイデアだったんですから」

 自分の心の中では、四半世紀前に完成したアイデアである。血気盛んで絶倫、何事も脳みそより下半身で考えていたころのアイデアである。今、同じアイデアをひねり出せ、と言われてもできやしないアイデアである。今どうしてもやれと言われたら、「性」の代わりに酒やキャベツの千切りに絡ませて、アイデア創出するかもしれない。

「もったいないですね」

「いや。まあ。ここでウエノ君がやらなくとも、どこかで誰かが必ず考えるアイデアだと思いますよ」

 なにせ「問い」の雛形はすでに完成してしまっている。経済思想をきっちり勉強した者なら、いずれはどこかで思い浮かぶような「問い」、でもある。著作でちゃんとした形で取り上げて、流布させていたのは佐和隆光・現滋賀大学長だったか? 誰がこの「問い」に答えようとも、私の出したのとそうかけ離れたものになるとも思われない。かつて森嶋通夫がこの問いに触れ、おそらくマックスウエーバーを念頭においてだろうが、宗教的な何かだろうと言っていたような気がする。けれど、それは大方正しくないだろう。私がゼミメンバーに説明したダイジェストだけで、四百字詰原稿用紙にして百五十枚を超える分量である。これだけのボリュームになると、それなりに論理の骨子みたいなのがいるようになるわけで、内容が単に支離滅裂な妄想では、辻褄が合うように展開するのは難しいと思うのだ。だから、私が強度のパラノイヤ患者でもない限り、正解の一部には触れているのではないかと思う。裏返った形でか、それとも論理展開の一部欠落という形でか……もちろんラボでの実験や政策を含め、「答え」がひとつしかない、ということを意味するのではない。

 日本人大学院生ウエノ君は現代ニッポンの倫理や風俗や研究シーンに多大な影響を受けている。けれど、他世界で彼にあたるような研究者なら?

 アメリカ西海岸やフランス南部の「ウエノ君」なら、面倒な政策立案の代わりに、即ヌーディスト村、即「秩序ある」乱交パーティーと言い出すかもしれない。けれど、イスラム世界の「ウエノ君」なら、果たして女性にブルカをとるように言うだろうか?

 誰が書くか? だけが問題ではなく「どんなふうに書くか?」「どこで書くか?」そして「なぜ書く気になったのか?」「書いた結果何が言いたいのか?」というのも、立派に、この問いの派生的な「問い」になるうる問題だとは思う。


 さて。

 私とアマネ君がダベり始めて小一時間後、白石さんから携帯電話に連絡があった。

「ああ。白石さん。シロだったんですね」

 もちろん、駆け落ちうんぬんのことを言ったのだけれど、いきなりでは頓珍漢だったのかもしれない。

「はい? 何? そりゃクロイシじゃなくってぇ、シライシですよぉ」という、やはりどこか的を外れた返事が返ってくる。

「そうじゃなくて。駆け落ちの話、聞きませんでしたか?」

 私は、教授が押しかけてきた詳細を話した。

「知ってますう。チカちゃんの荷造り手伝ったの、私だしぃ」

 チカの? 荷造り? 荷物は部屋に置きっぱなしじゃ?

「二人、今、どこにいるんです?」

「な・い・しょ」

 教授の先ほどの怒りを考えれば、もっと情報収集に励むべきだった。

 けれど、だらだら会話している時間は、なかったのだ。

 私が一通り話し、警察が来た件で少したしなめ、それからようやく、白石さんが電話をかけてきた用件になった。

 白石さんの取り巻きたちが、今朝バスで大阪を発った、という情報だ。

「……どこに泊まるつもりなんです? 三桁に及ぶ人数なんでしょう。いくら分散したて、いきなりそんな人数をさばけるところは……」

「あらぁ。ポトフさんに一任したって、代表は言ってたみたいだけどぉ」

「えっ」

 そんな話、聞いてない……。

 詳しい事情が分かったのは、自室にてメールのチェックをしてからである。白石ナオミファンクラブ連合会長といご大層な肩書きの御仁から、ご大層なメールが届いていた。

 確かに宿泊予約に必要な情報すべてを記載してはある。けれど、泊まるところをどうにかしてくれ、という完全に事後承諾の内容である。ただ泊まるだけなら、町の観光協会を通して、石巻市内の宿泊施設を確保できなくもない。けれどいわば「珍獣」の群れを世に放つことはできない。私が頭を抱えてうなっていると、白石さん本人から再び連絡があった。

「ていうか、今、どこで、何をしているんです?」

「まだ、町内にいるわよ。カケオチの手伝い」

 クスクス、白石さんでない笑い声が混じる。チカがいるかと問いただしたが、うまくはぐらかされる。それより私の「騎士」たちの話だけれど……と白石さんは続ける。

「既に彦根を過ぎたって連絡があったけどぉ。米原ジャンクションから北陸道を通るって言ってたわぁ。あらかじめ女川町内の旅館ホテルって一泊六千円くらいよって教えてあげたんだけどぉ、団体さんでくるんだから、一人一泊三千円くらいに勉強してくれって、言われちゃった、てへ。こんな土壇場でくるんだからぁ、無茶振りよねぇ」

「布団も食材も、まったく準備してないです」

「だからぁ、最悪の場合は、ここの駐車場でのキャンプ」

 冗談じゃない、と思ったところで「キャンプ」という単語からインスピレーションが沸いた。

「自炊……というか、料理できる人、混じってますよね」

「まあ、普通にいるんじゃないですかぁ」

「船酔いしそうなひとは?」

「さあ? 何をするつもりですぅ?」

「ちょうどいい隔離場所……もとい、じゃなく、宿泊施設があるんですよ」

 江ノ島に自然活動センターという、廃校になった女川五小・三中の旧校舎を利用した研修所がある。島の中で一番の高台にあり、学校施設だけあって、バス三台分のオタクたちが押しかけてきても十分宿泊可能だ。町役場の窓口は教育委員会か観光協会か知らないけれど、予約が目白押ししているような施設ではない。彼らは要するに姫めあてなのだから、白石さんを同伴させれば、何でもない辺鄙な場所でも満足するだろう。というか、逆に、島での生活なんていうのは珍しかろうから、「本土」側の宿泊施設に泊まるよりも、満足してくれるかもしれない。女川桟橋から日に四便ほど離島定期便が出てはいるけれど、食料その他の持込もあるし、大人数なら漁船でも借りて渡ったほうが安上がりかもしれない。

「活動センター? 他に、宿泊施設とか、ないところなんですかぁ?」

 最盛期には四、五軒あった宿泊施設も、津波前にはすべて廃業、建物だけは残っていたところに、北海道出身の寿司職人の青島さんという人が、定年後奥さんと一緒に引っ越してきて営業していた。さすがに津波後は地元に戻ったわけで、今現在は一軒の宿屋もない。まかないを頼むのにも、そもそも島民自体が高齢化しているわけで、これも難しいかもしれない。津波前に聞いた話だと、江ノ島で一番若い島民の年齢は六十三歳だとのこと。なんでもおじいさんの一人が島外から花嫁さんを迎え、初婚にして新婚のその彼女が、最年少の住民になったという話だ。やはり初婚の花婿さんは大いに鼻高々、花嫁さんを軽トラの荷台に乗せて、島中に自慢の嫁さんを見せびらかしてまわったという話だ。あれから既に五年以上の歳月が経っているわけで、この手のめでたい話は聞かないから、島民全員が古希を迎えていてもおかしくはない。

「平成版アナタハンの女王とか、どうですか?」

 島に渡らなくてもぉ、既に女王だしぃ、という姫らしい回答が返ってきた。

 けれど、彼らの渡海には、基本賛成してくれた。

「その、島のおじいさんおばあさんに、あんまり迷惑かけなきゃ、いいんだけどぉ」

 まあ、珍獣扱いは仕方ないだろう。気象観測関係者や法印神楽保存会の人たち、そして釣り人・水産養殖関係者など、少なくない若人が江ノ島に行き来はしている。ミニスカノーパンで島内をうろうろしない限り、そう咎められることもないはずだ。地理的状況から、警察関係者が頻繁にやってくることもない。行政の監視がなければ、人間、遵法精神が緩くなってしまうものなのか、一時期はナンバープレートのついていない軽トラ・軽自動車がここにはゴロゴロしていた。警察がくると、既に廃車になってますと言い張っては、陸運局への登録料や車検料を浮かせていた、という。ただ、法律には是々非々で対応する島民や来訪者にも、守らねばならぬルールはある。郷に入りては郷に従え、というヤツだ。

 白石さんに頼んで、ファン連合会長に話をつけてもらう。姫が特典コスプレを披露することで、決着はついた。

 しかし……。

「誰か、行政側の人間、巻き込んだほうがいいのかなあ」

「ポトフさぁん、何、ブツブツ言ってんのぉ」

「まんいちのときの、味方の確保ですよ」

 集団ヘンタイ行為が刑法だの条例だのに引っかかってしまった場合、盾になってくれる何かがほしい、ということだ。これは将来、ノーパンミニスカ村……もとい、ヌーディスト村を作るときの練習になるのではあるまいか?

 この手の、従来は法で禁じられていることを捻じ曲げるための力技として有効なのは、当該規制当局から天下りを受け入れることだろう。町役場、警察、そして教育委員会等、かかわりを持ちそうな政府自治体組織はいっぱいある。美女の、あるいは美少年の裸が見放題ですよ、とか何とか、たらしこむ勧誘文句にも事欠かない。また、実験施設周囲との摩擦を回避するには、金銭での解決が一番だろう。「ヌーディスト」という単語に抵抗を持つ常識人向けに「経済倫理実験施設」とか何とか、当たり障りのない名称を掲げ、「実験施設立地協力金」とか何とか言う名目で、江ノ島中にカネをばら撒くのだ……。

「なんだか、ナマナマしい」

 この手の方法論は、原発立地のあり方から、さんざん学んできた。

 私たち女川の人間は、迷惑施設を建設する側のエキスパートであり、また、建設される側のエキスパートである。諦念しつつある人間には一種のもの悲しさがあるけれど、同情されるのをヨシとしない物悲しさでもある。カネでの懐柔を割り切って受け入れられる人間には、ある種の力強さが宿るのだ。いわば毒を食らわば皿まで、いずれは私たちのヌーディスト村擁護の尖兵となってくれるに違いない……。

 少し先走ってしまった。

 天下り受け入れにも、いくつか種類があるように思われる。パチンコと警察のズブズブな関係みたいなのがダメなら、いっそ、競馬競輪等の公営ギャンブル方式に範を取って完全に傘下に収まる、という手もある。

「ええっと。将来どーのこーのっていうより、今、それで、どーにかなるんですかぁ?」

 実験中は立入禁止、とかすればいいのだろうけれど。逆に怪しさいっぱいなってしまうような。

 大学院生の集合ということに相違はないのだから、ダミーの実験テーマでも掲げるべきなのだろう。たとえば、長時間はきっぱなしのパンツの悪臭調査について、とか。で、三日間はきっぱなしのパンツと、一週間目と、一ヶ月目で、パンツの臭いがどう変化していくのか、の実験だとか、にしておくのはどうだろう。島民のひとが間違ってノーパンミニスカの野郎集団を目撃してしまっても、何とかごまかせるのでは? というか、クサイぞキケン、という注意書きを立て札しておけば、上に上がってくる物好きもあるまい、と思うのだ。

「ポトフさん、途中で口を挟むようだけれど、ちょっといいですかぁ。そもそもウチのメンバーがわざわざ女川まで来るのは、私のノーパンミニスカを阻止するためですよぉ。そのために、私にノーパンミニスカを見せにくるんじゃなくて、ポトフさん自身に見せるためじゃ、ないんですかぁ?」

 一理ある。というか、確かにはじめにそんなことを言ってたような気がする。今思い出した。ということは、私は、白石さんと一緒に、江ノ島滞在を強いられるということか。

「どんまい、どんまい」

 数いる白石「信者」の中には、アマネ君なみの「かわいい系」もいますよぉ、と姫は慰めてくれる。私は、とりあえずトラブル回避の目処だけは立ったのだ、と自分に言い聞かせることにした。女川町役場には中学時代の同級生もいれば、親戚ご近所さん等の知人もいる。姫との電話をいったん切り、あちこち許認可関係の根回しをしているうちに、福島君関連の勝手連講師対策も、できあがることになった。


 解決の糸口になったのは、ゼミの面々にさんざんとばっちりを食らった重機屋さんのグループである。ジョイントベンチャーの下請けを切られ、さらに警察にお叱りを受けたのだから、さぞ頭に血が上っているのかと思いきや、カラッとしたものだった。

 こちらも、どこから私の携帯電話の番号を入手したのか、音声のみの打ち合わせである。まかないとして助っ人に来ていた女性従業員を裸にひん剥こうとして、警察を呼ばれた経緯は聞いた。電話をかけてきた「親方代理」と名乗る人物から、さらなる後日談を伺う。くだんの女性従業員は結局本社の意向で戻ることになった(本人は、根性あることに、まだこちらで仕事を続ける気まんまんだったという)。入れ替わりで、今度は初老の男性まかないさんが派遣されてきたということだ。親方は事実上のクビが決まった。懲戒免職だと退職金が出ないから……ということで、自ら辞表を提出させられた、とのこと。「親方代理」を名乗ったひとは、もちろん新しい現場責任者ではあるだけれど、正式な昇格が決まるまでは肩書きから「代理」の二文字がとれない、と言っていた。

 福島君への恨みつらみ……「だまされた」から始まって「こんちくしょうめ」という罵倒にいたるまでの愚痴は、今更描写する必要もあるまい。

 では、元凶の白石さんは?

 私が水を向けると、親方代理はゴニョゴニョ口の中で何か呪文めいた言い訳を唱え出した。そうか。批判したくないのか。あれでいて、やっぱり姫は姫なんだなあ、と関心する。

 私が聞き役に徹しているうちに、気まずい沈黙が流れる。

 しばらくは復興工事の四方山話が続き……「女の子の衣服をひん剥く」ためではなく、純粋にアイデア産出装置としての思考様式があるのなら、レクチャーして欲しい、という言葉が続いたのは、だから、結構意外だったのだ。

 よくよく聞けば、言い訳が欲しいらしい。

 自分のクビも危ういからという保身と、自分たちはあくまで善意で聞いた意見に従っただけで悪いのはすべて詐欺師である、という弁護を、アイデアのオリジナル者からしてほしいらしい。

「我々の復権がかかっているんです」と対面なら唾がかかりそうな切羽詰まった大声が、スピーカーを振るわせた。

 たとえとしてはあまり適当でないが、石巻にノーパン喫茶があると聞いた好事家が、実際「来石」してみると、その手の風俗が見つからずに「色ボケ」と嘲笑されてしまったのに似ている。実在を確かめたうえで、俺たちはボケてない、真正のスケベであると声を大にして言いたい真理に近いといったらいいだろうか……ちょっと違うか。

 私は教授と相談し追って連絡をする、と返事をした。

 最後に、本社に戻る女性従業員に対する餞別を相談された。牛タンや萩の月やズンダ餅という定番も悪くないが、せっかくだから……というので、クルミ味噌の紫蘇巻きを提案する。真冬なら独自のルートを駆使して絶品の牡蠣をプレゼントできるが、初夏のこの季節ではどうにもならない。コケシ等は宮城県でも白石や鳴子といったご当地でなければ、良品は入手できない。それに、若い女の子向けというより、年配女性が喜びそうな民芸品である。もうちょっと砕けた感じの土産物なら、初売りマスコットキャラ「仙台四郎」関連グッズがある。タペストリーからTシャツまで、たいていのものが仙台で入手できるが、ここはオリジナルデザインを尊重、着物のスソからチンコがモロ出しになっているものをお勧めしたい……。

 うむむ。

 どうも、オヤジ臭いのが二人で相談すると、それ相応のチョイスになってしまうな。

 女川のマスコットキャラ、シーパルちゃんならコーヒーマグがある。町内どこでても売っているというグッズではないので、レアもの好きには、これもお勧めだ。

 さて。

 私は地図子さんに連絡を取る前に、一人、レクチャーの仕方をシュミレーションしてみた。

 そして、脳内で色々段取りしているうちに、「元祖」ヌーディズム倫理研究家が講師として飛び回れば、「二番煎じ」研究家を駆逐できる可能性に気づいたのである。もちろんお堅い講義だけでは飽きるだろう。福島君とまでは言わないでも、多少はきわどいネタも混ぜてやれば、ウケるに違いない。他人が博士論文にする前のネタをぺらぺらとあちこちで話して回るのはもちろんご法度なのだろうけど、石巻と関西ほどの距離(地理的にも心理的にも学問的にも)があれば、そう簡単にアシもつくまい。ウエノ君が博士号をとったあかつきに、工作すればいいだけの話だ。つまり、順番が逆だった……論文完成が咲きで、その後企業での各種レクチャーがあったと、噂を広めればよい。

 ノートに書き下ろしてみて、自分のシナリオに穴がないか、チェックする。

 とにもかくにも、二つ目の案件も解決できそうで、安心する。

 後は、ウエノ君を見つけなければ……。


 C棟から頓狂な声が聞こえてくる。

 私は物思いを中断して、はせ参じた。オヤジは食材の買出し、オフクロは歯医者で、二人ともこの時間は不在なのだ。チカが入室していた部屋からドタンバタンと暴れる音がする。小学生が柔道の試合でもしているようなやかましさだ。ノックもそこそこに引き戸を開けると、仁王立ちの地図子さんがいた。彼女の背中越しに、半開きになっていた押入れを覗くと、チカと白石さんが、そしてウエノ君が隠れていた。ウエノ君は地図子さんに耳を引っ張られ、泣きべそをかきながら這い出てきた。白石さんは苦笑して、そしてチカは無表情で。

 押入れの一番奥には、三人分の荷物と、コンビニの手提げ袋が見えた。何食分かはわからないけれど、便所飯ならぬ押入れ飯とは、籠城ご苦労様、である。でも、トイレはどうしたのだろう? 聞きたいことはもっといろいろとあったけれど、地図子さんの剣幕を見ていると、とてもそういう下世話な質問をできる雰囲気ではない。

 まあ、ともかく。

 私としては、これで執筆者が再び確保できたわけで、胸をなでおろした。三つ目、最後の懸案解決、これでようやく実験再開できる。もちろん母娘とウエノ君の三角関係(?)の問題は残っているけれど。人間関係に立ち入ってドツボにはまるのだけは避けたい。とにかく実験開始、とにかく執筆の話をつければ、いいのだ。

 母娘ケンカがどんなふうになるのか、私と白石さんだけでとめるのが無理なら、アマネ君も呼ぶつもりだった。杞憂だった。チカは、母親より、なぜか私の存在に怯えているようなのだ。あれ? 何か、やらかしてしまったか? 地図子さんがウエノ君を座敷に正座させると、チカの手に書類の束が見えた。なんだ? 白石さんが説明するより前に、私は書類の中身がわかった。

 チカと、私の、親子関係不存在を確認した、DNA鑑定書だった。

 

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